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第2話:介護施設の下見
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12月26日。
街からクリスマスの装飾が一瞬で撤去され、代わりに門松としめ縄が並び始める、この変わり身の早さが怖い。
日本の年末の潔さというか、節操のなさというか。
そんな慌ただしい時期に、私は電車に揺られて郊外の駅に降り立った。
目的は、優雅なアフタヌーンティーでもなければ、アウトレットでの買い物でもない。
「有料老人ホーム」あすなろの丘。
実家の母が入居を検討している、介護施設の下見だ。
母はまだ「要介護1」だけど、最近物忘れが激しい。
鍋を焦がすのは日常茶飯事だし、同じ話を10分おきに繰り返す。
同居している父(かなり頑固)が音を上げ始めて、「そろそろ考えないか」と言い出したのだ。
一人娘の私に、全ての手続きと判断が丸投げされている。
「真紀ちゃん、しっかりしてるから」
親戚はそう言うけれど、それは「面倒なことはお前に任せた」の裏返しだと知っている。
45歳、まだ働き盛りで子育て中で更年期中。
そこに介護が乗っかってくる。
人生のグランドスラム達成だ。
「こちらが食堂、あちらが大浴場になります」
施設の相談員さんが、作り笑顔で案内してくれる。
廊下はピカピカに磨かれていて、消毒液と、ほんの少しの湿布の匂いが混ざった独特の空気が漂っている。
すれ違う入居者の方々は、皆静かだ。
テレビの音だけが響いている。
「ご夫婦で入居できるお部屋もありますよ」
相談員さんがパンフレットを見せてくれた。
広いツインルーム。
ミニキッチン付き。
「……いえ、父はまだ元気なので」
即答した。
そもそも、あの頑固親父と母が同じ部屋で暮らせるわけがない。
それに、私自身を振り返っても、将来夫と同じ部屋で老後を過ごすイメージが全く湧かない。
夫のいびきとテレビの音量に耐えながら死ぬのを待つなんて、どんな罰ゲームだ。
夫婦なんて、適度な距離があるから維持できる幻想なのだ。
一通り見学を終えて、ロビーに戻った時だった。
「……あれ、真紀?」
聞き覚えのある声。
振り向くと、ダウンジャケットを着た田中が立っていた。
横には、車椅子に乗った白髪の男性。
田中の父親だ。
「え、田中? なんでここに」
「親父の様子見。ここ、先月から入ってんだよ」
「えっ、そうだったの?」
「おう。ボケちゃってさ、一人暮らし無理になったから」
田中が父親の肩に手を置く。
お父さんは虚空を見つめたまま、微動だしもしない。
昔、サークルの飲み会で一度だけ会ったことがある。
あの頃は豪快に酒を飲んで「息子のことをよろしくな!」なんて笑っていた元気なおじさんが、今は小さくなって、別人のように枯れている。
ショックだった。
親の老いって、ふとした瞬間にボディブローのように効いてくる。
「……ちょっと、お茶でもするか」
田中が言った。
施設内のカフェスペース。
自販機のコーヒー(100円)で乾杯する。
「奇遇だな。お前も親のことで?」
「うん。母がね」
「きついよな。この歳になるとさ」
田中がため息をつく。
頭頂部の薄さが、蛍光灯の下で目立つ。
前会った時より進行してる気がするけど、そこには触れないのが大人のマナーだ。
「子供は? 手伝ってくれないの?」
私が聞くと、田中は自嘲気味に笑った。
「まさか。大学生だぞ? 自分のことで精一杯だろ。それに離婚した嫁の方についてったから、俺のとこには金せびる時しか寄ってこない」
「……うわぁ」
「真紀んとこは?」
「娘、高2。反抗期真っ只中。『ウザい』『臭い』『死ね』の三段活用よ」
「元気でいいじゃん」
「よくないわよ。夫は単身赴任だし、全部私に回ってくるんだから」
紙コップのコーヒーをすする。
苦い。
泥水みたいに苦い。
でも、不思議と美味しく感じた。
同じ重荷を背負っている同志がいるというだけで、なんか救われる。
「こうやってさ、親を見送って、子供も巣立って、最後は自分もここに入るのかね」
田中が窓の外の枯れ木を見ながらボソッと言った。
「……そうね。独り身になったら、ここが終の住処かもね」
「俺ら、隣の部屋になるかもな」
「やめてよ。老後まであんたの顔見たくないわ」
「ハハッ、違いねえ」
二人で笑った。
乾いた笑いだけど、湿っぽさがなくていい。
「……なぁ、年末暇?」
帰り際、駐車場で田中が聞いてきた。
「え、何?」
「どうせお互い、家族サービスとかないんだろ?」
「……まあね」
「飲みに行くか。愚痴り納めに」
「……考える」
即答は避けた。
一応、主婦としての建前があるから。
でも、心の中では「ありかな」と思っていた。
夫は帰ってこない。
娘は友達とカウントダウン。
寒い部屋で一人、紅白見ながら年越しそばをすする自分の姿がリアルに想像できてしまったから。
田中となら、少なくとも「孤独死」の心配はない。
底辺同士の傷の舐め合いも、年末のイベントとしては悪くないかもしれない。
「じゃ、連絡するわ」
田中が車に乗り込む。
軽自動車。
助手席には誰もいない。
テールランプが遠ざかっていくのを見送りながら、私はマフラーに顔を埋めた。
寒さだけじゃない、何かが胸に込み上げてきて、それを押し殺すように息を吐いた。
白い息が、冬の空に溶けていった。
(つづく)
街からクリスマスの装飾が一瞬で撤去され、代わりに門松としめ縄が並び始める、この変わり身の早さが怖い。
日本の年末の潔さというか、節操のなさというか。
そんな慌ただしい時期に、私は電車に揺られて郊外の駅に降り立った。
目的は、優雅なアフタヌーンティーでもなければ、アウトレットでの買い物でもない。
「有料老人ホーム」あすなろの丘。
実家の母が入居を検討している、介護施設の下見だ。
母はまだ「要介護1」だけど、最近物忘れが激しい。
鍋を焦がすのは日常茶飯事だし、同じ話を10分おきに繰り返す。
同居している父(かなり頑固)が音を上げ始めて、「そろそろ考えないか」と言い出したのだ。
一人娘の私に、全ての手続きと判断が丸投げされている。
「真紀ちゃん、しっかりしてるから」
親戚はそう言うけれど、それは「面倒なことはお前に任せた」の裏返しだと知っている。
45歳、まだ働き盛りで子育て中で更年期中。
そこに介護が乗っかってくる。
人生のグランドスラム達成だ。
「こちらが食堂、あちらが大浴場になります」
施設の相談員さんが、作り笑顔で案内してくれる。
廊下はピカピカに磨かれていて、消毒液と、ほんの少しの湿布の匂いが混ざった独特の空気が漂っている。
すれ違う入居者の方々は、皆静かだ。
テレビの音だけが響いている。
「ご夫婦で入居できるお部屋もありますよ」
相談員さんがパンフレットを見せてくれた。
広いツインルーム。
ミニキッチン付き。
「……いえ、父はまだ元気なので」
即答した。
そもそも、あの頑固親父と母が同じ部屋で暮らせるわけがない。
それに、私自身を振り返っても、将来夫と同じ部屋で老後を過ごすイメージが全く湧かない。
夫のいびきとテレビの音量に耐えながら死ぬのを待つなんて、どんな罰ゲームだ。
夫婦なんて、適度な距離があるから維持できる幻想なのだ。
一通り見学を終えて、ロビーに戻った時だった。
「……あれ、真紀?」
聞き覚えのある声。
振り向くと、ダウンジャケットを着た田中が立っていた。
横には、車椅子に乗った白髪の男性。
田中の父親だ。
「え、田中? なんでここに」
「親父の様子見。ここ、先月から入ってんだよ」
「えっ、そうだったの?」
「おう。ボケちゃってさ、一人暮らし無理になったから」
田中が父親の肩に手を置く。
お父さんは虚空を見つめたまま、微動だしもしない。
昔、サークルの飲み会で一度だけ会ったことがある。
あの頃は豪快に酒を飲んで「息子のことをよろしくな!」なんて笑っていた元気なおじさんが、今は小さくなって、別人のように枯れている。
ショックだった。
親の老いって、ふとした瞬間にボディブローのように効いてくる。
「……ちょっと、お茶でもするか」
田中が言った。
施設内のカフェスペース。
自販機のコーヒー(100円)で乾杯する。
「奇遇だな。お前も親のことで?」
「うん。母がね」
「きついよな。この歳になるとさ」
田中がため息をつく。
頭頂部の薄さが、蛍光灯の下で目立つ。
前会った時より進行してる気がするけど、そこには触れないのが大人のマナーだ。
「子供は? 手伝ってくれないの?」
私が聞くと、田中は自嘲気味に笑った。
「まさか。大学生だぞ? 自分のことで精一杯だろ。それに離婚した嫁の方についてったから、俺のとこには金せびる時しか寄ってこない」
「……うわぁ」
「真紀んとこは?」
「娘、高2。反抗期真っ只中。『ウザい』『臭い』『死ね』の三段活用よ」
「元気でいいじゃん」
「よくないわよ。夫は単身赴任だし、全部私に回ってくるんだから」
紙コップのコーヒーをすする。
苦い。
泥水みたいに苦い。
でも、不思議と美味しく感じた。
同じ重荷を背負っている同志がいるというだけで、なんか救われる。
「こうやってさ、親を見送って、子供も巣立って、最後は自分もここに入るのかね」
田中が窓の外の枯れ木を見ながらボソッと言った。
「……そうね。独り身になったら、ここが終の住処かもね」
「俺ら、隣の部屋になるかもな」
「やめてよ。老後まであんたの顔見たくないわ」
「ハハッ、違いねえ」
二人で笑った。
乾いた笑いだけど、湿っぽさがなくていい。
「……なぁ、年末暇?」
帰り際、駐車場で田中が聞いてきた。
「え、何?」
「どうせお互い、家族サービスとかないんだろ?」
「……まあね」
「飲みに行くか。愚痴り納めに」
「……考える」
即答は避けた。
一応、主婦としての建前があるから。
でも、心の中では「ありかな」と思っていた。
夫は帰ってこない。
娘は友達とカウントダウン。
寒い部屋で一人、紅白見ながら年越しそばをすする自分の姿がリアルに想像できてしまったから。
田中となら、少なくとも「孤独死」の心配はない。
底辺同士の傷の舐め合いも、年末のイベントとしては悪くないかもしれない。
「じゃ、連絡するわ」
田中が車に乗り込む。
軽自動車。
助手席には誰もいない。
テールランプが遠ざかっていくのを見送りながら、私はマフラーに顔を埋めた。
寒さだけじゃない、何かが胸に込み上げてきて、それを押し殺すように息を吐いた。
白い息が、冬の空に溶けていった。
(つづく)
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