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第9話 震える指と疑惑のエリート医学生
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翌朝、俺は誰よりも早く起きて、昨夜の「証拠品」を処分した。
赤い液体の入った小瓶と、『嘘つき』と書かれたメモ。
それをコンビニのゴミ箱の奥深くに捨てた時、ようやく少しだけ呼吸ができた気がした。
部屋に戻ると、玲奈が起きていた。
目の下が少し赤い。泣きはらした跡だ。
俺は平静を装い、いつものように明るく言った。
「おはよう。顔洗ってこいよ。……ほら、朝からプリン食うんだろ?」
俺は冷蔵庫からプリンを取り出し、テーブルに置いた。
いつもの日常を演じる。それが今の俺にできる唯一のことだ。
「……うん」
玲奈は素直に頷き、大人しく椅子に座った。
スプーンを口に運ぶその動きは、どこかぎこちない。
いつもの高飛車な女王様の影はなく、何かに怯える小動物のようだった。
俺はそんな彼女の頭をポンと軽く撫でた。
「大丈夫だって。昨日の酔っ払い、今日は二日酔いで死んでるよ」
「……ふふ、そうかもね」
玲奈が少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺は胸の奥の痛みを押し殺した。
*
大学への通学路。
玲奈は、俺の左腕をこれでもかというほど強く抱きしめていた。
「……痛いって。血が止まる」
「離さないで」
契約上の「演技」ではない。
彼女は本気で俺にしがみついている。
キャンパスに入ると、すれ違う学生たちが、ギョッとして振り返り、すぐにヒソヒソと噂話をし始めた。
「おい、見ろよあれ……」
「白石さん、マジでベタ惚れじゃん」
「藤堂のやつ、何したんだよ……」
周囲の視線は、俺たちの関係を「熱愛」と認識しているようだ。
この誤解は、今の俺たちにとっては防波堤になる。
衆人環視の中にいれば、あの「敵」も手出しはできないはずだ。
だが、その安堵は一瞬で打ち砕かれた。
講義室へ向かう廊下の向こうから、一人の男が歩いてきた。
その姿を見た瞬間、玲奈の足がピタリと止まり、俺の腕に爪が食い込んだ。
「……あ」
玲奈の喉から、空気のような音が漏れる。
「やあ、白石さん。おはよう」
「偶然だね。講義室に向かうところ?」
爽やかな声と共に現れたのは、モデルのように整った長身の男だった。
白衣こそ着ていないが、知性と気品が滲み出ている。
医学部の佐々木先輩。
学内でも有名な秀才で、玲奈に執着していると噂の男だ。
「……おはよう、ございます」
玲奈が蚊の鳴くような声で返す。
俺は彼女を背中に隠すようにして、一歩前に出た。
「どうも」
「君が、噂の彼氏くんかな? 藤堂くんだっけ」
佐々木先輩は、人当たりの良い笑顔を俺に向けた。
敵意など微塵も感じさせない、完璧な社交辞令の顔だ。
「あ、はい。藤堂です。……いつも玲奈がお世話になってます」
「こちらこそ。白石さんみたいな素敵な人が彼女で、羨ましいよ。……大事にしてあげてね?」
「ええ、もちろん」
当たり障りのない会話。
だが、彼は俺を頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと値踏みするように見た。
その瞳は笑っているようで、奥底が凍りついているように冷たい。
蛇に見入られたような感覚。
「でも、意外だな。彼女、もっと派手な男が好みだと思ってたけど」
「……人は見かけによらないですから」
俺が精一杯の虚勢を張ると、佐々木先輩は面白そうに口角を上げた。
そして、すれ違いざまに、俺の耳元でだけ聞こえる声量で言った。
「そうだね。人は見かけによらない。……『嘘』をつくのが上手い人もいるしね」
ドクン、と心臓が跳ねた。
嘘?
昨夜のメモ書き――『嘘つき』という文字が脳裏をよぎる。
「……どういう意味ですか?」
俺が振り返ると、彼はもう数メートル先を歩いていた。
背中越しに、手をひらひらと振る。
「いや、一般論だよ。……ああ、それと」
彼は足を止めずに付け加えた。
「その香水、いい匂いだね。……昨日の夜も、嗅いだ気がするけど」
俺の思考が停止した。
香水? 俺はつけていない。
匂いがしたのは――昨夜の、あの玄関先だ。
彼はそのまま、颯爽と歩き去っていった。
完璧なエリートの背中。
俺の背筋に、冷たい汗がツーと流れた。
「……健」
「ああ、行こう」
俺は震える玲奈の肩を抱き寄せ、その場を離れた。
間違いない。
あいつだ。あいつが、何かを知っている。
そして、あいつは楽しんでいるのだ。この状況を。
(続く)
赤い液体の入った小瓶と、『嘘つき』と書かれたメモ。
それをコンビニのゴミ箱の奥深くに捨てた時、ようやく少しだけ呼吸ができた気がした。
部屋に戻ると、玲奈が起きていた。
目の下が少し赤い。泣きはらした跡だ。
俺は平静を装い、いつものように明るく言った。
「おはよう。顔洗ってこいよ。……ほら、朝からプリン食うんだろ?」
俺は冷蔵庫からプリンを取り出し、テーブルに置いた。
いつもの日常を演じる。それが今の俺にできる唯一のことだ。
「……うん」
玲奈は素直に頷き、大人しく椅子に座った。
スプーンを口に運ぶその動きは、どこかぎこちない。
いつもの高飛車な女王様の影はなく、何かに怯える小動物のようだった。
俺はそんな彼女の頭をポンと軽く撫でた。
「大丈夫だって。昨日の酔っ払い、今日は二日酔いで死んでるよ」
「……ふふ、そうかもね」
玲奈が少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺は胸の奥の痛みを押し殺した。
*
大学への通学路。
玲奈は、俺の左腕をこれでもかというほど強く抱きしめていた。
「……痛いって。血が止まる」
「離さないで」
契約上の「演技」ではない。
彼女は本気で俺にしがみついている。
キャンパスに入ると、すれ違う学生たちが、ギョッとして振り返り、すぐにヒソヒソと噂話をし始めた。
「おい、見ろよあれ……」
「白石さん、マジでベタ惚れじゃん」
「藤堂のやつ、何したんだよ……」
周囲の視線は、俺たちの関係を「熱愛」と認識しているようだ。
この誤解は、今の俺たちにとっては防波堤になる。
衆人環視の中にいれば、あの「敵」も手出しはできないはずだ。
だが、その安堵は一瞬で打ち砕かれた。
講義室へ向かう廊下の向こうから、一人の男が歩いてきた。
その姿を見た瞬間、玲奈の足がピタリと止まり、俺の腕に爪が食い込んだ。
「……あ」
玲奈の喉から、空気のような音が漏れる。
「やあ、白石さん。おはよう」
「偶然だね。講義室に向かうところ?」
爽やかな声と共に現れたのは、モデルのように整った長身の男だった。
白衣こそ着ていないが、知性と気品が滲み出ている。
医学部の佐々木先輩。
学内でも有名な秀才で、玲奈に執着していると噂の男だ。
「……おはよう、ございます」
玲奈が蚊の鳴くような声で返す。
俺は彼女を背中に隠すようにして、一歩前に出た。
「どうも」
「君が、噂の彼氏くんかな? 藤堂くんだっけ」
佐々木先輩は、人当たりの良い笑顔を俺に向けた。
敵意など微塵も感じさせない、完璧な社交辞令の顔だ。
「あ、はい。藤堂です。……いつも玲奈がお世話になってます」
「こちらこそ。白石さんみたいな素敵な人が彼女で、羨ましいよ。……大事にしてあげてね?」
「ええ、もちろん」
当たり障りのない会話。
だが、彼は俺を頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと値踏みするように見た。
その瞳は笑っているようで、奥底が凍りついているように冷たい。
蛇に見入られたような感覚。
「でも、意外だな。彼女、もっと派手な男が好みだと思ってたけど」
「……人は見かけによらないですから」
俺が精一杯の虚勢を張ると、佐々木先輩は面白そうに口角を上げた。
そして、すれ違いざまに、俺の耳元でだけ聞こえる声量で言った。
「そうだね。人は見かけによらない。……『嘘』をつくのが上手い人もいるしね」
ドクン、と心臓が跳ねた。
嘘?
昨夜のメモ書き――『嘘つき』という文字が脳裏をよぎる。
「……どういう意味ですか?」
俺が振り返ると、彼はもう数メートル先を歩いていた。
背中越しに、手をひらひらと振る。
「いや、一般論だよ。……ああ、それと」
彼は足を止めずに付け加えた。
「その香水、いい匂いだね。……昨日の夜も、嗅いだ気がするけど」
俺の思考が停止した。
香水? 俺はつけていない。
匂いがしたのは――昨夜の、あの玄関先だ。
彼はそのまま、颯爽と歩き去っていった。
完璧なエリートの背中。
俺の背筋に、冷たい汗がツーと流れた。
「……健」
「ああ、行こう」
俺は震える玲奈の肩を抱き寄せ、その場を離れた。
間違いない。
あいつだ。あいつが、何かを知っている。
そして、あいつは楽しんでいるのだ。この状況を。
(続く)
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