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夜行衝動
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ふと、視線を感じた。
生物的本能である。
それが誰から何処から向けられているものかは分からなかった。私は、会社の帰りに古本屋に寄った。ほんの偶然である。
残業終わりの夜の匂いがそうさせたのか、私は気付けばここに立ち寄っていたのである。本の背を眺めながら店内を歩いていると、一冊の本の前で止まった。
――少女地獄、夢野久作著。
私はその本を読んだことが無かった。しかし覚えている。――まだ恋を知らない、しがない大学生の私が経験したおそらく初めての恋の話である。
◇
大学一回生、実家から出てひとり暮らしをするようになった私の趣味は珈琲店巡りであった。その店の珈琲の味というよりも、その店の雰囲気を味わうのが好きだった。――なんだか自分も大人に近付けるような気がして、そのアンティークな雰囲気に囚われたように、毎日様々な珈琲店に足を運んだ。
その際、毎度見る顔があった。
決まって私よりも先にその店におり、珈琲を嗜みながら読書をしている女性。ショートカットの黒髪はどこか近所の猫を思わせた。それは彼女の凍るような目から感じたことかもしれない。現実と虚構が曖昧になりそうな雰囲気は私を虜にした。しかし、話しかけるようなことはせず、ただ珈琲の味と共に眺めることくらいしかしなかった。
「少女地獄……」彼女がいつも読んでいた本の題名をふと、口に出した。
彼女と初めて話したのは、近所で殺人事件が起こり、その容疑者が逃走中という、街が緊迫した状況下のことだった。
私はほんの気まぐれに、夜中レストランに立ち寄った。立ち寄ったというよりは、そこに行くべきして家を出たという方が正しいだろう。真夜中の街に出る、――それは昨今の事件の残り香が匂う夜に誘われたような外出であった。
明るいレストランに入ると、猫目の彼女が座っていた。彼女は私を見つけるや否や、私に微笑み、手招きした。ブラックホールに吸い込まれるように彼女の下へ足取りを進めた。
「どうぞ」と想像通りの冷えるような声色で彼女はそう言った。私は彼女と同じく珈琲を頼んだ。
「いつも珈琲店に居ますよね」
「私、読書が好きだから。珈琲を飲みながら読書をするというのが幸せな時間なのよ」
そんな彼女は、自身を姫草ユリ子と名乗った。可憐だと思った。
歳を聞くのは野暮だと思ったが、彼女はすんなり答えてくれた。彼女は二十五歳だと言った。しかし、それよりも幼く感じる彼女の風貌からは溢れんばかりの大人の雰囲気が出ていた。それは彼女の黒い服に反射する街灯の光ゆえだろう。詩的に言うならそう。端的に言うなら、彼女からは歳不相応な雰囲気を感じた。
特に何を話すという訳でもなかった。ただひたすらに夜の雰囲気に酔いしれていた――。
彼女は、窓の外を見ながら煙草に火を付けた。それもまた、魅力的だと思った。彼女はきっと、私の知らない世界の形を知っている。それが堪らなく羨ましく思えた。
「あの、お客様……こちらは禁煙席ですので……、――あれ? あなた……、え」
定員はささくさと厨房に戻って行った。
「あなたに一つお願いしてもいいかしら」
彼女はそう話を切り出した。私の答えは言うまでもない。
「私のことを警察に連れて行って」
彼女は、昨今街を賑やかせている魔女であった――。何があって、どういった意図でその犯行を行ったかは聞いても答えてくれなかった。
「……、……いや、それは。自分で行ったらどうですか」
「そうよね。あなたもそう言うわよね。分かってたわ」
沈黙。
それを紛らわそうとしてか、優しい雨が降り出した。
「……もし、私があなたを警察に連れて行ったとして、あなたは私を殺しませんか?」
不思議とそんなことを口にしていた。それは夜が私にかける魔法のせいであった。そのことを何と言うか私はまだ知らない。
「さぁ、その時の感情によるんじゃない?」
でも、と彼女は珈琲を一口飲んで、私の方へ向き直した。
「そうしてくれたら、私はきっと……あなたのことを好きになるわ」
少しして、サイレンが近付いて来た。
先程の定員が警察に通報したようだ。後に分かったことだが、彼女の顔写真はすでに世に出回っていたようだ。その辺に疎い私は知らなかった。彼女が連れて行かれた後に、二人の警察官に事情聴取をされた。
彼女との話はこれで終わりだ。
それ以上もそれ以下も無い。しかし、私は彼女の最後の言葉が忘れずにいる。
「何で私に教えたのですか」
私は思わず聞いた。あれほどまでに話しかけられなかったのに、彼女を前にしたら普段なら聞けないことも聞けてしまう。
彼女は三人の警察官に囲まれながら、両手を挙げた。
「さぁ、夜のせいじゃない? きっと彼らの匂いが私にそうさせたのよ」
「夜の匂い……」
「私はそれを夜行衝動と呼んでいるわ。――また会いましょうね」
そう言って、最後に私の名を呼んだ。
「あの、あなたは――」本当に人を殺したのですか、そう聞こうとして止めた。
それから彼女には会っていない。
その数日後に報道された彼女の名は私が知っている彼女の名では無かった。その事実が十年経った今でも忘れられない。
結局、私はその一冊を買って帰った。
アパートのドアを開け、ひとり暮らしには少し狭い部屋に入る。風呂や食事の前に、私は先程買った本を読もうと思った。
「少女地獄」
題名を口にした時、アパートのチャイムが鳴った。私に知人など居ないのに、と疑問に思いながら、ドア穴を覗くと、そこには紛れもない彼女が居た。あの日と変わらない真っ黒な服装に、吊り上がった目。
名前の分からない彼女である。
「どなたでしょう」私は聞いた。
「姫草ユリ子です。忘れましたか?」
彼女は、そう笑った。息を吐くように嘘をついた。
「私を殺しに来たのですか?」
「さぁ、」
と彼女は変わらぬ姫草ユリ子の仮面を被ったままであった。
私は扉を開けた。
何故そうしたか分からないが、きっと夜のせいだろう。私はそれを何と言うかもう知っている。
――夜行衝動。
それからの記憶はほとんど無い。
そしてそれを話すつもりもない。
ただ、あの日読めなかった一冊が心残りであったが、
――きっと彼女のような物語だろう。
了/「夜行衝動」
生物的本能である。
それが誰から何処から向けられているものかは分からなかった。私は、会社の帰りに古本屋に寄った。ほんの偶然である。
残業終わりの夜の匂いがそうさせたのか、私は気付けばここに立ち寄っていたのである。本の背を眺めながら店内を歩いていると、一冊の本の前で止まった。
――少女地獄、夢野久作著。
私はその本を読んだことが無かった。しかし覚えている。――まだ恋を知らない、しがない大学生の私が経験したおそらく初めての恋の話である。
◇
大学一回生、実家から出てひとり暮らしをするようになった私の趣味は珈琲店巡りであった。その店の珈琲の味というよりも、その店の雰囲気を味わうのが好きだった。――なんだか自分も大人に近付けるような気がして、そのアンティークな雰囲気に囚われたように、毎日様々な珈琲店に足を運んだ。
その際、毎度見る顔があった。
決まって私よりも先にその店におり、珈琲を嗜みながら読書をしている女性。ショートカットの黒髪はどこか近所の猫を思わせた。それは彼女の凍るような目から感じたことかもしれない。現実と虚構が曖昧になりそうな雰囲気は私を虜にした。しかし、話しかけるようなことはせず、ただ珈琲の味と共に眺めることくらいしかしなかった。
「少女地獄……」彼女がいつも読んでいた本の題名をふと、口に出した。
彼女と初めて話したのは、近所で殺人事件が起こり、その容疑者が逃走中という、街が緊迫した状況下のことだった。
私はほんの気まぐれに、夜中レストランに立ち寄った。立ち寄ったというよりは、そこに行くべきして家を出たという方が正しいだろう。真夜中の街に出る、――それは昨今の事件の残り香が匂う夜に誘われたような外出であった。
明るいレストランに入ると、猫目の彼女が座っていた。彼女は私を見つけるや否や、私に微笑み、手招きした。ブラックホールに吸い込まれるように彼女の下へ足取りを進めた。
「どうぞ」と想像通りの冷えるような声色で彼女はそう言った。私は彼女と同じく珈琲を頼んだ。
「いつも珈琲店に居ますよね」
「私、読書が好きだから。珈琲を飲みながら読書をするというのが幸せな時間なのよ」
そんな彼女は、自身を姫草ユリ子と名乗った。可憐だと思った。
歳を聞くのは野暮だと思ったが、彼女はすんなり答えてくれた。彼女は二十五歳だと言った。しかし、それよりも幼く感じる彼女の風貌からは溢れんばかりの大人の雰囲気が出ていた。それは彼女の黒い服に反射する街灯の光ゆえだろう。詩的に言うならそう。端的に言うなら、彼女からは歳不相応な雰囲気を感じた。
特に何を話すという訳でもなかった。ただひたすらに夜の雰囲気に酔いしれていた――。
彼女は、窓の外を見ながら煙草に火を付けた。それもまた、魅力的だと思った。彼女はきっと、私の知らない世界の形を知っている。それが堪らなく羨ましく思えた。
「あの、お客様……こちらは禁煙席ですので……、――あれ? あなた……、え」
定員はささくさと厨房に戻って行った。
「あなたに一つお願いしてもいいかしら」
彼女はそう話を切り出した。私の答えは言うまでもない。
「私のことを警察に連れて行って」
彼女は、昨今街を賑やかせている魔女であった――。何があって、どういった意図でその犯行を行ったかは聞いても答えてくれなかった。
「……、……いや、それは。自分で行ったらどうですか」
「そうよね。あなたもそう言うわよね。分かってたわ」
沈黙。
それを紛らわそうとしてか、優しい雨が降り出した。
「……もし、私があなたを警察に連れて行ったとして、あなたは私を殺しませんか?」
不思議とそんなことを口にしていた。それは夜が私にかける魔法のせいであった。そのことを何と言うか私はまだ知らない。
「さぁ、その時の感情によるんじゃない?」
でも、と彼女は珈琲を一口飲んで、私の方へ向き直した。
「そうしてくれたら、私はきっと……あなたのことを好きになるわ」
少しして、サイレンが近付いて来た。
先程の定員が警察に通報したようだ。後に分かったことだが、彼女の顔写真はすでに世に出回っていたようだ。その辺に疎い私は知らなかった。彼女が連れて行かれた後に、二人の警察官に事情聴取をされた。
彼女との話はこれで終わりだ。
それ以上もそれ以下も無い。しかし、私は彼女の最後の言葉が忘れずにいる。
「何で私に教えたのですか」
私は思わず聞いた。あれほどまでに話しかけられなかったのに、彼女を前にしたら普段なら聞けないことも聞けてしまう。
彼女は三人の警察官に囲まれながら、両手を挙げた。
「さぁ、夜のせいじゃない? きっと彼らの匂いが私にそうさせたのよ」
「夜の匂い……」
「私はそれを夜行衝動と呼んでいるわ。――また会いましょうね」
そう言って、最後に私の名を呼んだ。
「あの、あなたは――」本当に人を殺したのですか、そう聞こうとして止めた。
それから彼女には会っていない。
その数日後に報道された彼女の名は私が知っている彼女の名では無かった。その事実が十年経った今でも忘れられない。
結局、私はその一冊を買って帰った。
アパートのドアを開け、ひとり暮らしには少し狭い部屋に入る。風呂や食事の前に、私は先程買った本を読もうと思った。
「少女地獄」
題名を口にした時、アパートのチャイムが鳴った。私に知人など居ないのに、と疑問に思いながら、ドア穴を覗くと、そこには紛れもない彼女が居た。あの日と変わらない真っ黒な服装に、吊り上がった目。
名前の分からない彼女である。
「どなたでしょう」私は聞いた。
「姫草ユリ子です。忘れましたか?」
彼女は、そう笑った。息を吐くように嘘をついた。
「私を殺しに来たのですか?」
「さぁ、」
と彼女は変わらぬ姫草ユリ子の仮面を被ったままであった。
私は扉を開けた。
何故そうしたか分からないが、きっと夜のせいだろう。私はそれを何と言うかもう知っている。
――夜行衝動。
それからの記憶はほとんど無い。
そしてそれを話すつもりもない。
ただ、あの日読めなかった一冊が心残りであったが、
――きっと彼女のような物語だろう。
了/「夜行衝動」
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