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一日目~廻る因果~ 其の一
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灯りが一切無く、一寸先も見えない闇の中、一人の女性の悲痛な叫びが響く。
彼女が立つ場所は、自宅の屋根の上。普段ならば、そこに上がる事なんて、豪雪地域の人々が、雪かきで登るくらいのものだろう。しかし、今だけはそこにいるしかなかった。というよりも、屋根の上だけが居場所だった。
眼下には、屋根までも届きそうなほどの濁流が流れ続け、遠くではずっと消防車とパトカーのサイレンが鳴っている。
彼女は喉を潰しながら、それでも叫び続け、心の中で自問していた。
(どうして、どうしてどうしてッ!?)
いつもならば、夕食を終えて、食器を洗いながら、テレビとスマホに夢中の娘に宿題をしなさいと小言を言う時間。そんな自分に、娘がもうちょっと待ってとか言いながら、結局一時間以上は動かなくて、それに溜息をつく。仕事から帰ってきた旦那はそんな私達を見て苦笑を浮かべて……そんな、そんな何でもない一日が今日も送られるはずだった。
憔悴しようと、喉が切れようと、涙が枯れ果てようと、それでも彼女は何度も何度も叫んだ――最愛の娘の名前を。
地震発生直後、彼女はすぐに車を走らせ、娘の通う中学へと迎えに行き、家へと連れ戻った。しかし、家がもう目の前のところで津波がすぐ背後まで迫り、車を乗り捨て、二人は二階へと上がった。
第一波の時点ではまだ二階は浸水とまではいかなかったが、すぐに第二波が来ることを彼女達は悟った。なぜならば、津波が来る前には必ず、とてつもなく大きな重機が走ってくるような、そんな重く激しい地鳴りが鳴っていたのだ。このままでは二階も危ないと判断した彼女は、すぐさま娘と二人で窓から屋根へと出た。屋根を伝う事に慣れていない二人は何度も足を滑らせながらも、まずは母親が一番上へと登った。滑る足場では、娘が転落するかもしれないという不安があったからだ。自分も何度か落ちそうになるも、ようやく一番上へと登った彼女は、娘へと手を差し伸べた……その瞬間だった。彼女の視界の端に、黒の激流が映った。だが、それに飲み込まれるかもしれない恐怖よりも、娘を失う事の恐怖のほうが勝り、なんとか娘の手をがっしりと掴んだ。放してなるものか……例え、自分が死のうとも、娘だけは絶対に死なせはしない。固い決意が彼女の手に宿った。手を握り締め、娘を引き上げる。あと少し……あと少しで自分の腕の中へ……。今まで生きてきた中で出した事の無いような力で、徐々に徐々に娘を引っ張り上げ……そして運命は彼女の心を嘲笑った。
不運……その一言で救われるような後悔ではない。あの瞬間、娘の手を握る自分の手が汗で濡れていた事、更に余震と津波の振動で地面自体が大きく揺れた事。あらゆる要因が重なり、彼女の手から娘の命が零れ落ちた。最後に見た娘の顔は安堵に近いもので、もう少しで母親に抱かれるという想いを抱いていた。
ありとあらゆるものが流されていく激流に、娘の姿が消えていった。先程までその手に確かにあった娘の体温。それを確認するかのように、彼女は呆然と掌を見つめ……そして絶叫した。
彼女は呼び続ける。その声が波に飲まれてしまおうとも、現実を否定するために叫び続ける。きっとどこかでまだ私の助けを待っている、助けてお母さんって返事をしてくれる。なんだっていい。神だろうが悪魔だろうがどちらでも構わない。この現実を悪夢へと変えてくれるなら。
遠くで鳴るサイレンに彼女は叫ぶ。届かない祈りを。
「た、すけて……娘をッ!!あの子をッ!!お願いよッ、お願いだからぁッ!!」
彼女の叫びはその日、喉が切れて声が出なくなっても、それでも口を動かし続けた。自分の何よりも大切な、愛する娘の名前を……
人が想像出来る限りで最も最悪な災害……その想像を軽々超えてきた現実。その現実に誰もが心を砕かれ、癒える事の無い傷を負うことになるだろう。そんな現実離れした現実を前に、目の前の少女は愉悦とも、恍惚とも取れる笑みを浮かべて、眼下の濁流を眺めていた。
その少女を俺はどこか美しいと思った……寒々しい美しさを少女は醸し出していた。決して、良い意味なんかじゃない。むしろ、彼女の美しさに惹き込まれないよう、これ以上近づきたくないとも感じている。
だが、それ以上に俺は……
「よお、随分楽しそうじゃねぇか。俺も混ぜろよ……クソ餓鬼」
失われていく命や思い出に対しての少女の幸福な笑顔が、どうにも許せそうにない。
声を掛けてようやく俺に気付いた少女は、昼に見た少女とは別人で、ゆっくりと俺に顔を向け……妖艶に微笑んだ。それは、神話に出てくる冥界の女神のようで、背筋が凍るような感覚が奔る……寒いだけかもしれんが。
「あら、いつからそこにいたのかしら?」
少女の問いに後ろの岩肌を親指で示す。
「ガキの頃はやんちゃでね。そこの樹から飛び移ってきた」
「ふ~ん、その顔と同じく、猿並には運動神経は良いようね」
「まあな。そういうお前は、エリザベートバートリーでも信奉してるのか?反吐が出るな」
「ふふ、ちょっとは学があるみたいね。いつもなら不遜なその発言に対して、生きるのも嫌になるほどに身の程を弁えさせてあげるのだけれど、今はとても気分がいいの。だから、不問にしてあげる。感謝する事ね」
冗談……だったとしても許せないが、性質が悪い事に本気で言ってやがる。何か事情があるのかもしれないが、だとしても人の命が無残に散る様を上機嫌で眺めるなんて、頭がイカれてる。
「……そんなに嬉しいか?この災害が、沢山の人の涙がそんなに嬉しいかよ、クソ餓鬼」
相手は年下の少女という事もあり、沸騰しそうになる感情を力ずくで押さえ込んで聞いた。ちょっとは、さ……期待してたよ。嬉しくなんてないって、こんな災害が嬉しいわけじゃないって……そう、言ってくれるのを。人間らしい感情があるのなら、それが普通だろ?
それが俺の杓子定規の限界だった。
「ふっ、ふふ」
小さく漏れ聞こえる声と揺れる肩。零れるそれを耐えて、耐えて……そして爆発した。
「――最ッッッッッ高よッ!!」
両腕を広げ、天高らかに少女はその歓喜の声を解き放つ。空の先にいる神に感謝でもするかのようだった。
「嬉しいかですって?何を当たり前のことを聞くのかしら。今の私を見て分からないの?」
愕然とした。俺の価値観を真っ向から少女はその綺麗な笑顔で否定する。
「当たり……ま、え?」
「そうよ、当たり前。あなたにはわからない?ああ、猿には人間の感情を理解出来るわけないわね」
「人間……?」
自分を人間だと、悲劇にもならない地獄が目の前にあって、それを歓迎する自分を普通だと言うのか?
少女を力なく見つめる俺を見て、ああ、そうかとぽつりと呟く。
「あなたは猿じゃなく豚なのね。そう、それならわからないかもしれないわ。あの豚共と同じ価値観を持っているのなら、私を理解出来ないわよね」
「豚共?お前、何言って……」
少女の言葉が一つも理解出来ない。彼女への怒りは、徐々に恐怖へと変わっていく。
軽い気持ちで言っているならば、ちょっと怒ってやれば良いと考えていた。しかし、どうやらそれは浅慮だったらしい。少女は狂っていたんだ。この状況に陥る以前から、少女は人間を止めるほどに狂っていたんだ。もう、俺には少女が人間には見えなかった。殺人を犯した者以上に、彼女の心は怪物になっていた。
何を言えばいいのか?そもそも俺に少女をどうにか出来るのか?何もわからず、どうしたらいいかもわからない。何よりも……
「……まあ、いいわ。あなたが豚だろうと猿だろうと。そうだ、あなたも一緒にこの世界が壊れる無様な様を見ましょう。私と一緒にこの舞台を観る事を特別に許可してあげるわ。光栄に思いなさい」
子供が誕生日を祝って貰っているかのように、満面の笑みで少女は俺をハッピーエンドなんて有り得ない舞台の観覧に誘う。
少女の狂気に、俺は……
「あら、どうしたの?」
「え、あ?」
俺、は……
「顔が死人みたいに真っ青よ?」
少女の姿が二度と目に入る事が無いほどに、遠くに逃げたくて仕方なかった。
この少女にどうして関わろうなんて思った?儚げな雰囲気があいつに似ているから助けたかった?――冗談じゃないッ!!
あいつはこんな化け物なんかじゃない!人間の血が通った、世界全部の優しさを集めたようなやつだった!一緒だなんて、そんなふざけた幻想を抱いた自分を殴り飛ばしたい!
背を向け、少女の前から立ち去れば良い。目の前の化け物が死のうが知った事か。これ以上ここに居たくない。
ここにいると、あいつがくれた優しさが黒く染まっていくような気がして、無言で立ち去ろうとした時だった――津波の第二波が俺達を襲った。
不覚だった。目の前の猿と話していた所為で、津波の予兆に気付けなかった。足元にある地面が崩れたかのような感覚。バランスが上手く取れなくて、身体が欄干に打つかり……
「……ッ!?」
振動によって浮いた身体が、そのまま欄干を越えようとする。
(嘘、でしょう?)
ここで私の人生が終わるわけが無い。私の願いを神様が叶えてくれたのよ?これからは自分の人生を歩きなさいって、そう祝福してくれたの!
投げ出される身体、欄干を掴もうと手を伸ばす……が、届かない。
違う違う違うッ!ここで終わるなんて嘘よ!
さっきまで眺めていた濁流の光景が脳裏に過ぎる。
生きられるわけ無い。アレは豚を殺す為の天災だったのに、なぜ私を殺そうとするの?これまでの残酷な時間は、これからの希望に繋がる為にあったのでしょう?そうじゃなければ、私はどうして……
「何の為に産まれたのよッ――!!」
悔しくて、意味の無い人生になる事が悔しくてしょうがなかった。だから、私は天を睨みつけた。一瞬の幸福を与えた神へと最後の反抗。私の目には終焉に相応しい黒い曇天の空が映る……はずだった。
「――ってぇ~~~~ッ!!」
でも、私の目に映ったのは、猿か豚かわからない馬鹿の、歯を食い縛る顔だった。
「な、にを?」
「知らねぇよッ!!勝手に身体が動いたんだッ!!テンプレなら、死にそうな人間見捨てる理由なんざねぇだろうがッ!!つうか早く上がって来いよッ!腕ッ!重くて腕がいってぇんだよッ!!」
何か無礼な事を口走った気がするけれど、その馬鹿は私の右腕を両手で掴んで、引き上げようとしていた。
欄干を掴もうとしていた私の手を、生物学上の雄である馬鹿が掴んでいるのに、私は不思議と嫌な気分ではなかった。私にとって、全ての雄は自分を害するだけの価値のない敵なのに。まあ、現在進行形で危機的状況で、興奮状態にあるからかもしれないのだけれど。
「何ぼーっとしてんだボケッ!!重いっつってんだろうがッ!!早く欄干掴めや!」
「あなた、重い重いと……引き摺り降ろすわよ?」
「この状況で余裕だねお前!?さすがイカれてやがるガキは違うわ!……冗談です冗談です!だから体重掛けるなッ!」
……歩道橋に上がってから突き落としてやろうかしら?なんて、冗談をやっている余裕は無いわね。
ちらっと背後を見やると、丁度私のいる高さまで車が濁流に乗せられて突っ込んで来ているのが見えた。
歩道橋スレスレでしょうけど、私は確実に死ぬわね。
馬鹿にも突っ込んでくる車が見えたのか、私の腕を掴む手に更に力が加わる。
「いッ!!」
「それくらい我慢しろ!ていうか、お前早く欄干掴んで登ってこいよッ!」
「……無理よ」
「無理って……無理?何言ってんのお前?」
まったく、私の生死を握っているのがこの馬鹿だと思うと眩暈がしそうだわ。
「足りない脳みそで少しは考えなさい。私のこの細い腕で、しかも冬だからそれなりに着込んで重量のある身体を持ち上げられるとでも?」
至極全うな私の言葉に、馬鹿の顔にアホが加わった。
「……マジでつっかえねぇ~」
「黙れ、殺すわよ」
なんてやり取りをしている間にも、車はグングン私に迫ってくる。もう、本当に時間が無い。つまり……
「ちょっと、早く助けなさい」
「いやいや、人を一人持ち上げるとか、そんな筋力ないですよ俺」
少し焦って、早く引き上げろと促す私に、馬鹿は口笛を吹きながらそっぽを向いた。
「嘘を言わないで!余裕じゃないの!」
「いえいえ必死ですよ?あ、スマホと財布ないや。どこにやったんだっけ?」
「嘘でしょ?ちょ、ねえ!」
「うるさいなぁ。生活必需品がないと今後困るだろうが」
「今はもっと優先するものがあるじゃないの!」
何?なんなのよこいつ!私を助ける為に掴んだんじゃないの!?それとも、さっきまでの私の態度が気に食わないとでも言うの!?
「ほんと、冗談止めてよ!今、そんなことしてる暇なんてないでしょ!私が死んでも良いって言うの!?」
馬鹿から不穏な空気を感じて、私は我武者羅に怒鳴り散らす。自分の命が懸かっている状況で、形振り構っている余裕なんてなかった。そんな無様な醜態を曝す私を、そいつは酷く冷めた眼で見下ろした。いや、見下した。
「その命を、人の死を笑っていたのは誰だ?」
「――な、にを」
そいつの言葉に二の句を告げない。すらすら思いつく罵倒。けれど、それが外に出ることは無い。そいつの眼がそれを許さない。
「他人の命は笑い、自分の命には泣く。なるほどなるほど……テメェの価値観は果たして正しいでしょうか?間違っているでしょうか?俺はなぁ、命に価値をつける馬鹿が嫌いでなぁ……そいつを同じ人間とは認めたくない。つうか、人間じゃねぇ」
本気だ……この男は本気で私にとっての理不尽を打つけている。
何を……この男になんて言えば良い?正直に言うなら、グダグダ言ってないで助けなさい!この下郎!……なのだけれど、多分この男には何を言っても通じない。私の世界と、この男の生きてきた世界は多分、壊滅的に違いすぎる。だから、こいつを納得させる言葉を私は持たない。
持たないなら、もう……
「なあ、おい。なんか言えやガキ。ガンガン打つかりながら流れて来てるから、あの世行きのタクシー到着まであと何秒かなぁ?」
大分下衆野郎的だが、これしかない。人間としてはどうかと思うが、ぎりぎりで引き上げるつもりではいる。ただ、それを悟らせないように、本気でこのままでいるぞと匂わせている。
正直、こいつを引き上げるのは簡単だ。ちゃんと食ってるのか心配になるほどに腕は痩せ細っていて、目一杯力を加えたら冗談じゃなく折れてしまうだろう。そんな身体が重いわけが無い。こいつの腕を掴むとき、欄干に肋骨を打ってしまい、多少は痛かったが。
きっと、あいつは今の俺を見たら背中をぽかぽか叩いて怒るに違いない。でも、こうでもしないと見えそうにないんだよ。
「……ない」
「あん?聞こえねぇよ、ボケ」
こいつの心の奥底にある本当の表情(かお)がな。
「あなたなんかに解るわけないッ!!のうのうと生きてきて、何不自由なく人生を謳歌してきたあなたなんかにッ!!」
俺が強いた理不尽への返答には、俺が見たかった年相応の少女がちょっとだけ顔を覗かせた。
車が少女を連れ去るまであと……
「家族というものが……家族が豚畜生だった私の気持ちなんて――ッ!!」
何時間待っても車は連れ去らないさ。
「……はい、よく出来ました」
少女を少し引き上げ、車が打つかる直前で避けつつ、欄干まで上げてやる。
ぽかんとしている少女は、俺を悔し涙で濡れた目で見ていた。うん、やりすぎたかな。大人気ない自分少し反省。
「こっちに戻れるか?」
俺の問いに黙って頷き、少女は歩道橋へと戻ってくる。
戻ってきた少女は俯いて、俺に涙を見られないようにしていた。すると、頭が丁度良い高さにあって、ついつい俺は少女の頭をぽんぽんと軽く叩いていた。
「悪かったな。でも、まあ……そういうことか」
出会ったばかりで酷な事をしてしまったが、少女の慟哭にも似た悲痛な言葉に俺は納得した。
(あの身体の痣と火傷……ありゃあ彼氏じゃなくて、家族に付けられたわけだ)
その家族にも何かしらの複雑な事情があるのかもしれない。悪を悪と決め付けるのは簡単だが、違う側面から見ればまた違う結果になる事もある。だから、一概に少女の家族を悪く言うのは、大人のすることじゃないかもしれない。
(けどよぉ……)
それでも、間違いなくそのクズ……じゃない。汚物様達は少女の人間性を歪め、狂わせるほどの仕打ちをしたのだ。虐待だなんだと言うのは簡単だ。虐待はいけません、最低ですなんて、テレビを点ければ訳知り顔でおばさんやおっさん達が腐るほど言っている。
なぜあの時間、こいつが神社にいたのか……もしかしたら、ここはこいつにとって、本当の意味で聖域だったのかもしれない。唯一の救いの場所。
「…………」
辛かったな、苦しかったな、なんて俺は言えない。少女の苦しみ、痛み、悲しみ、嘆き、諦め、それらの負の感情を経験したことがないから。あったとしても、少女の比ではないはずだ。
こんな……世界全てを憎むような、そんな残酷と無残を俺は知らない。
少女にとって、この津波よりもこれまでの日常のほうが地獄だったのだろう。こんな地獄が救いと思えるなんて……そんな過酷、想像もしたくない。
「……ろす」
それまで黙っていた少女が、ふと何かを呟いた。
「ん?どうした?」
さっきとは打って変わって、俺に出来る精一杯の優しい声で聞き返した。すると、彼女は俺に身を寄せて……欄干に向かって俺を突き飛ばしやがった。
「殺す殺す殺すッ!」
「待て待て待て待てッ!聞いて!俺の弁明を聞いて!」
同情してた数秒前の俺よ、くたばれ。こいつ全然懲りてないよ!反省するような殊勝な人間じゃなかったわ!
本気で落ちそうになり、少女の両腕を掴んで止める。
「極刑……極刑しかないわ」
「情状酌量の余地ねぇのかな!?」
「この私を辱めて生きていられるとでも?」
「天寿全うするわ!」
少女の腕を振り払い、バックステップで距離を取る。
あ~、本格的にあかん。レイプ目や。つまり、俺を殺る気全開ですわ。
「後悔を抱いて死になさい!」
「俺は……俺は死なない!」
こうして、少女は無事助かりましたとさ。ちなみに、俺の被害は引っ掻き傷数箇所と、首筋には噛み付かれた痕がくっきりと残った。……ガチで殺りに来てんじゃねぇよ。
あたりはすっかり暗くなり、雪が頬を打つように強く降り始めた。津波がこの町を襲ってから四時間以上が経過したけれど、津波は治まる事を知らず、今もこの町を破壊し続けている。
今もきっと水に浸かりながら、電柱や家の屋根に掴まって助けを待つ人が大勢いるはず。そんな人達の体温を、雪は純粋で美しい白さとは裏腹に、容赦なく奪い死に近づけていく。
津波が引いて、そしてまた予兆の数分後に襲ってくる。そんな事が繰り返され、終わりの見えない不安と恐怖に人々が駆られる中……
「これマジでやばいよなぁ~」
緊張感の欠片もない男が、歩道橋の階段を覗きながら呟く。
私はそんな男を横目に、歩道橋の下をずっと無言で眺めている。
別に、津波がここまで飲み込むんじゃないかなんて心配はしていない。それよりも、もっと重大な失態を犯してしまったのだから。
津波で気が動転していたわけじゃない。ただ、無意味な人生のまま終わらせたくなんてなかった。今まで生きてきて、何一つ歓びを知らないまま死ぬなんて、冗談じゃないって、ずっと心の中では奴等に反抗して生きてきたから。
だから、これは失態。私は無様に泣き叫んでしまった。自分を他人に、しかも今日会ったばかりの男に曝け出してしまったのだ。
他人は信用ならない。自分だけを信じれば良い。そんな信念を持っていたというのに、無理矢理あの男に素の自分を引き出されてしまって、どうにも調子が狂ってあの男を真っ直ぐに見られない。
それに、私の事情をちょっとは知ったはずのそこの男は、私の事に興味がないのか、一切その事に触れてこようとしない。わざとなのかもしれないし、もしくは私に踏み込んできたくないのかもしれない。そうよね、私だってこんな複雑で面倒な家庭にいた女と関わりたいと思わないもの。でも、それなら最初から暴かなければいいじゃない。私から遠ざかろうとするのなら、何もしないで踏み込んでこなければ良かったのよ。それなのに中途半端に踏み込んできて……いい人を演じたいだけならば他でやって欲しい。私に関わろうとなんて……
「おい」
そうよ。どうせなら私を置いて、日光の猿のようにそこの山の中に消え去ればいいのに。
「おいって言ってんだけど、聞こえないのかなぁ?それとも人語を解さないお馬鹿さんなのかなぁ?」
私はここで一人、この津波の終わりを見て、その後は誰も私を知らない土地にでも消息を断てば良い。そうして人生をやり直せたなら、私は……
「目上を無視すんなクソ餓鬼」
……あえて無視していたのが解らない馬鹿が、この私の高貴な頭を気安く叩いてきた。
「死なすわよ」
「弱い犬ほど吠えますな~。んな事より俺の話を聞いてくれませんか?」
私の冷めた声に多少は二の足を踏んだらしく、なぜか敬語になっていた。
「聞くも何も、あなたさっきまで私に話しかけようともしてなかったじゃない。放っておいてよ」
「は?……ああ、そういうことか」
「何よ?」
「俺が話しかけなかったから拗ねてんのか」
「……は?」
拗ねるって、この私が?あなたのような下賎な民が触れてこなかっただけで?頭湧いているにも程があるわね。
「そうかそうか、ごめんな。なるほど、お前はうさぎちゃんだったわけだ。構われないと死んじゃうってやつ。可愛いとこあるじゃ……すまん。謝るから、その俺を突き落とそうとする両手を下ろしてくれ」
この男はよくわからない事ばかりする。今まで会った雄の中で、こんなに行動の読めない雄はいなかった。
「あのな、お前がそんなだから話しかけなかったんだよ」
「……どういうことよ?」
「そのままの意味だろ。お前の機嫌次第で俺の命が左右されるんだもん、危険物取り扱いの資格があれば話は別だが」
「この人畜無害の私に向かって何を言うかと思えば……下らない。目が化膿しているの?」
「毒薬にしかならんだろうがお前は。だからなるべく距離を置いて身の安全を取っていたんだっつうの」
そう。私の事情を知って煩わしいわけではなかったのね。それ以上に最低な理由というだけで。冗談じゃなく、心の底から突き落としてしまいたい。
「そんなことよりだな、ここから離れるぞ」
「なぜ?」
首を傾げる私に、彼は親指で背後の階段を指差す。それに習って、階段を覗くと、すぐ下まで水位が上がっていて、次の代何波かわからないけれど、津波で水がここを埋め尽くしてしまうかもしれない。
「……確かに、これはまずいわね」
「そゆこと。だから行くぞ」
意気揚々と歩き出す彼を呼び止める。
「ちょっと!行くってどこに!?」
「どこって、言わなかったか俺?俺がここにどうやって来たって言ったっけ?」
……嫌な予感がしつつ、ゆっくりと彼の向かう先に目をやると、そこには樹が生い茂る崖のような岩肌がある。
「……嘘でしょ?」
「俺は嘘を言った覚えがないけど。よっと」
震える私の声を無視して、彼は欄干に登ったかと思ったら、軽々と飛んで、太くてがっしりとした枝に手を掛けて飛び移った。
……ほんとに猿の生まれ変わりじゃないの?
「ふぅ、津波で地盤が緩いかと思ったが、案外いけるもんだな。お前も早く来いよ。こっから山の上の神社に抜ける道があるんだよ」
「あるんだよじゃないわよ!飛び移るなんて無理に決まってるでしょ!」
「……なんで?」
まさか、彼は人類全てが自分と同じ野蛮な出自だとでも思っているのかしら?
歩道橋と岩肌の隙間を覗くと、下は落ちたらとても助からない、そんな氾濫した川のような激流と、当たったら痛いじゃ済まないお地蔵様がある。
落ちたときのことを想像をすると、足が竦んでとてもじゃないけれど飛ぶなんて無理だった。
彼女が立つ場所は、自宅の屋根の上。普段ならば、そこに上がる事なんて、豪雪地域の人々が、雪かきで登るくらいのものだろう。しかし、今だけはそこにいるしかなかった。というよりも、屋根の上だけが居場所だった。
眼下には、屋根までも届きそうなほどの濁流が流れ続け、遠くではずっと消防車とパトカーのサイレンが鳴っている。
彼女は喉を潰しながら、それでも叫び続け、心の中で自問していた。
(どうして、どうしてどうしてッ!?)
いつもならば、夕食を終えて、食器を洗いながら、テレビとスマホに夢中の娘に宿題をしなさいと小言を言う時間。そんな自分に、娘がもうちょっと待ってとか言いながら、結局一時間以上は動かなくて、それに溜息をつく。仕事から帰ってきた旦那はそんな私達を見て苦笑を浮かべて……そんな、そんな何でもない一日が今日も送られるはずだった。
憔悴しようと、喉が切れようと、涙が枯れ果てようと、それでも彼女は何度も何度も叫んだ――最愛の娘の名前を。
地震発生直後、彼女はすぐに車を走らせ、娘の通う中学へと迎えに行き、家へと連れ戻った。しかし、家がもう目の前のところで津波がすぐ背後まで迫り、車を乗り捨て、二人は二階へと上がった。
第一波の時点ではまだ二階は浸水とまではいかなかったが、すぐに第二波が来ることを彼女達は悟った。なぜならば、津波が来る前には必ず、とてつもなく大きな重機が走ってくるような、そんな重く激しい地鳴りが鳴っていたのだ。このままでは二階も危ないと判断した彼女は、すぐさま娘と二人で窓から屋根へと出た。屋根を伝う事に慣れていない二人は何度も足を滑らせながらも、まずは母親が一番上へと登った。滑る足場では、娘が転落するかもしれないという不安があったからだ。自分も何度か落ちそうになるも、ようやく一番上へと登った彼女は、娘へと手を差し伸べた……その瞬間だった。彼女の視界の端に、黒の激流が映った。だが、それに飲み込まれるかもしれない恐怖よりも、娘を失う事の恐怖のほうが勝り、なんとか娘の手をがっしりと掴んだ。放してなるものか……例え、自分が死のうとも、娘だけは絶対に死なせはしない。固い決意が彼女の手に宿った。手を握り締め、娘を引き上げる。あと少し……あと少しで自分の腕の中へ……。今まで生きてきた中で出した事の無いような力で、徐々に徐々に娘を引っ張り上げ……そして運命は彼女の心を嘲笑った。
不運……その一言で救われるような後悔ではない。あの瞬間、娘の手を握る自分の手が汗で濡れていた事、更に余震と津波の振動で地面自体が大きく揺れた事。あらゆる要因が重なり、彼女の手から娘の命が零れ落ちた。最後に見た娘の顔は安堵に近いもので、もう少しで母親に抱かれるという想いを抱いていた。
ありとあらゆるものが流されていく激流に、娘の姿が消えていった。先程までその手に確かにあった娘の体温。それを確認するかのように、彼女は呆然と掌を見つめ……そして絶叫した。
彼女は呼び続ける。その声が波に飲まれてしまおうとも、現実を否定するために叫び続ける。きっとどこかでまだ私の助けを待っている、助けてお母さんって返事をしてくれる。なんだっていい。神だろうが悪魔だろうがどちらでも構わない。この現実を悪夢へと変えてくれるなら。
遠くで鳴るサイレンに彼女は叫ぶ。届かない祈りを。
「た、すけて……娘をッ!!あの子をッ!!お願いよッ、お願いだからぁッ!!」
彼女の叫びはその日、喉が切れて声が出なくなっても、それでも口を動かし続けた。自分の何よりも大切な、愛する娘の名前を……
人が想像出来る限りで最も最悪な災害……その想像を軽々超えてきた現実。その現実に誰もが心を砕かれ、癒える事の無い傷を負うことになるだろう。そんな現実離れした現実を前に、目の前の少女は愉悦とも、恍惚とも取れる笑みを浮かべて、眼下の濁流を眺めていた。
その少女を俺はどこか美しいと思った……寒々しい美しさを少女は醸し出していた。決して、良い意味なんかじゃない。むしろ、彼女の美しさに惹き込まれないよう、これ以上近づきたくないとも感じている。
だが、それ以上に俺は……
「よお、随分楽しそうじゃねぇか。俺も混ぜろよ……クソ餓鬼」
失われていく命や思い出に対しての少女の幸福な笑顔が、どうにも許せそうにない。
声を掛けてようやく俺に気付いた少女は、昼に見た少女とは別人で、ゆっくりと俺に顔を向け……妖艶に微笑んだ。それは、神話に出てくる冥界の女神のようで、背筋が凍るような感覚が奔る……寒いだけかもしれんが。
「あら、いつからそこにいたのかしら?」
少女の問いに後ろの岩肌を親指で示す。
「ガキの頃はやんちゃでね。そこの樹から飛び移ってきた」
「ふ~ん、その顔と同じく、猿並には運動神経は良いようね」
「まあな。そういうお前は、エリザベートバートリーでも信奉してるのか?反吐が出るな」
「ふふ、ちょっとは学があるみたいね。いつもなら不遜なその発言に対して、生きるのも嫌になるほどに身の程を弁えさせてあげるのだけれど、今はとても気分がいいの。だから、不問にしてあげる。感謝する事ね」
冗談……だったとしても許せないが、性質が悪い事に本気で言ってやがる。何か事情があるのかもしれないが、だとしても人の命が無残に散る様を上機嫌で眺めるなんて、頭がイカれてる。
「……そんなに嬉しいか?この災害が、沢山の人の涙がそんなに嬉しいかよ、クソ餓鬼」
相手は年下の少女という事もあり、沸騰しそうになる感情を力ずくで押さえ込んで聞いた。ちょっとは、さ……期待してたよ。嬉しくなんてないって、こんな災害が嬉しいわけじゃないって……そう、言ってくれるのを。人間らしい感情があるのなら、それが普通だろ?
それが俺の杓子定規の限界だった。
「ふっ、ふふ」
小さく漏れ聞こえる声と揺れる肩。零れるそれを耐えて、耐えて……そして爆発した。
「――最ッッッッッ高よッ!!」
両腕を広げ、天高らかに少女はその歓喜の声を解き放つ。空の先にいる神に感謝でもするかのようだった。
「嬉しいかですって?何を当たり前のことを聞くのかしら。今の私を見て分からないの?」
愕然とした。俺の価値観を真っ向から少女はその綺麗な笑顔で否定する。
「当たり……ま、え?」
「そうよ、当たり前。あなたにはわからない?ああ、猿には人間の感情を理解出来るわけないわね」
「人間……?」
自分を人間だと、悲劇にもならない地獄が目の前にあって、それを歓迎する自分を普通だと言うのか?
少女を力なく見つめる俺を見て、ああ、そうかとぽつりと呟く。
「あなたは猿じゃなく豚なのね。そう、それならわからないかもしれないわ。あの豚共と同じ価値観を持っているのなら、私を理解出来ないわよね」
「豚共?お前、何言って……」
少女の言葉が一つも理解出来ない。彼女への怒りは、徐々に恐怖へと変わっていく。
軽い気持ちで言っているならば、ちょっと怒ってやれば良いと考えていた。しかし、どうやらそれは浅慮だったらしい。少女は狂っていたんだ。この状況に陥る以前から、少女は人間を止めるほどに狂っていたんだ。もう、俺には少女が人間には見えなかった。殺人を犯した者以上に、彼女の心は怪物になっていた。
何を言えばいいのか?そもそも俺に少女をどうにか出来るのか?何もわからず、どうしたらいいかもわからない。何よりも……
「……まあ、いいわ。あなたが豚だろうと猿だろうと。そうだ、あなたも一緒にこの世界が壊れる無様な様を見ましょう。私と一緒にこの舞台を観る事を特別に許可してあげるわ。光栄に思いなさい」
子供が誕生日を祝って貰っているかのように、満面の笑みで少女は俺をハッピーエンドなんて有り得ない舞台の観覧に誘う。
少女の狂気に、俺は……
「あら、どうしたの?」
「え、あ?」
俺、は……
「顔が死人みたいに真っ青よ?」
少女の姿が二度と目に入る事が無いほどに、遠くに逃げたくて仕方なかった。
この少女にどうして関わろうなんて思った?儚げな雰囲気があいつに似ているから助けたかった?――冗談じゃないッ!!
あいつはこんな化け物なんかじゃない!人間の血が通った、世界全部の優しさを集めたようなやつだった!一緒だなんて、そんなふざけた幻想を抱いた自分を殴り飛ばしたい!
背を向け、少女の前から立ち去れば良い。目の前の化け物が死のうが知った事か。これ以上ここに居たくない。
ここにいると、あいつがくれた優しさが黒く染まっていくような気がして、無言で立ち去ろうとした時だった――津波の第二波が俺達を襲った。
不覚だった。目の前の猿と話していた所為で、津波の予兆に気付けなかった。足元にある地面が崩れたかのような感覚。バランスが上手く取れなくて、身体が欄干に打つかり……
「……ッ!?」
振動によって浮いた身体が、そのまま欄干を越えようとする。
(嘘、でしょう?)
ここで私の人生が終わるわけが無い。私の願いを神様が叶えてくれたのよ?これからは自分の人生を歩きなさいって、そう祝福してくれたの!
投げ出される身体、欄干を掴もうと手を伸ばす……が、届かない。
違う違う違うッ!ここで終わるなんて嘘よ!
さっきまで眺めていた濁流の光景が脳裏に過ぎる。
生きられるわけ無い。アレは豚を殺す為の天災だったのに、なぜ私を殺そうとするの?これまでの残酷な時間は、これからの希望に繋がる為にあったのでしょう?そうじゃなければ、私はどうして……
「何の為に産まれたのよッ――!!」
悔しくて、意味の無い人生になる事が悔しくてしょうがなかった。だから、私は天を睨みつけた。一瞬の幸福を与えた神へと最後の反抗。私の目には終焉に相応しい黒い曇天の空が映る……はずだった。
「――ってぇ~~~~ッ!!」
でも、私の目に映ったのは、猿か豚かわからない馬鹿の、歯を食い縛る顔だった。
「な、にを?」
「知らねぇよッ!!勝手に身体が動いたんだッ!!テンプレなら、死にそうな人間見捨てる理由なんざねぇだろうがッ!!つうか早く上がって来いよッ!腕ッ!重くて腕がいってぇんだよッ!!」
何か無礼な事を口走った気がするけれど、その馬鹿は私の右腕を両手で掴んで、引き上げようとしていた。
欄干を掴もうとしていた私の手を、生物学上の雄である馬鹿が掴んでいるのに、私は不思議と嫌な気分ではなかった。私にとって、全ての雄は自分を害するだけの価値のない敵なのに。まあ、現在進行形で危機的状況で、興奮状態にあるからかもしれないのだけれど。
「何ぼーっとしてんだボケッ!!重いっつってんだろうがッ!!早く欄干掴めや!」
「あなた、重い重いと……引き摺り降ろすわよ?」
「この状況で余裕だねお前!?さすがイカれてやがるガキは違うわ!……冗談です冗談です!だから体重掛けるなッ!」
……歩道橋に上がってから突き落としてやろうかしら?なんて、冗談をやっている余裕は無いわね。
ちらっと背後を見やると、丁度私のいる高さまで車が濁流に乗せられて突っ込んで来ているのが見えた。
歩道橋スレスレでしょうけど、私は確実に死ぬわね。
馬鹿にも突っ込んでくる車が見えたのか、私の腕を掴む手に更に力が加わる。
「いッ!!」
「それくらい我慢しろ!ていうか、お前早く欄干掴んで登ってこいよッ!」
「……無理よ」
「無理って……無理?何言ってんのお前?」
まったく、私の生死を握っているのがこの馬鹿だと思うと眩暈がしそうだわ。
「足りない脳みそで少しは考えなさい。私のこの細い腕で、しかも冬だからそれなりに着込んで重量のある身体を持ち上げられるとでも?」
至極全うな私の言葉に、馬鹿の顔にアホが加わった。
「……マジでつっかえねぇ~」
「黙れ、殺すわよ」
なんてやり取りをしている間にも、車はグングン私に迫ってくる。もう、本当に時間が無い。つまり……
「ちょっと、早く助けなさい」
「いやいや、人を一人持ち上げるとか、そんな筋力ないですよ俺」
少し焦って、早く引き上げろと促す私に、馬鹿は口笛を吹きながらそっぽを向いた。
「嘘を言わないで!余裕じゃないの!」
「いえいえ必死ですよ?あ、スマホと財布ないや。どこにやったんだっけ?」
「嘘でしょ?ちょ、ねえ!」
「うるさいなぁ。生活必需品がないと今後困るだろうが」
「今はもっと優先するものがあるじゃないの!」
何?なんなのよこいつ!私を助ける為に掴んだんじゃないの!?それとも、さっきまでの私の態度が気に食わないとでも言うの!?
「ほんと、冗談止めてよ!今、そんなことしてる暇なんてないでしょ!私が死んでも良いって言うの!?」
馬鹿から不穏な空気を感じて、私は我武者羅に怒鳴り散らす。自分の命が懸かっている状況で、形振り構っている余裕なんてなかった。そんな無様な醜態を曝す私を、そいつは酷く冷めた眼で見下ろした。いや、見下した。
「その命を、人の死を笑っていたのは誰だ?」
「――な、にを」
そいつの言葉に二の句を告げない。すらすら思いつく罵倒。けれど、それが外に出ることは無い。そいつの眼がそれを許さない。
「他人の命は笑い、自分の命には泣く。なるほどなるほど……テメェの価値観は果たして正しいでしょうか?間違っているでしょうか?俺はなぁ、命に価値をつける馬鹿が嫌いでなぁ……そいつを同じ人間とは認めたくない。つうか、人間じゃねぇ」
本気だ……この男は本気で私にとっての理不尽を打つけている。
何を……この男になんて言えば良い?正直に言うなら、グダグダ言ってないで助けなさい!この下郎!……なのだけれど、多分この男には何を言っても通じない。私の世界と、この男の生きてきた世界は多分、壊滅的に違いすぎる。だから、こいつを納得させる言葉を私は持たない。
持たないなら、もう……
「なあ、おい。なんか言えやガキ。ガンガン打つかりながら流れて来てるから、あの世行きのタクシー到着まであと何秒かなぁ?」
大分下衆野郎的だが、これしかない。人間としてはどうかと思うが、ぎりぎりで引き上げるつもりではいる。ただ、それを悟らせないように、本気でこのままでいるぞと匂わせている。
正直、こいつを引き上げるのは簡単だ。ちゃんと食ってるのか心配になるほどに腕は痩せ細っていて、目一杯力を加えたら冗談じゃなく折れてしまうだろう。そんな身体が重いわけが無い。こいつの腕を掴むとき、欄干に肋骨を打ってしまい、多少は痛かったが。
きっと、あいつは今の俺を見たら背中をぽかぽか叩いて怒るに違いない。でも、こうでもしないと見えそうにないんだよ。
「……ない」
「あん?聞こえねぇよ、ボケ」
こいつの心の奥底にある本当の表情(かお)がな。
「あなたなんかに解るわけないッ!!のうのうと生きてきて、何不自由なく人生を謳歌してきたあなたなんかにッ!!」
俺が強いた理不尽への返答には、俺が見たかった年相応の少女がちょっとだけ顔を覗かせた。
車が少女を連れ去るまであと……
「家族というものが……家族が豚畜生だった私の気持ちなんて――ッ!!」
何時間待っても車は連れ去らないさ。
「……はい、よく出来ました」
少女を少し引き上げ、車が打つかる直前で避けつつ、欄干まで上げてやる。
ぽかんとしている少女は、俺を悔し涙で濡れた目で見ていた。うん、やりすぎたかな。大人気ない自分少し反省。
「こっちに戻れるか?」
俺の問いに黙って頷き、少女は歩道橋へと戻ってくる。
戻ってきた少女は俯いて、俺に涙を見られないようにしていた。すると、頭が丁度良い高さにあって、ついつい俺は少女の頭をぽんぽんと軽く叩いていた。
「悪かったな。でも、まあ……そういうことか」
出会ったばかりで酷な事をしてしまったが、少女の慟哭にも似た悲痛な言葉に俺は納得した。
(あの身体の痣と火傷……ありゃあ彼氏じゃなくて、家族に付けられたわけだ)
その家族にも何かしらの複雑な事情があるのかもしれない。悪を悪と決め付けるのは簡単だが、違う側面から見ればまた違う結果になる事もある。だから、一概に少女の家族を悪く言うのは、大人のすることじゃないかもしれない。
(けどよぉ……)
それでも、間違いなくそのクズ……じゃない。汚物様達は少女の人間性を歪め、狂わせるほどの仕打ちをしたのだ。虐待だなんだと言うのは簡単だ。虐待はいけません、最低ですなんて、テレビを点ければ訳知り顔でおばさんやおっさん達が腐るほど言っている。
なぜあの時間、こいつが神社にいたのか……もしかしたら、ここはこいつにとって、本当の意味で聖域だったのかもしれない。唯一の救いの場所。
「…………」
辛かったな、苦しかったな、なんて俺は言えない。少女の苦しみ、痛み、悲しみ、嘆き、諦め、それらの負の感情を経験したことがないから。あったとしても、少女の比ではないはずだ。
こんな……世界全てを憎むような、そんな残酷と無残を俺は知らない。
少女にとって、この津波よりもこれまでの日常のほうが地獄だったのだろう。こんな地獄が救いと思えるなんて……そんな過酷、想像もしたくない。
「……ろす」
それまで黙っていた少女が、ふと何かを呟いた。
「ん?どうした?」
さっきとは打って変わって、俺に出来る精一杯の優しい声で聞き返した。すると、彼女は俺に身を寄せて……欄干に向かって俺を突き飛ばしやがった。
「殺す殺す殺すッ!」
「待て待て待て待てッ!聞いて!俺の弁明を聞いて!」
同情してた数秒前の俺よ、くたばれ。こいつ全然懲りてないよ!反省するような殊勝な人間じゃなかったわ!
本気で落ちそうになり、少女の両腕を掴んで止める。
「極刑……極刑しかないわ」
「情状酌量の余地ねぇのかな!?」
「この私を辱めて生きていられるとでも?」
「天寿全うするわ!」
少女の腕を振り払い、バックステップで距離を取る。
あ~、本格的にあかん。レイプ目や。つまり、俺を殺る気全開ですわ。
「後悔を抱いて死になさい!」
「俺は……俺は死なない!」
こうして、少女は無事助かりましたとさ。ちなみに、俺の被害は引っ掻き傷数箇所と、首筋には噛み付かれた痕がくっきりと残った。……ガチで殺りに来てんじゃねぇよ。
あたりはすっかり暗くなり、雪が頬を打つように強く降り始めた。津波がこの町を襲ってから四時間以上が経過したけれど、津波は治まる事を知らず、今もこの町を破壊し続けている。
今もきっと水に浸かりながら、電柱や家の屋根に掴まって助けを待つ人が大勢いるはず。そんな人達の体温を、雪は純粋で美しい白さとは裏腹に、容赦なく奪い死に近づけていく。
津波が引いて、そしてまた予兆の数分後に襲ってくる。そんな事が繰り返され、終わりの見えない不安と恐怖に人々が駆られる中……
「これマジでやばいよなぁ~」
緊張感の欠片もない男が、歩道橋の階段を覗きながら呟く。
私はそんな男を横目に、歩道橋の下をずっと無言で眺めている。
別に、津波がここまで飲み込むんじゃないかなんて心配はしていない。それよりも、もっと重大な失態を犯してしまったのだから。
津波で気が動転していたわけじゃない。ただ、無意味な人生のまま終わらせたくなんてなかった。今まで生きてきて、何一つ歓びを知らないまま死ぬなんて、冗談じゃないって、ずっと心の中では奴等に反抗して生きてきたから。
だから、これは失態。私は無様に泣き叫んでしまった。自分を他人に、しかも今日会ったばかりの男に曝け出してしまったのだ。
他人は信用ならない。自分だけを信じれば良い。そんな信念を持っていたというのに、無理矢理あの男に素の自分を引き出されてしまって、どうにも調子が狂ってあの男を真っ直ぐに見られない。
それに、私の事情をちょっとは知ったはずのそこの男は、私の事に興味がないのか、一切その事に触れてこようとしない。わざとなのかもしれないし、もしくは私に踏み込んできたくないのかもしれない。そうよね、私だってこんな複雑で面倒な家庭にいた女と関わりたいと思わないもの。でも、それなら最初から暴かなければいいじゃない。私から遠ざかろうとするのなら、何もしないで踏み込んでこなければ良かったのよ。それなのに中途半端に踏み込んできて……いい人を演じたいだけならば他でやって欲しい。私に関わろうとなんて……
「おい」
そうよ。どうせなら私を置いて、日光の猿のようにそこの山の中に消え去ればいいのに。
「おいって言ってんだけど、聞こえないのかなぁ?それとも人語を解さないお馬鹿さんなのかなぁ?」
私はここで一人、この津波の終わりを見て、その後は誰も私を知らない土地にでも消息を断てば良い。そうして人生をやり直せたなら、私は……
「目上を無視すんなクソ餓鬼」
……あえて無視していたのが解らない馬鹿が、この私の高貴な頭を気安く叩いてきた。
「死なすわよ」
「弱い犬ほど吠えますな~。んな事より俺の話を聞いてくれませんか?」
私の冷めた声に多少は二の足を踏んだらしく、なぜか敬語になっていた。
「聞くも何も、あなたさっきまで私に話しかけようともしてなかったじゃない。放っておいてよ」
「は?……ああ、そういうことか」
「何よ?」
「俺が話しかけなかったから拗ねてんのか」
「……は?」
拗ねるって、この私が?あなたのような下賎な民が触れてこなかっただけで?頭湧いているにも程があるわね。
「そうかそうか、ごめんな。なるほど、お前はうさぎちゃんだったわけだ。構われないと死んじゃうってやつ。可愛いとこあるじゃ……すまん。謝るから、その俺を突き落とそうとする両手を下ろしてくれ」
この男はよくわからない事ばかりする。今まで会った雄の中で、こんなに行動の読めない雄はいなかった。
「あのな、お前がそんなだから話しかけなかったんだよ」
「……どういうことよ?」
「そのままの意味だろ。お前の機嫌次第で俺の命が左右されるんだもん、危険物取り扱いの資格があれば話は別だが」
「この人畜無害の私に向かって何を言うかと思えば……下らない。目が化膿しているの?」
「毒薬にしかならんだろうがお前は。だからなるべく距離を置いて身の安全を取っていたんだっつうの」
そう。私の事情を知って煩わしいわけではなかったのね。それ以上に最低な理由というだけで。冗談じゃなく、心の底から突き落としてしまいたい。
「そんなことよりだな、ここから離れるぞ」
「なぜ?」
首を傾げる私に、彼は親指で背後の階段を指差す。それに習って、階段を覗くと、すぐ下まで水位が上がっていて、次の代何波かわからないけれど、津波で水がここを埋め尽くしてしまうかもしれない。
「……確かに、これはまずいわね」
「そゆこと。だから行くぞ」
意気揚々と歩き出す彼を呼び止める。
「ちょっと!行くってどこに!?」
「どこって、言わなかったか俺?俺がここにどうやって来たって言ったっけ?」
……嫌な予感がしつつ、ゆっくりと彼の向かう先に目をやると、そこには樹が生い茂る崖のような岩肌がある。
「……嘘でしょ?」
「俺は嘘を言った覚えがないけど。よっと」
震える私の声を無視して、彼は欄干に登ったかと思ったら、軽々と飛んで、太くてがっしりとした枝に手を掛けて飛び移った。
……ほんとに猿の生まれ変わりじゃないの?
「ふぅ、津波で地盤が緩いかと思ったが、案外いけるもんだな。お前も早く来いよ。こっから山の上の神社に抜ける道があるんだよ」
「あるんだよじゃないわよ!飛び移るなんて無理に決まってるでしょ!」
「……なんで?」
まさか、彼は人類全てが自分と同じ野蛮な出自だとでも思っているのかしら?
歩道橋と岩肌の隙間を覗くと、下は落ちたらとても助からない、そんな氾濫した川のような激流と、当たったら痛いじゃ済まないお地蔵様がある。
落ちたときのことを想像をすると、足が竦んでとてもじゃないけれど飛ぶなんて無理だった。
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