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一日目~安息~ 其の二
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「へぇ~、驚いたわ」
差し出された料理を見て、アヤメは感嘆の息を漏らした。
「あなた、料理が出来たのね」
「そりゃ、一人暮らししてれば自然と身に付く」
俺の場合はガキの頃からだけど、大抵はそうだろう。コンビニや外食はどうしても高くつくから、必要に迫られてみんな覚えるんだ。俺はガキの頃からやっていたから、その苦労はなかったけどな。
「米は無いが、少しでも食っとけよ。米はしばらく食えないだろうから、我が侭は言うなよ」
物流がいつ復旧するかわからない今、食事が出来るだけでも御の字なんだ。薫が変な奴で本当に良かった。これは推測だが、あいつはよく愚痴を溢していた事がある。曰く、下は魔窟だ。便所こおろぎ、ムカデ、G、エトセトラエトセトラのパラダイスだと。だから、薫は下に調理器具等を一切置いてなかったんじゃないだろうか。それ以外考えられん。
「わかってるわ。そんな我が侭を言うほど子供だとでも?」
子供だろうが。ちょっとからかっただけで、俺の命が奪われそうだったもんよ。扉の前で眠気に襲われた時、どれだけ俺が「もうゴールしても良いよね?」つって目を閉じそうになった事か。
ふわふわの出来立ての韮玉を一口食べると、アヤメは一言。
「空腹は最高のスパイスよね」
「餓え死ね」
ひょいと鍋をアヤメの前から下げる。
「大人気ないわね」
「どっちがだ。素直に旨いと言えば食わせてやる」
「……そうね。卵のふんわりとした食感は正に韮を包む優しい羽毛のようで、とろけるような半熟加減は甘美に」
「もう良いわ。好きに食え」
こいつの捻くれた性格に何を期待しているのか。無駄な労力を使い、溜息を一つ。
「ふん、最初から素直に差し出せば良いのよ」
食中毒になってしまえ。
「あら?何か邪念を感じたわ」
「サトリかお前は」
可愛げをどこに捨ててきたんでしょうねこの子は。前世にでも廃棄してきたんすねきっと。
まあ、なんだかんだ言いつつ箸を止めないで食べてくれるのは作った側としては嬉しいんだけどな。憎まれ口が一流な口だが、食べている時は可愛いもんだな。なんて、ほっこりと眺めていると、アヤメは箸を止めて上目遣いという高度な技術を使用しつつ聞いてきた。
「海、一ついいかしら?」
「なんだ?」
「味噌汁はないの?基本でしょ」
「やっぱ我が侭言うんじゃ~ん」
この結果が見えていたから釘を刺したのに、釘を引っこ抜いてきやがった。釘を引っこ抜いても良いが、頭のネジを締め直せ。
「馬鹿ね、冗談よ」
「そのわりにはしょんぼりしてたよね?」
食欲には素直なんすね。
「まあ、九割はね」
「それは冗談じゃなくて本気って言うんだぞぉ」
理知的な言葉遣いしてるくせに日本語に不自由なのかなぁ?つまり馬鹿なんですよね?
「そうではなくて、その……食べないの?」
どこか気恥ずかしそうに、視線を逸らしながらアヤメは言った。
どうやら俺に気を使うのが恥ずかしいらしい。こういう可愛いところばかりなら俺も無駄にストレスが溜まらず、十円ハゲの心配もないんだけどな。
「俺はいいよ。薫……友達の部屋にあったもんをちょっと摘んだから、あまり食べる気しないんだ」
作ったのも一人分だし、元から食うつもりなんて無い。カロリーメッツは青春の味でした。
「そう、なら良いのだけれど。では、遠慮なく頂くわね」
「おう、食え食え」
少しでも食えば育つだろう。俺の義妹が洗濯板なんて不憫じゃねぇか。せめて栄養がそのささやかな胸にいくように俺は義兄として勤めようじゃないか。
「なぜ涙目になっているの?」
「いや、人情話に弱いんだ俺」
「はあ?」
そうこうしている内に韮玉を完食。普通の鍋でお湯を沸かして俺はコーヒーを、アヤメには緑茶を淹れてやる。薫のお気に入りのマグカップにな。
「ほら」
「苦しゅうないわ。コーヒーを淹れなかった事も褒めて遣わすわ」
そりゃ、ガキにミルクも砂糖もないのにコーヒーは淹れないだろう。薫の部屋から目星い物は粗方持ち出したのだが、あいつが部屋に戻った時、物が無くなった事に憤慨しないように、ちゃんと置手紙を残してきた。ただ一言『ごちです』と。俺の役に立ててあいつも本望に違いない。
「さて、落ち着いたところで、まずは明日の予定を決めるぞ」
「雪合戦、雪だるま、かまくら、スキー、ソリ、スノボ、スキージャンプ」
「誰が冬の遊びを提案しろなんて言った?最後のは是非やってくれ。朝鮮にミサイル代わりに突っ込めば英雄に、ぶねッ!?」
気配も無く、鍋に残っているお湯を俺に掛けてきたので、寸でのところで回避する。ブラックユーモアを解さんとは、俺の義妹とは思えんな。
「余計な一言は縮めるわよ」
「主語がないとか怖いな」
俺よりも薫の血を受け継いでるんじゃないかと疑うな。ええ、あいつもこんな冷酷な奴ですはい。
「ま、まあ冗談はさておき」
「冗談じゃないけど」
「冗談はさておき!明日の事っていうか、もう今日だけど、とりあえすは下の様子を見に行こう。この津波がいつまで続くかはわからないけど、さすがに朝には治まってると思う」
「そうね。最悪治まらなかったら、あなたを人身御供にすれば治まるものね」
天使の笑顔で悪魔の発言。現代の魔女がここにいる。異端審問を復活して、こいつを火刑に処してやりたいわ。
「一々茶々を入れるな、話が進まん」
「ふひひ、さ~せんww」
「お前のキャラが掴めないんだけど!だあ!もういいわ、勝手に話を進めるぞ。まずはどの程度水が残っているのかを確かめて、橋を渡れるようなら、向こうに行って情報を集めよう」
携帯もまともに使えない、メディアの情報も入ってこない。この地震と津波の被害範囲を俺達は何も知る術がない。だから、自分の足で調べて、どこまで浸水していて、どこが安全なのかを確かめ、今後の行動を決めたい。ずっとここにいるわけにもいかないし、何より俺にはやることがある。
次にどうやって俺を困らせようかと思案していそうな馬鹿の顔を見る。
俺の最優先事項。こいつを下衆共の手から救う事。その為には、まずは下衆共を探して話をつけないといけない。これは俺一人だけではどうにも出来ないかもしれないから、母さんの力を頼る事になるかもしれない。ていうか、最終的には母さん任せになるんだけど、あの人ならアヤメを引き受けてくれるはずだ。心配なのは、下衆共がしぶとく生き残ってた場合、母さんがアヤメの事を知って犯罪に走らないかと言うことだが……物置にあった鉈をどこかに捨てよう。雛なんとか沢の出身じゃないよねあの人?
「あとは、なるべくはやりたくないんだが、背に腹はかえられない。壊れた店とかから生活必需品を何点か恵んでもらう」
「出刃包丁とかね」
「お前の殺る気満々なとこ、段々慣れてきたわ」
「護身の為には必要でしょ?」
「スタンガンや催涙スプレーと同列に語るお前が凄いよ」
こういうアホをなんと言うんだろう?ヤンデレじゃねぇし……マーデレ(マーダーデレ)かな?
「そうじゃなくて、その……下着とかをだな……」
恥ずかしくてどもってしまった。ど、童貞じゃないよ?
「……何を想像しているのかしら。私の半径五千キロメートルに近寄らないで、気持ち悪い」
「それ国外追放されてますよね?」
しかも、きもいよりも、気持ち悪いって言われるほうが傷つくんだね。ザクザク心が刻まれたもん。
「とにかく、明日はそんな感じで!もう寝ろ!」
これ以上話をしていると、俺のライフポイントがマイナスに突入してしまいそうだ。
「そうね。じゃあ、寝るからあなたは山を降りてくれるかしら?」
「情け容赦ねぇな!心配しなくてもテメェみたいな絶壁に挑戦しようだなんて、プロのロッククライマーじゃぶやっほうッ!?」
俺の頬すれすれで何かが飛んでいき、それが壁に刺さった。おそるおそる振り返って壁を見ると、そこにはざっくりと見事に斧が突き刺さっていた。
冷や汗が伝い、壊れた玩具のような動きでアヤメへと視線を移すと、笑顔なのに般若にしか見えない化け物が立っていた。
「ねえ、よく聞こえなかったのだけれど……今、なんと言ったのかしら?」
「あ、えっと……」
この小屋にこいつを連れてきたのは最大のミスだった。こいつが舌舐めずりして喜びそうな凶器がかなりありやがる。
「もう一度聞きたいのだけれど、ゆっくり、丁寧に、一語一句間違えずに言ってみてくれる?」
左手にマイナスドライバー、右手にニッパー。戦場なんとかさんどころの話じゃないヒロイン爆誕。
ふっ、だが俺だって目の前の小娘よりも人生経験を積んできた歴戦の猛者だ。こういう断崖絶壁の状況での生き残る術くらい、ちゃんと身に着けている。その絶対零度の目を凝らして見るんだな小娘。俺の勇猛果敢な姿を!
「あなたはあまりに神々しいので、下賎な私などは恐れ多くてとても触れられません。どうぞ、心安らかにお眠り下さい」
これが大人の最終形態『DOGEZA』。子供にはとても真似出来ない渋さが滲み出ているだろ?あ、出てるのは涙だった。
「ふむ……まあ、及第点としましょう。私に手を出さないのであればそこにいることを許してあげるわ」
「有難き幸せ」
「ふふ、その殊勝な態度を忘れない事ね。おやすみなさい」
こうしてサドの申し子は眠りにつき、俺はせっせと皿と中華鍋を洗いに、外の湧き水が流れる場所へと向かうのであった。
汗でじっとりと濡れた手、血走った目、自分が絶対強者だとでも誇示するかのような声。腐臭にも似た匂いのする影が、私へと触れてくる。
その手を私は払えない。いえ、払う行為を諦めたと言うべきね。抵抗すればするだけ、この拷問が長引くだけと教えられたもの。
髪の先から、足の先、心の奥底までも侵食され、もうどこにも綺麗な場所なんて無くなってしまった私の身体。だから、もうどれだけ傷つけられても、どれだけ穢されても、どれだけ汚物に塗れても同じ事。黒はもう二度と白には戻れない。大人が、世の中の事を何も知らなかった子供に戻れないように、私も純粋だった頃には戻れない。
ぬめっとした舌が私の身体を這っていく。最初は瞼、次は口、首筋、耳、鎖骨、胸部、腹部、その先。最初は鳥肌が立ち、叫んで助けを求め、気持ち悪くて堪えきれずに吐いた感触。それも、慣れてしまって今では何も感慨は無い。
ああ、せめてこの両手が縛られていないのであれば、その蛇よりも醜悪な舌をカッターで切り落とすのに。なんて、出来ない事を考えながら天井を見つめ続ける。
少しでも何をされているのか見てしまうと、挫けてしまいそうだった。この人形の呪いが解けて、生きたいと望めなくなってしまう。死にたいと、望んでしまいそうで……それだけは何を持ってしても選びたくない選択肢なのよね。
こんな家畜共に奪われるだけの人生だったなんて、惨めで自分が可哀想じゃない。せめて、自分は可哀想なか弱い女の子なんかじゃないって、プライドを持っていたい。この先を見据えるだけの力が欲しい。
だから、今は耐えるだけ。幾千の拷問と言う名の夜が続こうと、何事にも終わりが来る。終らないものなど無いと私は信じる。
何も反応しない私の頬を影が笑いながら叩いてくる。小さな王国の王様。井の中の蛙。お山の大将。言い方は沢山あるけれど、要は小物。こんな小物に何をされようと私は傷つかない。傷なんて、もう幾重にもつけられて、どれが何時の傷だったかなんて見分けもつかないでしょうし。
『会いたくて恋しくて離れて~』
カーテンの向こうから音程の外れた、吞気な歌声が聴こえる。歌声が聴こえていないのか、影は一心不乱に私を犯す事に集中している。
『こっちを向いて好きだと言って~』
……何かしら?こう、沸々と何かが込み上げて爆発しそう。この歌声はなぜこんにも私の琴線に触れてくるのだろう、悪い意味で。不快指数が上がって思わず私は叫んでいた。
「うるっさいッ!!」
「うおッ!?」
目を覚ますと、私の横で湿ったタオルを持って歌を歌う馬鹿が一人。
辺りを見回すと、見慣れない木造の壁と、そこかしこにソリや工具が置かれていた。
ぼ~っとする額を手で押さえて、そういえばここはあの拷問部屋ではなかったと息をつく。
私の一喝に狼狽している海を睨む。
「何をしていたの?」
寝ている私に近づくなと言う意味合いの事は伝えていたはず。なのに傍にいるというのはどういう事か?何か良からぬ事をしようとしていたのでは?と疑いの視線を向ける。
「な、何って、わからんか?」
「わからないから聞いているのよ。何をしていたの?」
「あのな、お前が急に魘(うな)されて、なんか汗も掻いてたし、もしかしたら悪夢でも見てるんじゃないかと思って、こうなったら俺が癒してやろうと子守唄を歌っていたんだよ」
歌?そういえば何か怪音波が聴こえていたような気がしたけれど、そうなの。こいつの所為だったのね。
「そう。じゃあ、今後一切子守唄を歌わないで。あなたの歌は凶器よ」
「俺はジャイ○ンかよ。そこまで音痴じゃないつもりだったんだが……」
誰も彼に指摘しなかったのだろうか?だとしたら、彼の周りは優しい温厚な人間しかいなかったのだろう。
「カラオケとか音楽の授業でも、みんな俺が歌うと感動したように放心してたのに」
凶器より質の悪い戦略兵器だったらしい。指摘する気力ごと殺されたのね。
「今何時かしら?」
「まだ四時だよ」
四時?私が眠ってからそこまで時間は経っていないのね……と、そこまで考えてふと気づいた事があった。
「あなたは?」
「ん?」
「あなたは眠らないの?」
そう、海が寝ていない事が私には不思議でならなかった。明らかに私よりも動き回っていたのに、彼は全く眠そうにしていない。
「あ~……俺は今日は眠れないから起きてるよ」
「眠れない?」
「ほら、津波の地鳴りが気になって、な」
確かに山の中でも地鳴りはするけれども、ここにいれば心配は無いわけだし、何より、身体が疲れていたら地鳴りを気にするよりも睡眠を優先すると思うのだけれど。
「いいからお前は寝てろよ」
なんだか無理矢理話を終わらせられた気がするのだけれど、中途半端に寝た所為で私の身体はまだ睡眠を欲していた。納得は出来なかったけれど、海の言うように横になって目を瞑る。すると、すぐにまた眠気が襲ってきた。
海の事は気になるけれど、今日は色んな事があって疲れていたからか、今は少しでも寝たかった。
「おやすみ」
彼の穏やかな声に頷き、そのまま意識を手放そうとした。しかし、私の顔の上に翳された気配に、自然と手が動いていた。
目の前にあった海の手。それに濡れたタオル。それを私は強く叩いて落としたのだ。
私の態度に彼は戸惑い、私は何も悪くない彼を糾弾する。
「私に、触らないで」
「あ、え……いや、俺はお前の汗を拭おうとだな……」
わかっている。海がアレ等と同じ家畜じゃない事くらい。だから、これは私が悪い。
「そ、れが……」
わかっている。海が私を心配して、彼らしい優しさで触れようとした事くらい。
それでも、私は……
「それが余計なお世話なのよッ!!」
こんな理屈の通らない、過去を振り払えていない態度を取るしか出来ない。拭いたくても、家畜の臭いと色が染み付いてしまった身体と心。もう、私にはどうする事も出来ない。
「あなたに私が望むのは二つだけよッ。私に触れない事ッ。干渉しない事ッ。この二つだけなの!」
だからこれは八つ当たり。子供の癇癪と変わらない、出来ない自分に苛立ち、他人にぶつける醜い行為。
自分で自分が嫌になる。彼の優しさを信じられない自分と、私をこんな風にしたあいつ等が私は許せない。
「良い?わかったなら二度と私に触れようとしないで。それが出来ないのなら、どこへでも好きに行くといいわ」
こんなこと言いたいわけじゃない。でも、彼の優しさにありがとうなんて言える可愛い女の子にもなれない。
ああ、これで終わりね。私だったら、とっくにこんな面倒な私を見捨てている。それが賢い選択だもの。
彼から目を背ける。彼がどんな顔をしているか、目にするのが怖かった。傷つけたのは間違いないもの。彼の傷ついた顔なんて目にしたら、私は今度こそ自分を徹底的に嫌いになりそうで、横になって目を閉じる。せめて自分だけは自分を好きでいたいから。
そんな私に彼は……
「ごめん、な」
怒るでもなく、黙って出て行くでもなく、本当にすまなそうに謝罪した。
「うん、確かに俺が無神経だったわ。そうだよな、会ったばかりの男に触られたらそりゃ嫌だよな。ごめん」
な、んで?あなたは何も悪くないじゃない。悪いのは、あなたの優しさを信じられない私。ここまで助けて貰ったのに、何も返せないどころか、仇で返している私が悪いのに。
「でもさ、俺ってお節介だから、お前が辛そうだったら、また何度も同じ事すると思う」
何を言わせているの私は?なんで謝らせているの?こんな事言わせたいわけじゃないのに。
それなのに、彼はどうしてこんなにも……
「良いよ。お前が嫌だって思ったら、何でも言えよ。俺、何言われたって平気だから」
背を向けて目を瞑る私の額を、少し温く湿ったタオルが撫でていく。まるで、彼の心の温度のように、そのタオルはあったかくて、目にタオルの熱が移ったかのように熱くなっていく。
「何言われても、何されても、どれだけ拒絶されても、俺はお前に何度も何度もお節介焼くから。だから、さ。安心して俺を拒絶しろよ。俺はどうせ何やられてもへこたれないから、どんな事だって受け止めてやるから」
「――ッ」
堪えて堪えて、それでも塞き止められず、ダムが決壊したかのように、それは止め処なく溢れ出てくる。
心の奥底に沈めて、薄れていたその感情が、海の温もりに触れてどんどん溢れる。
「だから、子供は子供らしくしてろよ。我慢しないで、我が侭言って良いんだ。お前はまだ子供なんだからさ」
この感情はなんと言っただろう?どう心に収納すればいいのだろう?
せめて海に悟られないよう、私は埃っぽい床を少しずつ濡らしていく。まるで、海の温もりが私の汚れた身体を潤していくように。
黒は白にはなれない。だけど、もしかしたら別な色になることが出来るかもしれない。
「また子守唄歌ってやろうか?」
「……ミュートでなら、ね」
彼といれば、私は変われるのかもしれない。そんな夢を見てしまいそうで怖くて……でも、それも悪くないかなと思う。
海の手がゆっくりと、労わるように私の頭を撫でる。嫌悪しか抱かなかった男性の手なのに、海の手はそんな私の心を解す魔法の手のよう。海に撫でられ、心地良い波の中、私は眠りにつく。この手に撫でられている今なら、きっと悪夢は見ないだろう。この手に守られている今だけは、能天気な馬鹿の夢を見られるのでしょう。
そうして、海は私が眠りにつくまでずっと私の頭を撫でていてくれた。
「やっぱ、すぐには無理だよな」
こいつの人間性をこんなにも歪ませたのは間違いなくあの下衆共だろう。人の厚意を信じられず、男に拒否反応を強く示す。当たり前だ。あいつ等がやりそうな事を想像すると、今まで生きてきた事すら尊敬に値する。
ちらっと手首を何度か確かめたが、リストカットをした傷跡もない。強い子だ。痛みに縋らず、自分のプライドだけを縁(よすが)に耐えてきたのだろう。彼女の受けてきた痛みを想うと、怒りで頭が沸騰しそうだ。
こんなにも強い子なのに、その心の奥底は雪が降り続け、雪解けなんて出来なくなってしまっている。その証拠が、さっきのアヤメの態度だ。俺の手が触れそうになっただけで、あんなに怯えた表情を見せた。積もりに積もって、自分じゃどうにも出来ないのだろう。だからこそ、俺がその雪を溶かすしかない。
さっきとは打って変わって、穏やかな寝息を立てるアヤメの髪を俺は撫で続ける。
この子の中に降り積もった雪は俺の責任でもある。だから、こいつにどんな暴言を吐かれても俺は受け止める。俺への罰はそんなもんじゃ償えやしない。
「どうすっかなぁ~」
このままあいつ等の元家族です、なんてカミングアウトなんて出来ないし、でもいつかは話さないといけない。その時、こいつは俺を恨むだろうか?恨むだけなら良い……それ以上にきついのは、こいつが裏切られたと傷つき、悲観に暮れる事だ。なるべくそうならないよう、義妹にお兄ちゃんとして認めてもらえるよう、精一杯頑張るけどさ。
「とりあえずはアレを用意しますか」
そうすりゃ、こいつも喜ぶに違いない。捻くれた喜び方をするアヤメを想像し、頬が緩む。
「ま、もう少しこの可愛い寝顔を堪能してからな」
アヤメの髪を撫でながら、義妹って、家族って良いよなと、守るべき存在が出来て嬉しくなった。まだ、俺には守るべき人がいる。だからお願いです。
「もう少しだけ――ださい」
差し出された料理を見て、アヤメは感嘆の息を漏らした。
「あなた、料理が出来たのね」
「そりゃ、一人暮らししてれば自然と身に付く」
俺の場合はガキの頃からだけど、大抵はそうだろう。コンビニや外食はどうしても高くつくから、必要に迫られてみんな覚えるんだ。俺はガキの頃からやっていたから、その苦労はなかったけどな。
「米は無いが、少しでも食っとけよ。米はしばらく食えないだろうから、我が侭は言うなよ」
物流がいつ復旧するかわからない今、食事が出来るだけでも御の字なんだ。薫が変な奴で本当に良かった。これは推測だが、あいつはよく愚痴を溢していた事がある。曰く、下は魔窟だ。便所こおろぎ、ムカデ、G、エトセトラエトセトラのパラダイスだと。だから、薫は下に調理器具等を一切置いてなかったんじゃないだろうか。それ以外考えられん。
「わかってるわ。そんな我が侭を言うほど子供だとでも?」
子供だろうが。ちょっとからかっただけで、俺の命が奪われそうだったもんよ。扉の前で眠気に襲われた時、どれだけ俺が「もうゴールしても良いよね?」つって目を閉じそうになった事か。
ふわふわの出来立ての韮玉を一口食べると、アヤメは一言。
「空腹は最高のスパイスよね」
「餓え死ね」
ひょいと鍋をアヤメの前から下げる。
「大人気ないわね」
「どっちがだ。素直に旨いと言えば食わせてやる」
「……そうね。卵のふんわりとした食感は正に韮を包む優しい羽毛のようで、とろけるような半熟加減は甘美に」
「もう良いわ。好きに食え」
こいつの捻くれた性格に何を期待しているのか。無駄な労力を使い、溜息を一つ。
「ふん、最初から素直に差し出せば良いのよ」
食中毒になってしまえ。
「あら?何か邪念を感じたわ」
「サトリかお前は」
可愛げをどこに捨ててきたんでしょうねこの子は。前世にでも廃棄してきたんすねきっと。
まあ、なんだかんだ言いつつ箸を止めないで食べてくれるのは作った側としては嬉しいんだけどな。憎まれ口が一流な口だが、食べている時は可愛いもんだな。なんて、ほっこりと眺めていると、アヤメは箸を止めて上目遣いという高度な技術を使用しつつ聞いてきた。
「海、一ついいかしら?」
「なんだ?」
「味噌汁はないの?基本でしょ」
「やっぱ我が侭言うんじゃ~ん」
この結果が見えていたから釘を刺したのに、釘を引っこ抜いてきやがった。釘を引っこ抜いても良いが、頭のネジを締め直せ。
「馬鹿ね、冗談よ」
「そのわりにはしょんぼりしてたよね?」
食欲には素直なんすね。
「まあ、九割はね」
「それは冗談じゃなくて本気って言うんだぞぉ」
理知的な言葉遣いしてるくせに日本語に不自由なのかなぁ?つまり馬鹿なんですよね?
「そうではなくて、その……食べないの?」
どこか気恥ずかしそうに、視線を逸らしながらアヤメは言った。
どうやら俺に気を使うのが恥ずかしいらしい。こういう可愛いところばかりなら俺も無駄にストレスが溜まらず、十円ハゲの心配もないんだけどな。
「俺はいいよ。薫……友達の部屋にあったもんをちょっと摘んだから、あまり食べる気しないんだ」
作ったのも一人分だし、元から食うつもりなんて無い。カロリーメッツは青春の味でした。
「そう、なら良いのだけれど。では、遠慮なく頂くわね」
「おう、食え食え」
少しでも食えば育つだろう。俺の義妹が洗濯板なんて不憫じゃねぇか。せめて栄養がそのささやかな胸にいくように俺は義兄として勤めようじゃないか。
「なぜ涙目になっているの?」
「いや、人情話に弱いんだ俺」
「はあ?」
そうこうしている内に韮玉を完食。普通の鍋でお湯を沸かして俺はコーヒーを、アヤメには緑茶を淹れてやる。薫のお気に入りのマグカップにな。
「ほら」
「苦しゅうないわ。コーヒーを淹れなかった事も褒めて遣わすわ」
そりゃ、ガキにミルクも砂糖もないのにコーヒーは淹れないだろう。薫の部屋から目星い物は粗方持ち出したのだが、あいつが部屋に戻った時、物が無くなった事に憤慨しないように、ちゃんと置手紙を残してきた。ただ一言『ごちです』と。俺の役に立ててあいつも本望に違いない。
「さて、落ち着いたところで、まずは明日の予定を決めるぞ」
「雪合戦、雪だるま、かまくら、スキー、ソリ、スノボ、スキージャンプ」
「誰が冬の遊びを提案しろなんて言った?最後のは是非やってくれ。朝鮮にミサイル代わりに突っ込めば英雄に、ぶねッ!?」
気配も無く、鍋に残っているお湯を俺に掛けてきたので、寸でのところで回避する。ブラックユーモアを解さんとは、俺の義妹とは思えんな。
「余計な一言は縮めるわよ」
「主語がないとか怖いな」
俺よりも薫の血を受け継いでるんじゃないかと疑うな。ええ、あいつもこんな冷酷な奴ですはい。
「ま、まあ冗談はさておき」
「冗談じゃないけど」
「冗談はさておき!明日の事っていうか、もう今日だけど、とりあえすは下の様子を見に行こう。この津波がいつまで続くかはわからないけど、さすがに朝には治まってると思う」
「そうね。最悪治まらなかったら、あなたを人身御供にすれば治まるものね」
天使の笑顔で悪魔の発言。現代の魔女がここにいる。異端審問を復活して、こいつを火刑に処してやりたいわ。
「一々茶々を入れるな、話が進まん」
「ふひひ、さ~せんww」
「お前のキャラが掴めないんだけど!だあ!もういいわ、勝手に話を進めるぞ。まずはどの程度水が残っているのかを確かめて、橋を渡れるようなら、向こうに行って情報を集めよう」
携帯もまともに使えない、メディアの情報も入ってこない。この地震と津波の被害範囲を俺達は何も知る術がない。だから、自分の足で調べて、どこまで浸水していて、どこが安全なのかを確かめ、今後の行動を決めたい。ずっとここにいるわけにもいかないし、何より俺にはやることがある。
次にどうやって俺を困らせようかと思案していそうな馬鹿の顔を見る。
俺の最優先事項。こいつを下衆共の手から救う事。その為には、まずは下衆共を探して話をつけないといけない。これは俺一人だけではどうにも出来ないかもしれないから、母さんの力を頼る事になるかもしれない。ていうか、最終的には母さん任せになるんだけど、あの人ならアヤメを引き受けてくれるはずだ。心配なのは、下衆共がしぶとく生き残ってた場合、母さんがアヤメの事を知って犯罪に走らないかと言うことだが……物置にあった鉈をどこかに捨てよう。雛なんとか沢の出身じゃないよねあの人?
「あとは、なるべくはやりたくないんだが、背に腹はかえられない。壊れた店とかから生活必需品を何点か恵んでもらう」
「出刃包丁とかね」
「お前の殺る気満々なとこ、段々慣れてきたわ」
「護身の為には必要でしょ?」
「スタンガンや催涙スプレーと同列に語るお前が凄いよ」
こういうアホをなんと言うんだろう?ヤンデレじゃねぇし……マーデレ(マーダーデレ)かな?
「そうじゃなくて、その……下着とかをだな……」
恥ずかしくてどもってしまった。ど、童貞じゃないよ?
「……何を想像しているのかしら。私の半径五千キロメートルに近寄らないで、気持ち悪い」
「それ国外追放されてますよね?」
しかも、きもいよりも、気持ち悪いって言われるほうが傷つくんだね。ザクザク心が刻まれたもん。
「とにかく、明日はそんな感じで!もう寝ろ!」
これ以上話をしていると、俺のライフポイントがマイナスに突入してしまいそうだ。
「そうね。じゃあ、寝るからあなたは山を降りてくれるかしら?」
「情け容赦ねぇな!心配しなくてもテメェみたいな絶壁に挑戦しようだなんて、プロのロッククライマーじゃぶやっほうッ!?」
俺の頬すれすれで何かが飛んでいき、それが壁に刺さった。おそるおそる振り返って壁を見ると、そこにはざっくりと見事に斧が突き刺さっていた。
冷や汗が伝い、壊れた玩具のような動きでアヤメへと視線を移すと、笑顔なのに般若にしか見えない化け物が立っていた。
「ねえ、よく聞こえなかったのだけれど……今、なんと言ったのかしら?」
「あ、えっと……」
この小屋にこいつを連れてきたのは最大のミスだった。こいつが舌舐めずりして喜びそうな凶器がかなりありやがる。
「もう一度聞きたいのだけれど、ゆっくり、丁寧に、一語一句間違えずに言ってみてくれる?」
左手にマイナスドライバー、右手にニッパー。戦場なんとかさんどころの話じゃないヒロイン爆誕。
ふっ、だが俺だって目の前の小娘よりも人生経験を積んできた歴戦の猛者だ。こういう断崖絶壁の状況での生き残る術くらい、ちゃんと身に着けている。その絶対零度の目を凝らして見るんだな小娘。俺の勇猛果敢な姿を!
「あなたはあまりに神々しいので、下賎な私などは恐れ多くてとても触れられません。どうぞ、心安らかにお眠り下さい」
これが大人の最終形態『DOGEZA』。子供にはとても真似出来ない渋さが滲み出ているだろ?あ、出てるのは涙だった。
「ふむ……まあ、及第点としましょう。私に手を出さないのであればそこにいることを許してあげるわ」
「有難き幸せ」
「ふふ、その殊勝な態度を忘れない事ね。おやすみなさい」
こうしてサドの申し子は眠りにつき、俺はせっせと皿と中華鍋を洗いに、外の湧き水が流れる場所へと向かうのであった。
汗でじっとりと濡れた手、血走った目、自分が絶対強者だとでも誇示するかのような声。腐臭にも似た匂いのする影が、私へと触れてくる。
その手を私は払えない。いえ、払う行為を諦めたと言うべきね。抵抗すればするだけ、この拷問が長引くだけと教えられたもの。
髪の先から、足の先、心の奥底までも侵食され、もうどこにも綺麗な場所なんて無くなってしまった私の身体。だから、もうどれだけ傷つけられても、どれだけ穢されても、どれだけ汚物に塗れても同じ事。黒はもう二度と白には戻れない。大人が、世の中の事を何も知らなかった子供に戻れないように、私も純粋だった頃には戻れない。
ぬめっとした舌が私の身体を這っていく。最初は瞼、次は口、首筋、耳、鎖骨、胸部、腹部、その先。最初は鳥肌が立ち、叫んで助けを求め、気持ち悪くて堪えきれずに吐いた感触。それも、慣れてしまって今では何も感慨は無い。
ああ、せめてこの両手が縛られていないのであれば、その蛇よりも醜悪な舌をカッターで切り落とすのに。なんて、出来ない事を考えながら天井を見つめ続ける。
少しでも何をされているのか見てしまうと、挫けてしまいそうだった。この人形の呪いが解けて、生きたいと望めなくなってしまう。死にたいと、望んでしまいそうで……それだけは何を持ってしても選びたくない選択肢なのよね。
こんな家畜共に奪われるだけの人生だったなんて、惨めで自分が可哀想じゃない。せめて、自分は可哀想なか弱い女の子なんかじゃないって、プライドを持っていたい。この先を見据えるだけの力が欲しい。
だから、今は耐えるだけ。幾千の拷問と言う名の夜が続こうと、何事にも終わりが来る。終らないものなど無いと私は信じる。
何も反応しない私の頬を影が笑いながら叩いてくる。小さな王国の王様。井の中の蛙。お山の大将。言い方は沢山あるけれど、要は小物。こんな小物に何をされようと私は傷つかない。傷なんて、もう幾重にもつけられて、どれが何時の傷だったかなんて見分けもつかないでしょうし。
『会いたくて恋しくて離れて~』
カーテンの向こうから音程の外れた、吞気な歌声が聴こえる。歌声が聴こえていないのか、影は一心不乱に私を犯す事に集中している。
『こっちを向いて好きだと言って~』
……何かしら?こう、沸々と何かが込み上げて爆発しそう。この歌声はなぜこんにも私の琴線に触れてくるのだろう、悪い意味で。不快指数が上がって思わず私は叫んでいた。
「うるっさいッ!!」
「うおッ!?」
目を覚ますと、私の横で湿ったタオルを持って歌を歌う馬鹿が一人。
辺りを見回すと、見慣れない木造の壁と、そこかしこにソリや工具が置かれていた。
ぼ~っとする額を手で押さえて、そういえばここはあの拷問部屋ではなかったと息をつく。
私の一喝に狼狽している海を睨む。
「何をしていたの?」
寝ている私に近づくなと言う意味合いの事は伝えていたはず。なのに傍にいるというのはどういう事か?何か良からぬ事をしようとしていたのでは?と疑いの視線を向ける。
「な、何って、わからんか?」
「わからないから聞いているのよ。何をしていたの?」
「あのな、お前が急に魘(うな)されて、なんか汗も掻いてたし、もしかしたら悪夢でも見てるんじゃないかと思って、こうなったら俺が癒してやろうと子守唄を歌っていたんだよ」
歌?そういえば何か怪音波が聴こえていたような気がしたけれど、そうなの。こいつの所為だったのね。
「そう。じゃあ、今後一切子守唄を歌わないで。あなたの歌は凶器よ」
「俺はジャイ○ンかよ。そこまで音痴じゃないつもりだったんだが……」
誰も彼に指摘しなかったのだろうか?だとしたら、彼の周りは優しい温厚な人間しかいなかったのだろう。
「カラオケとか音楽の授業でも、みんな俺が歌うと感動したように放心してたのに」
凶器より質の悪い戦略兵器だったらしい。指摘する気力ごと殺されたのね。
「今何時かしら?」
「まだ四時だよ」
四時?私が眠ってからそこまで時間は経っていないのね……と、そこまで考えてふと気づいた事があった。
「あなたは?」
「ん?」
「あなたは眠らないの?」
そう、海が寝ていない事が私には不思議でならなかった。明らかに私よりも動き回っていたのに、彼は全く眠そうにしていない。
「あ~……俺は今日は眠れないから起きてるよ」
「眠れない?」
「ほら、津波の地鳴りが気になって、な」
確かに山の中でも地鳴りはするけれども、ここにいれば心配は無いわけだし、何より、身体が疲れていたら地鳴りを気にするよりも睡眠を優先すると思うのだけれど。
「いいからお前は寝てろよ」
なんだか無理矢理話を終わらせられた気がするのだけれど、中途半端に寝た所為で私の身体はまだ睡眠を欲していた。納得は出来なかったけれど、海の言うように横になって目を瞑る。すると、すぐにまた眠気が襲ってきた。
海の事は気になるけれど、今日は色んな事があって疲れていたからか、今は少しでも寝たかった。
「おやすみ」
彼の穏やかな声に頷き、そのまま意識を手放そうとした。しかし、私の顔の上に翳された気配に、自然と手が動いていた。
目の前にあった海の手。それに濡れたタオル。それを私は強く叩いて落としたのだ。
私の態度に彼は戸惑い、私は何も悪くない彼を糾弾する。
「私に、触らないで」
「あ、え……いや、俺はお前の汗を拭おうとだな……」
わかっている。海がアレ等と同じ家畜じゃない事くらい。だから、これは私が悪い。
「そ、れが……」
わかっている。海が私を心配して、彼らしい優しさで触れようとした事くらい。
それでも、私は……
「それが余計なお世話なのよッ!!」
こんな理屈の通らない、過去を振り払えていない態度を取るしか出来ない。拭いたくても、家畜の臭いと色が染み付いてしまった身体と心。もう、私にはどうする事も出来ない。
「あなたに私が望むのは二つだけよッ。私に触れない事ッ。干渉しない事ッ。この二つだけなの!」
だからこれは八つ当たり。子供の癇癪と変わらない、出来ない自分に苛立ち、他人にぶつける醜い行為。
自分で自分が嫌になる。彼の優しさを信じられない自分と、私をこんな風にしたあいつ等が私は許せない。
「良い?わかったなら二度と私に触れようとしないで。それが出来ないのなら、どこへでも好きに行くといいわ」
こんなこと言いたいわけじゃない。でも、彼の優しさにありがとうなんて言える可愛い女の子にもなれない。
ああ、これで終わりね。私だったら、とっくにこんな面倒な私を見捨てている。それが賢い選択だもの。
彼から目を背ける。彼がどんな顔をしているか、目にするのが怖かった。傷つけたのは間違いないもの。彼の傷ついた顔なんて目にしたら、私は今度こそ自分を徹底的に嫌いになりそうで、横になって目を閉じる。せめて自分だけは自分を好きでいたいから。
そんな私に彼は……
「ごめん、な」
怒るでもなく、黙って出て行くでもなく、本当にすまなそうに謝罪した。
「うん、確かに俺が無神経だったわ。そうだよな、会ったばかりの男に触られたらそりゃ嫌だよな。ごめん」
な、んで?あなたは何も悪くないじゃない。悪いのは、あなたの優しさを信じられない私。ここまで助けて貰ったのに、何も返せないどころか、仇で返している私が悪いのに。
「でもさ、俺ってお節介だから、お前が辛そうだったら、また何度も同じ事すると思う」
何を言わせているの私は?なんで謝らせているの?こんな事言わせたいわけじゃないのに。
それなのに、彼はどうしてこんなにも……
「良いよ。お前が嫌だって思ったら、何でも言えよ。俺、何言われたって平気だから」
背を向けて目を瞑る私の額を、少し温く湿ったタオルが撫でていく。まるで、彼の心の温度のように、そのタオルはあったかくて、目にタオルの熱が移ったかのように熱くなっていく。
「何言われても、何されても、どれだけ拒絶されても、俺はお前に何度も何度もお節介焼くから。だから、さ。安心して俺を拒絶しろよ。俺はどうせ何やられてもへこたれないから、どんな事だって受け止めてやるから」
「――ッ」
堪えて堪えて、それでも塞き止められず、ダムが決壊したかのように、それは止め処なく溢れ出てくる。
心の奥底に沈めて、薄れていたその感情が、海の温もりに触れてどんどん溢れる。
「だから、子供は子供らしくしてろよ。我慢しないで、我が侭言って良いんだ。お前はまだ子供なんだからさ」
この感情はなんと言っただろう?どう心に収納すればいいのだろう?
せめて海に悟られないよう、私は埃っぽい床を少しずつ濡らしていく。まるで、海の温もりが私の汚れた身体を潤していくように。
黒は白にはなれない。だけど、もしかしたら別な色になることが出来るかもしれない。
「また子守唄歌ってやろうか?」
「……ミュートでなら、ね」
彼といれば、私は変われるのかもしれない。そんな夢を見てしまいそうで怖くて……でも、それも悪くないかなと思う。
海の手がゆっくりと、労わるように私の頭を撫でる。嫌悪しか抱かなかった男性の手なのに、海の手はそんな私の心を解す魔法の手のよう。海に撫でられ、心地良い波の中、私は眠りにつく。この手に撫でられている今なら、きっと悪夢は見ないだろう。この手に守られている今だけは、能天気な馬鹿の夢を見られるのでしょう。
そうして、海は私が眠りにつくまでずっと私の頭を撫でていてくれた。
「やっぱ、すぐには無理だよな」
こいつの人間性をこんなにも歪ませたのは間違いなくあの下衆共だろう。人の厚意を信じられず、男に拒否反応を強く示す。当たり前だ。あいつ等がやりそうな事を想像すると、今まで生きてきた事すら尊敬に値する。
ちらっと手首を何度か確かめたが、リストカットをした傷跡もない。強い子だ。痛みに縋らず、自分のプライドだけを縁(よすが)に耐えてきたのだろう。彼女の受けてきた痛みを想うと、怒りで頭が沸騰しそうだ。
こんなにも強い子なのに、その心の奥底は雪が降り続け、雪解けなんて出来なくなってしまっている。その証拠が、さっきのアヤメの態度だ。俺の手が触れそうになっただけで、あんなに怯えた表情を見せた。積もりに積もって、自分じゃどうにも出来ないのだろう。だからこそ、俺がその雪を溶かすしかない。
さっきとは打って変わって、穏やかな寝息を立てるアヤメの髪を俺は撫で続ける。
この子の中に降り積もった雪は俺の責任でもある。だから、こいつにどんな暴言を吐かれても俺は受け止める。俺への罰はそんなもんじゃ償えやしない。
「どうすっかなぁ~」
このままあいつ等の元家族です、なんてカミングアウトなんて出来ないし、でもいつかは話さないといけない。その時、こいつは俺を恨むだろうか?恨むだけなら良い……それ以上にきついのは、こいつが裏切られたと傷つき、悲観に暮れる事だ。なるべくそうならないよう、義妹にお兄ちゃんとして認めてもらえるよう、精一杯頑張るけどさ。
「とりあえずはアレを用意しますか」
そうすりゃ、こいつも喜ぶに違いない。捻くれた喜び方をするアヤメを想像し、頬が緩む。
「ま、もう少しこの可愛い寝顔を堪能してからな」
アヤメの髪を撫でながら、義妹って、家族って良いよなと、守るべき存在が出来て嬉しくなった。まだ、俺には守るべき人がいる。だからお願いです。
「もう少しだけ――ださい」
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