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一日目~廻る因果~ 其の二

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「私は無理よ。いいわ、私を置いてあなたは神社に行って」
「何言ってんだお前。私の屍を越えていけなんて、使い古されて流行んないぞ」
 誰がそんな事を言ったのよ。どちらかと言えば、私はあなたの屍を踏んで踏んで踏み越えて生きたいくらいよ。
「いいから行きなさい。別に死ぬつもりなんてないし、それに必ずしもここが呑まれると決まったわけじゃないわ」
 私の足元までなら波に攫われずに耐える事も出来るでしょう。それなら、わざわざ危険な事をしなくても……
「あっそ、じゃあお前は生き足掻きもしないわけだ」
 樹の上から、心底私を見下し、馬鹿にしたように彼が無駄口を叩いていく。
「生きる努力もしないで、かもしれないっつって、そこで流されるのを今か今かとびびりながら待つと」
 どうとでも言えば良い。彼の口車に乗ったら、それこそ死んでしまう。自慢じゃないけれど、運動神経はクラスでもダントツで鈍いのよ。だから、ここで津波が治まるのを待つ方が断然生存確率が上がる。
 何を言われたって私はここを梃子でも動く気は……
「確実に生きる方法があるのに、お前はそうやってヘタレて、生きれるかもしれないって神様に祈るわけだ。そうやって、助けを待つだけか……だから傷つくんだ馬鹿が」
 な、んて?この男は今なんと言ったの?
「神様に祈って助かるなら誰も彼もクリスチャンだろうさ。末期がん患者は不老不死にして下さい、借金で死にそうな奴は、何十億もの富を与えて下さいつって?待ってるだけで生きてるとか、お前舐めてんだろ、生きるって事」
 舐めてなんていない!何度も抜け出そうとした!あの家から、少しでも離れたくて、でも子供の私にこの国の制度は何もしてくれなかった!
「お前の言う豚共だっけ?お前さ、そいつらに命懸けで噛み付いた事あるか?噛み付こうと睨んだ事ねえだろ。それだけじゃない。他人に助けてとみっともなく泣いて縋った事もないだろ?そんな最低限の現状を打破する努力もしないで、不条理だっつって、恨んで呪って……だっせぇんだよ」
 なぜここまで言われなければいけないの?私だって逃げ出す努力ならいくらでもしたわ。夜遅くに抜け出して、仙台まで逃げて……それでも、優秀な警官様が私を補導してくれて、ご丁寧に豚共を迎えに寄越して……その日、私がどんな目に遭ったかわからないくせにッ!!
 そう、心の中で反論するも、口には出来なかった。なぜなら、私を理不尽に罵倒する彼の目は、厳しくもなく、怒りすらもなかった。ただ、私が動き出すのを優しく見守っていたから……その目が私に反論させる気を失せさせた。
「ほら」
 彼が私を救ってくれたその手を差し出してくる。
「来いよ。そんな雑魚いお前に俺が教えてやるから」
 自然と身体が動いた。欄干に手を掛け、足を乗せる。
「俺が生きるって事を教えてやる!なんだったらお前の不条理からも抜け出させてやるから!だから!」
 信じたくない。他人の言葉なんて、神に祈るよりも価値がない。わかってる。裏切られる怖さを、私は誰よりも知っている……なのにどうして……
「今日、ここから一歩踏み出そうや?」
「まったく、ほんとにあなたって……」
 こんなにも彼の言葉が心に突き刺さって、痛いどころか、心地よく感じてしまうのだろう。信じたくなる魔力を持っているのだろう。
「変な人ねッ!!」
 彼の言う通り、私は今日ここから生まれ変わる。世界が壊れて、新しい私が産まれた。もう、昨日までの無力な私じゃない。迫り来る足音に震えて、感情を殺して毎日を死んだように生きていた、そんな情けない自分とは決別しよう。幸いにも、私に生きる強さを教えてくれる馬鹿が目の前にいる。少しも彼の思考回路はわからないし、もしかしたらまた裏切られるかもしれない。それでも、私は彼の手を取る。その先に求め続けた希望と未来があると……作っていけると固く心に誓って。



「いやぁ~、さすがに俺もびびったわ」
「…………」
 山の中を無言で俺の前を歩く少女と、少女の後ろを作り笑いをしながらついていく俺。前を行く少女からは、話しかけるなオーラがオラオラと出ている。
「お、俺もまさかあんなことになるとは思わなかったわけで……ほら、俺ってスレンダーじゃん?だからいけるって思ったわけだよ」
「…………」
「つまりだな、意外にもお前の体重がおも」
「……は?」
「すみません」
 薮蛇でした。ちなみに何があったかと言うとですね、少女が欄干から飛んだところまで話は戻る。
 こう、ね?良い感じに格好良く決めゼリフを言って、これフラグ立ったわぁ~ってなったわけ。あとは、飛んだ彼女を軽やかに受け止めてめでたしめでたし……とはならなかった。飛んだ彼女を受け止めるまでは良かったんだよ……悪かったのは、根性のないあの枝だ。俺達二人の体重を少しも支えられず、最近の若者のメンタルのように、あっさりポキッと折れてしまい、二人共あわや走れメロスの如く濁流を泳ぐ事になりそうになった。だが、偶々落ちた先がぬかるんだ緩い斜面で、滑り落ちる前に俺が樹の根元を掴んで、ついでに彼女の手も掴んで事無きを得たわけだ。……まあ、彼女の下半身はどっぷり水に浸かってしまったわけだが。
 前を歩く少女のスカートからポタポタと水が滴っている。
「……信じるんじゃなかったわ」
 ここまで無言だった少女が、後悔を口に出し始めた。俺の心が罪悪感でじゅくじゅくしちゃうよ。
「こんな……私、汚されて……」
「確かに汚い水だけども!その言い方誤解されるから!」
 ここらの古い家は、今だにぼっとん便所もあるわけで……つまり、泥とか以外の排出物も混ざった水なわけです。
「悪かったって」
「足が凍傷になりそう。身体のあちこちが痛い」
「そ、そうですか。あ、なんだったらおぶさります?」
「触るな獣(けだもの)」
「…………はい」
 修復不可能な亀裂が入ってしまった。どうにかして信頼を回復したいが、スマホも財布もどういうわけか落としてしまったわけで、俺のステータスは初期のままになってしまった。
 それにしてもと、空を見上げ真っ白な息を吐く。
 離れた場所からは津波の轟音、辺りは吹雪。自然が人間に全力で牙を向けているわけで……この先どうしようか?
 とりあえず、この山には綺麗な湧き水がいくつも流れているし、アスレチック広場まで行けば火を起こせもする。神社近くに避難している人や、民家の方にちょっとだけ鍋を借りてお湯を沸かそう。あとはタオルも借りるか。そんでもって、彼女の身体を拭いて……いやいや、俺は拭きませんよ?もちろん自分で拭いてもらって、飯は……今日は我慢するか。いつまで津波が襲い続けるかわからないが、終わりはくるだろう。そうしたら、橋を渡って市街地に出て体育館でしばらく世話になろう。
(そういや、母さんは大丈夫だろうか?)
 大丈夫なはずだ。あの人のホームのパチンコ屋は市街地で、あそこまで津波が行く事はない……と信じよう。あの辺りなら無事に避難しているに違いない。落ち着いてから探すか、もしくは連絡しよう。覚えていたらな。
 俺の事よりもまずは少女のほうが先決だ。少女の家族を探すのもそうだが、家族が生きていたとして、少女を素直に引き渡すわけにもいかない。その場合、俺よりも人生経験と人脈のある母さんを頼る事になるが、まずは少女の家族の安否を確かめよう。それに、食料の心配もだな。この状況じゃ、食料の運搬経路は遮断されていて、復旧に多少の時間が掛かるはずだ。二、三日は自分達で調達しなければいけないかもしれない。となると……
「あの~……」
「なに?」
 恐る恐る声を掛けるが、俺を威嚇するような声で応えられた。ここはライオンの檻の中に等しい危険地帯だな。
「少々お尋ねしたいのですが、鞄等はいかがなされたのですか?」
「その喋り方うざい」
 人が下手に出てりゃあ、このガキ……なんて顔に出すわけにもいかず、えへ、と作り笑いを浮かべる。
「……気持ち悪いわね」
「俺の顔が三度までだと思うなよ」
「鞄なら神社に置いてきてしまったわ。どうせ、教科書とノートしか入っていないのだし、使う事はないでしょう?」
「あ~……そう、ですか」
 めちゃくちゃ使うんだよ馬鹿野郎ッ!!
 この先、荒れに荒れたスーパーとかの店内から多少の食料を拾わにゃならんのにッ!!クソ、どっかの人のいない民家から鞄か何かを拝借するしかないか。
「ねえ?これからどうするの?」
「ん?ああ、今日はとりあえずアスレチック広場あるだろ?」
「広場……小学生の時に何度か学校の遠足で行った程度だから、詳しくわないわね」
「そうか。あの広場な、ソリ滑り出来る場所があって、ソリを貸し出す小屋があるんだが、そこを借りようと思う。多分、この状況じゃあそこを使うって考える人間は少ないだろうし」
 この吹雪も考えようによっては幸運かもしれない。こんなに視界が遮られては、アスレチック広場までの道は危険かもしれないと考え、あそこに行く人間はあまりいないだろう。
 そこまで考えて、はっと思い出したことがあった。
「小屋?そこってお風呂とかないのでしょう?」
 こんな状況で贅沢な奴だな。だが、その悩みを解決出来そうな案が俺の脳内に浮かんでいた。
「……風呂はないが、どうにか出来るかもしれん」
「どうやってよ?」
「実はな、俺の友達の住む借家が近くにあってな、上手く屋根を辿っていけばそいつの部屋に行ける。まあ、前提として、そいつの部屋が波に浚われてなければの話だが。そいつヘビースモーカーでさ、ライターをかなりの量溜め込んでいるんだ。だから、俺がライター取ってくる間、お前小屋で待ってろ」
 ついでにペットボトルと鞄も取ってきて……でかい鍋もあいつ持ってたよな。押入れを探せば運良く見つかるかもしれない。
 なんて、懐かしいろくでなしの友人の事を思い出していると、何やら少女が黙り込んで俺を不安そう?に見ていた。
「ん、どうした?」
「……別に」
 ふいッと背中を向けて歩き始める。なんなんだ?言いたいことがあれば言えばいいのに……女ってのは稀に理解出来ないから困る。
「あ、そこは左の小道に入ってくれ。なるべく壁に沿うように歩けよ」
 少し細い道で、足を踏み外したら洒落にならん。ご都合主義の主人公のように、何度も窮地を救えるわけじゃないんだよ。
 広場まではあと三十分ってところか……
「……不条理から抜け出させてやる……か」
 自分の言った言葉を思い出して、自嘲する。少女の不条理よりもまずは自分だなと、自分の手を翳しながら考えていた。
 ああ、本当に世界は狭量で不条理だ。理不尽に人から何かを奪うこの世界は、俺に微笑んでくれた事なんてない。現に、今だって……
「ねえ?」
 ま、俺のやるべき事がこの少女を救う事だってのなら、全力で頑張るさ。問題はこの先だけど、な。まずは……
「ねえ!?」
「っと、なんだよ?」
 物思いに耽っていて少女の呼ぶ声に気付かなかった。
 少女は何かを言おうと口を開こうとするが、中々口に出来ないのか、戸惑ったように視線を彷徨わせながら、そっぽを向いて気まずそうに言った。
「今更なのだけれど……聞いてないわ」
「俺の初体験?」
「黙れ螻蛄(おけら)」
 なぜ場を和まそうとするとこうも失敗するのか……もうちょっとコンパとかで女性への免疫をつけるべきだったな。
「そうじゃなくて、あなたの名前よ。いつまでも猿だ螻蛄だと呼ぶわけにもいかないでしょう」
 はあはあ、なるほど。俺の名前を聞くのにあんなに逡巡しちゃって……可愛いところも……
「螻蛄以下なのだから、螻蛄が可哀想だわ」
 ねぇよ。可愛いとか思ってた自分はトラクターに惨めに轢かれてしまいました!
「……海野海だ」
「のかい?変な名前ね」
「切る場所おかしくね!?海野、海!海に野原の野、そんでまた海って書いて海野海だ!」
「へぇ~、海野海……ね」
 俺の名前を噛み締めるように、何度も少女は繰り返し呟いた。
「あなた、小学生の頃回文だって弄られたでしょ」
「マジで三言多いなテメェ様はッ!!」
 その分覚えられやすくて良い名前だろうが!ちなみに、誕生日は海の日という奇跡が起こっていて、小学生の頃は海の日を俺の日だと、よく弄られたものだ。海は広いな大きいなって歌を、みんなが俺を見ながら歌うんだ。そのおかげで、多少の屈辱にはガキの頃から耐えられるようになった。母さんは俺のメンタルを強くするためにこの名前にしたに違いない。
「なら、海と呼ぶけれど異論は?」
「お前、年上を呼び捨てにすんのかよ。社会でそんなこと……」
「じゃあ、解散って呼ぶことになるけれど」
「イントネーションおかしいよなッ!」
「というわけで、海と呼ぶことに決定ね」
 もういいよ。こんだけ俺に対して容赦ないこいつは、なんで豚と呼ぶクソ共に反抗しなかったんだ?決して俺が舐められているわけじゃないと信じたい。
「私は姫村(ひめむら)アヤメよ。畏敬の念を込めて、姫様と呼ぶことを許してあげるわ」



「私は姫村(ひめむら)アヤメよ。畏敬の念を込めて、姫様と呼ぶことを許してあげるわ」
 半分冗談でさらっと言えた。彼の名前を聞き出すだけの事に、どうしてか緊張してしまい、中々口に出せなかった。
 彼が名乗り、その名前を自分の奥底に刷り込むように何度も小さく口にした。海野海、海野海、海野海……それが、私の人生に少なからず関わる男の名前。私が自ら手を取った男の……
 そうして、海を呼び捨てで呼ぶことを許可させて、私は冗談交じりで彼に名乗った。きっと彼、海ならば面白い突っ込みをしてくれると……そう、予想していたのだけれど、その予想は裏切られてしまった。
「……なに?私の名前に変なところがあるかしら?」
 私が名乗ると、彼は驚愕とも取れる表情で、じっと私の顔を凝視していた。
 ……いえ、私の顔を見ているようで、見ていない。それどころか、上の空になって呆然としている。
 な、に?もしかして、私の名前に驚いている?もしかすると、豚共の内の一匹と面識があるとか?
「お、まえ……」
 妙な空気が私と海の間に流れる。さっきまでの軽い空気が嘘のようで、私を変な緊張感が包んだ。
 力無い声で、海は私を指差すと、ただ一言。
「濡れたパンツどうすんだ?」
「……はい?」
「そうだよ。お前パンツも濡れただろ。さすがに俺の友達も女物の下着なんぷげッ!!」
 最後まで言わせないよう、私は渾身の力で海の鳩尾へと拳をめり込ませた。
 返せ!さっきまでのシリアスと私の照れ隠しを返せ!
「死んで!本気で死んで!」
「ま、待て!おま、これわりと重要な案件だろうが!」
「今言う事じゃないじゃないの!」
「だって、このままだと乾かしてる間お前はノーパン~~~ッ!?」
 最後まで言わせてなるものか!
 最大の急所を無回転シュートを打つかのように蹴飛ばす。悶絶し倒れてもがく海を私は冷ややかに見下ろした。
「ぐ、おおおお……」
「そのまま子孫ごとくたばればいいわ」
 愚かな遺伝子を潰し、人類に貢献した私は、彼を置いてすたすたと歩き始める。所詮海も愚かな雄の一匹だったのよ。彼に気を許しそうだった私は天に召されたわ。
「ま、待てって……」
 私を呼び止める声を無視して歩き続ける。
 こうなったら仕方ない。本気で一人で生きて……
「待てよ、冗談だってアヤメ」
 ……海に名前を呼ばれ、足が勝手に止まってしまった。海に名前を呼ばれ、かぁーっと頬が熱くなって、海を振り向けない。
 他人に名前を呼び捨てにされたのは初めてで、それも自分が気を許しそうな男性から呼ばれてしまった。それだけで、免疫の無い私は、今まで経験したことの無い何かが溢れそうだった。
 足を止め、固まった私を見て、不快に思ったと勘違いしたのか、海は慌てたように謝罪してくる。
「あ、悪い。呼び捨ては嫌だったか?」
 そう謝ってくれているのに、私は振り向けないまま、騒がしい鼓動をなんとか治まってと、自分の胸を手で押さえる。
 なに、よ……なんなのよこれは!?
「苗字はお前嫌がるかなって思ったんだ。それに、ちゃんとか付けるようなキャラでもなさそうだし」
 ……そこまで考えてくれていたのね。確かに、私は自分の苗字が嫌いよ。嫌でもあの豚共と家族なのだと思い知らされるから。だから、学校の出席も、クラスメイトが私を呼ぶ声も……その全部が嫌で仕方なかった。
 そんな私の気持ちを海は考えてくれていた。だから呼び捨てにしてくれて……それだけのことが、こんなに……こんなにも……
「そ、うよ。何がアヤメよ。調子に乗らないで。姫様って呼びなさいと言ったでしょう」
「へえへえ、随分品のないお姫様なことで」
 こんなにも嬉しいなんて、どうかしてるわ。
「でもまあ、いいでしょう。名前を呼び捨てること、特別に許可してあげるわ。感謝なさい。本来なら打首獄門よ」
「お前は良い独裁者になれるよ。保障する」
「減らず口ばかり、面倒な男ね」
 どっちがだよと苦笑し、立ち上がった海が歩き出すのを待つ。
 悪くない……なんて、らしくない事を思い苦笑する。だって、有り得なかったんだもの。こんなにも下心の無い男に会った事なんてなくて、こうやって軽口を叩き会う事が出来る男が現れるなんて、夢物語だったのよ。
 別にね、白馬の王子様なんて夢を見たことなんてないのよ。そんな砂糖の練乳はちみつ添えな甘ったるい思考なんて持ち合わせた事なんて無い。だから、これは夢なのかもしれない。
「お前、人の大事な息子を殺人未遂しといて何笑ってんだよ」
 隣に並ぶ彼はそう言いながらも口元は笑っていて、私も自然と頬が緩んで自分ではどうしようもない。
「あら、未遂だったの?ごめんなさいね、今度は確実に息の根を止めるよう努力するわ」
「殺す努力よりも今は生きる努力をしようぜ」
 これが夢?冗談じゃない。もう私はこの現実を歩んでいる。もう二度と戻ってたまるものか。もし、この現実が夢で、今日出会った世界一変な彼が消えてしまったら私は……この些細な希望を失くしてしまったなら、私は生きる意志を失い、生きていけない。だから、今度は純粋に願うわ。



 ――この夢から覚まさないで下さい――



 アスレチック広場まで何事も無く……はなかった。俺の息子が危うく死者蘇生でもない限り蘇らなくなりそうだった。ま、まあなんやかんやと広場に到着し、アヤメをソリのある小屋で待たせて俺は単独行動を取る事に。
 アヤメ……ね。アヤメって昔何かで調べたけど、アヤメと菖蒲は読みが一緒だけど別な花で、アヤメは毒性があるんだっけ。皮膚炎とか嘔吐とか胃腸炎だとかになるらしい。なるほど、あいつにぴったりの名前だよな。
「名は体を表すとは良く言ったもんだ」
 さてさて、なるべく早く戻ってやりたいが、こう暗くては足元も見えない……はずなんだけどね。俺はもしかしたら夜目が利くのかもしれん。そこそこに道が見えるし。まあ、だからこそアヤメと一緒でも平気だったわけだけど。ただ、平気じゃないのは世間だったんだけどな。こんな状況じゃなければ出会うことも無かっただろうに。
「母さんに連絡しようにも、スマホは無いし……そもそも連絡出来るかも怪しいしな」
 あいつを現状から抜け出させる……だけじゃ駄目だ。アヤメの問題は俺の問題へとあいつが名乗った瞬間にシフトチェンジした。
「とりあえず、目下今を生きる為に火と水が必要なんだが」
 今日を切り抜けたら、問題が山積みでお兄ちゃんは参っちまうよ。ああ、本当に参っちまう。
「さて、と。母さんは知らないだろうな。俺も知らなかったし」
 母さんは基本的に近所付き合いはしないし、そういう噂は聞いても積極的に関わろうとしないだろう。母さん曰く、会ったら確実に殺人罪で捕まるからって、物騒な事を本気で公言しているわけで。捕まったらあんた困るでしょ?なんて笑いながら目はマジで聞いてくるものだから、まだ小学生だった俺はガクブルしたものだ。
 それに、俺だって探そうなんて思ってないし、街で似た感じのを見ても無視してた。どうせなら野垂れ死んでくれれば幸いだったんだが……クソが、余計な事ばかりしやがって。今なら町が、人が壊れていく無残な風景を見て、子供のように笑っていたアヤメの気持ちが痛いほどにわかる。わかってしまった……俺もアヤメを叱れないよな。
 小屋で俺の帰りを凍えそうになって一人で待つアヤメの姿を想像すると、胸が痛んで今すぐに戻ってやりたい。だが、馬鹿を言って場を和ませて誤魔化すのにも限界がある。だから、少しだけ時間を置いて、俺は覚悟を決めなければいけない。アヤメの人生を背負う覚悟を。
「姫村、ね」
 姫村なんてここらでは珍しい苗字だ。つうか一人しか知らんし……おそらくいるであろう兄の名前も聞いておくんだった。だが、あの変態親子ならやりかねないというか、確実にやる。アヤメが言うように正しくあの豚共なら、パチンコで言うレインボーよりも確定している。アヤメほど可愛ければ、あいつ等が手を出さないわけが無い。しかも暴力のオプション付きで。
 アヤメ……お前の気持ちな、俺わかるんだよ。残念なことにな。
 母さんと俺はあいつらの良い餌だった。俺より六つも上の子豚とその親豚は、俺と母さんをあらゆる面で殺した。何か子豚がやらかせば、親豚は俺を泣き叫ぼうが何しようが折檻し、それに飽き足らず二匹揃って俺を……
 その現場を見てしまった母さんが、俺を連れて親友の所に逃げて、裁判所を通してなんとか離婚が成立。晴れて俺と母さんは豚共の魔の手から逃れられた。離婚後、母さんは精神的に強くなり、俺も母さんに勧められて知り合いの空手道場に通い始め、もう奴等と何があろうとも大丈夫なように強くなった。二度と、あんな過酷を受け入れないために、俺も母さんも必死だったんだ。弱いままではいられなかったから。
 でも、さ。否定しようにも俺の体にはあの豚の血が流れているのは事実なわけで、ハーフ豚の俺としては、親豚のやらかしたことには責任を持たなければいけない。何より、俺と同じ血が通ってる奴等がアヤメを穢したなんて、想像するだけで寒気ととてつもない怒りが込み上げてくる。
 甘かった……あいつ等を野放しにするべきじゃなかった。人間なら悔い改めて改心することも出来るが、豚にそんな理屈は通じない。だから、アヤメの癒せない傷は俺の責任だ。過去から目を背けるべきじゃなかった。
 姫村幸雄(ひめむらゆきお)と姫村敦也(ひめむらあつや)。俺の父親と実の兄。母さんが目を背け、俺が記憶から消し去った忌まわしい下衆共。間違いない、アヤメの母親はあの下衆と再婚したんだ。昔から浮気が上手くて、女を落とすのはお手の物だったらしいからな、アヤメの母親も簡単に落ちたことだろうよ。本性を隠して近づいて、内側に入ったら欲望を二人に向けたわけだ。アヤメの年を考えると、再婚で間違いないはずだ。
 いつの間にか爪が食い込むほどに握っていた拳。歯が鳴るほどに強く食い縛り、頭に上った血が今にも吹き出しそうだ。
 舐めやがって……あの豚共が。テメェ等は黙って死んでしまえばいいものを。あいつ等は生き汚いから、まだ生きている可能性がある。
 させるかよ。俺がいるからにはアヤメにこれ以上、絶対に手を出させやしねぇ。
「確かに、昔から妹が欲しいとは思っていたが……こんな形で義妹が出来るとは思って無かったよ」
 今日出会った少女が俺と少なからず関係のある子だったなんて……
「いや、だから……か?」
 それなら説明が……付かないけど付く。
 天を仰いで俺は苦笑を漏らす。そういうことか、と。
「オーケー、わかったよ神様」
 あの神社の神様は随分と粋な事をしてくれる。俺と義妹を引き合わせた挙句、救うチャンスを与えてくれるなんて……マジで愛してるよ、神様。
「あいつ等にこれ以上、俺の義妹を汚させてたまるかよッ」
 雪が吹雪き、津波の轟音が人々の心を苛む夜、人知れず俺は確固たる決意を天に向かい宣言した。
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