起きるから奇跡って言葉があるのよ!

仇花

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一日目~出逢い~ 其の二

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 14才の初春。この年まで生きていれば未確認生物と遭遇する事があるのかもしれない。かなり天文学的数値の奇跡かもしれないけれど。まあ、未確認生物と言っても危害を加えてこないだけマシかもしれない。自分の餌も分け与えて行ってくれたようだし、まあ良い生き物だったと認めなくもないかしら。
 それにしても……
「ふっ」
 さっきの生き物の顔を思い出すと、込み上げてくる笑いが堪えきれなくて吹き出してしまう。
 私の些細な言葉にあんな滑稽な顔をして、泣きそうな顔をして去っていくなんて……私より生きているでしょうに、なんて無様なのかしら。しかも何?私がサボっているのが、給食に不満があるからですって?
「あは、あははははははッ!!」
 どこをどうしたらそのような解釈が成り立つのかしら。アレの思考回路を是非研究すべきだわ。どう論理を組み立てればその結論になるのか、私には想像も出来ない方程式がアレの中で組み上がっているのでしょう。
「あ~、面白いわ」
 それに、あのドヤ顔での力押し。自分がかっこいいと本気で思っているのかしら?間の抜けた事を決め顔で言うなんてどうかしている。
 最初、静かに私に近づいてくるものだから、少し警戒をしてしまったのだけれど、そんな必要はこれっぽっちもなかったわ。だって、あの生き物の視線には下衆な感情は受けなかった。雄なんて、どいつもこいつも私を舐め回すように見て、勝手に懸想する低脳ばかり。教師ですら、何人かは私に卑猥な視線をぶつけてくる。挙句には、女子までもが私をお高く気取った、いけ好かないお嬢様気取りと揶揄する始末。好き勝手に嫉妬するだなんて、自分の品位を貶めていると気付かないのかしら?
 ほんと、どれもこれもが低脳の腐れ外道ばかり。それがここ数年生きてきた私が出した結論で、自分も、他人も全てが腐っているのだと……そう、思っていた。腐った外道に侵食されて、徐々に腐っていく自分を自覚したのはいつだったか……ああ、思い出したくもない。反吐が出る。
 そうして、私は感情を腐らせ、殺した。感情を殺さなければ、私が殺されてしまうから。奴等とこの世界に、殺され尽くされてしまう。ならば、いっその事自分で殺してしまったほうが何倍もマシなのだから。
 何年……私は、自分を殺し続けてきたのかしら?何年、都合の良い人形で居続けたのかしら?数えるのも億劫だったから、忘れてしまったわ。そんな私だったのだけれど……
「驚いた。ええ、驚いたわ、とても」
 ここは神社だからかしら?だから、私の世界を壊した神とは違う、別な神様がアレを使えさせたのかもしれない。馬鹿で、能天気で、空気を読まない……でも、何一つ穢れない気持ちを持った奇特な生き物。まったく……参ったわ。ええ、とても参ってしまった。こんな感情が……笑顔がまだ自分の中にあったなんてね。でもね、神様。
「……ない、のよ」
 歯を食いしばり、先程までの愉快な気持ちを外に追い出す。
 危険なのだ。こんな些細な幸福は、毒にしかならない。だから、頭の中からさっきの生き物の、危険な無邪気な邪気を孕んだ笑顔を消し去る。
「一時の救いなんて、いらないのよッ――!!」
 神社の静謐な空気を、私の叫びにも似た怨嗟が突き破った。
 今だけの救いなんていらない。他人が伸ばす救いの手なんかいらない。楽しい、嬉しい、温かいなんて、そんな甘い感情なんて欲しくない。
 どうせ救ってくれるなら、そんな一時の甘い感情なんかいらないのよ。そんなものこれからの人生では邪魔でしかない。私を殺す劇薬だ。希望はいつでも絶望に変わる事を私は知っているの。だから、彼が私に施した笑顔なんて絶対に享受しない。それは私を殺すギロチンへと変貌するのだから。だから、ね?お願いよ神様。あの様な一時の救いじゃダメなの。ここにいる神様は、お優しいのでしょう?あのような、馬鹿と出逢わせてくれたのですもの。そんなお優しい、お優しい神様にお願いします。
「ロールプレイングゲームって知ってるかしら?神ですもの、知らない事などないでしょう?私、私ね?ゲームのラスボスになりたいの。ほら、テンプレじゃない?彼らの目的って。私もね、同じなのよ」
 この絶望の檻を壊すには、世界を壊すしかないじゃない。自分の力では無理なんだもの。叛逆の意思は下卑た笑みと手で挫かれ、希望は全て絶望に変えられてしまった。そうなってしまったらもう、世界を壊すしかないもの。世界を壊して、一から創り直す……そんな奇跡に頼るしか、もう私に出来る事はないの。
 誰かにわかってもらおう、背負ってもらおうだなんて甘えは捨てた。自分への優しさは嘘に塗りたくられていると知った。無償の愛なんて虚飾と識(し)った。
 だから、どうかお願いします。
「どうか、お願いします。私を……この世界を壊(たす)けて下さい――」



 石巻と言えば北上川。北上川と言えば釣り。釣りと言えばシーバスフィッシング。
 北上川の河口は幅が広く、春から夏にかけて鱸(すずき)が釣れる事で有名で、全国から釣りをしに人が集まる。ただ、まだ時期が早いため、釣りをしている人は疎らで物寂しさを感じてしまう。
 小学から中学にかけて釣りが趣味だった俺は、釣りを止めた後も、何をするわけでもないがここによく来ていた。
「ふぅ、川の流れを見ていると荒んだ心が落ち着くわ」
 さっきのガキに滅多クソに心をボコられて、軽く意気消沈なんだわ。ガキのくせに頭の良さそうな言葉遣いしやがって。理知的な見た目と相俟って魅力的に……じゃあ、いいじゃん。生意気だけど。
「女子に嫌われる女子の典型だなあれは」
 儚げな雰囲気は似てるんだけどなぁ、あいつに。口を開けばトリカブトだなんてな。立てば毒薬、座ればアンチマテリアルフィールド、歩く姿はトリカブトってのはあのガキにぴったりの言葉だ。俺の造語だけどさ。
 あの性格だと世の中生き難いだろうに。無駄に他人を敵にして味方をも敵にする。どうしてそうなったかは知らないが、想像は出来るんだよな。この年になるとそれなりに人を見てきたわけで……
 あのガキと話している最中、すぐに気付いたが見ないようにしていた。そいつがあった場所が場所だけに、あまりジロジロ見るわけにもいかなかった。
「……あんなとこに火傷、ね」
 今年はまだ真冬のように寒く、厚めのアウターを着ていたが、上から覗いたソレはあの年代の子供が付ける傷じゃない。しかも、火傷の下には痣まであった。いや、痣じゃねぇな。大人の男ならそれなりに恋人等に付けた事があるはずだ。つまり、キスマーク。中学生とかだと、自分の腕で練習したりとかするだろ?俺もやった。
 あのマークと火傷は誰に付けられたものなのか……彼氏か、それ以外の何かか……
 直接聞くのは躊躇われた。俺が聞いたところであのガキの人生を背負えるわけでもないし、ましてや今日あったばかりの見知らぬ男に話すわけもない。なら、俺に出来る事は馬鹿をやって、一時でも忘れさせてやる事だけだ。
 そう、自分を納得させようとするが、心の奥底ではまったく逆の事を思う。また同じ過ちを繰り返すのかと……俺が俺を責め立てる。
 わかっている。もう二度とあんな想いはしたくないって、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。だから、後悔しないように行動するべきだ。今日会ったばかりだろうと関係ない。傷ついた人間を助けるのに、時間や理由や関係なんて瑣末な事だ。
「わかってるんだけどなぁ~」
 大人と言っても、まだまだ自分一人で手一杯なわけで、他人を救えるほどの器なんてまだ出来ていない。俺にはまだ理由が必要なんだ。
「悪いな、文月(ふづき)。だから、そんな顔すんなよ」
 胸の内に浮かぶ、世界で一番の俺の宝石は、その表情を少しだけ翳らせて、俺を叱るようにむくれている。
 まあ、お前なら俺を怒るだろうな。文月ならば、脇目も振らずにあの少女の手を取り、自分の腕の中へと迎え入れる。弱いくせに強い。そんな素敵な矛盾を持った女だから。俺の一番の誇りだ。
 あの少女と、世界一の宝石を想い、苦笑を浮かべて、もしも今度会うことがあったなら、その時は俺の出来得る範囲で知恵と力を貸してやろうか。なんて、考え立ち上がった――その時だった――



 外にいた人間は気付かなかった。建物の中にいた人間は気付けなかった。
 予兆はとても小さく、電球や物がカタカタと小さく揺れるだけ。石巻は地震が多い土地で、住民はまたかと特に警戒もしない。皆が、地震を日常とし、油断と慢心を抱いてしまった。地震の本当の驚異をほとんどの人間は知らず、想像すら出来なかった。
 小さな予兆が突如、近くに雷が落ちたかのよう、強く、大きな振動へと変わった。胃ではなく、心臓を振動させる音と共に、それはやってきた。
 電柱が、マンションやビルが撓る。大地どころか、地球自体が揺れているかのように錯覚し、空までもが揺れていた。
 外にいた者、建物の中にいた者全員が地に足を着いていなかった。床が、地面が全て液状化し、波の上に立っているようだった。
 コンクリートが罅割れ、煙がそこから噴出し、電柱が何本か倒れ始める。
 誰も彼もが心に浮かんだはずだ。今日、この日、前触れもなくこの世界が終わる。生き足掻く事さえ許されないのでは……と。
 長かった。長い、長い揺れが人々を絶望で染めていった。生きた心地のしない時間が続き、地震以外の音が揺れている間消えて、日常が別世界へと変貌した。
 早く、早く治まってと願い、祈り、ようやく治まった揺れ。一瞬の間があって……ようやく人々は音を発した。悲鳴という名の音を。
 サイレンが街中に鳴り響いて、車が我先にとエンジンをかけて走っていく。
 誰も彼もが騒然とし、ある者は我が子を迎えに走り、ある者は家へと走り、ある者は状況がわからず呆然と立ち尽くしていた。
 家は大丈夫なのか、家族は、恋人は無事なのか……誰も彼もが自分の大切な者を心配し、兎に角会わなければと混乱した。
 携帯の回線は一気にパンクし、なんど掛けても繋がらない。連絡手段を断たれた人々は、どこに行けばいいのかもわからなかった。とにかく、地震は終わった。だから、あの子の、彼女の、彼の安否を確認したい。日常の声を聞いて安心したい。不安を安堵に変えることに躍起になった。
 だから……誰も彼もが考えもつかなかった。経験した事などないのだから。映画でしか観た事のないソレが、まさか街を、人を襲うだなんて、夢の世界の話でしかなかったのだから。
 地震が治まって、あとは地震での被害を確認する。もう、これ以上の被害は出ない……なんて、緊張から解き放たれ、弛緩した思考は勝手に決め付けた。第一のミスは間違いなくこの思考だろう。
 だが、そんな安堵してしまった人々の中、地震観測センターや気象庁以外の人間で少なからず異変に気付いた者達がいた。



 揺れが治まり、地面に着けていた膝を離して立ち上がる。
 やけに速い心臓の鼓動。汗が知らず知らずのうちに頬を伝って、地面に染みを作っていた。
 鼓動を落ち着けるために深呼吸をし、落ち着いてきたところで一言。
「うおおおおぉぉぉッ!びっくしたぁ!マジびっくしたぁッ!」
 今の何、今の何!?火山でも噴火したの?超巨大隕石でも落ちたの?経験した事ないんですけど!震度6なら経験ありますよ、ええ。でも、今のはない。震度6じゃないでしょアレ!7はあったよ絶対!地球終わったと思ったもん!
 釣りをしていたおっさん二人を見ると、苦笑を浮かべて地震の事を話している。
 いいなぁ。仲間がいるっていいよね?僕一人でちょっと怖いんですけど。僕もま~ぜてって行けないかな?そんなコミュ力ないんですけど。
 河口の入り口近くにいた人達も戻ってくる。みんな無事を喜び、安堵の笑顔を浮かべていた。
 そうね、一瞬の安堵って大事よねほんと。分かち合えたらもっと良いよね。ぼっち涙目ですけどね、ええ。
「そういや、あいつは大丈夫だったかな」
 おにぎりを与えた少女の現状が気になる。あそこは山があるし、岩とか落ちてきても不思議じゃない。地盤がしっかりしてるって確証もないわけで……
「…………ん?」
 そうして、あの無礼な少女を心配しながら、ふと俺は違和感を覚えた。それは、何気なしに視線を向けた川なのだが、どうにもおかしい。
 釣り人達も俺と同じように疑問を持った人がいるらしく、ざわざわとし始めた。
 曰く、「川の流れがおかしい」「こんなに早く川が海方面に引いている」「なんだこれ?」とのこと。
 確かに、川を見ると異常な速さで引いていっている。だが、俺はその状況を上手くある事象、もしくは災害に結びつける事がなかなか出来なかった。それでも、落ち着いたはずの心臓が、ドクン、ドクン、と嫌な音で警鐘を鳴らし始める。
 な、んだこれ?
 俺の心の中に浮かぶのは一つだけだった。分からない。理解出来ない。それなのにどうしてこんな事を思うのか……
(まずいまずいまずいまずいまずい――ッ!!)
 本能が叫ぶ。心臓が泣き叫ぶ。得体の知れない恐怖が全身を覆う。
 足が、腕が、体の何もかもが震えだし、声も出ず、呼吸すら上手く機能しない。
 そんな俺を余所に、ついにその言葉が俺ではなく、俺よりも長く生きてきたであろう釣り人から漏れ出た。それは、映画の中だけでしか知らない最悪な災害の名前。「……に、げろ」「……え?」「早く!車!津波が来るぞ!」そんなおっさんの叫びが響き、それを誰も笑わなかった。俺も……笑えなかった。
 いや、現実感は全然ないんだけどさ……でも、さ。見れば笑えないんだよ。だって、こんなの見たことねぇもん。こんなに早く、さ……川の水位って下がるなんて……
「――ッ!!」
 考えるよりも早く体が動いた。
(まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい――ッ!!)
 震える足に無理矢理命令し、河口に背を向けて駆け出した。
「ざっけんなッ!!ざけんなよッ!!」
 何を自分が口にしているのかも認識出来ず、頭の中が真っ白になっていた。
 とにかく逃げないと。それだけが頭の中にあった。道に出ると、誰かが地震で転んで置き去りにしたのか、スクーターが道路の脇に転がっていた。
(ラッキー、サンキュー、愛してるッ!)
 鍵が付いているのを確認してガッツポーズ。少し足を置く場所が壊れているが問題はない。
 心の中で、誰のかわからないけど借ります。と謝罪して走り出す。走りながら俺は無我夢中で叫んでいた。
「――津波がッ!!津波が来ますッ!!みんな逃げろおおおおぉぉぉッ!!」
 何度も、何度も、喉が切れそうなほどに叫びながら住宅街を疾走していく。
 とにかく逃げないと。ここからなら近くに山がある。あそこなら津波が来ても助かる。幸いにも津波はまだ襲ってこない。本当に津波が来るかもわからないんだけど、川が異常な動きをしていたのは間違いじゃない。それなら逃げるしかないじゃないか。それに、通り道には神社が……
 自分の命の安全ばかりを考え、本能的に動いていた身体。その身体を俺は力ずくで本能とは間逆の行動を取った。
 震え続ける手を力一杯握って急ブレーキ。津波が来ると人々が騒ぎ始め、モラルが崩れていく中、俺はバイクを止めて自分の頭を殴りつける。
「なに、やってんだよ、俺」
 神社の事を思い出し、あの少女が頭に浮かんでようやく大事な事に気付く。
 津波がさぁ、本当に来るんだったらさぁ……こんなことしてる場合じゃねぇだろうがよッ!
 自分を叱り付けてバイクのハンドルを彼女の元へと向けた。
 誰も彼もが車で逃げ出し、渋滞で身動きが取れなくなってしまった中、俺は泣き叫ぶ人々の横を猛スピードで追い抜いていく。
(ここからなら、地元民で尚且つ、昔ここらに住んでた奴しか知らない裏道のが早いだろ!)
 国道を横目に裏道を疾走。
 もう、嫌なんだよ。誰にも奪わせないし、俺自身が消す事も許さない。この心に確かにある、色褪せることのない想いだけは……もう二度と手放しはしないッ!
(……ごめん、な)
 俺は脳裏を過ぎった彼女に頭を下げ、もっと速くと限界までバイクのスピードを上げたのだった。



 当初、サイレンと共に流れた津波警報は緊迫感のない物だった。なぜなら、津波の高さの予測が現実よりも遥かに小さかったのだ。地震から三分後に警報が出せるのが自慢だと、我が日本は誇っていたが、そんな誇りは誇りではなく埃だった。
 津波到達第一波が地震発生後、約二十分で到達し、当初の予測よりも遥かに大きい津波が防波堤を乗り越え、街と人々をその得体の知れない巨大な獣の口のような、黒い波の中へと飲み込んだのだ。
 津波警報が最初の警報より三十分後、当初の予測の二倍に、更に十五分後はその二倍にと予測を変えたが、時既に遅く、警報は何一つ意味を成さなかった。
 第一波が到達する寸前、誰かが叫んだ。「津波が来るッ!早く逃げろッ!車は駄目だッ!」と。それを耳にした人達が彼の声に振り向いた瞬間――声の主は後方から襲ってきた黒い何かに飲み込まれた。
 黒いソレは次々に人を、車を、家を体内に飲み込み、更に強大に、凶悪に成長していく。
 水に浸かり、役に立たなくなった車内で、何度もエンジンを点けようと必死になり、そのまま波に飲まれ、車を捨てる人間もまた判断が遅れてソレの餌食になった。
 誰も彼もを殺すその黒い波……それこそが『津波』と言う悪魔の名前だった。
 ただ、ここで一つ誤解が無いように言っておきたい。警報を促していた方で、一人命懸けで人々を救おうと、その声を街中に届けた方がいる。ある町のその方は、自分のいる場所が波に飲み込まれるその時まで、最後の最後まで非難を促した。
 ただ、人を助けたい一心で、自分の命を懸けたのだ。その方を人々は忘れないだろう。自分たちを救った英雄のその声を、絶対に忘れる事は無い。
 気象庁が誤り、人々は倫理を見失い、背後から迫る濁流から逃れようと何もかもをかなぐり捨てた。
 黒い波が迫り、恐怖に駆られた者が車を逆走させ、走って逃げる人間を何人も撥ね飛ばしながら走っていった。
 波に流され助けを求めて伸ばす少女の手を、ずっと年上の男が横合いから弾き、自分を助けろと手を伸ばす。
 マニュアル通りに動き、上司に指示を仰いだ教師が、子供達と避難し、高台に辿り着く前に共に波に飲まれた。
 阿鼻叫喚の地獄絵図……津波が襲った町全てが地獄と化した。
 救いは紙屑の様に流され、絶望と死が希望の代わりに波が運んでくる。
 避難を促し、住民を助けに走る消防車が何台も流され、何人もの消防隊員がその勇敢な命を散らした。
 波に飲まれた者だけではない。高台に逃れた者達の瞳には未来など映っていなかった。
 溢れる涙を抑えきれず、咽び泣き、無力に嘆き、どうして?どうして?と答えのない問いを誰にともなく何度も投げかける。命、財産、仕事……思い出までもが無情に流されていく様を眺めている事しか出来ずにいた。
 中には神に救いの手をと祈り、願い、請い続ける。方や神を呪い、憎しみを吐き出す者もいた。
 たった数分。それだけ短い時間で、あっけなく、夢幻の如く世界が崩壊したのだ。
 現実感の無い光景に誰もが涙し、唖然とし、項垂れて、立ち尽くす事しか出来なかった。
 だから誰も知らない。誰にも知られてはいけない。悲劇ですらない現実の中でただ一人、この状況に喚起している少女がいる事を……



「嘘、でしょ……」
 神社の近くの誰もいない歩道橋の上で、私は眼下で起きている異常事態に自然と身震いした。震える身体を両手で包み、顔を俯ける。
 だ、めだ……こんな、こんな事絶対にいけないとわかっているのに、必死に抑えようとしているのに……もう、我慢出来そうにない。
 だって、ね?こんな状況なのに私、緩んじゃってる。人が、車が、家が流され、倒壊していっているのに、おかしいの。頬が緩んでしょうがないのッ!
「ふふ、ふっ、あははははははははッ!!」
 それまで我慢して溜め込んだ狂気が破裂する。ああ、これが箍が外れるということかしら?
 歩道橋の欄干に両手を着いて、私の絶望の檻の方向に向かって……
「ざまあみるがいいわッ!!」
 何これ?なんなのよこれ?神の祝福か季節はずれのサンタさんかもしれないわね。良かった。生きてきてこれほど良かったと思うことはない。
「ああ、ああッ!神様!神様ッ!今初めてあなたに感謝するわ!」
 今日までの痛み、恥辱、侮蔑、ありとあらゆる苦しみはこの日の為にあったのよ!
 ここから見える、私を閉じ込めていた檻。それが紙で出来ていたかのように崩れていく。
「そうよ!私はこの日の為に生まれたのよ!」
 あの屑畜生共の楽園が消える!目の前であっけなく、意味も無く!
 得も謂われぬ恍惚が私を痺れさせる。麻薬を打ったかのような夢見心地。夢だったら許さないけれど、今なら何でも許せそう。
「死ねッ!死ねッ!死ねッ!私を殺した奴等は平等に死んでしまえ――ッ!!」
 心の底からの私の叫びは、客観的に見れば異常でしょうね。けれども、こんなにも清々しい気持ちは始めてなのよ。あの豚共と同じ檻の中にいるようになってから、まさかこんな日が来るだなんて……信じられない。
 身体が、心が歓喜で震える。異常者呼ばわりされたって構わない。私に与えられたこの祝福は私だけが知っていればいい。
 確かに、私に縁も所縁も無い人達が流され、死んでいくのは偲びないのだけれども、それでも喜びが他人の命よりも勝る。
「……ああ、今が私の人生で一番の幸せだわ」
 人々が死の足音に怯える中、私は愉悦と幸福に浸り、この世界でも稀な大災害を恍惚と眺めていた……だからかしら?私のすぐ横まで近づいてきた彼に気付かなかったのは。
「よお、随分楽しそうじゃねぇか。俺も混ぜろよ……クソ餓鬼」
 その男は、昼間に会った馬鹿で余計な救いを与えた、私にとって最も最低な男だった。



 世界が砕けた日、私はこの日にもう一度感謝する事になるとは、夢にも思わずにいた。
 他人には恐怖と不幸だけの日。私には、救いと幸福と……後に自分を、考え得る限りの残虐な方法で殺したくなるほど後悔する……そんな一日。そしてこれが、私にとっての奇跡の一ヶ月の始まりだった。
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