上 下
2 / 4

1F原発復旧3号機カバー酔夢譚 【31】~【40】

しおりを挟む
【31】釣り道具のオモリとAPDの鉛隠し
【32】2011夏が過ぎてボランティア
【33】春夏秋冬ボランティア
【34】熱中症とWBGT値
【35】秋風と引っ越しとホテルの人間模様
【36】作業員宿舎とパチンコ屋の復活
【37】二度目の夏 スリーマイル巨大床掃除機とコーヒー園長
【38】他人の不幸は蜜の味 落ちた?落とした?
【39】作業員の告白 APD被ばく隠しの発覚
【40】APD鉛による被ばく隠しの顛末

【31】釣り道具のオモリとAPDの鉛隠し
3号JV鹿山建設(ゼネコンジョイントベンチャー:ゼネコン数社の共同企業体)がいわき事務所を2011年6月下旬に開設して、夏が過ぎるころには早くも被ばく線量30mSvを超える者も出てきた。特に現場で作業指揮する3号JV職員は先頭を切って被ばくした。3号JV職員が被ばくを惜しむような素振りが見えると下請け作業員になめられて作業もいいかげんいなる。自分を防御して待避所へ逃げ込んでばかりいると「おまえまじめにやれ」と首根っこつかまれる。
派遣で雇用された3号JV社員の中でも真面目な者は3号JV社員の代わりに被ばくをする。いずれにしても初めの3か月で30mSvを超える者がたくさん出てきた。
ちょび髭のオイちゃんはAPDの値次第だということに気が付いた。APDだけを鉛で覆えば数値は下がると思った。そこで釣り具のオモリに使う鉛板を金づちでたたいて4cm前後の四角い厚さ1mm弱程度のAPDの大きさに加工した。釣り道具のオモリに使われる鉛の板は1mmにするには薄すぎるので手間がかかる。
叩いて伸ばして重ねた鉛のフリーカットシールを紙に包んでAPDの前に挿入した。彼だけがAPDを入れた下着の左ポケットがちょっと垂れ下がっているが、だれも気が付かなかったし、そんなことしているなんて想像もしない。
「俺さあ、釣りの鉛のシールオモリを張ればAPDの値下げられると思ったんだよね。こんなちいさいシール鉛をハンマーで伸ばして大変だったんだから。」
しかし彼は素人判断だった。釣り具の小さな鉛0.1mm程度のシール板を安易にAPD表面にちょっと張っただけではセシウムのガンマ線は遮蔽効果がほとんどなかった。厚さも足りないし、ガンマ線は左右からも来るのだった。セシウム134ガンマ線を30%遮蔽するには鋳型で溶かして最低厚さ3mmくらいの板を作る必要があった。作業中に線源のほうを向かない、線源から距離を取る、作業時間を短縮する、ほうがよほど遮蔽効果がある。
瓢タンは、ちょび髭のオイちゃんのやっていることには効果のないことを知って安心した。もし効果があれば取り上げて二度としないように注意しなければいけないがその必要もなかった。
かくしてちょび髭のオイちゃんの安易な遮蔽鉛ではAPD被ばく数値が他の作業員とほとんど変わらず、労多くして益なし、徒労に終わった。
もっとも労少なくて効果のあるやりかたは、APDを休憩室に隠して置くことだった。休憩室にあるから被ばくはほとんどしない。これをやった作業員はメディアに自ら告発したので事件になり、その後電力会社は、そういう不正を防ぐため、タイベックスーツの胸のところには左右の透明なビニールにして装着したAPDが出口検査で見えるようになった。APDを目視確認できないときは現場にでることができない。
不正が発生する度に電力会社は不正を防ぐよう対策マニュアル作りに忙しい。しかし被ばく線量を低減するための方法は線源との距離、作業態勢、作業時間の短縮が一番効果がある。実際にそれを実行する作業員としない人の差は2倍にもなることがある。安易な抜け道は結局身を滅ぼす。それこそ「自分の身は自分で守れ」なのだった。


【32】2011夏が過ぎてボランティア
夏があっという間に過ぎようとしていた。3号JVではお盆過ぎに原発作業の放射線管理不適合事象が重なった。APDの警報を超えて作業したこと。APDの10時間警報を超えて作業したこと。
線量警報が3mSvに設定されているがそれを超えることは度々あった。本来は事業者である電力会社に不適合是正報告という堅苦しい手続きが必要だが、電力会社も対応が間に合わない。休憩所の拡張、APDのシステムアップなどに追われて管理人数が足りない。
そこで放射線管理者の瓢タンとしてはその分が楽になった。気持ちの余裕ができたので瓢タンはボランティア活動をしてみたいと思った。3号JV宿舎となっているいわき市平はかろうじて避難区域の対象外だったが、いま避難している人たちはどうしているのだろう。なにかできることはないかと思った。
いわき市のキリスト教協会がボランティア窓口になっているという話を耳にしたので電話をしてみた。
「ボランティアするにはどこへ集まればいいのでしょうか」
「毎朝9時に集合です。内容は瓦礫撤去ですよ。あなたが何をしたいか、そこが合致すれば来ていただいていいですよ。」
何をしたいか?そう言われると瓦礫撤去が瓢タンの意ではなかった。1F復旧で瓦礫撤去しているのに個人でさらにやるのはいかがなものか。
そこで何をするか自分で考えてからにしようと思った。
いわきの中央台高久というところに大きな仮設住宅がありそこには楢葉町の避難住宅があった。
まず偵察に行くと、散歩する老夫婦がいた。声をかけてみた。避難所では自宅の畑はない。ややもすれば閉じこもりになり、体を動かさないので務めて散歩するという。そして肩が凝ると言う。
そこで瓢タンはボランティアで肩こりを治すためのマッサージをすることにした。誰にでもできそうだと思ったからだ。
集会所に楢葉町の復興担当者がおり、そこで話は意外とすんなり決まった。何をするのかを書き、いつ開催するのか日程を決めて、対象人数は適当に8人と書いて仮設避難住宅の共有スペースの借用申請をしたところ、受け入れられた。避難住民への広報は窓口担当がやってくれるということだった。
日曜日の月に二回通うように設定し、行ってみるとマッサージ希望者がちゃんと待っていた。一人15分、8人で2時間。仮設住宅の窓口のおかげで初日から予定通りだった。
3回4回通って30人ほど施術してみるともうコツはわかった。強すぎず柔らかすぎず、相手の肩の筋肉と会話しているようなものだった。いつの間にか先生と呼ばれるようになり、そのうちゴッドハンドの先生と言われるようになった。
肩凝りマッサージのコツは最初の5分はただなでるだけ。その5分で人に依って凝り方の違いがわかるようになる。最初ガチガチの肩の筋肉が少しなじんでくると固いところと柔らかいところが感触でわかるようになるまで。それから固いところを親指で少しづつ強めに指圧してゆくのだった。
そんなことで15分後には固い筋肉が弾力のある筋肉になるように親指で押してゆく。

【33】春夏秋冬ボランティア
瓢タンは毎月二回の肩もみボランティアを雨の日も風の日も雪の日も続けた。仮設住宅避難住民のいろんな話を聞きながら。
・地震のときはがくがく足が震えた。
・新築の家に住み始めたばかりなのに避難で失った。
・散歩していたので偶然助かった。
・息子夫婦と孫は福島県から避難させた。
仮設住宅の集会所ボランティア活動では他にも柏市からお茶のみ会を開催するために毎週通っている夫婦もいた。夫婦はガラスバッジを付けていた。柏では放射能が飛散したのでガラスバッジを付けて個人個人で被ばく測定しているようだ。
そう言えば、2011年6月に柏から3号JVに赴任してきたばかりでまだ原発構内に入っていないゼネコン社員が、入構前の内部被ばく測定をしたところ、ヨウ素内部被ばくしていた。ヨウ素は半減期8日なので2011年6月には消えているはずなのに検出されたってことは、爆発時に相当な量の被ばくをしたいたんじゃないか?と疑問が残った。
逆に原発入構まえの内部被ばく測定で全国のヨウ素やセシウムの実際の飛散状況がわかることになるのではないか。
柏の夫婦の催す会に瓢タンも参加してみた。わかりやすく言えばティーパーティーだ。お茶飲んで雑談することが大事なことであって、避難中のストレスが和らぐ。ほとんどは女性であり男性はほとんど見つからない。仮設住宅では男は閉じこもりが多い。女はとにかく出回って、おしゃべりが好き。
また放射線研究の学者たちが放射能は怖くないということを話にくる講演会的催しもあった。あとでその感想を直接聞いてみると、学者たちの説く「放射能は怖くない」と言う話に対して避難住民は決して納得していない。しかし学者たちは共感を得ていると思い込んで帰ってゆくようだ。
住民からすれば避難者の被ばくは無害だとか言うが、避難しているから無害は当然だし、逆になぜ避難し続けていなければいけないのか、それは放射能が無害ではないからだろうという疑問が残った。行方不明探しのために自由に帰ることも墓参りも制限されている。すべては放射能に害があるからではないのか。そういう感想は得意満面の講演者には直接は言えない。学者たちが放射能は無害というなら放射能に関する規制をなぜ変えないのか。という疑問が避難住民にはあったが、お愛想笑いで「本日はどうもありがとうございました」とお礼を言うのだった。
この一般市民の疑問を解決するにはLNT仮説(1Sv被ばくで致死癌確率5%、100mSvで0.5%)に従って、比例計算した被ばくリスクを、個々の日常のリスクと比較して個々に評価判断する方が合理的である。ICRPではLNT仮説はあくまで防護基準であって、実際の被ばくで放射線影響リスクをLNT仮説で比例計算に使うべきではないと説くが、計算自体はしてよい。ただし計算で得た数値は単なる計算値で在り、個々の日常のリスクを比較して評価し、個々に判断することになる。個々の日常のリスクを計算することもややこしいが、100mSv以下だから影響ないという大雑把すぎる説は矛盾を含んでおり市民には納得しにくい。ただ単に、低線量被ばくは無害だなどと言ってもその被ばく量の厳密な境界がはっきりしないし、大人と子供では感受性が違う事も明白な事実である。
そして一般市民には疑問だけが残り、入れ代わり立ち代わりでやってきては講演する学者達は自己満足して、帰ってからSNSで避難市民の納得を得ました、お礼を言われました、と報告するばかりだった。

肩もみを受けに来る人もほとんど女性だった。若いのに鉄板のようにがちがちに凝った人、老女なのに意外とやわらかい人。さまざまだった。男性はほとんどが部屋に閉じこもっていたが、毎回通ってくる男性も1人いた。
その男性に偶然、平のいわき駅のバスターミナルで出会ったときに瓢タンは「きょうはどちらへ?」と声を掛けたが、恨めしそうな顔をして周囲を見回し、「俺は避難民なんだよ」とつぶやくように言って空虚な目つきで空を見上げていた。
瓢タンが帽子をかぶっていたせいか、気が付かなかったようだ。仮設住宅の肩もみを受けているときは歌を歌いながらリラックスしていたようだが、平の人の行き交う繁華街では別人となっていた。孤立した男性特有の疎外感だろうか。
肩こりマッサージしていたとき、その男性の肩や背中は鋼鉄のように硬かった。

 また、郡山の女子学生で福祉の勉強をしていて、是非見学したいと言って見に来たこともある。磐越東線に乗っていわき駅に来て、仮設住宅の実際の現場を見学して帰って行った。
同じJVの派遣社員も参加してきたこともあるがクビにした。
1人はお漏らしの大黒で、女性の膝やふくらはぎのマッサージばかりする。
「大黒さんよ、肩もみマッサージなんだよ」
そう言うと大黒は、
「いやあ、膝やふくらはぎが凝ってますよ」と言ってよだれが垂れそうになってやっているので、気味が悪くなってクビにした。
もう一人は斎賀と言って、大学のときに少林寺拳法部で整体も習ったと言ってやってきたが、高齢者おばあさんにエビそりのように整体を施していた。
斎賀「おばあさん、これって気持ちいいでしょう?」
するとそのおばあさんは
「う、う、う~」
とうめくばかりだったが、斎賀は
「ね、いいでしょう、と言って更にエビそりを続けるのだった。
そんなことをすれば翌日反動で筋肉痛で身体が動かなくなる、と思ってクビにした。
案の定、そのおばあさんは二度と来なかった。

そうやって残暑の時期にスタートして、雨の日も風の日も雪の日も毎月二回通い続けて一年も続けると、瓢タンの親指付け根の関節は皆さんの肩こりの強さに負けて、関節の炎症してしまった。
筋肉痛ならば鍛えられて強くなるのだが、炎症は温めてもさらに痛くなる。そこでギブアップして継続できなくなった。ゴッドハンドの肩もみマッサージは2012年の夏までの1年間で終わった。

【34】熱中症とWBGT値
1Fの3号機復旧の休憩所は免震棟だ。そこから1~4号機や汚染処理復旧工事にでかける。免震棟の入り口兼出口にはWBGT値と温度が電光掲示板で表示されている。
海に面しているので朝9時くらいまでが最も気温に対してWBGT値が高い。湿度80%超えると温度よりもWBGTが高くなる。湿度80%以下では温度よりWBGTが高くなることはない。
そこで真夏は8時過ぎるとすでに電光掲示板のWBGT値が31℃を表示していることがある。その横には「WBGT値31度以上になると安静にするように」と注意が書かれている。
安静とは、作業ができないことになる。と言っても継続して作業ができないと言う意味であり、15分ごとに現場の車でエアコンに当たって体を冷やしながらとかの作業は可能である。
作業継続するか休憩するかは下請け企業の判断に任せている。東電は数値を表示するだけだ。
WBGTの数値には、さらにタイベックスーツ着用の際は+1度、雨の日のアノラック着用は+11度の東エネの指導がある。+11度を足したら外気温20度でも作業ができないことになる。雨の日は概ね気温が下がるが、25度でも雨が降ることもある。そこでそういう場合は作業を請け負う元受のゼネコンの判断次第ということになる。最終的には作業者個々の判断次第といいうことになる。あいまいなルールであればあるほど末端にしわ寄せが行く。
電力会社は厚労省の指針をそのまま元請けに指示すればよかった。最初の夏は具体的な作業中止の指示もなく熱中症に注意しなさい、だけだった。
前日飲み明かした作業者は熱中症になりやすかった。
熱中症を防ぐにはまず睡眠、次に朝食、そして休憩だ。
一度あることは二度ある。熱中症経験者は繰り返すことが多い。
現場で熱中症が発生したら、まず休憩所で寝かせて、すぐに医療班に電話する。医療班は5分くらいで駆け付けてくる。そして医療室へ運んで点滴をする。
熱中症になったら、手足が思うように動かなくなる。それから冷やしても、水分補給しても治らない。生理食塩水の点滴が必要だ。ナトリウムとカリウムが筋肉を動かすために必要で、熱中症でそれらのミネラルが不足してから飲用しても間に間に合わないので点滴で身体に注入する。
2022年の夏から鹿山建設では休憩所に体重計を置いて、出かける前と帰ってきたときの体重の差を記録した。2kg以上の体重減があれば、もう作業せずに宿舎に帰った方がよい。そうは言うものの、作業に夢中になって体重が4kg減らす者もいた。
現場に着くまでにすでに冷却シートなどは湯たんぽ状態で効き目が無かった。
更に宿舎での朝食チェックも行った。休憩所には更にアルコールチェッカーも置いてチェックした。要は深夜や明け方まで飲み明かしていないかどうかをチェックする。そもそも宿舎を出発するのが3時頃なのだが・・・。


【35】秋風とホテルの人間模様
瓢タンは当初は避難エリアを外れたいわき市の大利地区から通っていたが不便なために鹿山建設が用意したホテルへ引っ越しをした。鹿山建設が宿泊するホテルは大グランドと小リトルと二つあった。
大グランドは貸し切りフロアが限られており、あとからホテルに移動した人は小リトルへ配置された。
いわき駅前の平の小さなホテルだった。3号JV社員は近くにある大きなグランドホテルに住んでいた。全国から集めたゼネコン社員は3か月契約で、3か月経つともとの現場に帰ってゆく。そのとき大きなホテルに空き室ができれば瓢タンはそこへ移る予定だった。
更に経費節減のために6か月以上の滞在者の中で今後も原発復旧に携わる予定の社員のために、事務所に近い場所のアパートを借り上げて、順次移ってもらう計画だった。アパートに移った職員の大グランドの空き部屋に瓢タンが移れることになる。
他のゼネコンもいわき駅周辺の大きなホテルをゼネコンが定住宿にしていた。真水建設はいわき駅の西側に陣取った。報道陣やレポーターなども大グランドをまず予約したが、取れない場合は小ホテルを取った。
大グランドの朝食バイキングでは著名レポーターやタレントを一緒に食べることもあった。
平の繁華街は原発事故バブルで好景気だった。
大グランドホテルは毎朝バイキング形式だったが小ホテルは毎朝カレーだった。365日朝はいつもカレーだ。嫌気がさすと、みな、自分でふりかけなど持参して食べていた。
小リトルホテルへ移ると同じホテル住まいの派遣職員から声をかけられた。
「明日暇なら郡山までドライブ連れて行きますけど」
そして朝早くからドライブに参加したが、行ってみるとそこは振興日蓮宗派の集会所だった。数珠を買わされたが、坐禅だと思って暇をつぶした。
毎朝同じカレー料理というのもいつまで耐えられるか時間の問題だった。酒を飲まないので毎晩の外出もせずにTV見てすごしていた。
そして毎月二回の日曜日はもっぱら仮設住宅で肩コリマッサージに勤しんだ。
ある日エレベータで思わぬ情景に遭遇した。ドアがあくとそこには口にテープ、両手にはスリッパをつけている少年がいた。瓢タンが凍り付いた瞬間の次に、よく見るとスリッパを手首にテープで巻きつけてある。目は視点がどこにあるかわからないように空中を見ている。隣には母親らしき女が立っている。
見慣れないその光景にびっくりして言葉もでなかった。
そして二度目は駅前通りでその親子に遭った。母親らしき女と目が会って瓢タンは思わず立ち止まった。
すると女は言った。
「わたしがこの子を虐待していると思っているんでしょう?」
たしかに瓢タンはその少年が無理やりそんな恰好させられていると思っていた。
「この子は障害児なんです。皮膚疾患もあってこうやって手をスリッパで防御して口にテープ貼っておかないと顔をかきむしって血だらけになるまで続けるんです。そして環境を変えるためにホテル住まいを転々としているのです。」
自閉症の少年は空中に目を向けながら黙って立っていた。
これがTVでたまにドキュメント報道される自閉症で自傷行為の障害を持つ子なのか、と瓢タンはどぎまぎしながら言った。
「治らないの?」
と問いかけると女は言った。
「医者のいうには大人になれば、自傷行為は自然にやめるそうです。」
瓢タンはそれ以上の会話が続けられず、二人が立ち去るのを見送った。親子はまもなく別のホテルに移った。
またあるときはフロントで大声で喧々諤々の話をしている客がいた。仮設住宅に移ったが夫のDVに会っているということだ。
「夫が訪ねてきても部屋を教えないでください!」
原発避難の長期化によってストレスを抱えた夫が暴力を振るうようになったということだった。DVの夫に見つかるたびにホテルを転々としていた。
秋風と共に様々な引っ越しの人間模様があった。
いわき市では原発避難者が多いが、そういう影の部分と逆に、原発作業員が数千人も急増して平の水商売繁華街のネオンは煌々と輝いていた。ゼネコン社員は給料制だから作業がストップしても月給は保証される。さらに原発復旧工事では危険手当が2万円、月20日で40万円支給される。さらに残業も時間2500円で100時間で25万円。
ゼネコン社員の中には毎月40万円を繁華街で飲み明かした強者もいた。現場の危険手当は原発復旧だけの特別なことだから、3か月間この現場に居る間は全部使ってしまおうという理由だった。
瓢タンもたまに付き合いでスナックに行くと、そこは事務所の女子社員の母親のスナックだった。
深夜に平繁華街を歩いていると、リヤカー引いたり、手押しカートを引いたり、着の身着のままのホームレスもいる。彼らも引っ越し先を探して深夜をうろうろしていた。

【36】作業員宿舎とパチンコ屋の復活
鹿山建設は土木部門と建設部門がある。土木は避難区域の除染作業と原発構内の地味な穴掘り作業の路盤整備が主だが、秋からは汚染水対策のメインになる凍土壁構築と避難区域の除染作業の調査をしているところだった。今後作業員はうなぎのぼりに増える見込みだった。
建設部門では3号の燃料取り出しのためのカバーリング工事3号JVが主で秋には3号JVと下請け作業員併せて現場要員は200人に上った。
もともとは3号原子炉建屋カバー、それからドーム建設だが、その前に地盤整備の瓦礫撤去がある。しかしJV所長は建築家であり、瓦礫撤去には興味が無かった。電力会社からは3号と4号の間の高線量瓦礫撤去の依頼もあったが、「そんなのは建築屋の仕事ではないよ」と言って断った。
作業員の人数は、3号JV65人、下請け作業員130人の割合だが、鹿山建設の建築部としては3号JVだけではなく、2号JVもあり、その他に原発構内の緊急的な即時工事といって1F随所の不具合復旧工事もある。
そこで作業員のために浜通りのいわき駅の三つ北、草野、四ツ倉の次の久ノ浜に300人収容可能な宿舎を建設した。
プレハブだが共同浴場付、共有食堂付きだった。宿代は月3000円の格安だった。現場作業人は日当制で、日当も特別手当も各下請け企業によって異なる。日当は職種、資格によって異なり、特別手当も下請けの階層によって異なる。ある会社は極まれだが2万円をそのまま支給し、ある会社はそのなかから半分を内部留保に回して、作業のない期間ができるとその内部留保から支給した。下請けの階層によっては特別手当が1000円のところもあるし、全くない場合もある。
しかし原発復旧の作業では危険手当てと日当と残業時間をまともに合計すれば手取りで少なくとも50万円はもらえる。稼ぐ作業員は月100万円ほどにもなる。衣食住がほとんど支給なので貯金すれば年間500万円は可能だ。
作業員用宿舎の近くにパチンコ屋があったが、津波のせいでお客が半減し閉店を考えていた。また近くのゴルフ場も放射性物質飛散の影響を受けて閉店だった。ゴルフ場は事故後すぐに、電力会社に放射能を除去要求して訴訟を起こしたが、飛散した放射性物質は無主物であり電力会社に除去義務の責任は無いと判決が下った。
原発は事故が起きても電力会社の責任は限定されている。では誰が責任を持つのか、定かではない。国の責任となっても国の政策である原発政策を決めたのは民主主義に従ってやったのだということになる。電力会社に除去責務があるのなら東日本すべてのエリアの除染は電力会社がやらなければいけないことになるが電力会社には免責がある。
久ノ浜のパチンコ屋は津波で避難した分だけ顧客数が減ってしまい、店を閉めようと考えていたところだった。
が、近くに鹿山建設や大山建設の作業員宿舎ができてから息を吹き返した。
原発復旧の作業は往復の時間は4時間かかるが、現場の作業時間は短い。放射線被ばくの限度が設定されている。もっとも短い作業は203高地のウルトラマン3分作業だ。
そこで作業員は宿舎に昼下がりの明るいころには帰っている。するとまだ明るいし酒飲む前で、やることもないのでパチンコに足を運ぶようになる。宿舎の300人のうち半分くらいはパチンコに通う。おかげでパチンコ屋は復活した。
パチンコ通いの作業員は月末になると金がなくなり宿舎に閉じこもる。宿舎ではパチンコで財布の中身がすっからかんになり、月末の金の無心が横行した。宿舎の部屋にはドアに「金のない人はお断り」の表札をだしている部屋もある。特に若い者は職長からたしなめられたが、なかなかやめられない。
若い作業員が親方の前に跪いて頭を下げていた。
親方は言った。
「今月も又金を貸して呉れってか、おまえ金がないわけないだろう。危険手当も残業手当ももらっているだろう。こんな田舎で飲み屋も近くにないし」
「それが、その~~・・・パチンコで・・・」
「おまえなあ、給料もらったらまず親に仕送りしろよ。パチンコ屋に仕送りしてなんの意味があるんだよ。」
そうはいうものの、原発の仕事は往復4時間かかるが、実際の作業は一時間程度、それが終わればさっさと宿舎に帰ってもまだ日が高い。他にやることもない。
釣りに興味がある者は救われる。放射能があると言っても浜通りの海岸はキャッチアンドリリースの釣りには絶好の場だった。
一方全国のゼネコンでは現場から一時的に3か月で派遣されており、全国各地から送り出されてくる社員はいわき駅平の繁華街毎日飲み歩く。中には妻帯者にも関わらず、月40万円も使った妻帯者の強者もいた。
瓢タンが聞いた。
「奥さんから文句言われませんか?」
「いや、3か月で目いっぱい被ばくして帰るんだから、その危険手当は自分の好きなように使って良いっていわれてるんだよ。」
原発で支払われた危険手当や残業手当のお金は、いずれにしてもいわき駅周辺の平の繁華街や久ノ浜のパチンコ屋に流れた。金は天下の回りものだ。風が吹けば桶屋がもうかる。

【37】二度目の夏 スリーマイル巨大床掃除機とコーヒー園長
地上の道路整備のための瓦礫撤去が一段落すると3号機原子炉建屋を鉄骨で外壁を作るための基礎構台設置作業が始まった。何と言ってもまずオペフロ使用済み燃料プールから燃料棒を取り出すこと。原子炉の上に使用済み燃料を保管していることは、水素爆発~メルトスルーの際に世界中からクレージーと指摘された。
オペフロは水素爆発の残骸瓦礫が覆っている。使用済み燃料の取り出し前にクレーン操作でオペフロ上の瓦礫をつまんで地上に下ろす計画だが、そのためにはクレーンを仕込んだドームを構台の上に設置しなければいけない。
3号機をドームで覆うためにはドームを支えるために構台と言って3号建屋周りに沿って補強鉄骨構台を組まなければならない。それにはまず鉄骨を組むための足場材組立から始まる。
オペフロ上の瓦礫撤去と並行して複数の工事が始まった。
道路上の瓦礫を撤去するグループ。
建屋周りに鉄骨構台を組むグループ。
オペフロ上の瓦礫を撤去するグループ。
さらに、オペフロ瓦礫を撤去した後に、オペフロ上にへばりついた放射能を削って除去除染するグループ。オペフロにドーム建設するためにはオペフロ上で人が作業できる線量率でなければいけないからだ。そのためには1000mSv/hもある場所を1mSv/h以下にしなければいけない。そのためにオペフロ上の瓦礫を撤去してさらにコンクリート床にへばりついた放射能汚染を床を削って除去するのだ。
オペフロのコンクリート床を削る重機は日本にはない。そこで即戦力としてスリーマイル原発事故時に使用した実績のあるアメリカ製装置を輸入することになった。まず輸入代理店が国内工場で組み立て試験して、それをJヴィレッジのサッカー練習場に運んで試験する。
オペフロ瓦礫や無残に残った竜骨のような鉄骨や、ドーム設置のための構台作りと並行して、Jヴィレッジのサッカー練習スペースで床削り装置の試運転を行った。
あっというまに作業員とゼネコン職員の合計が200人に膨れ上がった。
アメリカ製の床面削りの装置は手っ取り早く言えば、ビルの清掃機器を巨大化したものだった。
原子炉建屋内の調査用ロボットも即戦力としては、既に経験のあるアメリカから輸入した。
同時並行でに国内メーカーもデブリ調査用ロボットや除染清掃機器の開発に取り組んでいた。
アメリカ製の床面掃除装置はクレーンで吊下げてオペフロ床上を自走させてコンクリートを削ったり、同時に削った放射能粉塵を集塵掃除する。発電機とコンプレッサーや排風機のセットになって20トンもある。
それをJヴィレッジの空いた練習場で組立試験する。担当の現場指揮者は毎日Jヴィレッジに通った。夏になるとあっと言う間に顔がコーヒー色になって、あだ名がコーヒー園長と呼ばれた。
なお、このころはJヴィレッジでの作業は通常作業服で可能となり、危険手当は最も被ばくランクの低い5000円が支払われていた。
コーヒー園長は瓢タンに言った。
「わたしは元の事務所に帰っても肩身がせまいのだよ。いままで派遣された先輩たちはみな日焼けしなかった。全面マスクで3号周りの短時間の仕事が原発復旧だということが地元のみんなに知られている。私だけ真っ黒に日焼けしてるでしょ。原発構内で毎日炎天下で長時間の仕事で日焼けしたんですと言っても信用してくれません。なにせ被ばくもしていないんですから。同僚からはゴルフばっかりしてたんだろう?なんてからかわれるんだよ。」

【38】他人の不幸は蜜の味 落ちた?落とした?
復旧工事があっという間に1年経った。3号機復旧のなかで、最優先の作業はむき出しになった使用済み燃料プールの使用済み燃料を地上へ移動することだ。移動した燃料は地上の共有プールに移して冷却のやめの保管をする。冷却されて共有プールに保管したあとに冷却された燃料は地上の保管庫で保管する。
3号機では燃料棒を操作するためのフロア、オペレーティングフロア、通称オペフロ階の壁も天井も水素爆発によって木端微塵に吹き飛ばされ、燃料を操作するため天井に設置されたクレーン鉄骨はグニャリと曲がったまま、瓦礫としてオペフロ燃料プールに落ちていた。
そこで使用済み燃料取り出しのクレーンを設置するにはまずオペフロを囲むようなドーム、そこに新しいクレーンを備え付けたもの、を建設しなければならない。
しかしオペフロは吹っ飛んで砕け落ちた瓦礫が山のように積もっていて場の線量率は1SV/hを超えるため、人がそこに立つことができない。
まず人が立てなければドーム建設は難しい。ドーム建設する以前にオペフロに積もった高放射線源であるコンクリート瓦礫と天井クレーン(通称天クレ)の鉄骨ガレキなどを撤去しなければならない。
瓦礫の撤去は遠隔操作のクレーンに巨大な重機のクラブバケットやカッターなどアタッチメントを取り付けて行う。
また瓦礫をつまんで地上に下ろしたあとは、オペフロのコンクリート床面を削ってそれを吸引して表面の高線量部分を地上に下ろす。
クレーンの遠隔操作は風が吹けば中止となるし、まともにやっても遅々としか進まない。なぜならクレーンに取り付けたアタッチメントをオペフロに揚重するのに早くて15分。往復30分。それを一日何回もやる。
まず放射性物質が飛散しないように飛散防止剤を撒くがそれに最低1時間かかり、それからもう一度クレーンの上げ下げして撤去する。併せて使用済み燃料プールに落ちた瓦礫も撤去する。
使用済み燃料プールにはコンクリート瓦礫と同時に元々のクレーン設備の鉄骨の破片が幾つも使用済み燃料棒に引っかかって落ちている。それらは折り重なっており、どれがどれの支えになっているかをコンピュータ解析しながら、一つ取出しても他に影響がないように一つづつ、クレーン先にとりつけたアタッチメントでつまんで取り出す。
そんな微妙な操作をしているととき、他の鉄骨とは絡んでいない一つの鉄骨をつまんで抜き取ると、そのとき免震棟操作室で遠隔操作のオペレーターが言った。
「あっ!」
遠隔操作室は操作中は静寂の場である。
オペレータの一言で操作室に詰めている10人くらいの職員の頭がその一言に向けてぴくっと反応した。そして一人が言った。
「え?なんか言った?」
そしてすぐに全員がその一言を発したオペレータのほうを注視しはじめた。
するとそのオペレータはぽつりと言った。
「落ちる・・・」
みんな口には出さず無言で、口をぽかんと開けてモニター画面を見つめていた。
「・・・・・・」
1つを取り上げたと同時に、その下の大きな鉄骨破片がバランスを失ったのか?使用済み燃料プールの濁って不透明な闇の底へゆっくり沈んでいった。
「あ~~・・・」
方々からため息とともに気合いの抜けた声がでた。しばらくして室内は静寂を取り戻したがそれも束の間だった。
「落ちたぞ。大きい鉄骨が。あれって何トンだったかな」
俄かにざわついた部屋では落ちた鉄骨の重量調査が始まった。クレーン装置メーカーである東芝がコンピュータ解析により当該鉄骨の重量を計算する。すると実際には数百キロgの重量だった。
そしてそれを電力会社に報告すると電力会社は原子力安全委員会とマスコミに一斉報告した。そして次の日から大手メディアの紙面を賑わした。
紙面では「落ちた」という不可抗力的ニュアンスではなく、「落とした」と人為的ニュアンスで記載された。
鉄骨が燃料棒の被覆管を破ると核分裂放射線物質がプールに拡散されることになり、大変なやっかいなことになる。
作業は中止となり、まずは燃料棒が破損していないかどうか観察し、鉄骨落下の原因対策を追及して改善策を立て、第三者機関を含めて承認を得てから作業再開となる。
瓢タンが当月作業の延伸を報告しに労基署に立ち寄ると、担当官は待ってましたと言わんばかりの顔つきで言った。
「鉄骨落としたんだって?」
瓢タンは心外ですという顔つきで言った。
「いえ、落ちたんです。」
すると担当官は、おいしいものでも食べるように、にやにやして何回もうなづいた。



【39】作業員の告白 APD被ばく隠しの発覚
原発復旧作業では被ばく管理は必須である。それは法令基準であり、作業者はみなAPDを付けて作業することが義務となっている。
事故当初はAPDが不足していたりして管理はあいまいだったが、トラブルがあるたびに改善されていった。
優先課題としての冷却については事故の半年後の2011.12に政府は安定的に冷却が行われたと宣言した。
その後は復旧作業の被ばく低減が課題となった。
法令上の5年間100mSv、年間最大50mSv、に対して、3号JVでは5年80mSv、年間最大40mSv、月最大20mSv、平均目標年16mSvを限度基準にした。
復旧工事ではAPDの支給確保もできて、作業者の被ばく管理の実態についてもメスが入ることになった。
そんな折に3号JVではないが、電力会社の下請け企業のそのまた下請け企業の作業者がAPDの測定値を下げるためにAPDを鉛で隠して遮蔽していたという不正行為情報がメディアによってばく露された。
3号機JVの効果のなかった釣り具オモリシール鉛遮蔽とは別で、その作業員の鉛遮蔽は効果があったらしいが、逆にそのために作業員自身がこんな不正なことして被ばく線量を隠しているとメディアに告発したらしい。
原発ではなにはともあれ放射線の法令遵守が優先する。一般の現場と異なるのはひとえにその点だ。放射線の被ばく規制が無ければ建屋だって解体を10倍くらいの速さで更地にできる。
放射線管理の法令に従って外部被ばくについてはAPDの数値で日々の管理をする。APDと併せて企業側では自費でガラスバッジも身に着けるがそれは月ごとの測定数値となり、実際にはガラスバッジの通知または比較してどちらか大きい数値を最終結果として採用する。
問題の発覚は末端作業員の告白による。当該下請け企業は現場での毎日の被ばく線量が半年くらいで年間限度に達してしまうために、作業員の交代を避け現状雇い入れの作業者でなるべく年間通じて作業したい。会社としては作業員交代なしで日当も特別手当ても稼ぎたい。
そのため鉛でAPDを覆ってしまえば数値は低く抑えられるだろうと思った。そこで作業員に鉛板を渡してそれでAPDを隠して作業するようにした。
作業員はおかしいと思いメディアに告白した。この件は末端のルール違反で終わるだろうと思ったが、APDを管理していないことが大問題となった。
厚労省としては、安定冷却宣言した後の、安定作業期に突入しており、作業員の被ばく数値はなんとしても5年間で100mSvに抑えたかった。
平均すれば年間20mSvである。大手元請け企業はそれをさらに0.8掛けの安全側に設定しており5年間で80mSvである。年間平均すれば16mSvとなる。月平均では1.3mSvであり、免震棟休憩所で休憩しているだけも月0.6mSv被ばくするような時期には、月平均1.3mSvで現場作業しろ、ということが無理な話ではあった。
末端作業員は被ばく請負人のように限度に達したら短期間で交代させられる。今回の告白作業者は鉛で隠さないでも長期間の作業を継続できるように願って告白したのであろう。
対策は、毎日の作業時間を短縮する事であるが、それだと作業予定が進まない。作業時間を短縮して作業期間をもっと長くとれば一日の被ばく数値も抑えられるが元請会社からは短期間に作業を終わらせるよう指示される。
その板挟みになってやむなくというか無謀にも不正行為をする羽目になる。そうやっていつしか末端は法律の目をくぐらなければならないように追い込まれてしまう。
下請け企業は放射線管理責任者を雇えないような零細企業だ。本人はおそらく自分の身は自分で守ろうとして告白したのだろう。
その後、APD数値を誤魔化すことができる検査体制も改善された。タイベックスーツの胸の部分を透明にしてAPDが適切に着装しているかどうか、東電検査員が出入り口で確認することになった。

【40】APD鉛による被ばく隠しの顛末
被ばく線量管理の不正が発覚すると、法規制をどう守るかの改善対策が問題となる。せっかく原子炉の安定冷却を宣言して、放射線作業従事者の年間被ばく線量が緊急事態から通常状態に戻ったところだった。実際にはもっと被ばくしているなどという見方をされると電力会社としての管理責任が果たせない。
そこで現場対策としてはタイベックスーツの胸の部分を透明にして、休憩所の出入り口で検査員がAPDを正常に着装していることをチェックすることになった。
また過去の被ばく記録が適正に保管されているかどうか、労基署が復旧作業に従事する全元請企業の立ち入り監査を行うことになった。
厚労省の出先機関の労基署が監査に入ることになると、事前に各企業はいままでの記録を見直して整理して、企業内でチェックして、といろいろ面倒なことが多い。たった一つの抜き取りチェックでミスがあったとしても、全記録見直しの指導がでるからだ。
労基担当官がやってくるときは毎日の記録データをキングファイル10冊くらいならべて準備しなければいけない。
下請け作業員の不正行為によってすべての元請企業の事務所では年末まで順次監査が続いた。
鹿山建設の本社から瓢タンに指示があった。
「10月末までに記録を整理して間違いが無いようにしてください。」
 本社から11月初旬に監査が来るということだ。
 鹿山建設の事務所ではすべての記録は適切に保管されているが、監査となれば予行演習もしなければならない。労基署の監査が終わるまで、悩ましい日々が続いた。その間、瓢タンは、間違いを犯した元請け企業やその下請け企業への心の中での八つ当たりは収まらなかった。
 


しおりを挟む

処理中です...