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第36話:病院の待合室で、君の手を握った
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彼女・由美は、卵巣嚢胞の手術を控えていた。
執刀医の佐藤先生は、ベテランの女性医師で、「まず良性です。心配いりません」と、何度も力強く言ってくれた。だが、メスが身体を入るという事実は、どんな言葉をもってしても、軽くはならなかった。
手術前日の夜、由美は病室のベッドで、硬い表情のまま天井を見つめていた。その瞳は、暗闇の向こうにある何かを、じっと見据えているようだった。
僕は、彼女のベッドの縁に腰掛け、そっとその手を握った。
「大丈夫だよ。佐藤先生も、ああ言ってくれてる」
「……でも、怖い」
由美は、僕の手を強く、強く握り返した。爪が、僕の手のひらに食い込む。その小さな痛みが、彼女の恐怖の大きさを物語っていた。
「手術中も、その後も。ずっと、そばにいるから」
僕にできるのは、そんなありふれた言葉を繰り返すことだけだった。
手術当日の朝六時。冬の冷たい空気が、肌を刺した。
病院へ向かう道すがら、彼女の手は、氷のように冷たかった。僕がどんなに強く握っても、その芯から温まることはなかった。「大丈夫」という僕の言葉は、もはや彼女のためではなく、震えそうになる自分自身に言い聞かせるための、呪文になっていた。
病院の待待合室。無機質な長椅子に、僕たちは並んで座っていた。
白い病衣をまとった由美は、その中で、驚くほど小さく、儚く見えた。
「……あと、三十分」
壁の時計を見つめながら、彼女が呟く。
僕は、黙って彼女の手を握った。決して、離さないという決意を込めて。
「……ねえ」
由美が、僕を見ずに言った。
「手術が終わるまで、ずっと、手を握っていてくれますか?」
「ああ。ずっとだ」
躊躇いは、一秒もなかった。
由美は、微かに笑った。その笑顔の奥に、深い恐怖と、そして、それ以上の信頼が揺らめいているのが見えた。
時計の針が、九時五十分を指す。
沈黙を破ったのは、また、彼女だった。
「……拓也。結婚、してくれますか?」
「え……?」
「もし、この手術が、うまくいかなかったら……私、あなたの奥さんになれないまま、終わっちゃうから」
「そんなこと言うな。うまくいくに決まってる」
「でも……!」
僕は、彼女の言葉を遮るように、その手を、さらに強く握りしめた。
「いいか、よく聞け。手術が失敗しても、俺は、お前と結婚する」
「……!」
「俺が欲しいのは、健康なお前じゃない。お前だ。由美、お前自身と、一生一緒にいたいんだ。手術がうまくいこうが、いくまいが、そんなこと、俺たちの間では何の問題にもならない」
由美の目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
「……本当?」
「ああ、本当だ。だから、安心して、行ってこい。帰ってきたら、すぐに結婚するぞ」
彼女は、僕の手に、自分の額を押し付けるようにして、声を殺して泣いた。
やがて、看護師が彼女の名前を呼んだ。
手術室へと続く、冷たい廊下。その入り口で、由美が振り返った。
「……またね」
精一杯の、淡い笑顔。その笑顔が、これから始まる長い待ち時間、僕の唯一の支えになった。
三時間。
体感としては、三日間にも、三年にも感じられた。
僕は、ただ、待合室の椅子で、自分の手のひらを見つめ続けた。彼女の爪が食い込んだ、小さな痕。そこに、彼女の命の重さが宿っているような気がしていた。
不意に、手術室の扉が開き、佐藤先生が出てきた。その表情は、いつもと変わらず、穏やかだった。
「手術は成功しました。嚢胞も、病理検査の結果を待たずとも、良性だと断言できます。問題ありません」
その瞬間、僕は、自分が息を止めていたことに、初めて気づいた。
「……それと」
立ち去ろうとする先生が、ふと、僕を見て言った。
「待合室で、ずっと彼女の手を握っていましたね。ああいう祈りが、時には、我々医者のメスよりも、強い力を持つことがあるんですよ。……いい、パートナーですね」
その、予期せぬ言葉に、僕は、ただ頭を下げることしかできなかった。
回復室のベッドで眠る由美の握力は、朝よりもずっと弱々しかった。
だが、その弱々しい手で、彼女は、僕の手を探し、握ってきた。
「……手術、終わったの?」
「ああ。大成功だ。君は、もう大丈夫だ」
彼女は、目を閉じたまま、ただ、静かに泣いた。
「……よかった」
その一言に、全ての想いが、詰まっていた。
退院の日。
由美は、すっかり元気になった顔で、僕に悪戯っぽく笑いかけた。
「ねえ。手術の前、『帰ってきたら、すぐに結婚するぞ』って、言いましたよね?」
「……ああ、言ったな」
「じゃあ、してください。結婚」
一ヶ月後。
僕は、あの病院の待合室で、由美に指輪を渡した。
彼女が最も怖れ、最も弱かった場所。そして、僕が、彼女の全てを愛していると、魂で理解した場所。
「由美。一生、この手を握らせてください。結婚しよう」
それから、何年かが経った。
由美は、年に一度、定期検査のために、あの病院に通っている。
その度、僕は必ず付き添い、あの待合室で、あの時と同じように、彼女の手を握った。
「来年は、もう、この検査もいらないといいですね」
診察を終えた由美が、晴れやかな顔で言う。
「そうだな」
「でも」
彼女は、僕の手を握り直し、悪戯っぽく続けた。
「もし、来年も検査があったら。また、この待合室で、こうやって、手を握ってくれますか?」
僕は、その手を、優しく、しかし、あの日の決意を込めて、強く握り返した。
「ああ。何年でも。何十年でも。ずっと」
人生は、時に、予期せぬ試練を与える。
だが、その暗闇の中で、ただ、愛する者の手を握る。
その、単純で、原始的な行為こそが、どんな困難をも乗り越える、最高の力になるのだと。
僕たちの愛は、いつも、この待合室の椅子の上にある。
ずっと、ずっと。
その温もりを、確かめ合うように。
執刀医の佐藤先生は、ベテランの女性医師で、「まず良性です。心配いりません」と、何度も力強く言ってくれた。だが、メスが身体を入るという事実は、どんな言葉をもってしても、軽くはならなかった。
手術前日の夜、由美は病室のベッドで、硬い表情のまま天井を見つめていた。その瞳は、暗闇の向こうにある何かを、じっと見据えているようだった。
僕は、彼女のベッドの縁に腰掛け、そっとその手を握った。
「大丈夫だよ。佐藤先生も、ああ言ってくれてる」
「……でも、怖い」
由美は、僕の手を強く、強く握り返した。爪が、僕の手のひらに食い込む。その小さな痛みが、彼女の恐怖の大きさを物語っていた。
「手術中も、その後も。ずっと、そばにいるから」
僕にできるのは、そんなありふれた言葉を繰り返すことだけだった。
手術当日の朝六時。冬の冷たい空気が、肌を刺した。
病院へ向かう道すがら、彼女の手は、氷のように冷たかった。僕がどんなに強く握っても、その芯から温まることはなかった。「大丈夫」という僕の言葉は、もはや彼女のためではなく、震えそうになる自分自身に言い聞かせるための、呪文になっていた。
病院の待待合室。無機質な長椅子に、僕たちは並んで座っていた。
白い病衣をまとった由美は、その中で、驚くほど小さく、儚く見えた。
「……あと、三十分」
壁の時計を見つめながら、彼女が呟く。
僕は、黙って彼女の手を握った。決して、離さないという決意を込めて。
「……ねえ」
由美が、僕を見ずに言った。
「手術が終わるまで、ずっと、手を握っていてくれますか?」
「ああ。ずっとだ」
躊躇いは、一秒もなかった。
由美は、微かに笑った。その笑顔の奥に、深い恐怖と、そして、それ以上の信頼が揺らめいているのが見えた。
時計の針が、九時五十分を指す。
沈黙を破ったのは、また、彼女だった。
「……拓也。結婚、してくれますか?」
「え……?」
「もし、この手術が、うまくいかなかったら……私、あなたの奥さんになれないまま、終わっちゃうから」
「そんなこと言うな。うまくいくに決まってる」
「でも……!」
僕は、彼女の言葉を遮るように、その手を、さらに強く握りしめた。
「いいか、よく聞け。手術が失敗しても、俺は、お前と結婚する」
「……!」
「俺が欲しいのは、健康なお前じゃない。お前だ。由美、お前自身と、一生一緒にいたいんだ。手術がうまくいこうが、いくまいが、そんなこと、俺たちの間では何の問題にもならない」
由美の目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
「……本当?」
「ああ、本当だ。だから、安心して、行ってこい。帰ってきたら、すぐに結婚するぞ」
彼女は、僕の手に、自分の額を押し付けるようにして、声を殺して泣いた。
やがて、看護師が彼女の名前を呼んだ。
手術室へと続く、冷たい廊下。その入り口で、由美が振り返った。
「……またね」
精一杯の、淡い笑顔。その笑顔が、これから始まる長い待ち時間、僕の唯一の支えになった。
三時間。
体感としては、三日間にも、三年にも感じられた。
僕は、ただ、待合室の椅子で、自分の手のひらを見つめ続けた。彼女の爪が食い込んだ、小さな痕。そこに、彼女の命の重さが宿っているような気がしていた。
不意に、手術室の扉が開き、佐藤先生が出てきた。その表情は、いつもと変わらず、穏やかだった。
「手術は成功しました。嚢胞も、病理検査の結果を待たずとも、良性だと断言できます。問題ありません」
その瞬間、僕は、自分が息を止めていたことに、初めて気づいた。
「……それと」
立ち去ろうとする先生が、ふと、僕を見て言った。
「待合室で、ずっと彼女の手を握っていましたね。ああいう祈りが、時には、我々医者のメスよりも、強い力を持つことがあるんですよ。……いい、パートナーですね」
その、予期せぬ言葉に、僕は、ただ頭を下げることしかできなかった。
回復室のベッドで眠る由美の握力は、朝よりもずっと弱々しかった。
だが、その弱々しい手で、彼女は、僕の手を探し、握ってきた。
「……手術、終わったの?」
「ああ。大成功だ。君は、もう大丈夫だ」
彼女は、目を閉じたまま、ただ、静かに泣いた。
「……よかった」
その一言に、全ての想いが、詰まっていた。
退院の日。
由美は、すっかり元気になった顔で、僕に悪戯っぽく笑いかけた。
「ねえ。手術の前、『帰ってきたら、すぐに結婚するぞ』って、言いましたよね?」
「……ああ、言ったな」
「じゃあ、してください。結婚」
一ヶ月後。
僕は、あの病院の待合室で、由美に指輪を渡した。
彼女が最も怖れ、最も弱かった場所。そして、僕が、彼女の全てを愛していると、魂で理解した場所。
「由美。一生、この手を握らせてください。結婚しよう」
それから、何年かが経った。
由美は、年に一度、定期検査のために、あの病院に通っている。
その度、僕は必ず付き添い、あの待合室で、あの時と同じように、彼女の手を握った。
「来年は、もう、この検査もいらないといいですね」
診察を終えた由美が、晴れやかな顔で言う。
「そうだな」
「でも」
彼女は、僕の手を握り直し、悪戯っぽく続けた。
「もし、来年も検査があったら。また、この待合室で、こうやって、手を握ってくれますか?」
僕は、その手を、優しく、しかし、あの日の決意を込めて、強く握り返した。
「ああ。何年でも。何十年でも。ずっと」
人生は、時に、予期せぬ試練を与える。
だが、その暗闇の中で、ただ、愛する者の手を握る。
その、単純で、原始的な行為こそが、どんな困難をも乗り越える、最高の力になるのだと。
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