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一日目~出逢い~ 其の一
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東北最大の都市である仙台の駅構内は、歩くのが困難なくらい、いつもよりも人が混雑していた。
全国的に見れば平日の今日、普段は日中は空いていて、電車内も座席に座れる余裕があるのに、今日ばかりは座れそうにない。特に、私がこれから向かう路線は尚更で、老若男女溢れかえって、まるで蟻の巣のようだ。
すれ違う人のほとんどが、菓子折り等を持っていて、中には花束を手にする人もいる。こんな混雑の中、花が無駄になるのでは?なんて心配してしまう。
私が今から乗る路線は、つい最近までは途中までしか繋がっていなくて、終点の石巻までは断線していた。あの日から、今までずっと。
路線が終点まで繋がった事実。それが私に時間の経過を現実を持って教えてくれた。もう、あれから五年もの月日が流れたのだと。
五年……長くなんてなかった。むしろ、毎日が目まぐるしくて、時間がこんなにも短い事に驚いている。昔、と言っても五年前以前の事なのだけれど、あの日以前の私には無限にも思えた時間。無為に、無気力に、無意味な毎日は、私を絡め取る牢獄……そう、まさに牢獄の中で希望も見えない毎日だった。
左腕に着けている時計を確認すると、もうそろそろ電車が来る時間。急いがなければ乗り遅れてしまう。
「あ~、もうッ!」
乗り遅れるなんて冗談じゃない。そもそも、私はしっかり時間に余裕を持って出てきたのに。
私の貴重で何よりも大切な時間を奪った、先程の出来事と人物を思い出すと、沸々と怒りが湧いてきてしまう。衝動的に犯罪を犯す若者はこうして出来上がるに違いない。……いえ、私もまだ十代だし、若い部類よ?
それにしても腹が立つ。今は東京で暮らしているのだけれど、仙台に着いて少し電車が来るまで時間があるなと思ったのが間違いだった。そのまま大人しく電車を待っているべきだった。それなのに、愚かにも私はあの人の為にお土産を買っていこうと外に出てしまった。そうね、私が愚かだったのかもしれないわ。長い時間を平和に過ごしすぎていて、すっかり忘れていたのだもの。この世のほとんどの雄は頭の弱い盛った生物だって事。
つまり、その……ナンパよ。黒服というのかしら?髪をその中身と同じような軽薄な色に染め、スカスカの脳のようにピアスの穴も多い、見るからに歩道橋から突き落としたい男が私に声を掛けて来た。最初は、水商売のスカウトかと思って無視をしたのだけれど、前に回りこまれてはそうもいかない。なので、彼の幼稚な脳でも理解出来るよう、懇切丁寧に彼の愚かさを語ってあげた。数分語ってあげた後、どうも私の言い様に腹を立てたらしく声を荒げ、乱暴に私の手を掴んで……そこで彼はあえなく御用。近くに交番があることすら頭から消えてしまったらしい。そこまで怒らせるような事は一切言っていないのに。そこで終わりならまだ良かったのに……むの、職務に真面目に勤しむこうぼ、警官様は私までも交番に連れて行って、事情聴取なんてものをわざわざしてくれた。
そんなこんなで今に至るわけで……まったく。警官は良いとしても、彼の眼は腐ってるとしか思えない。自分が私に見合うなんて、どこの魔女の鏡を見て思ったのかしら?世界で一番イケメンなのはだ~れ?それはあなた様ですとか、自宅で一人芝居でもしているのかしら。自己催眠とは恐れ入るわ。
と、そんな瑣末な事を思い出している場合じゃないと、どうにか電車に乗り遅れないように急ぎ足になる。すると、タイミング悪くサラリーマン風の男性とぶつかってしまい、体格の差で私は無様に転んでしまった。
「おわ、ごめんごめん。大丈夫?」
転んだ私に差し出される手。最初は掴もうとしたのだけれど……私は手を引っ込めて自分で立ち上がった。
「ええ、平気です。すみませんでした」
「そ、そう?こっちもごめんね」
男性はそのままそそくさと去っていった。
……しまった。人生の汚点をここでも作ってしまった。
今日は私にとってとても特別な日で、いつもはしないメイクと服装をしていて、控えめに見ても……その、少し男性の目を惹く格好をしているかもしれない。現に、彼の目は私の太ももを見ていた。短めのスカートを履いているから、転んだ時に少し捲れてしまっていた。
もう!どうしてこう男って生き物は性に下品なまでに貪欲なの!確かに、私は少し男性嫌悪気味だけれど、だけど、少なくともあの人はそんな――
苛立ちの中、ふと思い出した懐かしいあの人の無邪気な笑顔。
そう、だったわ……以前も同じような事があった。転んでしまった私に手を差し伸べてくれて、それであの人は笑って……笑って朗らかにセクハラ発言をしたのだ。女子中学生に向かって、良い大人が。
第一印象は最低。第二印象は馬鹿。第三印象は……どうだったかしらね。
彼の笑顔を思い出すと、急いでいるのが馬鹿らしくて、急いでいた足を止める。
「そう、ね」
別に急ぐ必要もない。きっと彼は今もあの笑顔で変わらずに迎えてくれるのだから。多少遅れても許してくれる。
焦っていた自分が馬鹿らしくて苦笑してしまう。
時間はたっぷりあるのだから、ゆっくりのんびりと彼の元へ行こう。能天気なあの人を少しだけ見習って……ね。
東北の太平洋沿岸部に暮らす人々が、大切な恋人、妻、親、子供、財産、仕事、あらゆるものを失った2011年3月11日。全国を文字通り震撼させた世界的な震災。
――東北大震災――
あの日、沢山の人が神を呪い、無力を嘆き、泣き叫び助けを請う以外に何も出来なかった忌まわしい日。その日、私の世界は確かに壊れた。跡形もなく粉々に、それまでの日々が崩れ去った。
そうして、手に入れたの。何もかもを人々が奪われた日に、私は掛け替えのない世界を汚れきったこの手の中に……
「寒い」
久々に帰ってきた故郷の石巻は、三月だというのに春の気配をまったく感じさせてくれない寒さだった。
電車を降りて駅を出ると、駅前は閑散としていて、過疎化しているなと少しばかり寂しくなる。
俺の生まれ故郷である石巻は、漁業が盛んでカキがやたら有名だ。あと、パチンコ屋も盛んな事で有名でもある。あとは……日本第四位のでかさの北上川くらいのものだろう。ちなみに、パチンコ屋が盛んなのは、漁から帰ってきたおっさん達や、年金暮らしのお年寄りがよく遊ぶから……らしい。
寂れた駅前通は、昔は学生が学校をサボって遊んでいるのを良く見かけたものだが、昨今大きなショッピングモールが駅からかなり離れた場所に建ったため、子供も大人もみんなそっちに買い物に行ってしまって、駅前からは人が離れていくばかり。賑わうとすれば、居酒屋が多いため、夜はおっさんやガキが酒を飲みに出歩くのと、一年に一回あるそこそこに有名な祭りの『川開き祭り』の時くらいのものだ。
俺が離れている間に随分変わったものだ。少しも寂しくはないけど。
「さてと、とりあえず家に向かいますかね」
高校を出てすぐに俺は都内の専門学校に通った。OS作成を主に学んで、SEを目指していたのだが、世の中そんなに甘くない。俺が就職したのはOSにまったく関係のない、小さな会社だ。主に会社を立ち上げる時等に必要な、事務関連の商品を売る仕事で、コピー機やデスク等、事務全般を取り扱っている。もちろん、それまで付き合いのある会社などにも新商品の営業をかけ、その関係で接待なんかも良くある。したくもない愛想笑いに、よいしょをして、部屋に帰る頃には何もする気が起きなくて、ベッドに直行。そんで、次の日の早朝に起きて、身支度を整えてまた出社。休日は溜まった洗濯物と、プレゼン書類の作成。そんな、意味のあるようで意味のない、どうでもいい日常をもうずっと送っている。
そんな毎日を送り続け、こっちに帰って来る事もなく三年以上の月日が経っていた。いや、まあね?石巻に帰って来なかっただけで、宮城には何度も帰っては来ているんだよ?それなりに俺だって用事があるわけで……ただ、こっちまでくるのが億劫なだけで。
というわけで、同窓会にも顔を出さずに大人になった俺は、ちょっとした用事のついでに帰ってきた。
「おお、久しぶりだな北上川」
駅から徒歩十分のところにある橋は、少しだけ整備されていたけれど、それでも狭い事に変わりはない。人が二人通れる程度の広さで、自転車で通るの時は人にぶつからない様に気をつけたものだ。
橋の中腹には昔懐かしいミニシアターがあり、ミニシアターの奥には漫画館なんていうでかい建物がある。三階建てで、北上川が一望出来るのだが、俺としてはあまり北上川は良い物じゃないんだよなぁ……だって、汚いもん。しかも、沿岸だから風も強いし、雨が近いとやたら臭いし。中学の頃、近くが海だったからか、雨が近づくとなんとも言えない匂いが教室内に充満したものだ。雨の匂いなんてこっちじゃ言ったりするが、ろくなもんじゃねぇ。
まだお昼前のこの時間、俺の母上は職務に勤しんでいるはずだ。
俺の母、海野洋子(うみのようこ)。ちなみに、母親に似ずイケメンな息子は海野海(うみのかい)な。母上はスナックをやっていて、女手一つで俺を育ててくれた偉い人だ。親父は……うん、思い出したくもない。俺が中学上がる直前に離婚して、それから一切会っていない。ちなみに、職務に勤しんでいるというのは銀色のコインや玉で稼いでいるだろうってこと。趣味、パチンコ。むしろ本業かもしれん。
そんな母上に俺は連絡もなく帰ってきた。連絡しても、どうせ歓迎されないし。あの人のことだ、俺が帰るなんて知ったら、家の家事を全部俺に押し付けるに違いない。リフレッシュなんて出来るわけもねぇ。これも俺が帰って来なかったことの理由の一端なんだけどな。我が親ながら物臭で、困ったものだ。
橋を渡りきり、右の細い道を真っ直ぐ行くと住宅街に出る。俺の家は橋のすぐ近くの一軒家で、川沿いに建っている。二人しかいないのだから、別にアパートでも良かったのだが、母上が一軒家欲しい、欲しい、ほ~し~い~!と駄々を捏ねて出来た産物である。
鍵を開けて中に入り、とりあえず居間は無視した。だって、あられもない惨状が怖くて見たくないんだもん。ていうか、やっぱいないねあの人。車庫に車がない時点でお察しですよ。
二階に上がると三部屋あって、一つは母上の第二の趣味、漫画部屋となっていて、後は俺と母上の寝室となっている。
母上、母上。僕はあなたの趣味になにか言うつもりは毛頭ありません。ないのですが、会ったら是非聞きたい事があります。あなたの図書館なのですがね……ドアにでっかいタペストリーがあるのですが、あれはなんでしょうか。そのですね、可愛い女の子のイラストはまだいいのですが、彼女の服がボロボロになっていて、淫靡な雰囲気を醸し出しているのです。というか、あれですよね?僕も都内に暮らしていて少しは知っているんですよ。あれ……エ○ゲというゲームのヒロインだったりしません?ていうかそうですよね絶対!いやいや、あの人いい年して何に手を出しちゃってんの!アグレッシブ過ぎるでしょ!怖いよ!
母の狂気に身震いし、俺は視界からソレを排除して自分の部屋に入った。昔からあの人の思考回路は電波でわからん。
部屋に入ると、俺が出て行った時のままで、母上がいつでも俺が帰って来れるようにと残して……くれているわけもなかった。
「な、ななな、んじゃごりゃああああぁぁぁッ!!」
今の俺の叫びはご近所どころか、銀河まで響いた自信がある。
そりゃあ、叫びたくもなる。なぜなら……
「俺のベッドがエ○ゲ汚染されてるぅーーーッ!」
百は越えるであろう本数が、俺のベッドを棚のようにして所狭しと置かれていた。
「いやいやいや、何してんだよあの人ッ!ふっざけんなッ!しかも俺の……俺のニ○ヴァーナのポスターが、いつの間にか二次元アイドルに素敵に過激にメタモルフォーゼしてるぅッ!」
ここまで育てて貰った恩とか、感謝感激ですけど、過激に反抗期迎えてもいいよね?具体的には、全部売り飛ばしてもいいよね?そんで、その金で世界旅行してやる。
「クッソ、なんなんだよあの親!少しでも感謝して、素敵に美化した俺が馬鹿だった!」
俺の親は親父とは別ベクトルでとことんクズやった。
若干というか、大分テンションが落ちたが、俺が何を言っても聞かないのは長年の付き合いで諦めている。気と肩を落としつつ荷物を置いて、とりあえずこの家を出よう。もう、こんな現実見たくない。現実から目を背け、誰よりもセンチメンタルに出て行こうとしたが、大事な事を思い出して立ち止まる。
「っと、とち狂った母親の所為で忘れるところだった」
バッグから小さな箱を取り出して、それを机の中に仕舞う。
「雑に入れたままってのはいかんよな」
今回帰ってきた一番の理由なのだから、大事にしないといけない。
形は別にどうでもいいが、俺の全ての想いが詰まったと言っても過言じゃない、何よりも大切な形。
「これは明日渡しに行くから……楽しみに待ってろよ」
彼女の名前を、優しく、温かく、愛しさと、切なさと、ありったけの想いを込めて呟いて、俺はソレを部屋に残して家を出た。
朝が来なければ良い。毎日願い、毎日目が覚める度に私は朝が来る現実に落胆し、今日も自分を殺す。意思のない人形。そうならなければ、この過酷な世界で私は息をする事も出来ない。
部屋のドアがノックされ、私の名前が乱暴に無遠慮に呼ばれる。その声に肌が粟立ち、体が震えそうになるけれど、それをなんとか押さえ込んで、私はただ一言「はい」と小さく返事をした。
起こしたくもない体を起こして、制服を着る。最低限髪を整えるため、鏡を見るとそこには生気の抜けた代わり映えのしない自分の顔。それに……
「……ッ!」
目にしたくない物が映り、込み上げてくる嘔吐感。思い出したくない物を思い出す印が、私の体のいたる所に付けられている。私の所有権を主張するようにいくつも……いくつも……
自然と鎖骨近くにある痣のようなソレに、私は爪を立てていた。
このまま引っ掻いて、痛みで全てを消してしまいたい。そんなことしても、自分の記憶を消す事は出来ないけれど、それでも今だけは忘れさせてくれるかもしれない。だけど……
「馬鹿……みたい……」
そんなことをして、もしも傷が見つかったら、私はもっと酷い事をされてしまうのが目に見えている。
腐っている。私の家族という得体の知れない者達は総じて腐っている。腐っているのなら、そのまま腐り落ちて死ねばいいのに。私以外が全部、腐り落ちてしまえ。こんな醜い世界、私は欲しくなんてなかった。
最初から腐った中にいたなら、こんな想いは抱かなかった。でも、希望が、愛しい時間が私にも確かにあった。小さな頃に幸せの中にいてしまった。だから、今のこの腐った世界が悲しくて、悔しくて、惨めで……だからこそ、こんなにも憎い。
でも、腐った奴等よりも、腐った同級生よりも、腐った世界よりも、なによりも腐っているのは……
「私、ね……」
自嘲を浮かべ、部屋を出る。今日も牢獄の中の一日が始まる。私を侵食し、腐らせる……どうしようもなく無残で慈悲の欠片もない一日が。
旨い。旨いんだよな~、このチャーハンおにぎりがなんとも言えない旨さなんだ。体に良いわけじゃないのはわかるが、それがまた良い。やっぱおにぎりはセ○ンだね。
俺の家から海方面に真っ直ぐ進み、中学校の近くの神社でおにぎりを貪る。神様の前、しかも賽銭箱の前で食べるジャンクフード最高。なんだっけ?この神社って、確か逃げ延びた源義経が隠れてたとか言われてたっけ。
この神社、昼間は風情があっていいが、夜はやたら怖い。入り口にお地蔵様があるし、その後ろは岩肌があって山に繋がっている。まともに整備されていない階段があったりするのだが、登った事はない。ガキの頃は岩肌の樹を伝って、山の中を散策したもんだが、ガキは怖いもの知らずだよな。一歩間違えば死ぬわ。
お地蔵様の前には歩道橋があり、歩道橋を渡って真っ直ぐ行くと俺の母校へと繋がる。
街中は変わったが、ここは変わってなくて良かった。駅からここまで、帰ってきた気がしなかったもんなぁ。駅前の活気のなさが一番の原因だね。
そうしてウマウマしていたのだが、俺のいる賽銭箱から少し離れたところに、この時間帯にしては不自然なガキを見つけてしまった。
年は、13~15だろう。中学の制服着てるし。そいつはボーっと、何もしないでこっちを見ていた。見ていたっていうか……むしろ何も見ていないのか?俺に視線が向けられているわけでもなさそうだし……
「……はッ!?」
まさかとは思うが……いや、しかしそれしか思いつかない。ここらの高校生がサボっているのはよくあることだが、中学生がサボるなんて珍しい。特に、規則に厳しい俺の中学なら尚更だ。ということはだ、もしかするとアレか?
彼女を訝しげに見つめてみるが、なんの反応もない。どうやら俺の視線に気付いていないらしい。
てことはだ、間違いない。十中八九確定だ。彼女の狙いは……コレか。
俺は手元に目を向ける。そこにはほかほかのチャーハンおにぎり。
いやね、別に彼女がコレを欲するなら上げるのも吝かじゃない。俺だっていい大人だし。大人だから、チャーハンおにぎりを大人買いしたし。袋の中にはまだおにぎりが沢山ある。
俺の推理からすると、彼女は給食の味付けに飽きたのではないだろうか。だから学校を抜け出して、代わり映えしない味を否定し、新たな味を求めて旅に出たのではないだろうか。
「なるほどね」
うんうんと頷き、彼女へと優しさを込めた視線を送る。
わかる、わかるぞ少女よ。そうだよな。あんな子供騙しの味に飼い馴らされたくない気持ち、俺にもわかる。だがな、大人になるとあの味が恋しくなるんだ。もう堪能出来ないあの味を、俺達は取り戻したいとな。だからこそ、少女には分かって欲しい。今だけの幸福を自らの下らない我が侭で手放してはいけない。
「しょうがねぇなぁ」
やれやれと立ち上がり、少女に近づいていく。少女は、なぜ俺が近づいているのかわかっていないのか、きょとんとしていた。
「そこの不良少女よ」
俺は顔を下に向ける少女に声を掛けてやる。掛けてやったが、少女は俺を無視して、動かない砂利をじっと見つめていた。
なんですか?反抗期ですか、そうですか。そうなぁ、社会に反抗したい年頃だよな。あの太平洋のように広い心の俺は無視されても怒らない。だって、俺は大人だもんな。
「お前の気持ちは良く分かる。辛いよな、苦しいよな」
「……は?」
おお、俺の気持ちが届いたのか、彼女は顔を上げた。そして、その顔を間近で見た俺は、不覚にも魅入られてしまいそうになってしまった。
何も手を加えた事のない綺麗で長い黒髪は、さらさらとしていて女性なら誰もが羨みそうだ。それに、やけに端正な顔立ちをしている。普通はこの位の年なら可愛いと表現するものだが、彼女は誰が見ても綺麗だ。切れ長の目に、スッと筋の通った形の良い鼻。唇は厚くもなく薄くもなく、理想的な形をしている。顔も全体的に小さめだ。なによりも俺が驚いたのは、その儚さだ。少しでも他人が触れれば消えてしまいそうな、そんな一瞬の美しさが彼女にはある。
そしてその雰囲気を、俺は知っていた。知っていたから、一瞬言葉に詰まり、彼女に惹かれてしまったんだ。……彼女からしたらどうでも良い、失礼な話かもしれないが。
「あの、なんですか?」
数秒フリーズしていた俺は、彼女の声にはっとして意識を取り戻した。
ガキ相手に何をトリップしてるんだ俺はと渇を入れる。色即是空色即是空。よし。
「なんですかじゃないよ。あのな、お前の気持ちは分かるよ俺も。嫌だよな、毎日毎日……わかるぞ」
「……すみません、意味わかりません。消えてください。この地球上から細胞一つ残らず」
はっはっはっ!照れちゃって可愛いなぁ~。て、照れ隠しだよね、その毒は?
「それな。反抗したくなるよな。アレだろ?代わり映えのしない給食の味が嫌で学校から逃げ出したんだろ?その気持ちわかるぞ俺は」
「いや、ほんと何言ってるんですか。病院行きますか?そして一生出てこないで下さい」
「強がるなよ反抗期娘。俺にはわかってるんだよ。その証拠にお前、ずっとこのチャーハンおにぎりを見てたじゃないか」
「……アタマ、ダイジョーブデスカ?」
自分の頭を指で突き、カタコトで言われた。あ、あれ?馬鹿にされてる?この推理が間違っているなんて……か、彼女なりの強がりだよね?そうだよね?
「良い!良いんだ強がらなくても!俺には隠さなくても良いんだよ。だから、これやるよお前に」
彼女の横にチャーハンおにぎりが大量に入った袋を置いてやる。サンタさんもびっくりな優しさですよ。
「いりません」
「そうか、嬉しいか!」
「鬱陶しいの間違いデス」
最後のデスが英語っぽく聞こえたんだけど気の所為に決まってる。だって、間違いだってことになったら、俺ってばただの痛い人じゃないか。あの母上にしてこの息子在りとか最悪ですよ。とにかく、このまま彼女の言葉を上書きして突っ走るしかないです。
「おっと、礼はいらないぜお嬢ちゃん」
「言ってない。一言も言ってない」
「だがな、人生の先輩から言っておかなきゃならんことがある」
「人間の言葉が通じない生命体に初めて遭遇したわ」
「いいか。確かに、給食ってのはお前等の意思に関係なく、品目も味も決まる。だけどな、それを楽しめる時間ってのは一瞬なんだよ。流れ星よりも早く時間は過ぎてしまう。だからな、俺は今を大切にして欲しい。後に掛け替えのない時間だったと、そう……キラキラと輝く大切な時間と味になるんだ。それだけは本当だって、俺は言えるのさ。だから……だからな……」
うん、俺を見上げる彼女の目が果てしなく冷めているんだが、俺の強心臓にそんなもん無意味だ。俺を倒したければ、エクスカリバーでも持って来い。
「あの陳腐な味を、大事にしてくれ」
決まった。こんなにかっこいい大人になったぜ、俺。母上様、あんたは自慢して良い。あんたの息子は、少女に侮蔑の眼差しを向けられても立っていられる、そんな強い男に育ったってな!
「……あの、もういいですか」
「あ、はい。なんかすんません」
俺の勇気ある行動は、彼女の鋭利な言葉によって切り刻まれ、俺はすごすごと立ち去る事に。
去り際に後ろをチラ見すると、あの毒々しい少女がチャーハンおにぎりをちょびちょび食っているのが見えた。
(結局食うんじゃねぇかよッ)
心の中で突っ込み、俺は今度こそ立ち去った。彼女へのちょっとした違和感に後ろ髪を引かれながら……
全国的に見れば平日の今日、普段は日中は空いていて、電車内も座席に座れる余裕があるのに、今日ばかりは座れそうにない。特に、私がこれから向かう路線は尚更で、老若男女溢れかえって、まるで蟻の巣のようだ。
すれ違う人のほとんどが、菓子折り等を持っていて、中には花束を手にする人もいる。こんな混雑の中、花が無駄になるのでは?なんて心配してしまう。
私が今から乗る路線は、つい最近までは途中までしか繋がっていなくて、終点の石巻までは断線していた。あの日から、今までずっと。
路線が終点まで繋がった事実。それが私に時間の経過を現実を持って教えてくれた。もう、あれから五年もの月日が流れたのだと。
五年……長くなんてなかった。むしろ、毎日が目まぐるしくて、時間がこんなにも短い事に驚いている。昔、と言っても五年前以前の事なのだけれど、あの日以前の私には無限にも思えた時間。無為に、無気力に、無意味な毎日は、私を絡め取る牢獄……そう、まさに牢獄の中で希望も見えない毎日だった。
左腕に着けている時計を確認すると、もうそろそろ電車が来る時間。急いがなければ乗り遅れてしまう。
「あ~、もうッ!」
乗り遅れるなんて冗談じゃない。そもそも、私はしっかり時間に余裕を持って出てきたのに。
私の貴重で何よりも大切な時間を奪った、先程の出来事と人物を思い出すと、沸々と怒りが湧いてきてしまう。衝動的に犯罪を犯す若者はこうして出来上がるに違いない。……いえ、私もまだ十代だし、若い部類よ?
それにしても腹が立つ。今は東京で暮らしているのだけれど、仙台に着いて少し電車が来るまで時間があるなと思ったのが間違いだった。そのまま大人しく電車を待っているべきだった。それなのに、愚かにも私はあの人の為にお土産を買っていこうと外に出てしまった。そうね、私が愚かだったのかもしれないわ。長い時間を平和に過ごしすぎていて、すっかり忘れていたのだもの。この世のほとんどの雄は頭の弱い盛った生物だって事。
つまり、その……ナンパよ。黒服というのかしら?髪をその中身と同じような軽薄な色に染め、スカスカの脳のようにピアスの穴も多い、見るからに歩道橋から突き落としたい男が私に声を掛けて来た。最初は、水商売のスカウトかと思って無視をしたのだけれど、前に回りこまれてはそうもいかない。なので、彼の幼稚な脳でも理解出来るよう、懇切丁寧に彼の愚かさを語ってあげた。数分語ってあげた後、どうも私の言い様に腹を立てたらしく声を荒げ、乱暴に私の手を掴んで……そこで彼はあえなく御用。近くに交番があることすら頭から消えてしまったらしい。そこまで怒らせるような事は一切言っていないのに。そこで終わりならまだ良かったのに……むの、職務に真面目に勤しむこうぼ、警官様は私までも交番に連れて行って、事情聴取なんてものをわざわざしてくれた。
そんなこんなで今に至るわけで……まったく。警官は良いとしても、彼の眼は腐ってるとしか思えない。自分が私に見合うなんて、どこの魔女の鏡を見て思ったのかしら?世界で一番イケメンなのはだ~れ?それはあなた様ですとか、自宅で一人芝居でもしているのかしら。自己催眠とは恐れ入るわ。
と、そんな瑣末な事を思い出している場合じゃないと、どうにか電車に乗り遅れないように急ぎ足になる。すると、タイミング悪くサラリーマン風の男性とぶつかってしまい、体格の差で私は無様に転んでしまった。
「おわ、ごめんごめん。大丈夫?」
転んだ私に差し出される手。最初は掴もうとしたのだけれど……私は手を引っ込めて自分で立ち上がった。
「ええ、平気です。すみませんでした」
「そ、そう?こっちもごめんね」
男性はそのままそそくさと去っていった。
……しまった。人生の汚点をここでも作ってしまった。
今日は私にとってとても特別な日で、いつもはしないメイクと服装をしていて、控えめに見ても……その、少し男性の目を惹く格好をしているかもしれない。現に、彼の目は私の太ももを見ていた。短めのスカートを履いているから、転んだ時に少し捲れてしまっていた。
もう!どうしてこう男って生き物は性に下品なまでに貪欲なの!確かに、私は少し男性嫌悪気味だけれど、だけど、少なくともあの人はそんな――
苛立ちの中、ふと思い出した懐かしいあの人の無邪気な笑顔。
そう、だったわ……以前も同じような事があった。転んでしまった私に手を差し伸べてくれて、それであの人は笑って……笑って朗らかにセクハラ発言をしたのだ。女子中学生に向かって、良い大人が。
第一印象は最低。第二印象は馬鹿。第三印象は……どうだったかしらね。
彼の笑顔を思い出すと、急いでいるのが馬鹿らしくて、急いでいた足を止める。
「そう、ね」
別に急ぐ必要もない。きっと彼は今もあの笑顔で変わらずに迎えてくれるのだから。多少遅れても許してくれる。
焦っていた自分が馬鹿らしくて苦笑してしまう。
時間はたっぷりあるのだから、ゆっくりのんびりと彼の元へ行こう。能天気なあの人を少しだけ見習って……ね。
東北の太平洋沿岸部に暮らす人々が、大切な恋人、妻、親、子供、財産、仕事、あらゆるものを失った2011年3月11日。全国を文字通り震撼させた世界的な震災。
――東北大震災――
あの日、沢山の人が神を呪い、無力を嘆き、泣き叫び助けを請う以外に何も出来なかった忌まわしい日。その日、私の世界は確かに壊れた。跡形もなく粉々に、それまでの日々が崩れ去った。
そうして、手に入れたの。何もかもを人々が奪われた日に、私は掛け替えのない世界を汚れきったこの手の中に……
「寒い」
久々に帰ってきた故郷の石巻は、三月だというのに春の気配をまったく感じさせてくれない寒さだった。
電車を降りて駅を出ると、駅前は閑散としていて、過疎化しているなと少しばかり寂しくなる。
俺の生まれ故郷である石巻は、漁業が盛んでカキがやたら有名だ。あと、パチンコ屋も盛んな事で有名でもある。あとは……日本第四位のでかさの北上川くらいのものだろう。ちなみに、パチンコ屋が盛んなのは、漁から帰ってきたおっさん達や、年金暮らしのお年寄りがよく遊ぶから……らしい。
寂れた駅前通は、昔は学生が学校をサボって遊んでいるのを良く見かけたものだが、昨今大きなショッピングモールが駅からかなり離れた場所に建ったため、子供も大人もみんなそっちに買い物に行ってしまって、駅前からは人が離れていくばかり。賑わうとすれば、居酒屋が多いため、夜はおっさんやガキが酒を飲みに出歩くのと、一年に一回あるそこそこに有名な祭りの『川開き祭り』の時くらいのものだ。
俺が離れている間に随分変わったものだ。少しも寂しくはないけど。
「さてと、とりあえず家に向かいますかね」
高校を出てすぐに俺は都内の専門学校に通った。OS作成を主に学んで、SEを目指していたのだが、世の中そんなに甘くない。俺が就職したのはOSにまったく関係のない、小さな会社だ。主に会社を立ち上げる時等に必要な、事務関連の商品を売る仕事で、コピー機やデスク等、事務全般を取り扱っている。もちろん、それまで付き合いのある会社などにも新商品の営業をかけ、その関係で接待なんかも良くある。したくもない愛想笑いに、よいしょをして、部屋に帰る頃には何もする気が起きなくて、ベッドに直行。そんで、次の日の早朝に起きて、身支度を整えてまた出社。休日は溜まった洗濯物と、プレゼン書類の作成。そんな、意味のあるようで意味のない、どうでもいい日常をもうずっと送っている。
そんな毎日を送り続け、こっちに帰って来る事もなく三年以上の月日が経っていた。いや、まあね?石巻に帰って来なかっただけで、宮城には何度も帰っては来ているんだよ?それなりに俺だって用事があるわけで……ただ、こっちまでくるのが億劫なだけで。
というわけで、同窓会にも顔を出さずに大人になった俺は、ちょっとした用事のついでに帰ってきた。
「おお、久しぶりだな北上川」
駅から徒歩十分のところにある橋は、少しだけ整備されていたけれど、それでも狭い事に変わりはない。人が二人通れる程度の広さで、自転車で通るの時は人にぶつからない様に気をつけたものだ。
橋の中腹には昔懐かしいミニシアターがあり、ミニシアターの奥には漫画館なんていうでかい建物がある。三階建てで、北上川が一望出来るのだが、俺としてはあまり北上川は良い物じゃないんだよなぁ……だって、汚いもん。しかも、沿岸だから風も強いし、雨が近いとやたら臭いし。中学の頃、近くが海だったからか、雨が近づくとなんとも言えない匂いが教室内に充満したものだ。雨の匂いなんてこっちじゃ言ったりするが、ろくなもんじゃねぇ。
まだお昼前のこの時間、俺の母上は職務に勤しんでいるはずだ。
俺の母、海野洋子(うみのようこ)。ちなみに、母親に似ずイケメンな息子は海野海(うみのかい)な。母上はスナックをやっていて、女手一つで俺を育ててくれた偉い人だ。親父は……うん、思い出したくもない。俺が中学上がる直前に離婚して、それから一切会っていない。ちなみに、職務に勤しんでいるというのは銀色のコインや玉で稼いでいるだろうってこと。趣味、パチンコ。むしろ本業かもしれん。
そんな母上に俺は連絡もなく帰ってきた。連絡しても、どうせ歓迎されないし。あの人のことだ、俺が帰るなんて知ったら、家の家事を全部俺に押し付けるに違いない。リフレッシュなんて出来るわけもねぇ。これも俺が帰って来なかったことの理由の一端なんだけどな。我が親ながら物臭で、困ったものだ。
橋を渡りきり、右の細い道を真っ直ぐ行くと住宅街に出る。俺の家は橋のすぐ近くの一軒家で、川沿いに建っている。二人しかいないのだから、別にアパートでも良かったのだが、母上が一軒家欲しい、欲しい、ほ~し~い~!と駄々を捏ねて出来た産物である。
鍵を開けて中に入り、とりあえず居間は無視した。だって、あられもない惨状が怖くて見たくないんだもん。ていうか、やっぱいないねあの人。車庫に車がない時点でお察しですよ。
二階に上がると三部屋あって、一つは母上の第二の趣味、漫画部屋となっていて、後は俺と母上の寝室となっている。
母上、母上。僕はあなたの趣味になにか言うつもりは毛頭ありません。ないのですが、会ったら是非聞きたい事があります。あなたの図書館なのですがね……ドアにでっかいタペストリーがあるのですが、あれはなんでしょうか。そのですね、可愛い女の子のイラストはまだいいのですが、彼女の服がボロボロになっていて、淫靡な雰囲気を醸し出しているのです。というか、あれですよね?僕も都内に暮らしていて少しは知っているんですよ。あれ……エ○ゲというゲームのヒロインだったりしません?ていうかそうですよね絶対!いやいや、あの人いい年して何に手を出しちゃってんの!アグレッシブ過ぎるでしょ!怖いよ!
母の狂気に身震いし、俺は視界からソレを排除して自分の部屋に入った。昔からあの人の思考回路は電波でわからん。
部屋に入ると、俺が出て行った時のままで、母上がいつでも俺が帰って来れるようにと残して……くれているわけもなかった。
「な、ななな、んじゃごりゃああああぁぁぁッ!!」
今の俺の叫びはご近所どころか、銀河まで響いた自信がある。
そりゃあ、叫びたくもなる。なぜなら……
「俺のベッドがエ○ゲ汚染されてるぅーーーッ!」
百は越えるであろう本数が、俺のベッドを棚のようにして所狭しと置かれていた。
「いやいやいや、何してんだよあの人ッ!ふっざけんなッ!しかも俺の……俺のニ○ヴァーナのポスターが、いつの間にか二次元アイドルに素敵に過激にメタモルフォーゼしてるぅッ!」
ここまで育てて貰った恩とか、感謝感激ですけど、過激に反抗期迎えてもいいよね?具体的には、全部売り飛ばしてもいいよね?そんで、その金で世界旅行してやる。
「クッソ、なんなんだよあの親!少しでも感謝して、素敵に美化した俺が馬鹿だった!」
俺の親は親父とは別ベクトルでとことんクズやった。
若干というか、大分テンションが落ちたが、俺が何を言っても聞かないのは長年の付き合いで諦めている。気と肩を落としつつ荷物を置いて、とりあえずこの家を出よう。もう、こんな現実見たくない。現実から目を背け、誰よりもセンチメンタルに出て行こうとしたが、大事な事を思い出して立ち止まる。
「っと、とち狂った母親の所為で忘れるところだった」
バッグから小さな箱を取り出して、それを机の中に仕舞う。
「雑に入れたままってのはいかんよな」
今回帰ってきた一番の理由なのだから、大事にしないといけない。
形は別にどうでもいいが、俺の全ての想いが詰まったと言っても過言じゃない、何よりも大切な形。
「これは明日渡しに行くから……楽しみに待ってろよ」
彼女の名前を、優しく、温かく、愛しさと、切なさと、ありったけの想いを込めて呟いて、俺はソレを部屋に残して家を出た。
朝が来なければ良い。毎日願い、毎日目が覚める度に私は朝が来る現実に落胆し、今日も自分を殺す。意思のない人形。そうならなければ、この過酷な世界で私は息をする事も出来ない。
部屋のドアがノックされ、私の名前が乱暴に無遠慮に呼ばれる。その声に肌が粟立ち、体が震えそうになるけれど、それをなんとか押さえ込んで、私はただ一言「はい」と小さく返事をした。
起こしたくもない体を起こして、制服を着る。最低限髪を整えるため、鏡を見るとそこには生気の抜けた代わり映えのしない自分の顔。それに……
「……ッ!」
目にしたくない物が映り、込み上げてくる嘔吐感。思い出したくない物を思い出す印が、私の体のいたる所に付けられている。私の所有権を主張するようにいくつも……いくつも……
自然と鎖骨近くにある痣のようなソレに、私は爪を立てていた。
このまま引っ掻いて、痛みで全てを消してしまいたい。そんなことしても、自分の記憶を消す事は出来ないけれど、それでも今だけは忘れさせてくれるかもしれない。だけど……
「馬鹿……みたい……」
そんなことをして、もしも傷が見つかったら、私はもっと酷い事をされてしまうのが目に見えている。
腐っている。私の家族という得体の知れない者達は総じて腐っている。腐っているのなら、そのまま腐り落ちて死ねばいいのに。私以外が全部、腐り落ちてしまえ。こんな醜い世界、私は欲しくなんてなかった。
最初から腐った中にいたなら、こんな想いは抱かなかった。でも、希望が、愛しい時間が私にも確かにあった。小さな頃に幸せの中にいてしまった。だから、今のこの腐った世界が悲しくて、悔しくて、惨めで……だからこそ、こんなにも憎い。
でも、腐った奴等よりも、腐った同級生よりも、腐った世界よりも、なによりも腐っているのは……
「私、ね……」
自嘲を浮かべ、部屋を出る。今日も牢獄の中の一日が始まる。私を侵食し、腐らせる……どうしようもなく無残で慈悲の欠片もない一日が。
旨い。旨いんだよな~、このチャーハンおにぎりがなんとも言えない旨さなんだ。体に良いわけじゃないのはわかるが、それがまた良い。やっぱおにぎりはセ○ンだね。
俺の家から海方面に真っ直ぐ進み、中学校の近くの神社でおにぎりを貪る。神様の前、しかも賽銭箱の前で食べるジャンクフード最高。なんだっけ?この神社って、確か逃げ延びた源義経が隠れてたとか言われてたっけ。
この神社、昼間は風情があっていいが、夜はやたら怖い。入り口にお地蔵様があるし、その後ろは岩肌があって山に繋がっている。まともに整備されていない階段があったりするのだが、登った事はない。ガキの頃は岩肌の樹を伝って、山の中を散策したもんだが、ガキは怖いもの知らずだよな。一歩間違えば死ぬわ。
お地蔵様の前には歩道橋があり、歩道橋を渡って真っ直ぐ行くと俺の母校へと繋がる。
街中は変わったが、ここは変わってなくて良かった。駅からここまで、帰ってきた気がしなかったもんなぁ。駅前の活気のなさが一番の原因だね。
そうしてウマウマしていたのだが、俺のいる賽銭箱から少し離れたところに、この時間帯にしては不自然なガキを見つけてしまった。
年は、13~15だろう。中学の制服着てるし。そいつはボーっと、何もしないでこっちを見ていた。見ていたっていうか……むしろ何も見ていないのか?俺に視線が向けられているわけでもなさそうだし……
「……はッ!?」
まさかとは思うが……いや、しかしそれしか思いつかない。ここらの高校生がサボっているのはよくあることだが、中学生がサボるなんて珍しい。特に、規則に厳しい俺の中学なら尚更だ。ということはだ、もしかするとアレか?
彼女を訝しげに見つめてみるが、なんの反応もない。どうやら俺の視線に気付いていないらしい。
てことはだ、間違いない。十中八九確定だ。彼女の狙いは……コレか。
俺は手元に目を向ける。そこにはほかほかのチャーハンおにぎり。
いやね、別に彼女がコレを欲するなら上げるのも吝かじゃない。俺だっていい大人だし。大人だから、チャーハンおにぎりを大人買いしたし。袋の中にはまだおにぎりが沢山ある。
俺の推理からすると、彼女は給食の味付けに飽きたのではないだろうか。だから学校を抜け出して、代わり映えしない味を否定し、新たな味を求めて旅に出たのではないだろうか。
「なるほどね」
うんうんと頷き、彼女へと優しさを込めた視線を送る。
わかる、わかるぞ少女よ。そうだよな。あんな子供騙しの味に飼い馴らされたくない気持ち、俺にもわかる。だがな、大人になるとあの味が恋しくなるんだ。もう堪能出来ないあの味を、俺達は取り戻したいとな。だからこそ、少女には分かって欲しい。今だけの幸福を自らの下らない我が侭で手放してはいけない。
「しょうがねぇなぁ」
やれやれと立ち上がり、少女に近づいていく。少女は、なぜ俺が近づいているのかわかっていないのか、きょとんとしていた。
「そこの不良少女よ」
俺は顔を下に向ける少女に声を掛けてやる。掛けてやったが、少女は俺を無視して、動かない砂利をじっと見つめていた。
なんですか?反抗期ですか、そうですか。そうなぁ、社会に反抗したい年頃だよな。あの太平洋のように広い心の俺は無視されても怒らない。だって、俺は大人だもんな。
「お前の気持ちは良く分かる。辛いよな、苦しいよな」
「……は?」
おお、俺の気持ちが届いたのか、彼女は顔を上げた。そして、その顔を間近で見た俺は、不覚にも魅入られてしまいそうになってしまった。
何も手を加えた事のない綺麗で長い黒髪は、さらさらとしていて女性なら誰もが羨みそうだ。それに、やけに端正な顔立ちをしている。普通はこの位の年なら可愛いと表現するものだが、彼女は誰が見ても綺麗だ。切れ長の目に、スッと筋の通った形の良い鼻。唇は厚くもなく薄くもなく、理想的な形をしている。顔も全体的に小さめだ。なによりも俺が驚いたのは、その儚さだ。少しでも他人が触れれば消えてしまいそうな、そんな一瞬の美しさが彼女にはある。
そしてその雰囲気を、俺は知っていた。知っていたから、一瞬言葉に詰まり、彼女に惹かれてしまったんだ。……彼女からしたらどうでも良い、失礼な話かもしれないが。
「あの、なんですか?」
数秒フリーズしていた俺は、彼女の声にはっとして意識を取り戻した。
ガキ相手に何をトリップしてるんだ俺はと渇を入れる。色即是空色即是空。よし。
「なんですかじゃないよ。あのな、お前の気持ちは分かるよ俺も。嫌だよな、毎日毎日……わかるぞ」
「……すみません、意味わかりません。消えてください。この地球上から細胞一つ残らず」
はっはっはっ!照れちゃって可愛いなぁ~。て、照れ隠しだよね、その毒は?
「それな。反抗したくなるよな。アレだろ?代わり映えのしない給食の味が嫌で学校から逃げ出したんだろ?その気持ちわかるぞ俺は」
「いや、ほんと何言ってるんですか。病院行きますか?そして一生出てこないで下さい」
「強がるなよ反抗期娘。俺にはわかってるんだよ。その証拠にお前、ずっとこのチャーハンおにぎりを見てたじゃないか」
「……アタマ、ダイジョーブデスカ?」
自分の頭を指で突き、カタコトで言われた。あ、あれ?馬鹿にされてる?この推理が間違っているなんて……か、彼女なりの強がりだよね?そうだよね?
「良い!良いんだ強がらなくても!俺には隠さなくても良いんだよ。だから、これやるよお前に」
彼女の横にチャーハンおにぎりが大量に入った袋を置いてやる。サンタさんもびっくりな優しさですよ。
「いりません」
「そうか、嬉しいか!」
「鬱陶しいの間違いデス」
最後のデスが英語っぽく聞こえたんだけど気の所為に決まってる。だって、間違いだってことになったら、俺ってばただの痛い人じゃないか。あの母上にしてこの息子在りとか最悪ですよ。とにかく、このまま彼女の言葉を上書きして突っ走るしかないです。
「おっと、礼はいらないぜお嬢ちゃん」
「言ってない。一言も言ってない」
「だがな、人生の先輩から言っておかなきゃならんことがある」
「人間の言葉が通じない生命体に初めて遭遇したわ」
「いいか。確かに、給食ってのはお前等の意思に関係なく、品目も味も決まる。だけどな、それを楽しめる時間ってのは一瞬なんだよ。流れ星よりも早く時間は過ぎてしまう。だからな、俺は今を大切にして欲しい。後に掛け替えのない時間だったと、そう……キラキラと輝く大切な時間と味になるんだ。それだけは本当だって、俺は言えるのさ。だから……だからな……」
うん、俺を見上げる彼女の目が果てしなく冷めているんだが、俺の強心臓にそんなもん無意味だ。俺を倒したければ、エクスカリバーでも持って来い。
「あの陳腐な味を、大事にしてくれ」
決まった。こんなにかっこいい大人になったぜ、俺。母上様、あんたは自慢して良い。あんたの息子は、少女に侮蔑の眼差しを向けられても立っていられる、そんな強い男に育ったってな!
「……あの、もういいですか」
「あ、はい。なんかすんません」
俺の勇気ある行動は、彼女の鋭利な言葉によって切り刻まれ、俺はすごすごと立ち去る事に。
去り際に後ろをチラ見すると、あの毒々しい少女がチャーハンおにぎりをちょびちょび食っているのが見えた。
(結局食うんじゃねぇかよッ)
心の中で突っ込み、俺は今度こそ立ち去った。彼女へのちょっとした違和感に後ろ髪を引かれながら……
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