体温計

闇猫古蝶

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「先生への、想い」

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手に書類を抱え、ドキドキしながら、保健室の扉をがらりと開ける。

「失礼します、先生」

その姿が目に映り、鼓動は速まるけれど、平静を保った。

懐かしい香りが、僕の体を優しく包んだ。

先生は、机に書類を置く僕をみて微笑む。

「まさか、お前に先生、なんて呼ばれる日がくるなんてな」

ここでくらいいいのに、と可笑しそうにする先生は…幼なじみのようなもので、親友、だった。

「先生相手に、タメ口聞くわけにもいかないでしょう」

「なんだよ、真面目ぶって」

むすぅ、っと頬を膨らませる先生は、僕より子供っぽい。そうして──

「学校でがだめなら、また家にこいよ」

──その子供らしい無邪気さで、僕を苦しめる。

「前みたいにさ。なんなら勉強みてやるぞ?」

悪戯小僧みたいに笑う先生に不覚にもドキドキしながら、表情を見られないように、顔を伏せるようにして応えた。

「考えておきます」

気まずくて思わず机を見れば、幼い頃の僕と、青年といった風貌の先生が写った写真。

僕はそれに気付かないふりをして

「失礼しました」

と頭を下げ、保健室を出た。

出た、はいいが…すぐその場にへたりこんでしまう。

「緊張、したぁ…っ」

先生が扉を開けるのではないかとか、人が来るかもしれないとか、気にしている余裕はなかった。

「まだ、あの写真持ってたんだ…」

あれは、そう。たしか夏の夕方頃、夏祭りのあった日。

浴衣を着て、いつもと違う雰囲気に僕は浮かれて、父親に頼んだのだ。

『ねぇ!お兄ちゃんと写真撮って!いいでしょ?』

その時お兄ちゃん…先生はくすりと微笑んで僕をみていた。

そうしてじんわりと胸が熱くなって、淡く柔らかな膜みたいなものに心が覆われるのを感じた。

忘れもしない。だってきっと、あれは僕が、この想いに気がついた瞬間だったから。

「はぁ…」

思わずため息を着いた時、スマホがポケットの中で振動した。

ホームボタンを押すと、同じクラスの久坂さんからメッセージが来ているようだった。

『これから北見書店に行くんだけど、どう?』

どう?と聞かれても困る。

僕はぐいぐいくる女性は、なんだか苦手だ。

それに連絡先だって、流れに押し負けて、交換したようなものだ。

けれど、帰るためには北見書店のすぐ目の前を通らなきゃならない。

前に久坂さんに無理やり連れられて行ったら、一時間近く拘束された。それはある種の拷問だ、もう二度と御免である。

ううんと唸っている僕の後ろで扉が開いた。

「ん?まだ帰ってなかったのか」

しゃがんでいる僕と、ずっと高い位置にある先生の目が合う。

僕は、すかさず久坂さんに返信。

『先生の手伝いしなきゃ。ごめんね』

ポケットへスマホを押し込み

「はあ、まぁ…」

と適当に言葉を返した。

何も考えていないわけじゃなくて、どうすればいいか、よくわからないのだ。久坂さん相手のメッセージとは、また違う考え方である。

「なんだ?彼女か?」

ニヤニヤと笑みを浮かべた先生に、冷たい目を向ける。

「違いますよ」

本当に、違う。誤解なんてされたくなかった。

つまんないの、と笑う先生は、憎らしいくらいに可愛い。

「それよかお前、今から暇?」

「暇、ですけど」

今日は珍しく課題もでていないし、することがない。

時間を潰さないといけないし。

「なら、ちょっと手伝ってくんない?」

「いいですけど…」

先生の手伝い、って理由で誘いを断ったわけだし。最悪、問い質されたら証言者として召喚できる。

「理科室の掃除、代わりによろしくって頼まれたんだけど、洗わなきゃいけない器具とか多いしさ」

困ってたんだよ、と苦笑いする先生の綺麗な黒髪が揺れる。

「掃除なら得意ですし、いいですよ」

「ありがとな」

そう言うと先生は、僕の頭に手を軽く置いた。

僕より大きい、大人の手だ。

「うし、行くぞ」

気だるげな声をだして二階へ続く階段を上っていく先生の後ろを、僕は少しだけ間隔をあけてついていく。

その時またポケットでスマホが振動したが、気付かないふりをした。

なんだか今日は気付かないふりが多いかもな、なんて思った。

理科室に入ると、まず目に飛び込んできたのは、机に乗りきらないくらいに置かれた器具たち。それから小さな紙に書かれた、丁寧なメモだった。

『ビーカーと試験管は洗って…』

などといったことが細かく書かれている。さすがは几帳面で有名な優香先生…それなのに、これだけ乱雑に置かれているということは、それだけ急いでいたとか、忙しかったのだろう。

ちなみになぜ優香先生とわかったのかというと、簡単である。この学校で理科、生物、化学…などなど、受け持っているのは優香先生ただ一人だからだ。

それでもやっていけるのは、優香先生の手腕だろう。

「ぼーっとして、どうした?」

「あっ、いえ…」

僕は首を振り、意識を掃除に戻すと、腕まくりをする先生の隣に立った。

蛇口を捻ると、冷たい水が噴き出す。

チラと横目に先生を見やると、先生は既に試験管を机から取り、洗い始めていた。

銀色のシンクに反射した夕日の赤色が、その瞳を同じ色に染めていた。

綺麗だ、と思った。

「ん?」

あんまりじっと見ていたものだから、気づかれてしまった。

僕は慌てて目を逸らすと、先生と同じように試験管を手に取り洗う。

「懐かしいなぁ」

不意に、先生がそんな声を漏らした。

「懐かしい?」

「ああ。昔、皿洗いする俺の横にきて『僕もやる!』とか言って、台なんて持ちだしてきてさぁ」

…それは僕の声真似のつもりだろうか?

「俺の閉めた蛇口が固くて、開かなくてさ。俺が意地悪して、助けないでいたら…勢いよく開いちゃって」

「……」

「二人とも水浸しで、俺は笑って、お前は泣いて。あの後母さんに怒られたっけ」

「…泣いてないですよ」

「同じこと言ってる」

ははは、と笑う先生は何より輝いていて…また鼓動が速くなり、体は熱に包まれる。

「うるさいですよ?」

そう言って、泡にまみれた二つ目の試験管を流すために、一度閉めた蛇口を再び開けようとした時だ。

「っわ!?」

あの時の再現みたいに、水が勢いよく噴き出した。

幸いにも、ずぶ濡れにはならなかったが、腕や腹のあたりはびしょびしょだ。

「はっはは!」

「笑わないでくださいよ!」

でも、あんまり先生が楽しそうだから。

「…ふふ」

思わず笑ってしまった。

「あっはは」

なんだか可笑しくって、笑いが止まらなかった。

「っひゃ!」

いつまでも笑い続ける僕の顔に、水の雫が飛んでくる。

「女子でも…ぷくく…そんな声、ださな…っ」

口元を押さえて笑いを堪えようと──堪えきれてないけど──する先生が飛ばしたのだろう水が、髪から滴り落ちる。

「……」

「はは…って、うおっ!?」

腹が立つから仕返ししてやった。

「泡付きはまずいって!たんま、たんま!」

「待ったはなしですよ、先生」

なんだか、先生の言うとおり、懐かしい。

昔はこうしてよくふざけていたっけ。

その度に叱られたものだ。

近所のおばちゃん達は元気ねぇ、仲いいわねぇ、なんて笑っていた。

その時は僕達は決まってこう言っていたのだ。

『大親友ですから!二人で居れば無敵ですよ!』

蘇る記憶の欠片に、あたたかな物が心にすとんと落ちていくのを感じた。

ああ、好きだな。

そう、感じてしまった。

一度感じた想いは、なかなか消えないというのに。

僕は先生に…恋をしてはいけないというのに。
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