【短編】暮れの共犯者

月下花音

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第5話:元旦朝帰り

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 1月1日。
 午前2時。
 居酒屋を出て、タクシーを拾った。
 冷え切った大通りで手を挙げると、空車ランプの赤い光が近づいてきて、まるで救世主みたいに見えた。
 本当は終電で帰るつもりだったけど、話がダラダラ続いてしまって逃した。
 彼が「送るよ」って言ってくれたから、素直に甘えることにした。
 これって別に下心があるわけじゃなくて、単なる罪滅ぼしだっていうのは分かってる。
 さっき白髪を抜いたお詫びだろう。

 自動ドアが開いて、後部座席に滑り込む。
 タクシーの中は独特の革の匂いがして、それに加えて芳香剤のレモンのような人工的な香りが混ざっている。
 さっきまで居酒屋で浴びた煙草の匂いが染み付いた私のコートと混ざり合って、なんとも言えない不快なハーモニーを奏でている。
 気持ち悪い。
 胃の中でビールと焼き鳥が暴れている気がする。

 運転手さんがラジオで流している深夜放送のテンションが無駄に高い。
 芸人が大声で笑っている。
「ハッピーニューイヤー!」なんて叫んでるけど、こっちは二日酔い予備軍の頭痛でガンガンしてるんだよ。
 ボリューム下げてって言いたいけど、言う気力もない。
 窓の外を流れる東京の景色は、正月だからか車も少なくて閑散としてて、信号機の明かりだけが虚しく点滅してる。
 ビル群の窓は真っ暗で、まるで死んだ街みたいだ。
 世界に私たちだけ取り残されたみたいで、少し寂しくなる。

「……ん」
 隣から妙な音が聞こえる。
 彼が窓ガラスに頭をぶつけて寝てる。
『ゴンッ』て鈍い音がしたけど、起きる気配がない。
 口開いてる。
 思いっきり開いてる。
 ヨダレ垂れそう。
 さっきまで「今の会社の将来性ガー」とか「俺のプロジェクトガー」とか熱く語ってた男と同一人物とは思えない。
 あまりにも無防備な間抜け面すぎて、見ているこっちが恥ずかしくなるレベルだ。
 少し伸びた髭、頬の毛穴の開き、口元の乾燥。
 そういうアラが全部見えてしまう。
 愛しさとか通り越して、もはや憐れみすら感じる。
 この男も、社会の荒波に揉まれて疲弊してるんだな。

 私も眠いんだけど、コンタクトが乾いてカピカピになって目が痛いから眠れない。
 瞬きするたびにレンズがずれる感覚がする。
 早く外したい。
 化粧もドロドロに崩れてるだろう。
 ファンデーションが皮脂で浮いて、マスカラが目の下に落ちてパンダみたいになってるかもしれない。
 バックミラー越しに運転手さんと目が合いそうで、自分の顔を見ないように視線を逸らした。
 今の私は、きっと妖怪みたいな顔をしてる。

「……お客さん、つきましたよ」
 運転手さんの低い声で起こされた。
 いつの間にか少しウトウトしていたらしい。
 慌てて彼を揺すって起こす。
「……起きて。着いたよ」
「……あ? 着いた?」
 彼が寝ぼけ眼で、焦点が定まらない目でこっちを見る。
「着いたよ、起きて」
「お……おう」
 彼が財布を取り出そうとするけど、手が震えてて小銭ばら撒きそうになってる。
 見てられない。
 このままじゃ降りるのに5分かかる。
 イライラして、私が先にお金を出した。
「後でいいから」
「わりぃ……」
 申し訳なさそうな顔をしてるけど、その口元にはよだれの跡がついている。
 幻滅だ。

 タクシーを降りると、外の空気が信じられないくらい冷たかった。
 家の近くの交差点。
 深夜の住宅街は静まり返っていて、自分の息の音が聞こえるくらいだ。
 肺の奥まで凍りつくような冷たさなんだけど、酔っ払って火照った体には心地よくて、思いっきり深呼吸したら、冷気が胃に入って少し気持ち悪くなった。
「……悪ぃ、タクシー代。今度返すわ」
「いいよ別に」
「いや、奢るって言ったし。今度飯行こう」
「うん」

 今度。
 また会う前提の話。
 それが社交辞令なのか本気なのか分からないけど、今の私にはどうでもよかった。
 彼との未来とか、関係性の行方とか、そんな高尚なことを考える脳のスペックは残っていない。
 とりあえず早く家に帰って、化粧落として風呂入って、一番楽なスウェットに着替えて、泥のように眠りたい。
 その欲求だけで動いている。

「……じゃあ」
 彼が手を振る。
 私も手を振り返す。
「おやすみ」
「おやすみ」
 特別な言葉はない。
 愛の言葉も、新年の抱負もない。
 ただの日常の挨拶だ。

 背中を向けて歩き出す。
 カツカツというヒールの音が、静かなアスファルトに響く。
 この音だけが、私がここにいる証明みたいだ。
 なんか自分がドラマの主人公にでもなったみたいな錯覚を覚えそうになるけど、現実はただの32歳独身女の朝帰りでしかない。
 足痛い。
 靴擦れしてるかも。

 スマホを見る。
 ミカからのLINEの返信はまだしてない。
「楽しんでね!」とか送ればいいんだろうけど、指が動かない。
 どうせ「いいね!」とか適当なスタンプ送るだけで精一杯だ。
 他人の幸せを祝う余裕なんて、今の私にはない。

 鍵を開けて部屋に入る。
『ガチャリ』という金属音が響く。
 真っ暗で、冷え切った部屋の空気が私を迎えてくれた。
 暖房を消して出たから、外と変わらないくらい寒い。
 でも、ここが私の城だ。
 誰にも侵されない聖域だ。
 安堵したような、寂しいような不思議な気持ちになりながら、コートを脱ぎ捨ててベッドにダイブした。
 シーツのひんやりした感触が気持ちいい。
 枕から少しカビ臭いような、湿気った匂いがした気がしたけど、それが私の生活の匂いなんだから仕方ない。
 ファブリーズしなきゃな、と思いながら、意識が遠のいていく。

 夢は見なかった。
 ただ、彼が私の白髪を抜いた時の、あの「プツッ」という軽い痛みと指先の感触だけが、妙にリアルに残っていた。
 あの一本が抜けたことで、何かが変わったんだろうか。
 それとも、何も変わらない日常が続くだけなんだろうか。
 そんな202X年の始まり。
 最悪だけど、最高にマシなスタートかもしれない。

(おわり)
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