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第1章 女たちのホワイトデー
第1話:決戦前夜のキッチン・ウォー
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「甘い匂いって、なんでこう暴力的なんだろう」
3月13日、午後11時過ぎ。
家の台所は、バターと砂糖、そして焦げた小麦粉の匂いで充満していて、私の胃袋を裏側から掴んで揺さぶってくる。
換気扇は全力で回っているはずなのに、空気中の糖分濃度が致死量を超えている気がした。
「ほら、手が止まってるわよ。愛は待ってくれないんだから」
隣でドヤ顔を決めているのは、私の姉だ。
エプロンの紐が食い込むほどの豊かな胸を張り、手には直径30センチはあるだろう巨大なハート型のクッキー生地を持っている。
……デカい。どう見ても凶器だ。
これを焼くには、うちの家庭用オーブンじゃなくてピザ屋の釜が必要なんじゃないかと思う。
「お姉ちゃん、それ、本当に焼けるの? 生焼けで渡して、彼女さんのお腹壊させたいわけ?」
「失礼ね。これは『愛の重量』よ。中まで火が通らなくても、私の熱い想いは物理量として伝わるの」
「……物理的に重すぎて引かれると思うけど」
姉はレズビアンだ。
相手は大学のサークルの先輩で、女子ラグビー部だか何だかの、とにかくガタイのいい人らしい。
「彼女は肉体派だから、即座にエネルギーに変わるカロリーが必要なのよ」という謎の理屈で、姉はここ数時間、バターの塊と格闘している。
私はと言えば、ボウルの中の茶色い液体――溶かしたチョコレートと、砕いたクッキーを混ぜ合わせた泥のような物体を見つめて、深いため息をついた。
「なんで私が、ホワイトデーにこんなことしてんだろ」
ホワイトデー。
本来なら、バレンタインにチョコを貰った男が、申し訳なさそうにマシュマロだのクッキーだのを女に返す日。日本の菓子業界が仕組んだ、完全なる集金システム。
それなのに、なんで私が作ってるんだ。
「あんたがバレンタインにチキって何もしなかったからでしょ」
姉が、巨大クッキーにチョコチップ(というか、板チョコを割った破片)を埋め込みながら言った。
鋭い。
痛いところを突かれて、私は混ぜるゴムベラの手を少し強める。
そう、私は今年のバレンタインデーに、幼馴染のあいつに何も渡せなかった。
『幼馴染』という呪いのような関係性が、私の足をすくませたのだ。
チョコなんて渡したら、今の「気安い関係」が壊れるかも。
「え、お前俺のこと好きなの? ウケる」とか言われたら、その場で舌を噛み切って死ぬ自信がある。
だから、逃げた。
「友チョコ」という名目で配る勇気すらも出ず、当日は生理痛を装って保健室に逃げ込み、早退するという、我ながらクズみたいな回避行動をとった。
でも、後悔した。
翌日、あいつが机の中に残っていた誰かからの義理チョコ(だと思いたい)を、バリバリと無神経に食べているのを見て、殺意と嫉妬で視界が歪んだからだ。
あいつの口の中で溶けているのが、私のチョコじゃないなんて。
あいつの糖分になっているのが、どこの誰とも知らない女のチョコだなんて。
想像しただけで、胃酸が上がってくる。
「……だからって、ホワイトデーに『逆チョコ』とか、重くない? しかも手作り」
「重いわよ」
姉は即答した。
「でもね、何もしないで指くわえて見てるだけの女より、重い女の方がマシよ。少なくとも、相手の記憶には残るわ」
「……『怖い女』として記憶に残るんじゃなくて?」
「それもまた愛よ。忘れ去られるよりは、トラウマになった方が勝ち」
姉の論理は、いつだって暴走気味だ。
でも、悔しいけれど、今の私にはその暴走列車に乗っかるしか道がない。
机の上のスマホが震えた。
LINEの通知。
画面を見るまでもなく、クラスのグループLINEのどうでもいいスタンプ連打だとわかる。
でも、一瞬だけ「あいつからかも」と期待してしまった自分の心臓が、ひどく薄っぺらくて鬱陶しい。
「はあ……」
私は泥のようなチョコを、一口大に丸め始めた。
トリュフ、のつもりだ。
形はいびつだし、ココアパウダーをまぶしても、なんだか泥団子にしか見えない。
指先についたチョコを舐める。
甘い。ねっとりと舌に絡みついて、喉の奥が焼けつくように甘い。
これが、私の『好き』の味だとしたら、あまりに品がないな、と思った。
「ねえ、もしさ」
手を動かしながら、私はポツリと言った。
「あいつがまた誰かからお返しもらってたら、どうしよう」
バレンタインにチョコをあげた女子がいれば、当然、お返しが発生する。
あいつが、放課後の教室や下駄箱の前で、照れくさそうに誰かにクッキーなんて渡していたら。
その現場を目撃してしまったら。
私は、この泥団子をゴミ箱に叩き込んで、泣きながら走って帰るしかない。
「その時は、あんたが渡すチョコの中に、下剤でも仕込めばいいのよ」
「……犯罪教唆はやめて」
「冗談よ。……もしそうなったら、あんたはその場に割って入って、こう言うの」
姉は、オーブンの予熱完了を知らせる電子音を無視して、私の方に向き直った。
手にはゴムベラを握りしめている。
小麦粉が頬についていて、歴戦の戦士みたいだ。
「『そいつのクッキーより、私の方が美味しいよ』って」
「言えるわけないじゃん!!!」
「言えるわよ。あんたは私の妹なんだから」
「論理が破綻してるのお姉ちゃん!」
姉はケラケラと笑って、鉄板に乗せた巨大ハートをオーブンに押し込んだ。
ジュッ、という音がしそうなくらい、台所の熱気が上がる。
「うじうじしてても始まんないし、時間は待ってくんないし、チョコは固まるわよ」
姉は乱暴に私の頭を撫でた。
バターの匂いがする手。
「明日は決戦なんでしょ? だったら、玉砕覚悟で行ってきなさいよ。砕け散ったら、私が慰めのバカ食いパーティー開催してあげるから。サーティワンのアイス、全種類買ってやるわよ」
「……縁起でもないこと言わないでよ」
「はいはい。さっさと終わらせて寝るわよ。明日は私も、このハートを彼女に叩きつけなきゃいけないんだから」
私は鼻をすすって、最後のトリュフを丸めた。
少し、歪んでいる。
私の気持ちみたいに、ちょっとだけ歪んでいて、不格好だ。
でも、これが精一杯だ。
「よし」
私はタッパーにトリュフを詰め込んだ。
ラッピングなんて小洒落たことはしない。百均の袋に入れるのも癪だ。
あいつには、「はいこれ、家庭科の課題の残り」って言って渡すつもりだ。
嘘だ。家庭科なんて今やってない。
でも、そんな嘘でもつかないと、手が震えて渡せそうにない。
「……待ってろよ、バカ」
小声で呟いてみる。
換気扇の音にかき消されて、誰にも聞こえない。
心臓が、少しだけうるさかった。
明日は3月14日。
男たちが浮かれる、くそったれなホワイトデーだ。
そこで私が、あいつの脳裏に、一生消えない『重たい女』の爪痕を残してやる。
3月13日、午後11時過ぎ。
家の台所は、バターと砂糖、そして焦げた小麦粉の匂いで充満していて、私の胃袋を裏側から掴んで揺さぶってくる。
換気扇は全力で回っているはずなのに、空気中の糖分濃度が致死量を超えている気がした。
「ほら、手が止まってるわよ。愛は待ってくれないんだから」
隣でドヤ顔を決めているのは、私の姉だ。
エプロンの紐が食い込むほどの豊かな胸を張り、手には直径30センチはあるだろう巨大なハート型のクッキー生地を持っている。
……デカい。どう見ても凶器だ。
これを焼くには、うちの家庭用オーブンじゃなくてピザ屋の釜が必要なんじゃないかと思う。
「お姉ちゃん、それ、本当に焼けるの? 生焼けで渡して、彼女さんのお腹壊させたいわけ?」
「失礼ね。これは『愛の重量』よ。中まで火が通らなくても、私の熱い想いは物理量として伝わるの」
「……物理的に重すぎて引かれると思うけど」
姉はレズビアンだ。
相手は大学のサークルの先輩で、女子ラグビー部だか何だかの、とにかくガタイのいい人らしい。
「彼女は肉体派だから、即座にエネルギーに変わるカロリーが必要なのよ」という謎の理屈で、姉はここ数時間、バターの塊と格闘している。
私はと言えば、ボウルの中の茶色い液体――溶かしたチョコレートと、砕いたクッキーを混ぜ合わせた泥のような物体を見つめて、深いため息をついた。
「なんで私が、ホワイトデーにこんなことしてんだろ」
ホワイトデー。
本来なら、バレンタインにチョコを貰った男が、申し訳なさそうにマシュマロだのクッキーだのを女に返す日。日本の菓子業界が仕組んだ、完全なる集金システム。
それなのに、なんで私が作ってるんだ。
「あんたがバレンタインにチキって何もしなかったからでしょ」
姉が、巨大クッキーにチョコチップ(というか、板チョコを割った破片)を埋め込みながら言った。
鋭い。
痛いところを突かれて、私は混ぜるゴムベラの手を少し強める。
そう、私は今年のバレンタインデーに、幼馴染のあいつに何も渡せなかった。
『幼馴染』という呪いのような関係性が、私の足をすくませたのだ。
チョコなんて渡したら、今の「気安い関係」が壊れるかも。
「え、お前俺のこと好きなの? ウケる」とか言われたら、その場で舌を噛み切って死ぬ自信がある。
だから、逃げた。
「友チョコ」という名目で配る勇気すらも出ず、当日は生理痛を装って保健室に逃げ込み、早退するという、我ながらクズみたいな回避行動をとった。
でも、後悔した。
翌日、あいつが机の中に残っていた誰かからの義理チョコ(だと思いたい)を、バリバリと無神経に食べているのを見て、殺意と嫉妬で視界が歪んだからだ。
あいつの口の中で溶けているのが、私のチョコじゃないなんて。
あいつの糖分になっているのが、どこの誰とも知らない女のチョコだなんて。
想像しただけで、胃酸が上がってくる。
「……だからって、ホワイトデーに『逆チョコ』とか、重くない? しかも手作り」
「重いわよ」
姉は即答した。
「でもね、何もしないで指くわえて見てるだけの女より、重い女の方がマシよ。少なくとも、相手の記憶には残るわ」
「……『怖い女』として記憶に残るんじゃなくて?」
「それもまた愛よ。忘れ去られるよりは、トラウマになった方が勝ち」
姉の論理は、いつだって暴走気味だ。
でも、悔しいけれど、今の私にはその暴走列車に乗っかるしか道がない。
机の上のスマホが震えた。
LINEの通知。
画面を見るまでもなく、クラスのグループLINEのどうでもいいスタンプ連打だとわかる。
でも、一瞬だけ「あいつからかも」と期待してしまった自分の心臓が、ひどく薄っぺらくて鬱陶しい。
「はあ……」
私は泥のようなチョコを、一口大に丸め始めた。
トリュフ、のつもりだ。
形はいびつだし、ココアパウダーをまぶしても、なんだか泥団子にしか見えない。
指先についたチョコを舐める。
甘い。ねっとりと舌に絡みついて、喉の奥が焼けつくように甘い。
これが、私の『好き』の味だとしたら、あまりに品がないな、と思った。
「ねえ、もしさ」
手を動かしながら、私はポツリと言った。
「あいつがまた誰かからお返しもらってたら、どうしよう」
バレンタインにチョコをあげた女子がいれば、当然、お返しが発生する。
あいつが、放課後の教室や下駄箱の前で、照れくさそうに誰かにクッキーなんて渡していたら。
その現場を目撃してしまったら。
私は、この泥団子をゴミ箱に叩き込んで、泣きながら走って帰るしかない。
「その時は、あんたが渡すチョコの中に、下剤でも仕込めばいいのよ」
「……犯罪教唆はやめて」
「冗談よ。……もしそうなったら、あんたはその場に割って入って、こう言うの」
姉は、オーブンの予熱完了を知らせる電子音を無視して、私の方に向き直った。
手にはゴムベラを握りしめている。
小麦粉が頬についていて、歴戦の戦士みたいだ。
「『そいつのクッキーより、私の方が美味しいよ』って」
「言えるわけないじゃん!!!」
「言えるわよ。あんたは私の妹なんだから」
「論理が破綻してるのお姉ちゃん!」
姉はケラケラと笑って、鉄板に乗せた巨大ハートをオーブンに押し込んだ。
ジュッ、という音がしそうなくらい、台所の熱気が上がる。
「うじうじしてても始まんないし、時間は待ってくんないし、チョコは固まるわよ」
姉は乱暴に私の頭を撫でた。
バターの匂いがする手。
「明日は決戦なんでしょ? だったら、玉砕覚悟で行ってきなさいよ。砕け散ったら、私が慰めのバカ食いパーティー開催してあげるから。サーティワンのアイス、全種類買ってやるわよ」
「……縁起でもないこと言わないでよ」
「はいはい。さっさと終わらせて寝るわよ。明日は私も、このハートを彼女に叩きつけなきゃいけないんだから」
私は鼻をすすって、最後のトリュフを丸めた。
少し、歪んでいる。
私の気持ちみたいに、ちょっとだけ歪んでいて、不格好だ。
でも、これが精一杯だ。
「よし」
私はタッパーにトリュフを詰め込んだ。
ラッピングなんて小洒落たことはしない。百均の袋に入れるのも癪だ。
あいつには、「はいこれ、家庭科の課題の残り」って言って渡すつもりだ。
嘘だ。家庭科なんて今やってない。
でも、そんな嘘でもつかないと、手が震えて渡せそうにない。
「……待ってろよ、バカ」
小声で呟いてみる。
換気扇の音にかき消されて、誰にも聞こえない。
心臓が、少しだけうるさかった。
明日は3月14日。
男たちが浮かれる、くそったれなホワイトデーだ。
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