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第一章
【第七話】審判の部屋③
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「そうだネ、そうだネ。アタシもそう思うヨ」と白猫がふふっと笑う。
「ウンウン。本来の持ち主が、『体』を正しく扱うべきだよネェ」と黒猫も続く。
「そうよ、だからワタシが戻るべきなの」
ティアンが二匹に向かって胸を張る。不可思議な生き物の賛同を得られ、すっかり機嫌は回復したみたいだ。
「じゃあ、そうすルカ」
「あの体の、本来の持ち主が現世に戻りましょうネェ」
「はぁ。戻ったら早くお風呂に入りたいわ…… 。って言うか、まずどうやって屋敷に戻ったら良いわけ?——ちょっと、ねぇ、ちゃんと屋敷まで送ってくれるんでしょうねぇ」
腰に手を当て、ティアンが大きな態度で天秤の上の二匹を見上げる。もうすっかり彼らを召使みたいに扱っている態度だ。だがカーネの方は二匹の妙な言い回しがどうにも胸に引っ掛かる。先程のニヤリとした仄暗い笑みも気になり、とてもじゃないが楽観視は出来なかった。
「うんウン。今のうちに好き勝手言うといイヨ」
「むしろ、今しか言えないからネェ」
クスクスと二匹が笑う。従う気なんかまるで無いと丸わかりな態度なのに、言葉なのに、ティアンは気が付いていないのだから驚きだ。姉は周囲から悪意を向けられる経験が無いからかもしれないと、カーネはちょっと思った。
「「では、本来あるべき状態に——」」
黒猫、白猫が同時に声を合わせてそう言うと、次の瞬間、ふっと一人の姿がその場から消えた。
「…… え?」
その事実を目の当たりにしてティアンが間の抜けた声をあげる。この空間に残っているのは自分で、消えたのは妹のカーネの方だったからだ。
「——ちょ!間違ってるわよ!ワタシを戻すって話だったじゃない!あっちもそれを望んでいたでしょう⁉︎『自分が残る』って言っていたじゃないのよ!訊いておいて、個々の要求は完全に無視とかあり得ないわ!」
大声をあげているが、二匹は知らぬ存ぜぬといった雰囲気だ。そのせいで益々ティアンの怒りが心火の如く燃え上がった。
「人の聞きなさいよ!早く戻して、ワタシが早く戻らないと、メンシス様だって絶対に悲しむわ!」
「あぁ、それはないネェ」
「ないねぇ、ないナイ」
「——はぁぁぁ⁉︎」
間髪入れずに揃って否定され、ティアンは今にもブチギレそうだ。
「それにネェ、あの体には『その持ち主が戻るべきだ』って、アナタも言っていたじゃなイ」
「そうダネ、そうダネ。言っていたヨ」
「「だから、そうしたノ」」
氷みたいな視線を二匹が向ける。だがそんな事をされたって、ティアンが臆するはずがなかった。
「アンタ達は目が腐ってるわ。いくらワタシ達が双子だからって、あんな顔の女と、ワタシを間違えるとか…… 巫山戯るのも大概にしなさいよ!」
「『あんな顔』、ネェ…… 」
「『あんな顔』にしたのも、アンタなのによく言うヨ」
二匹は呆れ、大きなため息をつく。だがカーネの火傷の理由をもう全く覚えていないティアンは、「バカ言わないでよ。あれは調理場で滑って転んで、あの子が勝手に火傷したのよ。鈍臭いあの子が全て悪いのに、ワタシのせいなんかにしないで欲しいわ!」と喚くばかりだ。
はぁと息を吐き、「——そもそもネェ」と言いながら、白猫が天秤のうでから飛び降りる。
「人様の体を乗っ取っていたのは、自分の方だって、いい加減自覚した方がいいヨー」
白猫に続き、黒猫もそう口にしながら巨大な天秤のうでから華麗に降りた。体格差のある二匹が側に寄り添うと、随分と黒猫の方が大きい。まるで中型犬と子猫が並んだ絵面みたいだ。
「…… は?何訳のわからない事を言ってるの?」
本当に何の事か全くわからず、ティアンが顔を顰める。
「まぁ、ヒト族のアナタじゃ覚えていないよネ。神の怒りを買って、ヒトにはもう長らく加護が無いものネ」
「でもね、覚えていないからって、罪が消えたりとかって都合のいい話は——」
「「残念ながら、無いんだよネェ」」
二匹が躙り寄るみたいにじわりと近づくと、彼らが醸し出すどんよりとした空気に押され、ティアンがたじろいだ。驚く程空気は読めずとも、流石に目視出来る程の悪意を前にしては強気な態度のままではいられない。
そんなティアンの足元から徐々に白い空間が消えていく。底も何も一切感じ取れない真っ黒なものがじわじわと、彼女の足元からあぶくみたいに吹き出し、白い空間をどんどん侵食していく。
「——ひぃぃぃっ!」
足が、脚が、その闇の中にずぶんっと少し沈み、ティアンが情けない声で悲鳴をあげた。沼の中に足を取られるみたいな感覚のせいで恐怖がティアンに襲い掛かる。手首と足首に着いている枷から伸びる真っ黒い鎖もどんどんその闇の中に取り込まれ、彼女の体がまた、ぐんっと下に引っ張られた。
それと連動するみたいに巨大な金色の天秤も、片側にガタッと傾いた。天秤の皿には何も乗っていなかったはずなのに、今では真っ黒なモヤが浮かんでいて、それはぐるぐると渦を巻きながら徐々に大きくなり、その度に天秤が益々傾く。
「わァ。大きいネ、大きいネ。どれだけの罪を犯してきたのヤラ」
「目視出来ちゃうと、呆れを通り越して、単純に『凄いな』って思っちゃうヨ」
「な、何なのよ、本当に!何でワタシがこんな目に?——ワタシは聖女候補なのよ?こんな事をして、神が赦すと思って?」
焦りと戸惑いと、そして怒りが入り混じった酷い声だが、二匹の心には全く響かない。むしろもっと激しく詰問したい気持ちをグッと堪えるのに必死な状態だ。
「いやいヤ。そもそも、怒っているのはその『神様』だから、アタシらが怒られる事は絶対に無いヨ」
「そうソウ。そもそも今のボク達は、あのお方達の代理猫だモノ。創造物に対して直接手を下せないから今まで放置していたり、慈悲だけはあげていたけど、『お気に入り』をボロボロにされて一番怒っているのは、あのお方達だからネェ」
「違うヨ。一番じゃないヨ、ロロ」
「あぁ、一番はトト様カ。じゃあ、二番目?」
「二番目はアタシ達でショ」と言って、白猫が背中を逆立てた。『ロロ』と呼ばれた黒猫は、「確かニ」と素直に頷く。
「何なの?何なのよ、もう!訳がわかならないわ!」
もう膝下が全て闇の中に取り込まれ、その中では無数の蛇や小さな虫やらが脚に纏わりついている様な感覚がある。あまりの気持ち悪さでティアンは叫び、泣き、悲鳴をあげているが、二匹の表情は冷たいままだ。
「…… 全然わかっていないアナタに、こうなっている理由を教えてあげルヨ。ボクらは優しいかラネ」
黒猫が、ふっと笑ってティアンに少しだけ近づく。そのせいで彼は真っ黒な闇を柔らかそうな足で踏んだが、黒猫はソレには取り込まれぬまま普通に歩いている。
「あのねぇ、アナタが使っていたあの体は、元々は皆に『カーネ』と呼ばれていた御人の物だったんダヨ」
「それをねぇ、あの御人の魂に張り付いて、しがみついて、絡みついて、喰らいついて一向に離れようともしなかったアナタが、無理矢理胎の中で乗っ取ったんダ」
白猫もティアンの側へ歩いて行く。同じく彼女の小さな足も、闇の中に沈む事はなかった。
「優しい優しいテラアディア様的には、一度はやり直させて、今度は仲良く出来るみたいだったのなら、もう赦してあげるつもりだったみたいなのにネ」
「アナタは神様のそんな優しさを汲み取りもせず、懲りずに体を乗っ取り、虐め倒し、顔を焼き、最後にはコレなんだモン。今頃、苦艱に顔を顰めているんじゃないカナ」
「そんなテラアディア様をルナディア様が慰めてあげるわけだネ。ルナディア様的には役得で、今頃内心狂喜乱舞してるんじゃなイ?」
顔を見合わせ、「「かもネ!」」と言って二匹が笑う。
「——オット」と一言こぼし、脱線した話を元に戻そうと、ロロが咳払いをした。
「とまぁ、前世からの繋がりのせいで、運良くその容姿を得ていただけだって、わかったカナ?」
「だからね、本来の持ち主に返してあげなノ」
「じゃ、じゃあ体を入れ替えるだけでいいじゃない!早く戻らないと、婚約者であるメンシス様が待っているのよ!」
必死にもがき、下へ下へ今も尚己を取り込もうとする闇からティアンはどうにかして逃げようとするが、無駄な行為でしかなかった。体は沈む一方で、もう太腿すらも見えなくなっている。そのうえ、自分の肌を無数の“何が”が噛んでいる感触がある事にティアンは気が付いた。鋭い歯が肌を食い破り、血管の中にも生き物が入り込んでくる様な痛みと不快感が半身を駆け抜ける。
「ぎゃあああああああああ!」
「待っていなイヨ。あのお方はね、絶対にアナタを愛さないカラ」
「前だってそうだったじゃないカ。忘れたノ?…… あぁ、忘れているんだったねネ」と意地の悪い声で言い、白猫はクスクスと笑った。
「でも、安心シテ。アナタは消えたりしなイヨ」
「此処でね、今みたいに意識があるまま、永遠に脚と腕を食われるのサ」
「ヒトから奪って得たご自慢のその『容姿』も、何度も何度も喰われて、皮ごと剥がれて、骨だけの姿にしてあゲル」
残忍な言葉を聞き、ティアンが言葉にならぬ悲鳴をあげる。
「——な、何だって、そんな事するの⁉︎ワタシが何をしたって言うのよぉぉ!」
「「アナタ達が昔やった事が、その身に返ってくるだけサ」」
二匹の声が綺麗に重なった。
「アナタ達はね、遥か昔に初代の聖女だったカルム様を殺しタノ」
「臨月の腹では自由に動けないのを良いことに、カルム様の腕を、脚を、アナタは四人の神官に食わせたのヨ」
「何言ってるの…… そんな酷い事する訳がないでしょう⁉︎——人違いよ、ワタシじゃないわぁぁぁぁ!」
「確かに、アナタは食ってはいなかったネ」
白猫のララが同意すると、「で、でしょう?だからもう解放して!この際、あ、あの子の体でもいいから、元の場所に返して頂戴!」と泣きながら必死に懇願する。絞殺されて既に遺体となった身にいくら魂を戻そうが、すぐに現世を去る事になるだろうに、頭が回らずその結果に行き着けない。
「アナタはね、カルム様の首から上の皮を全て剥いで、それを被って我が物にしたんだヨ」
「——は?…… 出来る訳、ないじゃない」と返す声が震えている。
「あぁ、黒魔術を使ったから、すっかり見た目だけは、随分と綺麗になっていタヨ」
「二代目の聖女として太陽の神殿に君臨するくらいには、他人を騙せていたネ」
「そ、それって…… まさか、あの『リューゲ様』が、ワタシの前世だって言う訳?」
「うん、そうだヨ。覚えていなくても、聖女を殺した罪はとても重たいノ。あの一件でルーナ族との融合も出来なくなったし、五人のせいで、本来辿るべき歴史が完全に狂ったんだかラ」
「神の加護が消えたのも、アナタ達が欲深かったからダヨ」
「知らない…… 知らない、知らない知らない知らないってば!ワタシじゃない!」
「せめて今世では良い事をしていれば、あの天秤が罪を軽くしてくれたのにネ」
その言葉を聞き、一縷の望みを持ってティアンが天秤を見上げた。だが、真っ黒な塊が片方の皿の上で渦巻いてはいるが、もう一方は空っぽなままだ。
「嘘!嘘よ!嘘嘘嘘ばっかり!ワタシはいつだって妹に優しかったわ!冷遇されて可哀想なあの子を、皆から庇ってあげていたんだから!」
「でもそれって、自分を持ち上げる為に、内心ほくそ笑みながら憐れむフリをしていただけだヨネ」
的を得た事を黒猫に言われ、ティアンの肩がビクッと震えた。何故そこまで知っているのかと思うとそら寒いものを感じる。
「諦めたラ?もう、胸まで闇に囚われてるんだシ」
「そうソウ。嫉妬と羨望と執着に狂った自分の罪を、そろそろ償うんダネ」
耳元近くで声が聞こえ、ティアンが自分の様子を再確認する。すると彼らの言う通り、彼女の体はもう胸の辺りまで闇の中に飲み込まれ、腕も何も完全に囚われて踠く事すら出来なくなっていた。
「今回はもう、前みたいに、『双子だから』って理由で姉の魂に縋って逃げる事も無理ダヨ」
「虐めて、いびって、最後は締め殺して。自分の手で、完全に二人の『縁』を切ったんだかラ」
両サイドの耳元で、猫達はティアンに現実を突き付けた。
絶望し、目の前が真っ暗になって悲鳴も上げられない状態になっていくティアンの顔をじっと間近で見詰め、彼らがニタリと笑い、弧を描く口をゆっくりと開く。
「「さようなら、『叔母さん』」」
(何の事?何を言っているの?)
相変わらず二匹の言う事が全く理解出来ない。他人が犯した罪なのに『お前が償え』と押し付けられているとしか思えず、ティアンには到底受け入れられない。なのに体はもう鼻の辺りまで闇に沈み、その中では肌が無数の小さな捕食者達に食い荒らされていく。気絶も出来ず、痛みと苦しみが全身を支配し、理不尽さしか感じられず、怒りがティアンの瞳を燃やす。
だが二匹には、“ティアン”がまだ二代目の聖女・“リューゲ”だった頃の記憶を返す様な親切をしてやる気など微塵も無い。
彼女の魂が犯した罪は、心から悔い改め、深く反省せねば赦しを得る事は永遠に無い。
だが聖女殺しの罪を犯した記憶が無いだけでなく、カーネを虐め倒した挙句に絞殺した事への罪悪感すらも無くては反省のしようもない。このままではティアンには一切の救いも無く、永遠に監獄の中で苦しみ、のたうち回る事となる。だが、二匹は『それでいい』と思った、『そうであるべきだ』と考えた。
初代聖女・カルムの胎の中で、母が最も信頼していた者達の手によって、母を守れぬまま共に殺されていく恐怖を味わった彼らは、未来永劫彼女達を許す気なんかさらさら無いのだから。
「ウンウン。本来の持ち主が、『体』を正しく扱うべきだよネェ」と黒猫も続く。
「そうよ、だからワタシが戻るべきなの」
ティアンが二匹に向かって胸を張る。不可思議な生き物の賛同を得られ、すっかり機嫌は回復したみたいだ。
「じゃあ、そうすルカ」
「あの体の、本来の持ち主が現世に戻りましょうネェ」
「はぁ。戻ったら早くお風呂に入りたいわ…… 。って言うか、まずどうやって屋敷に戻ったら良いわけ?——ちょっと、ねぇ、ちゃんと屋敷まで送ってくれるんでしょうねぇ」
腰に手を当て、ティアンが大きな態度で天秤の上の二匹を見上げる。もうすっかり彼らを召使みたいに扱っている態度だ。だがカーネの方は二匹の妙な言い回しがどうにも胸に引っ掛かる。先程のニヤリとした仄暗い笑みも気になり、とてもじゃないが楽観視は出来なかった。
「うんウン。今のうちに好き勝手言うといイヨ」
「むしろ、今しか言えないからネェ」
クスクスと二匹が笑う。従う気なんかまるで無いと丸わかりな態度なのに、言葉なのに、ティアンは気が付いていないのだから驚きだ。姉は周囲から悪意を向けられる経験が無いからかもしれないと、カーネはちょっと思った。
「「では、本来あるべき状態に——」」
黒猫、白猫が同時に声を合わせてそう言うと、次の瞬間、ふっと一人の姿がその場から消えた。
「…… え?」
その事実を目の当たりにしてティアンが間の抜けた声をあげる。この空間に残っているのは自分で、消えたのは妹のカーネの方だったからだ。
「——ちょ!間違ってるわよ!ワタシを戻すって話だったじゃない!あっちもそれを望んでいたでしょう⁉︎『自分が残る』って言っていたじゃないのよ!訊いておいて、個々の要求は完全に無視とかあり得ないわ!」
大声をあげているが、二匹は知らぬ存ぜぬといった雰囲気だ。そのせいで益々ティアンの怒りが心火の如く燃え上がった。
「人の聞きなさいよ!早く戻して、ワタシが早く戻らないと、メンシス様だって絶対に悲しむわ!」
「あぁ、それはないネェ」
「ないねぇ、ないナイ」
「——はぁぁぁ⁉︎」
間髪入れずに揃って否定され、ティアンは今にもブチギレそうだ。
「それにネェ、あの体には『その持ち主が戻るべきだ』って、アナタも言っていたじゃなイ」
「そうダネ、そうダネ。言っていたヨ」
「「だから、そうしたノ」」
氷みたいな視線を二匹が向ける。だがそんな事をされたって、ティアンが臆するはずがなかった。
「アンタ達は目が腐ってるわ。いくらワタシ達が双子だからって、あんな顔の女と、ワタシを間違えるとか…… 巫山戯るのも大概にしなさいよ!」
「『あんな顔』、ネェ…… 」
「『あんな顔』にしたのも、アンタなのによく言うヨ」
二匹は呆れ、大きなため息をつく。だがカーネの火傷の理由をもう全く覚えていないティアンは、「バカ言わないでよ。あれは調理場で滑って転んで、あの子が勝手に火傷したのよ。鈍臭いあの子が全て悪いのに、ワタシのせいなんかにしないで欲しいわ!」と喚くばかりだ。
はぁと息を吐き、「——そもそもネェ」と言いながら、白猫が天秤のうでから飛び降りる。
「人様の体を乗っ取っていたのは、自分の方だって、いい加減自覚した方がいいヨー」
白猫に続き、黒猫もそう口にしながら巨大な天秤のうでから華麗に降りた。体格差のある二匹が側に寄り添うと、随分と黒猫の方が大きい。まるで中型犬と子猫が並んだ絵面みたいだ。
「…… は?何訳のわからない事を言ってるの?」
本当に何の事か全くわからず、ティアンが顔を顰める。
「まぁ、ヒト族のアナタじゃ覚えていないよネ。神の怒りを買って、ヒトにはもう長らく加護が無いものネ」
「でもね、覚えていないからって、罪が消えたりとかって都合のいい話は——」
「「残念ながら、無いんだよネェ」」
二匹が躙り寄るみたいにじわりと近づくと、彼らが醸し出すどんよりとした空気に押され、ティアンがたじろいだ。驚く程空気は読めずとも、流石に目視出来る程の悪意を前にしては強気な態度のままではいられない。
そんなティアンの足元から徐々に白い空間が消えていく。底も何も一切感じ取れない真っ黒なものがじわじわと、彼女の足元からあぶくみたいに吹き出し、白い空間をどんどん侵食していく。
「——ひぃぃぃっ!」
足が、脚が、その闇の中にずぶんっと少し沈み、ティアンが情けない声で悲鳴をあげた。沼の中に足を取られるみたいな感覚のせいで恐怖がティアンに襲い掛かる。手首と足首に着いている枷から伸びる真っ黒い鎖もどんどんその闇の中に取り込まれ、彼女の体がまた、ぐんっと下に引っ張られた。
それと連動するみたいに巨大な金色の天秤も、片側にガタッと傾いた。天秤の皿には何も乗っていなかったはずなのに、今では真っ黒なモヤが浮かんでいて、それはぐるぐると渦を巻きながら徐々に大きくなり、その度に天秤が益々傾く。
「わァ。大きいネ、大きいネ。どれだけの罪を犯してきたのヤラ」
「目視出来ちゃうと、呆れを通り越して、単純に『凄いな』って思っちゃうヨ」
「な、何なのよ、本当に!何でワタシがこんな目に?——ワタシは聖女候補なのよ?こんな事をして、神が赦すと思って?」
焦りと戸惑いと、そして怒りが入り混じった酷い声だが、二匹の心には全く響かない。むしろもっと激しく詰問したい気持ちをグッと堪えるのに必死な状態だ。
「いやいヤ。そもそも、怒っているのはその『神様』だから、アタシらが怒られる事は絶対に無いヨ」
「そうソウ。そもそも今のボク達は、あのお方達の代理猫だモノ。創造物に対して直接手を下せないから今まで放置していたり、慈悲だけはあげていたけど、『お気に入り』をボロボロにされて一番怒っているのは、あのお方達だからネェ」
「違うヨ。一番じゃないヨ、ロロ」
「あぁ、一番はトト様カ。じゃあ、二番目?」
「二番目はアタシ達でショ」と言って、白猫が背中を逆立てた。『ロロ』と呼ばれた黒猫は、「確かニ」と素直に頷く。
「何なの?何なのよ、もう!訳がわかならないわ!」
もう膝下が全て闇の中に取り込まれ、その中では無数の蛇や小さな虫やらが脚に纏わりついている様な感覚がある。あまりの気持ち悪さでティアンは叫び、泣き、悲鳴をあげているが、二匹の表情は冷たいままだ。
「…… 全然わかっていないアナタに、こうなっている理由を教えてあげルヨ。ボクらは優しいかラネ」
黒猫が、ふっと笑ってティアンに少しだけ近づく。そのせいで彼は真っ黒な闇を柔らかそうな足で踏んだが、黒猫はソレには取り込まれぬまま普通に歩いている。
「あのねぇ、アナタが使っていたあの体は、元々は皆に『カーネ』と呼ばれていた御人の物だったんダヨ」
「それをねぇ、あの御人の魂に張り付いて、しがみついて、絡みついて、喰らいついて一向に離れようともしなかったアナタが、無理矢理胎の中で乗っ取ったんダ」
白猫もティアンの側へ歩いて行く。同じく彼女の小さな足も、闇の中に沈む事はなかった。
「優しい優しいテラアディア様的には、一度はやり直させて、今度は仲良く出来るみたいだったのなら、もう赦してあげるつもりだったみたいなのにネ」
「アナタは神様のそんな優しさを汲み取りもせず、懲りずに体を乗っ取り、虐め倒し、顔を焼き、最後にはコレなんだモン。今頃、苦艱に顔を顰めているんじゃないカナ」
「そんなテラアディア様をルナディア様が慰めてあげるわけだネ。ルナディア様的には役得で、今頃内心狂喜乱舞してるんじゃなイ?」
顔を見合わせ、「「かもネ!」」と言って二匹が笑う。
「——オット」と一言こぼし、脱線した話を元に戻そうと、ロロが咳払いをした。
「とまぁ、前世からの繋がりのせいで、運良くその容姿を得ていただけだって、わかったカナ?」
「だからね、本来の持ち主に返してあげなノ」
「じゃ、じゃあ体を入れ替えるだけでいいじゃない!早く戻らないと、婚約者であるメンシス様が待っているのよ!」
必死にもがき、下へ下へ今も尚己を取り込もうとする闇からティアンはどうにかして逃げようとするが、無駄な行為でしかなかった。体は沈む一方で、もう太腿すらも見えなくなっている。そのうえ、自分の肌を無数の“何が”が噛んでいる感触がある事にティアンは気が付いた。鋭い歯が肌を食い破り、血管の中にも生き物が入り込んでくる様な痛みと不快感が半身を駆け抜ける。
「ぎゃあああああああああ!」
「待っていなイヨ。あのお方はね、絶対にアナタを愛さないカラ」
「前だってそうだったじゃないカ。忘れたノ?…… あぁ、忘れているんだったねネ」と意地の悪い声で言い、白猫はクスクスと笑った。
「でも、安心シテ。アナタは消えたりしなイヨ」
「此処でね、今みたいに意識があるまま、永遠に脚と腕を食われるのサ」
「ヒトから奪って得たご自慢のその『容姿』も、何度も何度も喰われて、皮ごと剥がれて、骨だけの姿にしてあゲル」
残忍な言葉を聞き、ティアンが言葉にならぬ悲鳴をあげる。
「——な、何だって、そんな事するの⁉︎ワタシが何をしたって言うのよぉぉ!」
「「アナタ達が昔やった事が、その身に返ってくるだけサ」」
二匹の声が綺麗に重なった。
「アナタ達はね、遥か昔に初代の聖女だったカルム様を殺しタノ」
「臨月の腹では自由に動けないのを良いことに、カルム様の腕を、脚を、アナタは四人の神官に食わせたのヨ」
「何言ってるの…… そんな酷い事する訳がないでしょう⁉︎——人違いよ、ワタシじゃないわぁぁぁぁ!」
「確かに、アナタは食ってはいなかったネ」
白猫のララが同意すると、「で、でしょう?だからもう解放して!この際、あ、あの子の体でもいいから、元の場所に返して頂戴!」と泣きながら必死に懇願する。絞殺されて既に遺体となった身にいくら魂を戻そうが、すぐに現世を去る事になるだろうに、頭が回らずその結果に行き着けない。
「アナタはね、カルム様の首から上の皮を全て剥いで、それを被って我が物にしたんだヨ」
「——は?…… 出来る訳、ないじゃない」と返す声が震えている。
「あぁ、黒魔術を使ったから、すっかり見た目だけは、随分と綺麗になっていタヨ」
「二代目の聖女として太陽の神殿に君臨するくらいには、他人を騙せていたネ」
「そ、それって…… まさか、あの『リューゲ様』が、ワタシの前世だって言う訳?」
「うん、そうだヨ。覚えていなくても、聖女を殺した罪はとても重たいノ。あの一件でルーナ族との融合も出来なくなったし、五人のせいで、本来辿るべき歴史が完全に狂ったんだかラ」
「神の加護が消えたのも、アナタ達が欲深かったからダヨ」
「知らない…… 知らない、知らない知らない知らないってば!ワタシじゃない!」
「せめて今世では良い事をしていれば、あの天秤が罪を軽くしてくれたのにネ」
その言葉を聞き、一縷の望みを持ってティアンが天秤を見上げた。だが、真っ黒な塊が片方の皿の上で渦巻いてはいるが、もう一方は空っぽなままだ。
「嘘!嘘よ!嘘嘘嘘ばっかり!ワタシはいつだって妹に優しかったわ!冷遇されて可哀想なあの子を、皆から庇ってあげていたんだから!」
「でもそれって、自分を持ち上げる為に、内心ほくそ笑みながら憐れむフリをしていただけだヨネ」
的を得た事を黒猫に言われ、ティアンの肩がビクッと震えた。何故そこまで知っているのかと思うとそら寒いものを感じる。
「諦めたラ?もう、胸まで闇に囚われてるんだシ」
「そうソウ。嫉妬と羨望と執着に狂った自分の罪を、そろそろ償うんダネ」
耳元近くで声が聞こえ、ティアンが自分の様子を再確認する。すると彼らの言う通り、彼女の体はもう胸の辺りまで闇の中に飲み込まれ、腕も何も完全に囚われて踠く事すら出来なくなっていた。
「今回はもう、前みたいに、『双子だから』って理由で姉の魂に縋って逃げる事も無理ダヨ」
「虐めて、いびって、最後は締め殺して。自分の手で、完全に二人の『縁』を切ったんだかラ」
両サイドの耳元で、猫達はティアンに現実を突き付けた。
絶望し、目の前が真っ暗になって悲鳴も上げられない状態になっていくティアンの顔をじっと間近で見詰め、彼らがニタリと笑い、弧を描く口をゆっくりと開く。
「「さようなら、『叔母さん』」」
(何の事?何を言っているの?)
相変わらず二匹の言う事が全く理解出来ない。他人が犯した罪なのに『お前が償え』と押し付けられているとしか思えず、ティアンには到底受け入れられない。なのに体はもう鼻の辺りまで闇に沈み、その中では肌が無数の小さな捕食者達に食い荒らされていく。気絶も出来ず、痛みと苦しみが全身を支配し、理不尽さしか感じられず、怒りがティアンの瞳を燃やす。
だが二匹には、“ティアン”がまだ二代目の聖女・“リューゲ”だった頃の記憶を返す様な親切をしてやる気など微塵も無い。
彼女の魂が犯した罪は、心から悔い改め、深く反省せねば赦しを得る事は永遠に無い。
だが聖女殺しの罪を犯した記憶が無いだけでなく、カーネを虐め倒した挙句に絞殺した事への罪悪感すらも無くては反省のしようもない。このままではティアンには一切の救いも無く、永遠に監獄の中で苦しみ、のたうち回る事となる。だが、二匹は『それでいい』と思った、『そうであるべきだ』と考えた。
初代聖女・カルムの胎の中で、母が最も信頼していた者達の手によって、母を守れぬまま共に殺されていく恐怖を味わった彼らは、未来永劫彼女達を許す気なんかさらさら無いのだから。
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