クトゥルフ怪譚集

曽我部浩人

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第2話 屍食の進化論

屍食の進化論 後編

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 料理が運ばれてくるまでの間、白沢はまた講釈を垂れる。

「昔話にこのような話があります」

 深い深い山の奥──ヌタ場といういのししが来る場所がある。

 そこで猟師が猪を待ち構えていると、まず蚯蚓みみずが現れる。
 そこへ蟇蛙ひきがえるが現れて蚯蚓を食べてしまう。
 そこへ蛇が現れて蟇蛙を食べてしまう。
 最後に猪が現れて、その蛇を食べてしまった。

 猟師がその猪を狩ろうとした時、嫌な考えが浮かんだ。

 もしも自分が猪を狩れば、次は自分が何者かに食べられるのでは?

 そんな不安が脳裏をぎったのだ。

「その時、声がしたのです──『猟師、良い思案しあんだ』と」

 それは人間を超越した、得体の知れないバケモノの声だった。

 猟師は逃げ出した。食べられては敵わない、と。

「これは人間も食物連鎖の輪からは逃げられない、いつかお前も喰われるぞ、という先人の暗喩あんゆですね。でもね、私はもっと先を考えてしまうのです」

 このバケモノも、いつかは喰われる側となる日が来るのではないか?

「喰らう者はいつか食われます。この世の全ては消耗するもの、路傍ろぼうの石すらその身をすり減らします。生命はその消耗を補うために喰らいます。喰らい、喰らい、喰らい、喰らい続けて……いつかは誰かに喰われ、そして、果てるのです」

 白沢は初めて、感情らしいものを込めて語る。

 それが自然の摂理──因果の果ての宿命。

 しかし、喰らう側である来賓の誰もが、白沢の意見に同意を示さなかった。
 誰かが意義を唱えようとした時、最後の料理が運ばれてくる。

 血のようなソースを滴らせた、上品なサイズのステーキだ。

「さて、退屈な話はここまでです。あの美少女も見目麗しい一品へと姿を変えたようですね。では、心行くまで舌鼓を奏でて下さい」

 来賓たちは言われるまでもなく、その手にナイフとフォークを握った。
 我先にと口に運ぶ。我先にと咀嚼そしゃくする。我先にと飲み込む。

 だが、一様に顔色が冴えない。

 どう見ても絶品の味を想起させる少女だった。かぐわしき甘い処女の体臭が、今でも鼻腔びこうくすぐる。なのに、この肉は味が悪い。おまけに硬くて筋張っている。

 羊頭狗肉ようとくにくではないが、等級の落ちる肉を食わされた気分だ。

「おや、お気に召しませんでしたか?」
 白沢は見え透いたようなお世辞の笑みを浮かべている。

 その背後にシェフが戻ると、来賓の視線が突き刺さる。あれほどの少女をこの程度にしか料理できないシェフの腕前に、目線でブーイングを送られた。

 その眼力に萎縮いしゅくしたのだろうか、シェフは少し小さく見えた。
 そんなシェフを庇うように、白沢は前に出る。

「どうやら彼女・・の腕では少々役不足だったようですな。ですが、これではっきりしました……皆様はやはりセレブ、その舌は超一流です」

 シェフが何かを放り投げた。その何かが長いテーブルを転げていく。

 それは血塗れの男性の首──あのシェフの物だ。

 なんだと! と恰幅かっぷくの良い男が叫んだ瞬間、続く言葉は呻きに変わった。

 その腹から一本の腕が突き出ていた。

 生白い少女の腕。それが手刀となり、男の腹を刺し貫いていた。

 白に赤の流線が美しい、来賓たちは突然の凶行を忘れそうだった。

 男の腹が突き破られる。そこから、生白い何かが現れる。

 それは──あの美味そうな少女だった。

 血に染まる髪を振り乱して、少女はコックコートを脱ぎ捨てる。
 返り血で飾った裸体を惜しげもなく晒して、テーブルの舞台へ上がった。

 指先を汚す血を、爪の先に挟んだ肉片を、愛おしそうに啜る。

 彼女は笑っていた。

 蜂蜜はちみつを舐める童女の笑みで、大口を開けて喜々と笑っていた。

 同類──違う。食屍鬼たちは真っ先に否定する。

 肉食獣は捕食される恐れはない。食物連鎖の頂点にあるからだ。

 そのため不味まずい。これも自然の摂理なのか、肉を食う者は不味まずいのだ。

 ゆえに食屍鬼は身内同士での共食いを行わない。何故なら、互いに不味いというのを鋭敏な鼻で嗅ぎ分けており、決して食欲が湧かないからだ。

 だが、この少女は違う。

 この少女は食屍鬼の血に蜜の味を感じていた。

 目を奪われている隙に、真向かいに座っていた初老の紳士が頭を割られた。
 爆ぜる脳漿を口元に浴び、少女はそれを長い舌で舐め取る。

 その仕種は唇を汚したクリームを嘗めるかの如くあどけない。

 食屍鬼たちは未知の恐怖に戦慄した──自らが捕食の対象となる事態に。

 初めて味わう恐怖が芽吹くと共に、悲鳴と絶叫が迸った。
 それはすぐに苦悶の旋律に置き換えられる。

 優れた動体視力を持つ食屍鬼グール、その誰もが少女の動きを捕捉できない。

 頭蓋を割られ、脳髄を引きづり出され、喉を食い破られ、延髄から骨髄を啜り取られ、胸を破られ、心臓を掴み出され、腹を割られ、臓物を噛み千切られた。

 誰一人として敵わない。

 武闘派で知られた軍属の男も、血潮を吹いて立ち往生したばかりだ。

 少女はこの遊戯を満喫し、その興奮は最高潮に達している。

 当然、食屍鬼たちは逃げ出した。

 だが、扉は開かない。鍵を掛けられ、そのうえ押さえ付けられている。

「逃げられませんよ──ええ、逃がしはしません」

 白沢は動じない。相変わらずの涼しい笑顔で告げてくる。

「今宵今晩この時が、貴方たちに許された最後の晩餐です。大人しく彼女の贄になりなさい。ああ、彼女ですが──食屍鬼の天敵ですよ」

 喰らう者は、いつか喰らわれる。

 正体不明のバケモノはいつだって背後にいる。それを気にせず思慮せず後先考えず、欲望のままに喰らい続ければ、いつかは自分が食われるのだ。

「彼女は元々、食屍鬼に食われるため養育された最高級の食肉用少女でした。そう、食われる恐怖から儚い抵抗の末、自分を喰らう食屍鬼に手傷を負わせて、その血を嘗めてしまうまでは……こういうのを覚醒とでもいうのでしょうかね」

 人間を食べて餓えを満たす食屍鬼。

 その食屍鬼を糧とする生理状態となり、食屍鬼を超えた身体能力を発現させ、常に耐え難い飢餓に嘖まれ、食屍鬼を鋭敏に嗅ぎ分けるようなった。

「人間を喰らう食屍鬼ですが、昨今やや増えすぎた感がありませんか? その食屍鬼を抑制するために現れたのが彼女です」

 食屍鬼を喰らうバケモノ・・・・──。

「こうなるともう、地球の意志とか、生態系からの警告なんてものを信じるしかありませんよね? 皆様もそう思いませんか?」

 生き残った食屍鬼は、白沢の空々しい台詞に牙を剥いた。

 少女から逃げ惑いつつも、この状況に自分たちを陥れた学者風の男へ一矢報いようと襲いかかる。しかし、白沢に焦りはない。

「おや、どうされましたか? 血相を変えて私に飛び掛かってきたりして……いけませんよ、狩人に背中を見せては……ほら」

 背後から少女の細い腕、その一振りで血潮と肉塊が舞う。
 何人かの食人鬼は助けを求めるように、壇上のベールへ飛び付いた。

 剥がされたベールの奥、そこには貪られた肉塊があるのみ。

「ああ、申し訳ありません。主人なら一足先に彼女がつまみ食いしてしまいました。待ちきれなかったんでしょうね。ほんの少し前でしたよ、食べ終えたのはね」

 ベールの奥から聞こえた息遣いは、彼女だったのだ。

 壇上に集まった食人鬼たちは、跳んできた少女に木っ端微塵にされた。

 その返り血を浴びて、白沢は心地よさそうに微笑む。
 頬の血を嘗める白沢は、足許で震えている淑女の頭を掴んだ。

「これは申し訳ない。大切なことを申しておりませんでしたね」

 肉と骨をまとめて捻り砕く濁音。

 持ち上げられるのは女性の首。南国の果実のように朱い液体を豊かに零すそれを、白沢は頭上に掲げて浴びるように飲んだ。

「実は私も……彼女と同じ生き物なんですよ」

 頭蓋骨を噛み砕いた白沢は、脳味噌を一口だけ味わう。
 白沢の正体を知った食屍鬼たちは、きびすを返して逃げ出そうとした。

 彼に背を向ける行為がどれだけ愚行なのかも考えず、生物としての本能で反射的に逃げていた。だからこそ、胴は薙ぎ払われ、臓物をぶちまけられた。

 白沢は逃げ遅れた紳士の前に立ち、迎え入れた時と同じ笑顔で話し掛ける。

「まあ、そういきり立たずに……折角の晩餐ばんさんなんです。お喋りでもしながら楽しみましょう。お互い人間の形をした者を喰らう悪食者あくじきもの、仲良く語り合いましょう」

 食屍鬼を超える力を持つ指先が、肉を裂いて骨を断つ。

「ほら……腹を割って・・・・・ね」

   ●   ●   ●   ●   ●   ●

 殺戮の宴を終えて、血の海に少女は座っていた。

 その表情には一片の後悔もなく、微塵の罪悪感もない。
 あるのは遊び疲れた子供の気怠さだけ。

 残酷な遊びにも飽き、つまみ喰いでお腹も膨れ、後はお休み、また明日。

 少女は億劫おっくうそうに首を回した。

「ねえ、白沢……今日はもうお終いなの?」
 少女は物足りなさそうに訊いた。

 殺戮には飽きたけど、もっと遊びたい。お腹は一杯だけど、まだ味わいたい。床に広がる血溜まりに指を這わせ、シロップのようにしゃぶる。

 白沢は食屍鬼グールの残骸を片付ける手を休めず、少女の質問に応じた。

「残念ですが今日の御遊戯おゆうぎはお開きです。なに、またすぐ遊べます。なにせ食屍鬼は餓えています。すぐにでも私の設けた罠に掛かりますよ」

 白沢は手際よく食屍鬼の肉塊をさばいていく。
 自分と少女の食料にするため、丁寧に捌いて冷凍保存しておくのだ。

 それを小出しに食べて、当面の餓えを凌ぐ食料とする。

 白沢と少女はそうやって命を長らえていた。

「ねえ、白沢……こんなに食屍鬼を殺しちゃって、大丈夫なのかな?」
 少女は先行きに不安を覚えたようだ。

「いつか食屍鬼を食べ尽くしちゃったりしたら……アタシたち、どうなっちゃうんだろうね……その時は何を食べればいいんだろう……人間、かな?」

「ハハハ、ご冗談を。もう試したではありませんか。私たちには人間を喰う嗜好がありません。煮ても焼いても食べられなかったでしょう」

 この惨劇を御覧なさい──白沢は血に濡れた両手を広げた

「これぞ弱肉強食の成れ果て……それが生命の原理にして、我らに進化を促した要因です。生きてるからには喰らうのみ、そんな未来を心配するだけ無駄ですよ」

 似合わない心配をする少女に白沢は恭しくひざまずいた。

「それでも先を案ずるのなら、私はこう申し上げましょう」

 若く幼き女王に忠誠を誓う騎士の如く、白沢は揺るぎない誓約を述べた。

「いつか食べられる者がなくなり、貴女が餓えと渇きに苦しむことがあれば、その時はこの身を捧げましょう……どうか、余すところなくお納め下さい」

 白沢は真剣な表情で少女を見上げる。



 少女は躊躇ためらうことなく、屈託のない笑顔で頷いた。



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