起きるから奇跡って言葉があるのよ!

仇花

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一日目~安息~ 其の一

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 アヤメを小屋に待たせたのは正解だったかもしれない。
 山を降り、すぐ傍の住宅街を誰かの家の屋根から眺め、俺は路地から目を背けそうになる心をなんとか奮い立たせて、その悍(おぞ)ましい光景を一コマも漏らすまいと目を凝らす。
 丁度津波が治まりつつあるのか、津波の予兆である地鳴りは鳴りを潜め、徐々に水も引き始めていて……だから、浅い水底のソレが強烈に脳を揺さぶった。
 あちこち折れ曲がった腕と脚は間違いなく人間の身体で、ピクリとも動かずに仰向けで夜空を見上げている。
 今が夜で良かった。この暗さではその表情までは確認出来ない。
 彼、もしくは彼女の表情はどんなだろうか……想像しそうになり、頭を振って思考を中断する。
 想像しても仕方ない。なぜなら、苦悶以外の表情が浮かばないのだから。
 視線を下から上に向け、近くにある友人の借家を目指す。
 借家と言うか古い長屋で、二階建ての木造建築。トイレは水洗じゃなくて今時ぼっとんのボロ家だ。この津波で倒壊していないか心配だが……
「さすが、あいつの住処だけある」
 奥まった場所にある為か、周りの家に津波が遮られて、辛うじて長屋は生き残っていた。ただ、ピサの斜塔のように傾いていて、もう誰かが住む事は出来ないだろう。
 低い二階建てで、他の住宅の屋根と塀を伝っていけば楽に二階に侵入出来る。まあ、あいつが窓の鍵を掛けない稀有な性格のおかげでもある。
 中に入ると、狭い部屋の中は箪笥が倒れ、押入れの襖も外れて倒れてしまっている。だが、水で濡れてはいない。一階は絶望的だろうが、なんとか二階は無事だった。
 物が散乱している部屋を土足で踏み歩く。この部屋の主、鷹野薫(たかのかおる)は俺の小学生時代からの友人で、今は飲み屋で休みもあまりなく働いている。最後に薫と会ったのはいつだったっけな。
「相変わらず汚い部屋だな」
 地震の所為だけじゃないだろ、このペットボトルの山は。あいつはコレクションだって言い張っていたが、ただ物臭なだけのこと。捨てに行くのが面倒らしい。
 ちなみに、俺はあいつの心配なんてこれっぽっちもしていない。十年来の親友だというのにそれは酷いのでは?なんて他人は思うだろうが、それは違う。あいつがこういう災害で死ぬ事は早々無いと確信しているからだ。その根拠も一応ある。
 あれは小学校五年の時の事だ。俺の通っていた小学校には狂った伝統があって、小学校五年の初夏に、花山合宿なるものを催す。花山ってのは、宮城の北側にある山で、合宿で使われる事が多々あるらしい。そこで、二泊三日のキャンプをして自然と触れ合おうみたいな企画なわけだが……正直、今思うとトチ狂っているとしか言えない。なぜなら、その花山なのだが、山中の樹の枝には何かを吊ったであろう千切れたロープがちらほらあり、撮った写真の三割は心霊写真となる、心霊現象のバーゲンセールをやっている山なのだ。そんな山に子供を引き連れて行くなんて、イカれてやがる。
 さてさて、そんな大学生がこぞって心霊実況しそうな山の中、恒例のキャンプファイヤーを終え、これまた恒例の肝試しの時の事だ。班毎に指定の場所に来るようにと指示をされ、女子三人、男子三人でそこを目指した。女子二人が二つの懐中電灯を持ち、二人に寄り添うようにもう一人の女子が固まって歩き、俺達はそんな三人の後ろをふざけながら歩いた。まあ、薫は一歩引いて歩いてたんだけど。薫は集団行動を嫌うどころか、人間自体をあまり好きじゃない節があり、クラスでも浮いた存在だった。唯一あいつと仲が良いのが俺なわけだが、なんで俺が近づく事を許していたのかは今もわからない。そうして、薫以外の五人で和気藹々と進んでいると、少し先に仄かな光が見えた。暗闇の中光るソレがなんだったのか……蛍だとは思うが、そこは謎のままにしておくのがロマンというものだろう。光はふらふらとゆったり動き、脇道へと入っていった。ソレをロマンチックに夢を見る女子が、ちょっと行ってみようよと後を追い、俺達も冒険心旺盛なので付いて行く事にした。後ろで溜息が聞こえたが、それを無視して。光を追って行くと、いつの間にか周りは木々ばかりの見覚えの無い場所に出てしまった。追ってきた光すらも、どこにも見当たらず、とりあえず戻ろうという話になったのだが、夜の山中の恐ろしさを俺達はわかっていなかった。どこを見渡しても木々ばかりで、尚且つ、枝から吊るされたままのロープが、俺達の心を否応無く恐怖のどん底へと落としていく。その内、一人の女子が泣き始め、更には誰が言い出したのが悪い、言えばよかったじゃん等と言い合いが始まる始末。このまま遭難して、遠くで待つ家族に二度と会えないんじゃないかと、みんなが泣き出しそうになったその時だ。「ピーピー喚くなうぜぇ。懐中電灯寄越せ」と言って、女子から懐中電灯を奪い、薫は振り返りもせずに歩いていき、俺達も自然と薫の後を追った。誰かが、薫に本当にこっちで合ってるのか?なんて聞いたら、あいつは平然と「知るわけねぇだろうが。こういう時は登るのが正解じゃね?考えてもみろよ、上にさえ行けば後は下るだけだ。そっちのが安全だろうが馬鹿共」なんて乱暴に言い放ち、すたすたと登って行った。後に解った事だが、実は薫の行動は正解だった。遭難した場合、頂上に向かって進むのが一番助かる確率が高いらしい。確かに、上からならどう下れば良いのかわかるし、道もわかる。しかも驚くべき事に、薫はこのセオリーをまったく知らずに登る事を選択したのだ。つまり、薫は本能で危機回避が出来る天才ということ。こうして、俺達は先生に怒られつつも、無事に山を降りることが出来た。
 という経験から、薫は生きている確率が高い。見た目は女子のように可愛らしいベビーフェイスで、身長も低くほっそりしているのに、その実誰よりも崖っぷちに強い頼れる奴なんだ。
 なんてあいつの回想をしつつ、俺は部屋に設置してある冷蔵庫から食料品と飲料水を、あいつの旅行鞄に詰め、毛布や衣服も持てるだけ持っていくことに。今後あいつに会った時に謝ろう。他人に厳しく自分に優しい奴だけど、極限状態の今なら許してくれるに違いない。
「さてと、早く戻るとしますか」
 小屋に一人で置いてきたのも心配だが、それ以上に嫌に心臓が鳴っている気がする。
 外に目を向けると、人の気配のしない住宅街が映る。地鳴りのしない今、世界に俺一人しかいないかのような錯覚を受ける。だのに……
「なんなんだよ」
 早く戻れと、身体中が警鐘を鳴らして仕方ない。



 海の予感は奇しくも的中していた。
 津波は夜に一度治まった……かの様に見えたが、その後すぐにまた津波が人を襲い始める。
 誰かが、今の内に助けを呼んでくると外に出た。それを止める悲痛な叫びが街に響く。行くなッ!!まだ終わってないッ!!だが、その叫び虚しく、他者を助けようとした優しい誰かは、無情にその命を落とす事になった。
 それが、この津波が齎(もたら)した、見せ掛けの希望だった。



 真っ暗な部屋、寒々しい室内、濡れた服が気持ち悪くて、でも脱いだらもっと冷えてしまうから、仕方なく着たままにして膝を抱える。
 ああ……嫌だな。
 この部屋は私に嫌な記憶を思い出させる。ベッドと机以外に何も無い部屋、汚れて乱れたシーツ、吸殻で溢れた灰皿、温度の無い真っ暗な室内、締め切ったカーテン。ベッドの上で力なく脚を放り出し、感情を殺した人形。
「早く、帰って来なさいよ……」
 違いがあるとすれば、あの家とは違って待ち人がいるという事。感情を殺した人形ではいられない。
 私を残して出て行く海を、私は引き止めたかった。この世界で出会えた、二人目の人間だから。父と同じ人間だから。
 変な事ばかりするし、思考回路が全く読めないけれど、だけど初めてだったのよ。邪(よこしま)で下衆な感情を持たずに私を見てくれる、そんな他人の男性と私は初めて出逢ったの。別に、だからと言って完全に信用したわけじゃない。人を騙すのが極端に上手いペテン師で、私はそれを見抜けない愚かな女って事になるかもしれないのだもの。それでも、心は揺れに揺れて自分じゃどうしようも出来ない。悔しいけれど、私は海を信用したいらしい。
 でも、信用しきれない自分がいる。信じて裏切られた時の痛みは、この身が引き裂かれるよりも痛いと知ってしまったから。
「そうね」
 どうせなら、海がここに戻って来なければ良い。私を犬猫のように捨て、馬鹿な女だと笑って消えてしまえば良い。そうすれば、まだ傷は浅いわ。所詮は他人。自分以外を信用しようだなんて愚かな事だと、再認識出来るもの。そうなれば今後は誰も信用せず、私は私だけを信じて生きていくことが出来る。自分一人で完結する世界。傷つく事も、傷つける事もない穏やかな世界。私はそんな世界で生きたい。信じて裏切られるのは飽きた。感情を殺して人形になるのは疲れた。心を守るのは簡単だと私は学んだじゃないの。他人を中に入れなければ良い。それだけで、煩わしい世界から解放されるのだから。
 静かな夜、窓の外へ視線を移すと、外はいつの間にか吹雪いていて、一寸先も見えない状態になっていた。どおりで寒いわけだと納得しつつ、立ち上がり窓へと触れる。
 三月だというのに、今年は異常に寒くて良く雪が降る。春の気配はまだまだ見えそうにない。
 海は大丈夫かしら?無理に戻って来ようとしないで、どこかの部屋の中に留まっていてくれれば……
「ふ、ふふふ」
 自分の御目出度さに自嘲してしまう。
 さっきまで考えていた事と逆の事を心配している自分がおかしくて、でもそれが心地よくもあった。
 大丈夫よきっと。津波の地鳴りも鳴っていないし、もう津波は治まったはず。この吹雪で視界が遮られるのは心配だけれど、彼は事も無げに山中を歩いていたし、そこまで心配する事もないでしょう。大丈夫、大丈夫よ。
「だから、私を見捨てていいのよ……」
 窓に額を預けると、ひんやりと熱が冷めていく。どうかしている。この私が他人の心配なんて、笑い話にもならないわ。
 海が出て行ってから一時間は経つ。立て掛けられているソリに気を付けながら、私は部屋の隅へと戻ろうとした、その時だった。
「――ッ!?」
 またも地の底から何かが噴出すかのような、重く響く振動が小屋を揺らし始めた。
「う、そ……でしょ……」
 何時間も立て続けに休みなく町を襲っておいて、まだ足りないというの?いくつもの命を貪ってもまだ?
 ふと、頭の中に過ぎった光景。それが私を突き動かした。
 何を考えているの私は?そんなはずないじゃない。津波がまた始まったのなら、彼はどこかで大人しく治まるのを待っているはずよ。子供じゃないんだもの、自分の命を優先するに決まっている。そうよ、自分の安全を確保するはずよ。
 そう自分に言い聞かせてはみても、脳裏に過ぎった光景がそれを否定する。
 もしも、こちらに向かっている途中だったとしたら?振動に脚を捕られて、激流の中に彼が飲み込まれてしまったかもしれない。
「やめ、てよ……そんなわけない。大丈夫、大丈夫……」
 口で何度も大丈夫と囁きながら、私は小屋の扉を開けて外に出た。
 目の前は黒と白のコントラストで彩られ、足元さえ見えない。こんな中、山中を歩くなんて自殺行為だ。わかっているのに、足が止まってくれない。
 外に出た瞬間、手も足も凍り付きそうに悴んで震える。雪が邪魔で思うように前に進めない。風が強くて息をするのも辛い。それでも、私は脳裏に過ぎった光景、海が成す術もなく波に飲み込まれてしまう。なんていうふざけた妄想を早く否定して欲しかった。
 彼はどっちに向かっただろう?この吹雪では方向感覚が当てにならない。
 どっち?海はどっちに向かったのよ!?
 苛立つ。どうして私が彼の安否を心配して、無様に焦って小屋を駆け出さなければならないのか。馬鹿げてる。吹雪で視界が遮られ、津波の振動で足元も覚束ずに、それでも他人を心配するなんてどうかしてる。
 自分が自分じゃないようで、制御出来ない感情に苛立って仕方ない。
「海ッ!!いるなら返事をなさいッ!!」
 声なんて届くわけないのに、声を張り上げるなんて……数時間前の自分が見たら冷笑するわね。何をしているの、愚かしい。そう一笑に賦すでしょう。わかってるわ、自分が無様で滑稽な姿を曝している事くらい。それでも、脚も手も声も、止めたくても止まらないのよッ!
「――海ッ!!!!」
 今までの人生でこれほどに大声を上げた事なんてない。しかも、誰かの名前を不安と得体の知れない寒さから逃れたくて叫ぶだなんて。ねえ?こんなに必死になったのなんて初めての経験なの。だから、どうかお願い。この叫びがどうか……
「――か「何してんのお前?」
 後ろで能天気な顔をしているであろう馬鹿に届かないようにして。
 足を止め、背筋を伸ばして深呼吸をする。
「別に、外の空気を吸いたかっただけよ。ええ、そうよ。別に何をしていたわけでもないの。ただちょっと、あの小屋が埃臭くて」
 言い訳をしながら振り返ると、そこにはやっぱり大きな荷物を持って、能天気な笑顔をした馬鹿がいて、私はなんでもない振りをする。
 ほんと、どうかしちゃってるわ。だって……
「こんな吹雪で深呼吸ねぇ。風邪引くぞ」
 彼が無事だと知り、その笑顔を見るだけで、気が緩むと目が熱くなってしまうんだもの。信じたくないのに、信じたいと思ってしまう矛盾。これが壊れてなくてなんだと言うの?
 そう、私は壊されたのだ。彼の前では人形ではいられない、いたくない。そんな不恰好な人間へと、粉々に壊されてしまったのね。
 疲れたとぼやきながら、海は小屋へと向かって歩いていく。その後ろを私は視線を逸らしながら付いていく。まるでアヒルの子供のように。
「……海~……ふはッ」
 前を歩く馬鹿の言葉が私の耳にも確かに聞こえた。
 聞かれてたッ!?
 吹雪で凍てつきそうなのに、頬が燃えるように熱くて、頬に触れた雪が蒸発してしまいそう。
「あ、か、言ってない!私はあなたの名前を呼んでなんていないわッ!」
 慌てて言い訳し、なんとか聴き間違いにしよう。この吹雪だもの、ちゃんと聞こえてなんていないはず。
「ん?俺は別に俺の名前を呼んでたとか言ってないけど。ほぉ~、そうか。俺が心配でぇ~、思わず俺の名前を叫んじゃってたと~。ふ~ん、ほ~、へぇ~……ぷふッ!」
「なッ!?」
 くっ、私とした事が、こんな簡単な鎌かけに引っ掛かるなんて。
 ぶるぶると、寒さだけじゃない理由で震え、俯く私を海がニタニタしながら下から覗いてくる。それだけならまだしも、余計な事まで付け足してくるから頭が悪い。性質が悪いんではなく、あ・た・ま・が・わ・る・い!
「そうでちゅかぁ~。でもちゃんと帰ってきまちたからもう大丈夫でちゅよ~。怖かったでちゅね~。ぶひゃひゃひゃひゃッ!!」
 私はしゃがみ、せっせと雪を掻き集め、ぎゅっぎゅっと、なるべく硬くなぁ~れと純粋な願いを込めて鉄槌を作り、腹を抱えて笑う海を慈しみを込めて呼んだ。
「か~い♪」
「おう、どうした?そんなどこから声出してんだって突っ込みたくなるようなビッチなこぶごッ!?」
 海の顔面に私特製のシルバーブレッドをパイ投げのように叩き込む。何か鈍い潰れた音がしたけれど、もうどうでもいいわ。
 倒れてピクリともしない海から、毛布だけを奪って小屋へと戻る。
「あ、鍵の代わりに突っかえ棒でもしておきましょう」
 手近にあった雪掻き用のスコップを、取っ手に引っ掛かるように置いて、私は部屋の隅で毛布に包まって目を瞑った。
 良い毛布ねこれ。とても温かいわ。
 目を瞑って十分程経つと、誰かが小屋の扉を開けようと躍起になっていた。嫌ね、不審者かしら?怖いわね。
「開けろゴラァッ!!どんだけ俺が頑張ったと思ってんだッ!!しかもお疲れ様とか労うならまだしも、おま、これ普通に傷害罪だかんなッ!!開けろクソガキャアッ!」
 なんて乱暴で粗雑な言葉遣いなのかしら。御郷が知れるわね。ああいう人が、道行く奥様方にひそひそ話されて、ご両親に迷惑を掛けるのだわ。
「お前ね、ちょっとからかっただけだろうが!ちょっと弄られた位で拗ねるとか、この世の中渡っていけねぇぞ!心が広くない奴はな、胸も小さいままだぞ!いいのか!?一生小さいままで良いのか!?」
 セクハラまで完備しているとは恐れ入るわ。まだ変態の季節ではないのだから、冬眠していて欲しいわ。
「よし!扉壊すぞ!良いのか!?寒さが凌げなくなっても良いのか!?毛布でも防げない心まで凍るこの寒さだぞ!!ていうか、俺鼻水凍ってきたんだけど!早く開けろやッ!!」
 今日は疲れたからかしら、風の音が五月蝿くてもすぐに寝付けそうね。
「開けろッ!!マジで開けろよッ!!アヤメちゃ~ん!故郷のおっかさんが泣いてるぞ~」
 泣いてるのはあなたでしょうに。大人しく巣に帰れ。
「開けて……開けてよぉ~。ほんとに死んじゃうよぉ~」
 大人のくせに本気で泣き始めた。
「謝るからぁ。ごめんなさい。僕が悪かったよぉ。だから開けてよ~、アヤメ様~。もう言わないよぉ」
 まあ、泣いても許さないけれど。
 その後、彼を中に入れたのは一時間近く放置してからだった。人間って、死ぬ寸前まで追い込まれれば二度と逆らわないものなのよ。その証拠に、海は中に入った瞬間、私に噛み付くどころか、ありがとうと何度も感謝した。ふふ、これで海は私の奴隷ね。
 人を調教するのは以外に面白いと自覚した瞬間だった。



 この小屋は昔、ロッジにしようという目的で作られたらしく、ソリをどけると奥には暖炉があり、ちゃんとトイレと風呂もある。ただ、基本的に物置として使っていた為に、中がどうなっているか知っている人は、管理者ぐらいしか知らないらしい。全部薫から聞いた話だけど。
 ガキの頃、ろくに管理もされていないここを、俺と薫は秘密基地として使っていた。この廃れたアスレチック広場に来る人なんて滅多にいなかったし、自分達で生活している感じが堪らなく俺達をわくわくさせてくれた。
 遠い過去に思いを馳せ、郷愁に浸っている俺に……
「早く火を起こしなさい」
「はい、只今」
 容赦なく命令するアヤメと、下僕のように従う俺。反発したいのに出来ない。どうしたというのか、俺の反骨精神は。
 薫の部屋から持ってきた適当な紙束に、これまた薫の部屋のストーブから頂いた灯油を少量染み込ませ、乾いた枝を酸素が入るように組み上げて火を点ける。
 人間に産まれて良かった事は火を使える事だと俺は思うね。
 真っ暗だった部屋が火に照らされる。部屋の中にはスコップやらソリやら、工具なんかも沢山置かれていて、掃除がされていないのか埃がわんさか溜まっていた。
「あ、脱いだスカートや下着なんかはソリに掛けて下さい、げへへ」
「そうね……下着に触れたらどうなるか、わかってるわね?」
「へいさ」
 脱いだ衣服をソリに掛けるアヤメは、俺が持ってきた薫の服に着替えていた。薫は身長がそこまで高くないから、多少捲くれば女性でも問題無く着れる。下着は、ボクサーで我慢して貰ったが、これは他に手が無いだろう。
 あいつは細いから、スマートなジーンズを好んでいたのが幸いだ。そのおかげでアヤメに良く似合う服が結構手に入った。アヤメが選んだのは細めのジーンズに、タートルネックのシャツとカシミヤのセーター。靴下ももちろん持ってきたが、靴は後日どこかで手に入れるしかないだろう。
 アヤメ様を尻目に、俺は鞄からある物を取り出す。
「それ凄いわね」
 目敏く見つけたアヤメ様がお尋ねになられました。
「これでげすか?これはでげすね」
「その喋り方を今すぐ止めなさい。四台のバイクに両手両足をロープで結んでそれぞれ別方向に走らせるわよ」
「昔の処刑を現代に変えるとそうなるのか」
 さすがに残忍過ぎる死に様は勘弁なので、仕方なく元に戻す。そもそも、俺が卑屈になったのは誰の所為なんですかね。
「これは見ての通り中華鍋だ」
「見れば分かるわ。そうじゃなくて、その鞄のどこにそれが入るスペースがあるのかしら?あなたの友達って何者なの?」
「俺もそれが知りたい」
 つうか中華鍋とかなんで自室に置いてんだよ。武器にする為に一票。
「でもまあ、そのおかげで飯が食えるわけだけど。あいつの部屋から食材を持ってきたから、しばらくは平気だ。外で保存しとけば腐らないからな」
 鞄から食材に包丁とまな板、それにいくつかの調味料を出すと、アヤメはもう何も言わなかった。あいつは自室でサバイバルでもしてたのかよ。
 まずは卵を使わにゃいけないから、とりあえずは韮もあることだし、韮玉でも作りますかね。
 韮を適当に切っておいて、卵をかき混ぜ塩コショウを加える。次にごま油をひき、暖炉の火の上で鍋を温め、卵を半熟になるまで炒める。半熟になったら、韮を加えて醤油とソースで味を調えて完成。ここまでわずか三分の簡単料理だ。
 皿とかは無かったから、鍋ごとアヤメの前に差し出す。ちなみに、箸は適当に枝を切って代替品とした。
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