論理で恋を解く男が、星のように揺れる夜

月下花音

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第20話「最初のキスはたぶん嘘だ」

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 午後2時の古本屋。

 透は恋愛小説の棚を整理していた。

 村上春樹、江國香織、角田光代。

 恋の嘘を描いた作家たちの言葉が、静かに並んでいる。

「最初のキスは、いつも嘘だ」

 透は小さくつぶやく。

 本当の想いは、後から来る。そして、それが一番美しい。

 ◆

 五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第20話。

 店主の老人が、カウンターで古い恋愛小説を読んでいる。

「透くん、最初のキスって不思議だよね」

「どうしてですか?」

「その瞬間は、すべてだと思う。でも、後から考えると、始まりに過ぎない」

 透は少し考える。

「最初のキスは、嘘かもしれません。本当の想いは、後から育つものです」

 老人は小さく笑った。

「そうだね。だから、恋は面白いんだ」

 夕方、透は公園のベンチに座っていた。

 サンドイッチを頬張りながら、人々を眺める。

 若いカップルが、初々しくキスをしている。

 でも、それは始まりに過ぎない。

「最初のキスはたぶん嘘だ、か」

 透は小さく笑う。

 その瞬間は、すべてだと思う。

 でも、本当の恋は、後から来る。

 ◆

 午後11時の相談所。

 透は机に向かい、新しい手紙を開いた。

 便箋には、丁寧な文字でこう書かれていた。

『婚活パーティーで、失敗が続いています。

 自信を失っています。

 最初の印象が悪いのかもしれません。

 でも、本当の自分は、もっと良い人間だと思います。

 最初のキスはたぶん嘘だと、誰かが言っていました。

 最初の印象も、嘘なのでしょうか?

 30歳・男性』

 透はペンを取り、ノートに書き込む。

「第一印象の重要度をF、本当の自分をT、時間の経過をTとする。

 だが、この式には本質が欠けている。

 最初は、いつも不完全だ」

 透の手が止まる。

 窓の外、星空が見える。

 星の最初の輝きは、弱い。

 でも、時間が経つと、明るくなる。

「最初のキスはたぶん嘘だ、か」

 透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。

『あなたの悩みは、婚活で失敗することではありません。

 あなたの悩みは、「最初の印象」にこだわっていることです。

 でも、それは正常です。

 最初の印象は、大切です。

 でも、最初の印象は、嘘です。

 本当のあなたは、時間が経たないと分かりません。

 最初のキスはたぶん嘘だ。

 その言葉は、正しいです。

 最初のキスは、緊張と期待が混ざっています。

 でも、本当の想いは、後から育ちます。

 最初の印象も、同じです。

 最初の印象は、緊張と不安が混ざっています。

 でも、本当のあなたは、後から見えてきます。

 婚活パーティーで、失敗が続く。

 それは、あなたが悪いわけではありません。

 それは、時間が足りないだけです。

 最初の印象で、すべてを判断する人は、浅いです。

 本当の相手は、時間をかけて、あなたを見てくれます。

 自信を失わないでください。

 最初は、いつも不完全です。

 でも、時間が経つと、本当のあなたが見えてきます。

 焦らないでください。

 本当の相手は、必ず現れます。

 最初のキスはたぶん嘘だ。

 でも、二回目のキスは、本当です。

 最初の印象はたぶん嘘だ。

 でも、二回目の印象は、本当です。

 時間をかけてください。

 藤原透』

 透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。

 棚には、たくさんの手紙が並んでいる。

 21通の小さな星。

 そして、棚の端っこに、もう一つだけ——

 星のイラストが描かれた、最初の封筒があった。

 でも今夜、それは透の手の中にある。

 人の悩みは、尽きない。

 でも、透はこれからも答え続ける。

 始まったばかりだ。

 透は窓の外を見る。

「最初のキスはたぶん嘘だ、か」

 透と美月の最初の出会いも、嘘だったのか。

 相談者と相談所の主。

 その関係は、嘘だったのか。

「俺と美月の関係は、何だ」

 透は小さく笑う。

 答えは、まだ出ない。

 その時、ドアが軽くノックされた。

 透は顔を上げる。

「どうぞ」

 ドアが開き、美月が入ってきた。

 いつもの少し疲れた優しい笑顔。

 でも今夜は、瞳に強い光がある。

「藤原さん……最後の相談です」

「最後?」

 美月はスケッチブックを抱えて、机の前に立った。

「個展が決まりました。来月です」

 透は息を呑む。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます。藤原さんのおかげです」

 美月はスケッチブックを開く。

 そこには、無数の星。

 どれも、雪が描いた星座にそっくりだ。

「でも、最後の1枚が描けないんです」

「最後の1枚?」

「はい。『許し』の絵です。

 八年前に失った人への、謝罪と別れの絵。

 でも、どう描けない。

 筆が震えて、星が歪むんです」

 透の胸が、締めつけられる。

 美月はスケッチブックを閉じ、透を見た。

「藤原さん、私……もう逃げません」

「逃げない?」

「八年前の11月18日のことを、ちゃんと向き合います。

 だから、今日で相談所には来なくなります」

 透は言葉を失う。

 美月は小さく笑った。

 雪と同じ八重歯。

「でも、最後に一つだけ」

 美月は一歩近づく。

「藤原さんも、許してください。自分を」

 部屋に、静寂が落ちる。

 透は、掠れた声で答えた。

「……努力する」

 美月は頷いて、踵を返す。

 ドアを開ける前に、振り返った。

「最初の出会いは、本当でした。星のイラストを置いたあの日から、私はここに救われてました」

 美月は静かにドアを閉めた。

 透は一人残され、棚を見る。

 星のイラストの封筒が、もうない。

 美月は、もう来ない。

 透は自分の胸に手を当てる。

 心拍が、痛いほど速い。

 初めて、誰かが同じ日を口にした。

 初めて、誰かが同じ罪を告白した。

 初めて、誰かが「許して」と言った。

 透は引き出しを開けた。

 星座図に、手を伸ばす。

 指先が震える。

 触れる。

 埃が、舞う。

 でも、ページは開かない。

 まだ、開けない。

 でも、いつか。

 美月が個展を開く頃には。

 透は星座図を閉じ、引き出しに戻した。

 第1章が、終わる。でも、物語は、続く。

 風が、八年前の匂いを運んでくる。

 透は交差点に立ち、空を見上げる。

 星が、静かに輝いている。

「ゆき」

 名前を呼んだのは、八年ぶり二度目だった。

 第2章で、真実が動き始める。

(第1章完)
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