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11.灯火

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 人の住まなくなった宮殿は、閑散として寂しげだった。
 部屋の中には何も残されていなかったが、私は壁に掛かっていた一枚の絵を外した。絵の後ろには、小さな隠し扉がある。

「えっ! なんですか、それ?」

 ライエンが、驚きの声を上げた。
 
「いつからあるのかは、わからないが……。子どもの頃、絵をよく見ようと思って、この扉の存在に気づいたんだ。開けた時には、中には何も入ってはいなかった」

 祖母の王太后が大事なものを入れていたのか、その前からあったのか。鍵もかかっていない扉は簡単に開いた。
 大人の肩ほどの幅に、指先から前腕が入るぐらいの奥行きだ。高さは手の平一つ分だった。私はその中に、たった一つだけ、大切なものを入れていた。

「よかった。……あった」

 異国の言葉で綴られた、泉に守られた花の本。幼い日の自分が、ずっと大切に眺めた本が、そこにある。
 扉の奥から取り出して、そっと触れる。何度も何度もめくって角の丸くなった本は、在りし日の自分を浮かび上がらせた。

「……殿下の大切なものだったんですね。どうして、東の宮殿にお持ちにならなかったんです?」
「ここには、大切な思い出がたくさんあったから。なんだかその思い出を守ってくれるような気がしたんだ」

 東宮では、長椅子で仮眠をとりながら必死の毎日だった。時折、小宮殿でのことを思い出した。

「東の宮では学ぶことが多くて、いつも余裕がなかった。エーリヒ達には、たくさん助けてもらっていたけれど……」
「殿下……」



 陽射しは明るく、花々は咲き誇っている。私は、昔懐かしく過ごした『隠れ家』に向かった。

 庭師は変わらずに手入れを続けてくれていたようで、庭はどこも美しいままだ。幼い頃のように、楽園は存在していた。

 小さな噴水は以前より古びていたが趣深く、細い水を光の中に放っている。周りには、青々と芝生が生えていた。 
 思わず、履いていた靴も上着も脱いで、裸足のまま大地に触れる。芝生の触り心地が嬉しくて、まるで踊りだしたいような気持ちだった。 
 芝生の上でくるくると回ると、一緒に来ていたライエンの戸惑う声が聞こえた。

「えっと。殿下、あの、その……」

 私は、はっとする。素足を見せるのは、素肌を見せるのと同じことだ。物を知らない子どもの様な真似をしたことに恥ずかしさが募る。

「……すまないが、見なかったことにしてほしい」

 ライエンは真っ赤な顔をして頷いた。彼は咳払いをしながら目を逸らした。

「少し、庭園を巡ってきます……」

 ライエンは私に背を向けて、茂みの向こうに姿を消した。

 私は本を抱えたまま、芝生の上に寝転がった。どこからか、蝶がひらひらと飛んでくる。
 幼い時も、こうして自分の相手をしてくれたものがいた。小鳥に虫たち、小さな森の生き物たち。こうしていると、時が戻せそうな気がする。
 あの頃は、まだ何も知らなった。ただ、光の中で、自由に過ごすことができたのだ。

 ──さびしいと言う言葉すらも知らずに。

 目をつぶって、少しだけ微睡まどろんだ。小道から、かさりと葉がこすれる音が聞こえる。

「……エーリヒ?」

 傍らに本を置き、起き上がろうとした時だった。

 見惚れてしまうほど美しい男が立っていた。
 光の中に銀色の髪がきらめいて、あの日見た少年より、ずっと成長している。凛々しい眉も通った鼻筋も変わらないのに、彼の青い瞳はいつの間にか、ひどく冷たい輝きに変わっている。
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