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第四部 婚礼

第10話 白き花②

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「イルマ。私は信じられるようになった」
「シェン?」 
「人が長い間、誰かを思い続けて生きることも、その人の為に純粋に何かをしようとすることも絵空事だ。まるで乳母の語る御伽話のようなもので、現実はそんなに優しいものじゃない。人は利で動き、いとも簡単に掌を返す生き物だ。ずっと、そう思っていた」

 瑠璃色の瞳が静かに花を見つめた。長い指が、そっと白い花弁の先に触れれば、花がふるりと震える。
 イルマの視線に気づいたシェンバーは、安心させるように微笑んだ。

「昔、奥庭にしのびこもうとしたことがある」
「聞いたことがある。どうしても入れなかったって」
「そうだ。その時に初めて、テオに会った」

 幼い王子は周囲に誰もいないのを確認してから、扉を開けようとした。鍵は固く閉まっているし、周囲は高い鉄柵で囲まれている。入り込む隙間もなく、上ることもできなかった。あれこれやってみたものの歯が立たずに、扉の前で肩を落とした。
 人の気配を感じて振り向けば、一人の男が立っていた。男はシェンバーを見ると目を見開き、殿下、と呟いた。

「初めて会ったのに、いきなり泣き出された。考えてみれば、テオは私を見ると泣いてばかりいるな」

 そんなテオが、教えてくれたのだ。

『ここには、どなたもお入りになることはできません。殿下がお生まれになるより前に、そう決まったからです。ただ、いつか⋯⋯、いつかお入りになれる日がくるかもしれません。こうして、私が殿下にお会いできたのですから』

 ⋯⋯変な男だ。まるで自分にずっと会いたかったみたいだ。
 泣き続ける男に、幼い王子は首を傾げた。周りの「大人」は、人前で涙を見せることなどない。涙を見せることは隙を見せること、すなわち、心の鍛練が疎かなのだと口にする。男の涙はなかなか止まらず、何度も目を擦っては、王子を見て泣いた。小さな手が手巾を差し出せば、もったいないと首を振る。

「私は、大の男が泣き出す姿など見たことが無かった。物心ついたころには騎士たちに囲まれていたから」

 庭師は、ぐしゃぐしゃな顔のまま、小さな声で呟いた。いつか、奥庭にたくさんの花が咲く日が来ます、と。見る者を威圧するこの扉の向こうにも花が咲くのか。それは、幼い心に不思議な感慨を呼んだ。

『いつか?』
『はい⋯⋯いつか。お待ち、ください』
『楽しみ、だな』
『え?』
『待つのを楽しみと言うのだろう? 前に、父上が言っていた』

 奥庭に入れないのは悔しいが、この扉の向こうが花で埋まっているのは面白い。シェンバー王子、と探す声が辺りに響いた。なぜかまた泣いている男に、王子は無理やり手巾を渡した。目が溶けてしまわなければいいな、と思いながら。

 後日、幼い王子の元に、花と手巾が届いた。一輪の花は、驚くほど長く咲き続けた。

「テオはずっと、叔父上の庭を守っていた。誰もが忘れようとしていた庭を、テオだけは忘れなかった。二度と姿を見ることも、声を聞くことも出来ないのに。そんな姿を見ていると、人はただ一心に思い続けることができるのだなと思う」
「ただ一心に思い続ける⋯⋯」

 それは、簡単なことではない。日々の生活に追われても、テオは大切な人を忘れなかった。人の命は短く、為せることはあまりに少ない。思い出を心の底に沈めて、時折そっと眺める。それでもかまわなかったはずなのに、彼は人生の真ん中に、ずっと一人の王子を据えて生きてきた。
 イルマは、シェンバーの言葉を聞きながら、ルーウィック王子の姿を思い出していた。王子もまた、唯一人に伝えたい想いを持ち続けた。

「ねえ、シェン。人の想いはすごいね。なんだかすごく⋯⋯眩しい」
「どうしようもなく、心が向かうのだろう。それが生きる理由になる。相手に伝わらなくても、ずっと思い続けられるのかは⋯⋯」

 シェンバーは白い花を見つめながら、ゆっくりと瞳を瞬いた。

いだいた思いの深さによるのだろうな」

 シェンバーの言葉は静かに部屋に満ちた。花の佇まいと共に、人々は静かに言葉を飲み込み、心の中で繰り返す。それは、部屋の片隅に控えた守護騎士も同じだった。

「この花を、式にも使わせてもらおう」

 イルマがそっと、白い花弁の先に触れる。
 その背を見つめ、騎士は遠い日を思い出していた。小さな虫を追う幼い姿。出会ったあの日から、己の人生を賭けて見守ってきた主。

 国王から賜った言葉は、ずっと騎士に覚悟を問いかけている。

 ──故国に戻る。
 選択の日もまた近づいているのだと、騎士は奥歯を噛んだ。 
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