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第四部 婚礼
第22話 愛し子②
しおりを挟む懐かしい、優しい香りがした。昔、いつもしてくれたように背を撫でる手や体は、思い出とは違っていた。今はもう、イルマよりも一回り小さくなっている。
「⋯⋯こん⋯⋯なに、小さかった?」
「イル⋯⋯マ様が、大きく、ご立派に⋯⋯なられたのです」
つかえながら、泣くのを堪えた声が囁く。
何度も抱きしめてもらった思い出は、胸の奥で消えることがない。見えない明日に脅えた日も、彼女だけは未来を語り続けた。
イルマ様、人生は舵の無い舟で大海を行くようなもの。陽や星が見えぬ日も嵐に遭うこともあるでしょう。それでも、諦めないこと。
嵐の後には、必ず晴れた空が見えるのですから。
「⋯⋯ねえ、ルチア。ぼくは、明日を見つけた」
「この目で、しかと見届けました。イルマ様のお幸せを」
⋯⋯私の祝福の門出を、見る夢が叶いました。
小さく呟く乳母の言葉に、こらえきれず黄金の瞳から涙が溢れ出た。
「ルチア⋯⋯。来て、くれるなんて思わなかった。でも、来てくれたら⋯⋯って」
乳母の手は優しく、自分が泣き止むまで静かに背を撫でる。言葉をかけるのはそれからだ。昔から少しも変らぬ仕草に、イルマの涙は止まらなかった。
⋯⋯まるで、小さな子どもみたいだ。乳母にしがみついて泣いているなんて。
そう思っても、涙は勝手にあふれてくる。
招待状を出すかどうか、イルマはさんざん悩んだ。思い切って出した後は、返事が気になって仕方がなかった。優しい文官が心配して声をかけてくれたけれど、返信は見当たらない。日が迫るにつれて半ば諦めながらも、ずっと心の底で待っていた。幼い子どもが、書いた手紙の返事を待ち続けるように。
「⋯⋯ルチア、式⋯⋯も、見てくれたの?」
「はい。ラウド殿下たちの後ろから、こっそり拝見致しました」
ラウド王子の肩が跳ねた。イルマが顔を向けると、そっと目を逸らす。
くすくす笑う乳母は、セツとよく似ている。艶やかな黒髪も、美しい碧青の瞳も。手の甲で目をこするイルマの涙を、乳母は優しく手巾で拭った。
「もう十分に成長されたと手を離した御子に会うのは、未練だろうと思いました。セツもサフィード様もお側にいる。私の出る幕はないのに、招待状をいただいて一目だけでも、と思ってしまいました」
「ど、堂々と⋯⋯。来れば、いいのに。ぼ、ぼくが出したんだからっ」
「⋯⋯本当に。ご立派なお姿を拝見して、心から御祝を申し上げればよかった。⋯⋯おめでとうございます、イルマ殿下」
「うん。⋯⋯うん」
シェンバーが前に言った言葉を、イルマは思い出す。
──どんな相手にも負けない、イルマがいれば。その気持ちを皆の前で見せたいんだ。
「ルチアに⋯⋯見てもらえて。よかった」
主の声を聞き取って、セツは胸を打たれた。
愛し子と手を握り合う母の姿は美しく、思わず涙を誘われる。だが、それはそれ、これはこれだと思う。
「最初から素直に顔を見せてさしあげればよかったのに⋯⋯!」
思わず押し殺した声が漏れる。セツの顔は白から青、青から赤へと順に色を変えていた。隣に立つ長兄のオルグがしきりに様子を窺っている。セツが睨みつけると、ぴたりと黙り込んだ。四阿に視線を向ければ、にこにこと微笑む男がいた。セツを見て嬉しそうに側に来る。
「兄弟揃って何をやっていらっしゃるんです!」
「いや、だって。母上がやっぱり殿下を一目見たいと仰るし、他国にお一人では危ないし、セツに会いたいし」
すらりとしなやかな体躯の男は、セツを間近で見て目尻を下げた。さりげなく距離を詰める様を見て、オルグが嫌そうに声を上げる。
「殿下には内緒だと仰るから、私が名代になってお連れすることにしたのに! シノワが自分まで一緒に行くと言い出したんだ!」
「兄上は文官でしょう? いざという時に役に立たないではありませんか。王妃様から休暇もいただいたし、丁度良かったんですよ」
ふん、と鼻を鳴らす次兄に長兄がぎりりと歯を食いしばる。
セツは頭が痛かった。母親は妙なところで意地を張るし、兄たちはその片棒を担ぐし。
フィスタの国王陛下に呼ばれて、母と兄たちが来ていると聞かされた時は呆然とした。そんなこと、一言も聞いていない。確かに母は言い出したら聞かないところがあるが、返信を待ち続けた主の気持ちを思うと、怒りしか湧いてこなかった。
長兄と話してようやく西の宮殿に戻れば、主は大事な騎士の幸せを考えて胸を痛めていた。その騎士は今、乳母と主の姿をじっと見つめている。
「⋯⋯セツ。怒ってる?」
「もう、怒るどころじゃありません⋯⋯」
セツの呟きは、穏やかな風の中に、ふわりと流されていった。
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