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転生者アリス・キャロルは元の世界に戻りたい

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 アリス・キャロルは覚醒する。

 目を開けた瞬間に分かった。ここは私の本来いるべきところではない、と。

 横になっていたレースをふんだんに使った豪奢なベッドから窓の外を見やる。青空を泳ぐ無数のドラゴンをしばし眺めた。そして視線を今度は天井へと移す。天使たちがひそひそ話をしながらアリスを見て秘めやかに笑う。絵にも見えるそれらは間違いなく生命を宿していたが、屋敷から一生出ることはできないし死ぬこともないことをアリスは知っていた。

 アリス・キャロルは転生者である。

 つい先程目覚めたときに、そう確信した。夢の中で見た前世の彼女は一児の母であり、シングルマザーとして息子を女手一つで育てていた。結婚は3度して、3回とも離婚になった。息子は3人目の夫との子だった。髪の毛がくるくるとして愛らしく、息子が笑うとこちらまで笑顔になれた。アリスが3人目の元夫に殺害されたのは、仕事からの帰り道だった。次の日高校生になる息子のためにケーキを予約していた。店に取りに行き、さあ急いで帰ろうと歩いていた時、背後から刺されたのだ。死に際に見た元夫の顔は泣きそうに歪んでいたのを覚えている。別れの原因は元夫からのDVだった。ようやく受けた傷も目立たなくなったのに、最期まで私を痛めつけなければ気が済まないのか、この人は。そう思うとやるせなく、とても悲しかった。そして何より残される息子のことを案じた。

――私は元の世界に帰らなければならない。

 一度死んだ身であることはよく分かっている。何をどう頑張っても元の世界に帰れないだろうことも分かっている。それでも彼女は思わずにはいられなかった。覚悟せざるを得なかった。

 息子に一目でいいから会いたい。抱きしめたい。離れたくない。

 子を思う心は理屈ではない。ただひたすらに会いたいと心の奥底が叫んでいる。

 どうして自分がアリス・キャロルという、いわゆる乙女ゲームの悪役令嬢に転生しているのかは皆目見当もつかないが、私は――ママは、絶対に元の世界に戻ってみせると強く決意を固めた。





*****





 元の世界に戻る。そう決めたからには、まずは情報収集である。

 幸いキャロル家は裕福な貴族である。屋敷には大きな書庫があるし、資金も潤沢だ。どうやって転生したのかは不明だが、恐らく魔術の類であろう。記憶が戻る前のアリスは家庭教師から魔術の授業を受けていた。8歳にしては優秀であるという評価を受けている――そう、アリスはまだ成人していないのだ。それどころかまだ子ども。親の手助けなしには生きていけない無力な存在である。

 転生前はそこそこ胸も大きく背も高かった彼女は、日常のあらゆる面で不便を感じていた。

 まずデメリットを挙げると、高いところのものが取れない。120cmしかない体では、少し高い棚にあるものが取れずに侍女や侍従に取ってもらうしかない。

 肩を滑らかに流れる金色の髪が視界の隅に映るたびに、元の黒髪を恋しく思った。

 豊満な胸も、重くはあったが、物を乗せたりできて便利だったのに。

 人知れず溜息をつく。

 顔も、以前は垂れ目でふんわりとした印象だったが、今はそれとは180度違う。目は猫のように吊り上がっているし、口は少しへの字寄りだ。鼻は高いが、それが一層勝気な印象を与える。それまでのアリスは悪役令嬢らしく我儘放題で意地悪だった。記憶を取り戻した今となっては黒歴史と言っても過言ではない。性格は至って温厚で争うごとは好まず、我を通すより相手の要求に諾々と従うほうが楽だとさえ思っている。どうにか表情だけは柔らかくしようと鏡の前で小一時間笑顔の練習をしてみたところ、普段使わない筋肉を使ったためか頬が筋肉痛でズキズキする。何とか見た目から伝わる底意地の悪さを笑顔で緩和することはできた、ような気がする。自分で言うのもなんだが、元々整った顔面をしている。にっこりと微笑めば年相応のかわいらしさにはなっているだろう。

 先程まで読んでいた書物を閉じ、物思いに耽る。文字を読むことに関しては問題ない。言語やこの世界の常識はある程度頭に入っているので、前世の記憶が戻っても特に怪しまれることはなかった。隠し事は苦手だから良かった。もし転生などと言えば病気を疑われてしまう。なまじお金持ちなだけに高名なお医者さんを呼ばれても困ってしまう。この世界の病や傷の治し方は、化学ではなく専ら魔術だ。魔術師という職業の人々が祈祷で治療する様に不信感を抱かないといえば嘘になる。どうしてもフィクションに思えてしまう。前世のアリスは異世界を舞台とした物語やゲームを好んだ。魔術師などが出てくると、どうしてもファンタジーの住人になってしまった感があり体がむずむずしてしまう。

 前世では男運がなかったため、理想の男性を求めて一時期乙女ゲームにも手を出したことがある。その時にプレイしたゲームの悪役令嬢にアリスはそっくりである――そっくりどころではない。

 外見は勿論、名前も性格も一緒。世界観も登場人物も全て同じだ。そのことがアリスをとことん落ち込ませる。なにせ、アリス・キャロルは17歳で死ぬ運命なのだ。いわゆる断罪イベントだ。この先、成長していくにつれてアリスは国をも傾ける大騒動を起こし、最期は主人公の竜人の女の子と結ばれる王子に殺されジ・エンドだ。

 そうなる前に早く元の世界に帰らなければ。

 一度死んだ上に更にこんなゲームの世界で再び命を落とすだなんてまっぴらごめんだ。

 当面は生き延びるために全力を尽くさなくてはならない。この世界では魔力の有無が大きく人生の行く末を左右する。アリスの魔力は良くも悪くも平均並みだ。これから起こることを考えれば、魔力の使い方を洗練し、なおかつ味方を増やさなければならない。

 味方の件はとりあえず置いておくとして、まずは自分の力を付けることを考えよう。実力があれば、次第に支持してくれる人も増えていくはずだ。

 高等魔術を学ぶためには首都にある学園に通わなければならない。そして入学にも試験があるため、まずはそれをクリアできるくらいにならねばならない。前世で言うところのお受験戦争だ。息子の高校入学時のお受験戦争は苛烈であった。あれを自分が当事者として体験すると考えると今から目が回りそうだ。

 うーん、と唸って頭を抱える。

 あまり頭が良いほうではない。記憶力は良いほうだったが、勉学となると途端に鳴りを潜めるので自分でもどういうメカニズムになっているのか頭が痛い。

「―――ま。アリス様!」

「……ん?」

 呼びかけに気付いてハッと顔を上げる。目の前に侍従が立っていた。年の頃はちょうどアリスと同じくらい。無表情だが後ろに見える尾が不安定に揺れている。大きな目と女の子に見間違うほど可愛らしい顔つきが犬を連想させる。燕尾服にも似た服に身を包んでいるため、従順な柴犬に見えるとアリスは内心思っていた。

「アリス様、どうかなされましたか? お加減でも優れませんか?」

「え? あっ、ううん。大丈夫よ、ロイ」

 そう言うと、獣人である彼は「本当ですか?」と尚も食い下がる。「ここ最近のお嬢様はひどく疲れて見えます。もし何か困り事がございましたらどうぞわたくしにお話ください。必ずや原因を取り除いてみせます」

 フンッと意気軒昂と宣言する侍従にもアリスは密かに頭を悩ませていた。若いからなのか先走ることが多いのが彼の特徴だ。やる気があるのはいいことだが、空回りも多い。記憶が戻る前の彼女は度々この若い従僕をからかっては楽しんでいた。そんな扱いを受けてなお慕ってくれるのだから、よく出来た召使である。何もこんな性悪のところで働かずとも他に良い就職先がありそうなものだが。折を見て、他の貴族の元へ移るのも彼のためかもしれない。

 そう考えているのが、つい口に出ていたのだろう。ロイはむくれた顔でこちらをじっとりと睨んでいた。

「お嬢様は何も分かっておりません! 恐れながら申し上げます。このロイ、貴女様以外のかたに文字通り尻尾を振るだなんて致しません。それに主君と認めた方以外のために生涯を捧げることはわたくしの誇りと存在意義を否定することと同義です。あまり軽々しく他の貴族の元へと行ったほうがいいなどとおっしゃらないでください。とてもとてもとてもとても、傷つきます!」

 正直なところは彼の美徳だ。アリスが素直に「ごめんなさいね」と手を合わせて顔を覗き込むと、忠実なる僕は深く頷いてみせた。稲穂のような尾が上機嫌に揺れる。

「ロイはとても良い子ね。信頼しているわ。いつもありがとう」

 微笑むと彼は満足そうににっこりと笑う。こんな子犬のような男が9年後には冷静沈着な側近となることを知っている身としては心中複雑でならない。アリスと同じくらいの身長だったのが数年の間にみるみるうちに伸びていき見上げるほどになることや、メイドや街の娘たちにキャーキャーと騒がれるようになることは既にゲームで予習済みだ。そして彼も攻略対象の一人だった。つまり将来的にはアリスと敵対することになる。今まで深夜にわざわざ起こしては明日着る服を選ばせたり、夜空に浮かぶ月が欲しいと言って駄々をこねたことを思えば当然のことと言えるだろう。なんだか寂しいような、悲しいような。自業自得ではあるが身を切るような痛みを感じる。いつか訪れる別れの前にふわふわの毛並みを触っておこうと、椅子に座るアリスの前に跪いて差し出された頭を撫でまわした。

「ところで、聞きたいことがあるのだけれど」

「何でしょう、お嬢様」

 撫でられながらロイは上目遣いでアリスを見つめる。

「私、実は魔術を極めようと考えているの。でも私の魔素の量はそう多くはない。高度魔術を使うための絶対量には少しだけ及ばないことは以前マチルダ先生からお聞きしたわ。一人が保有する魔素は生まれながらにして上限が決まっていて、増やすことは容易ではない……でも私、どうしてもリュミエール学園へと入りたいの」

「魔術学校の最高峰、リュミエール学園へとですか? そうですね……かの学園へと入学をするには並外れた才と無尽蔵の魔素を持つことが必須と聞いたことがあります。アリスお嬢様の場合、まずは魔術について更なる研鑽を重ねることと、ドラゴンクラスの魔物もしくは魔獣をテイムするのが最善です。しかし勉学の方は努力で何とかなってもドラゴンクラスのテイムはあまりおすすめ致しません。危険過ぎます。中程度のモンスターを複数テイムすることを提案致します」

 魔物や魔獣に関してはうっすらと覚えている。ゲーム内で詳しく説明があったが、アリスは途中で頭がこんがらがってきて飛ばしてしまったのだ。魔物は鱗がある両生類や爬虫類みたいな見た目のモンスターで、魔獣はもふもふした子たちという曖昧な認識でしかない。

「極論、その認識で間違いはありません。一つ付け加えておくならば、魔物は神々や悪魔から生み出されたものであり、魔獣は獣が魔素を得たものとお考えください。そのため、魔物をテイムする場合には創り出したものの許可もしくは契約を強制解除させてから自分の配下としなければなりません。というのも魔獣の魔素は大気中にあるものが寄り集まってできていますが、魔物は常に作り出した者から魔素の供給を得ています。その関係性をぶっ壊して、魔素を術者からの供給に変更するのです。ですから魔物をテイムする場合は自分の力量の把握と正確な魔術式が必要となります。術者の魔素が消費量より少なければ吸い尽くされて命を落とします」

「なんだかテイムって恐ろしいのね」

「そんなことはありませんよ。必ずしも不利益ばかりとは限りません。自分の力量に合った魔物を配下にすることができれば、高度な魔術を扱うこともできます。リュミエール学園の入試では実技もあるので、手に入れておくに越したことはありません」

「そう……」

 頬に手を添えて思案する。ロイのような獣人でもテイムできるのであろうか、と。しかしその考えはすぐに打ち消した。獣人は魔獣と人との交わりで生まれている。そのため迫害を受けている種もあるという。その上魔術を用いた強制的な契約など、人道に悖る行いだ。

 彼のような存在がゆくゆくは味方になってくれれば心強いのにとは思うが、今後のストーリーを知っているため望み薄だ。とりあえず当面の目標はできた。

 協力してくれるわね?とロイに問いかけると、彼は恭しくアリスの手を取った。
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