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第三部 父と子
第38話 父子①
しおりを挟む⋯⋯いつから、父の背中を追わなくなったのだろう。
武の王子として剣の稽古が増えた時から?
少しずつ毒に体を慣らす訓練が始まった時から?
いつの間に自分は空を見上げようとしなくなったのだろう。
太陽がそこにあるのは知っていた。でも、天にあることが当然で、多くの人を照らす光が自分にもまた注がれているのだと思ったことはなかった。
シェンバーが立ち上がる時に、イルマが一瞬だけ強く手を握った。優しい温もりがいつだって前に進む力をくれる。
「南の離宮に近いガゥイの市場で、これを求めました。父上にお使いいただければと選びました」
飾り気のない布袋に入れた拡大鏡を従者に渡す。恭しく差し出された品を王は受け取った。
「其方が、自分で?」
「ええ。イルマが共に行こうと誘ってくれました。私は物を選ぶことに長けていないので、お気に召すかはわかりませんが」
袋から拡大鏡が出され、父はしげしげとそれを見つめた。シェンバーの背に緊張が走る。王は手元に広げられていた布地の刺繍に拡大鏡を当てた。
「これはすごい。細かいところまで大層よく見える」
破顔して少年のように楽しそうな王の元に、王妃も顔を寄せる。シェンバーは、大きく息を吸った。
「父上。私は」
王の穏やかな瑠璃色の瞳がシェンバーを見る。
⋯⋯同じ色だけれど、父の瞳の方が色が薄い。いつの間にか目尻に皺が増えている。父の顔をまともに見たのは、いつが最後だったのだろう。
「長い間、父上が自分を見守ってくださっていることに気づきもしませんでした。イルマとの婚姻に心を砕いてくださったことにも。不肖の息子ですが、心から⋯⋯感謝を申し上げます」
沈黙が、訪れた。
シェンバーは思った。これ以上は、自分には無理だ、と。
⋯⋯あれだけ滑らかに語った兄弟たちが何か言ってくれればいいのに。
そう思ってわずかに視線を動かせば、兄も弟も彫像のように固く動かない。ぴょんと跳ねた茶色の髪が目に入る。イルマは喜んでいるようだと思ったら、急に緊張が解けた。
「今日は、父の日だったな。父らしいことを其方たちにしてきたのか、我が身を振り返っても自信がない。国と民の父であれと今日まで来たことに間違いはないはずだが⋯⋯」
父は息子を見て微笑んだ。
「書斎に置いて日々役立てよう。シェンバー、ありがとう」
シェンバーは、父の言葉に頷いて席に着いた。体から一気に力が抜ける。まるでクァランの気難しい族長たちの間で話を終えた時のようだ。ふう、と息をついたところに優しい囁きが聞こえた。
「シェン、頑張ったね」
にこにこと笑うイルマの髪が揺れる。イルマの一言が、ぴょんと弾んだ髪が、いつだって自分に力をくれる。
「⋯⋯ありがとう」
イルマは目を見開いた後に、ぽつりと言った。
「昔、すごく驚いたのを思い出した」
「えっ?」
「シェンに初めてありがとう、って言われた時。この王子様も御礼が言えるんだ、と思って」
シェンバーは動揺した。自分が鼻持ちならない男だったと言われたような気がしたからだ。
「あ、あの、イルマ」
「よかった」
イルマの瞳に柔らかな光が揺れる。
「シェンが、陛下にもぼくにも、自分の気持ちを伝えてくれるようになって」
目の前に香り高い茶が運ばれた。湯気がふわりとかかって、目の前が滲む。言葉を返そうと思うのに、何かが喉で詰まっている。黙ったまま口に含めば、甘みもわずかな苦みも、自分の中に沁みわたっていく。
「陛下!」
イルマが元気よく立ち上がった。
「ガゥイの市場で、陛下にお目にかけたい品を見つけました。僭越ながら、私からも贈らせていただければと思います。えっと、父の日ですから」
少しだけ恥ずかしそうに、きらきらと目を輝かせてこちらを見るフィスタの王子に、国王は口元をほころばせた。友は、この王子をどれほど可愛がってきたことだろう。委縮も動揺もなく、真っ直ぐに心を伝えてくる。
「イルマ王子までが我を父と思い、心遣いをくれるとは。なんと嬉しいことだ」
感謝と慈愛に満ちた微笑を浮かべた王は、従者が布の上に捧げ持ってきた品を見た瞬間、小さく叫んだ。
黄金色の液体が輝く瓶の中身はガッザークの幻の酒。王の脳裏に、過ぎ去った過去が波のように押し寄せた。
「これは!」
「フィスタの父が常々語っておりました。陛下との思い出を」
「思い出⋯⋯」
それはどんな思い出かと問いただしたい気持ちだった。
友は我が子に何を語ったのか。
甘くとろりとして、口当たりはいいが度数の高い酒だ。若き日の自分とフィスタの王子に酒の勢いが何をさせたか、眠っていた記憶がまざまざと呼び覚まされる。
王の背に冷汗が伝う。
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