【短編】「はじめまして」と君は笑う。僕の愛が死んだことも知らずに。~記憶リセット系彼女との、終わらない徒労と情熱~

月下花音

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第2話:同じ会話、同じ笑顔、すり減る心

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 午前七時。
 スマホのアラームが鳴るより一秒早く、俺は目を覚まして画面を止めた。
 カーテンを開けると、昨日と同じ快晴の空。
 窓の外では、昨日と同じ白猫が、昨日と同じタイミングで塀の上を歩いている。
 そして、数秒後にポロンと通知音が鳴る。

『おはよう、相川くん! 今日はいい天気だね。デート楽しみ!』

 九条紗季からのLINE。
 文面は昨日と同じ。スタンプも同じ。送信時刻も秒単位で同じ。
 俺はため息をつきながら、『おはよう、俺も楽しみだ』と打ち返す。
 指が勝手に動く。予測変換の最初に出てくる単語を選ぶだけで、会話が成立する。
 昨日送った『おはよう、早く会いたいな』というメッセージは、彼女の端末からは消滅しているはずだ。
 彼女の中では、これが俺との「初めてのデートの約束」なのだから。
 昨日の俺たちの会話は、夢ですらなかったことになっている。

 俺の脳内で、自動的にデバッグモードが起動する。
 今日のバージョン:九条紗季 v19.0
 前回からの変更点:なし
 既知のバグ:恋愛記憶の完全消去
 対処法:不明
 
 俺は、彼女を愛しているのか、それとも彼女というプログラムの解析に夢中になっているのか、もうわからなくなっていた。

 駅前の時計台の下。
 俺は十五分前に到着し、柱の陰に立っていた。
 あと三分で彼女が現れる。
 右側の改札から出てきて、キョロキョロと俺を探し、見つけると小走りで駆け寄ってくる。
 その時、自身のスカートの裾を気にして、少しだけ躓く。

 三、二、一。

「あ、相川くん!」

 彼女が現れた。
 右側の改札。小走り。躓き。
 すべてが台本通り。
 まるで録画された映像を見ているようだ。
 俺は小さく息を吐き、笑顔という名の仮面を被って彼女の前に出る。
 この表情筋の動きすらも、何度もリハーサルした演技のようだ。

「ごめんね、待った?」
「ううん、俺も今来たとこ」

 この会話をするのは十九回目だ。
 俺のセリフは自動音声のように滑らかに出る。
 彼女は安心したように微笑み、俺の腕に自分の腕を絡めてくる。
 「よかったぁ」という安堵の吐息。
 その温もりだけは、何度繰り返してもリアルで、そして痛い。
 彼女の体温だけが、この世界で唯一のリキッドな情報だ。

 俺の心の中で、感情という名のプロセスが異常終了を繰り返している。
 愛情.exe は応答を停止しました。
 期待.dll が見つかりません。
 でも、身体は自動的に「恋人らしい反応」を実行し続ける。
 まるで、感情を失ったアンドロイドのように。

 今日の行き先は水族館だ。
 彼女の「行きたい場所リスト」の一番上にある場所。
 俺たちがチケットを買い(彼女は「私が半分出すよ!」と言うが、俺が「いいよ、初デートだし」と断るのも台本通りだ)、薄暗い館内へと足を踏み入れた。

 色鮮やかな熱帯魚、巨大な回遊水槽、愛嬌のあるペンギンたち。
 彼女はすべてに新鮮に驚き、はしゃぎ、ガラスに張り付く。
 「見て見て! あの魚、変な顔!」
 「本当だ、九条に似てるな」
 「えー! ひどい!」

 楽しい会話。弾む笑い声。
 傍から見れば、幸せなカップルそのものだろう。
 だが俺の頭の中では、冷徹なチェックリストが埋められていく。
 『熱帯魚への反応:クリア。昨日は「ウケる」だったが、今日は「変な顔」か。微差だな』
 『ペンギンとの自撮り:クリア。アングルは昨日より右寄り』
 『カワウソショーの観覧:クリア』

 俺は、デートを楽しんでいない。
 「デートというイベント」を、エラーなく遂行する管理者(オペレーター)になっている。
 いかに彼女を喜ばせ、いかに「幸せな一日だった」と思わせて終わらせるか。
 それはもはや恋愛ではなく、介護に近い。

 俺の中で、恐ろしい変化が起きていることに気づく。
 彼女の笑顔を見ても、心が動かなくなっている。
 彼女の「初めて」に対する感動が、俺には「既視感」でしかない。
 俺は、彼女を愛することを忘れ始めているのだ。
 
 これは、愛の死だ。
 繰り返しによる、感情の摩耗死。

 休憩スペースで、俺は小さな反乱を試みた。
 いつもは二人でコーラを買うのだが、今日はブラックコーヒーを選んだのだ。
 小さな違い。些細な変化(ノイズ)。
 それが、この強固なループ世界にどんな波紋を広げるかが見たかった。
 もし彼女が「あれ、どうしたの?」と深く突っ込んでくれれば、そこから何かが変わるかもしれない。

「はい、これ」
「ありがとう! ……あれ? 相川くん、コーヒー飲めるんだ?」

 彼女は不思議そうに首を傾げた。
 お、反応が変わった。
 昨日は「二人でお揃いだね!」と喜んでいた場面だ。
 俺の心臓が少しだけ高鳴る。
 変化を受け入れられた? 歴史が変わるのか?

「ああ、最近ちょっと好みが変わってさ」
「ふーん……大人だね。私も一口ちょうだい」

 彼女は俺のコーヒーを一口飲み、「苦っ!」と顔をしかめた。
 そして次の瞬間。

「やっぱりコーラが一番だね! 二人で甘いもの飲んだほうが、デートっぽいし!」

 彼女は屈託なく笑った。
 ……修正された。
 俺がコーヒーを飲んでいるという事実は、「大人の余裕」や「変化の兆し」というパラメータとしては処理されず、あくまで「甘い空間の引き立て役」として吸収されたのだ。
 彼女の笑顔は変わらない。
 俺が何をしようと、彼女の中の「幸せな初デート」というシナリオは揺るがない。
 俺は冷え切ったコーヒーを流し込む。
 苦い。泥水のように苦い。

 この瞬間、俺は理解した。
 彼女は俺を愛しているのではない。
 彼女は「恋愛というイベント」を愛しているのだ。
 俺は、その舞台装置の一部でしかない。
 交換可能な、恋人役のキャスト。
 
 それなら、俺が苦しむ理由はなんだ?
 俺は何と戦っているんだ?

 クライマックスは、クラゲの展示コーナーだ。
 幻想的な青いライトに照らされた水槽の前で、彼女は立ち止まる。
 俺は知っている。
 ここで彼女が何を言い、どんな顔をするか。
 この水槽の前で、必ず彼女は足を止め、ガラスに指を這わせるのだ。

 三秒後。彼女はガラスに指を這わせて、寂しげに呟く。
 
「……ねえ、クラゲって独りぼっちに見えない?」

 来た。
 一語一句、抑揚まで同じ。
 俺は、十九回繰り返してきた「最適解」のセリフを口にする準備をする。
 『大丈夫、俺たちが一緒なら寂しくないよ』
 それが、彼女を一番喜ばせる正解の選択肢だ。
 それを言えば、彼女はまた嬉しそうに笑い、俺の手を握り返してくる。

 だが、その言葉が喉に詰まった。
 あまりにも予定調和すぎて、自分が人間ではなく、プログラムされたNPCになったような恐怖を感じたからだ。

「……相川くん?」

 返事がない俺を、彼女が不安そうに見上げてくる。
 その瞳に映る俺は、どんな顔をしているのだろう。
 愛する彼女を見つめる彼氏の顔か?
 それとも、何度も同じビデオを見せられて飽き飽きしている観客の顔か?

「……いや、なんでもない」

 俺は結局、正解のセリフを言わなかった。
 代わりに、黙って彼女の手を握った。
 言葉を変えても無駄なら、体温で伝えるしかない。
 これは逃げだ。
 でも、同じセリフを吐いて自分の心を殺すよりはマシだ。

 彼女は少し驚き、それから嬉しそうに握り返してきた。
 「手、暖かいね」
 その反応は、昨日と同じだった。
 言葉があろうとなかろうと、彼女は俺に恋をして、俺に安心するようプログラミングされているのかもしれない。
 俺の葛藤も、沈黙も、すべては「素敵な彼氏の寡黙さ」として処理される。

 俺は、この瞬間に気づいた。
 俺が戦っているのは、彼女ではない。
 俺が戦っているのは、この世界そのものだ。
 彼女を「リセット」し続ける、見えない巨大なシステム。
 そして、そのシステムに組み込まれた俺自身の存在意義。

 水族館を出ると、夕日が街を染めていた。
 楽しいデートの終わり。
 彼女にとっては「最高の思い出」の完成。
 俺にとっては「十九回目のタスク完了」。

「送っていくよ」
「うん、ありがとう。……帰りたくないな」

 その言葉を聞くたびに、俺の胸は締め付けられる。
 帰りたくない。時間を止めてほしい。
 その願いは、俺の方が何百倍も強く持っているのに。
 俺たちが別れた瞬間に、君の記憶のカウントダウンが始まる。
 君が家に帰り、お風呂に入り、ベッドに入って眠りにつくその時、今日の俺は死ぬのだ。

 俺は彼女の手を強く握りしめた。
 骨が軋むくらい強く。
 彼女が「痛いよ」と言うくらい強く。
 
 痛みなら、記憶に残るだろうか?
 幸せな記憶は消えても、不快な痛みだけが、明日の彼女の小指に残ってくれないだろうか。
 そんな歪んだ祈りを込めながら、俺たちは帰路についた。
 
 隣で笑う彼女の顔が、夕日に溶けて消えていくような錯覚に襲われた。
 明日の彼女は、今日の彼女ではない。
 俺が愛した今日の九条紗季は、あと数時間で死ぬのだ。

 そして俺は、また新しい九条紗季と出会い、また同じように愛し、また同じように失う。
 永遠に続く、愛の死と再生のサイクル。
 俺は、彼女の恋人ではない。
 俺は、彼女の愛を殺し続ける死神なのかもしれない。

 家の前で、彼女は振り返った。
 「今日は、本当に楽しかった。ありがとう」
 その笑顔は、世界で一番美しく、そして世界で一番残酷だった。
 
 俺は、もう何も言えなかった。
 ただ、彼女が玄関の向こうに消えるまで、立ち尽くしていた。
 
 午後11時59分。
 俺のスマホに、彼女からの最後のメッセージが届く。
 『おやすみ♡ また明日ね♡』
 
 また明日。
 その「明日」に、今日の君はいない。
 俺は、空っぽの返事を打った。
 『おやすみ。いい夢を』
 
 君の夢の中にも、俺はいないのだろうけれど。

(つづく)
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