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第1章 女たちのホワイトデー
第2話:3月14日の喧騒とノイズ
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3月14日の教室は、独特の浮ついた匂いがした。
チョークの粉の匂いと、制服の繊維の匂いに混じって、安っぽいお菓子の甘い香料の匂いが漂っている。
誰かが袋を開けるたびに、カサカサという音がして、私の神経を逆撫でする。
「あ、これサンキュー。マジでくれんの?」
「義理だよ、義理! 勘違いしないでよね」
「うわ、マシュマロかよー。俺クッキー派なんだけど」
あちこちで繰り広げられる、テンプレのような会話。
教室の空気が、ピンク色に染まっているようで吐き気がする。
私は自分の席で、鞄の中に入れたタッパーの硬い感触を確かめながら、死んだ魚のような目で黒板を見つめていた。
タッパーの中身は、昨日深夜までかかって作った、あの泥団子トリュフだ。
冷蔵庫で冷やされたそれは、今は凶器のように固くなっているはずだ。
「……はあ」
ため息をつくと、前の席の男子が「うわ、暗っ」と小声で言ったのが聞こえた。
死ねばいいのに、と思った。
2時間目の休み時間。
あいつが、廊下で女子に呼び出されているのを見た。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「ドクン」なんて可愛い音じゃない。「グチャッ」と内臓が握りつぶされるような感覚。
呼び出しているのは、隣のクラスの高木さんだ。
あざといことで有名な、ゆるふわウェーブの髪をした女子。
彼女はバレンタインに、手作りのブラウニーを配り歩いていたらしい。
当然、あいつにも渡したのだろう。
私は廊下の角に隠れて、その様子を覗き見した。
完全にストーカーだ。自分でも引く。でも、足が動かない。
「〇〇くん、これ。バレンタインのお返し……期待していいかな?」
高木さんが、上目遣いで言う。
あいつは、困ったように頭をかいている。
その手には、コンビニの袋が握られていた。
「あー、わり。俺、そういうの全然マメじゃなくてさ。これ、購買で買ったチョコなんだけど……」
「えー! 購買のやつ? ひどーい!」
高木さんは頬を膨らませて怒ったふりをしたが、すぐに「嘘嘘。もらえるだけで嬉しい! ありがと!」と、その袋をひったくるように受け取った。
……なんだ、あれ。
なんだ、あの茶番は。
購買のチョコ?
あいつ、まともな準備すらしてないのか。
高木さん相手にそれなら、私なんかには当然、何も用意していないだろう。
安堵と、絶望が同時に押し寄せてくる。
「ライバルはいなかった」という安堵と、「私にもお返しなんてない」という現実。
いや、待て。
私は「お返し」が欲しいんじゃない。
「逆チョコ」を叩きつけに来たのだ。
あいつが何も用意していないなら、むしろ好都合だ。
「あんたは何も用意してないけど、私は用意したわよ。この格差を噛み締めなさい」とマウントを取れる。
でも。
あいつが高木さんと笑い合っている姿が、どうしても脳裏に焼き付いて離れない。
あいつは、あんな風に誰とでも笑う。
私といる時と同じような顔で。
それが、死ぬほど悔しい。
昼休み。
私は昼食を食べる気にもなれず、中庭のベンチでぼんやりしていた。
鞄の中のタッパーが、重しのように膝に乗っている。
「……何やってんだろ、私」
昨日の夜、姉とあんなに盛り上がった勢いはどこへ行ったのか。
学校という「日常」の場に来た途端、昨夜の「深夜のテンション」が急速に冷めていくのを感じる。
『重い女』になるんじゃなかったのか。
トラウマを残すんじゃなかったのか。
「お前、こんなとこで何してんの?」
不意に、上から声が降ってきた。
心臓が口から飛び出しそうになった。
見上げると、あいつが立っている。
手には焼きそばパンと、いちごオレ。
……いちごオレって。似合わなすぎてイラつく。
「……別に。光合成」
「植物かよ」
あいつは私の隣に、当然のように座った。
ベンチが少し沈む。
制服のズボンが触れそうな距離。
汗と、柔軟剤と、焼きそばパンのソースの匂いが混ざった、あいつの匂いがする。
これが、好きな人の匂いだなんて認めたくない。もっといい匂いがしてほしい。
「お前さ、今日なんか機嫌悪くね?」
あいつが焼きそばパンを頬張りながら言う。
パン屑が口の端についている。取ってあげたい衝動と、デコピンしたい衝動がせめぎ合う。
「悪くないし」
「嘘つけ。朝からずっと般若みたいな顔してたぞ」
「……見てたの?」
「そりゃ見るだろ。前の席の奴が『後ろから殺気感じる』ってビビってたから」
あいつは、いちごオレのストローを噛みながら、ニシシと笑った。
その無防備な笑顔が、今の私には猛毒だ。
「……あんたさ」
「ん?」
「今日、いろんな人にお返ししてんの?」
聞いてしまった。
一番聞きたくないことを、自分から。
あいつは「あー」と面倒くさそうに空を見上げた。
「なんか、義理チョコくれた奴にはな。めんどくせーけど、返さないと後で何言われるか分かんねーし」
「……ふーん」
「ま、コンビニで買ったやつだけどな」
コンビニチョコ。
義務感。
面倒くさい行事。
あいつにとって、ホワイトデーはその程度のものだ。
「……私には?」
言葉が、勝手に滑り落ちた。
あいつが固まった。
ストローを噛む口が止まる。
「え?」
「私には、ないの? お返し」
言ってしまった。
私はバレンタインに、何もあげていないのに。
これは完全に言いがかりだ。当たり屋だ。
でも、止まらなかった。
あいつは目を丸くして、それから少し困ったように眉を下げた。
「お前……バレンタイン、俺にくれたっけ?」
正論だ。
ぐうの音も出ない正論が、私の胸に突き刺さる。
そうだ、あげてない。
だから、お返しなんてあるわけがない。
そんなの分かってる。
分かってるけど。
「……くれてないけど」
私は、鞄を強く握りしめた。
指の関節が白くなるくらい。
「くれてないけど、お返しは欲しいの。文句ある?」
理不尽すぎる。
自分でも何言ってるか分からない。
でも、今の私は、論理的な思考なんてできる状態じゃなかった。
ただ、高木さんや他の女子があいつから貰っていた「お返し」という名の繋がりが、羨ましくて、妬ましくて、許せなかっただけだ。
あいつは呆気に取られた顔で私を見つめ、それから――
「……ははっ」
笑った。
バカにするように、でもどこか楽しそうに。
「お前、マジでジャイアンだな」
「うるさい」
「分かったよ。……じゃあ、放課後な」
「え」
「放課後、ちょっと付き合えよ。なんか奢ってやるから」
あいつは焼きそばパンの最後の一口を放り込み、立ち上がった。
「じゃーな。サボんなよ」
そう言って、校舎の方へ歩いていく。
私は、ポカンとその後ろ姿を見送った。
放課後。
奢ってやる。
それって、デートじゃないの?
カカカ、と頭の中で何かが回転する音がした。
チャンスだ。
これは、千載一遇のチャンスだ。
あいつが「お返し」を用意してないなら、私が「逆チョコ」を渡して、さらにこの理不尽な要求を押し通せば、完全に私のペースだ。
鞄の中のタッパーが、熱を持っているような気がした。
私の泥団子。
姉の言う通り、これで殴りかかるしかない。
放課後まで、あと3時間。
胃が痛い。
でも、もう逃げない。
私は、重たい女として、あいつの人生に割り込んでやる。
チョークの粉の匂いと、制服の繊維の匂いに混じって、安っぽいお菓子の甘い香料の匂いが漂っている。
誰かが袋を開けるたびに、カサカサという音がして、私の神経を逆撫でする。
「あ、これサンキュー。マジでくれんの?」
「義理だよ、義理! 勘違いしないでよね」
「うわ、マシュマロかよー。俺クッキー派なんだけど」
あちこちで繰り広げられる、テンプレのような会話。
教室の空気が、ピンク色に染まっているようで吐き気がする。
私は自分の席で、鞄の中に入れたタッパーの硬い感触を確かめながら、死んだ魚のような目で黒板を見つめていた。
タッパーの中身は、昨日深夜までかかって作った、あの泥団子トリュフだ。
冷蔵庫で冷やされたそれは、今は凶器のように固くなっているはずだ。
「……はあ」
ため息をつくと、前の席の男子が「うわ、暗っ」と小声で言ったのが聞こえた。
死ねばいいのに、と思った。
2時間目の休み時間。
あいつが、廊下で女子に呼び出されているのを見た。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「ドクン」なんて可愛い音じゃない。「グチャッ」と内臓が握りつぶされるような感覚。
呼び出しているのは、隣のクラスの高木さんだ。
あざといことで有名な、ゆるふわウェーブの髪をした女子。
彼女はバレンタインに、手作りのブラウニーを配り歩いていたらしい。
当然、あいつにも渡したのだろう。
私は廊下の角に隠れて、その様子を覗き見した。
完全にストーカーだ。自分でも引く。でも、足が動かない。
「〇〇くん、これ。バレンタインのお返し……期待していいかな?」
高木さんが、上目遣いで言う。
あいつは、困ったように頭をかいている。
その手には、コンビニの袋が握られていた。
「あー、わり。俺、そういうの全然マメじゃなくてさ。これ、購買で買ったチョコなんだけど……」
「えー! 購買のやつ? ひどーい!」
高木さんは頬を膨らませて怒ったふりをしたが、すぐに「嘘嘘。もらえるだけで嬉しい! ありがと!」と、その袋をひったくるように受け取った。
……なんだ、あれ。
なんだ、あの茶番は。
購買のチョコ?
あいつ、まともな準備すらしてないのか。
高木さん相手にそれなら、私なんかには当然、何も用意していないだろう。
安堵と、絶望が同時に押し寄せてくる。
「ライバルはいなかった」という安堵と、「私にもお返しなんてない」という現実。
いや、待て。
私は「お返し」が欲しいんじゃない。
「逆チョコ」を叩きつけに来たのだ。
あいつが何も用意していないなら、むしろ好都合だ。
「あんたは何も用意してないけど、私は用意したわよ。この格差を噛み締めなさい」とマウントを取れる。
でも。
あいつが高木さんと笑い合っている姿が、どうしても脳裏に焼き付いて離れない。
あいつは、あんな風に誰とでも笑う。
私といる時と同じような顔で。
それが、死ぬほど悔しい。
昼休み。
私は昼食を食べる気にもなれず、中庭のベンチでぼんやりしていた。
鞄の中のタッパーが、重しのように膝に乗っている。
「……何やってんだろ、私」
昨日の夜、姉とあんなに盛り上がった勢いはどこへ行ったのか。
学校という「日常」の場に来た途端、昨夜の「深夜のテンション」が急速に冷めていくのを感じる。
『重い女』になるんじゃなかったのか。
トラウマを残すんじゃなかったのか。
「お前、こんなとこで何してんの?」
不意に、上から声が降ってきた。
心臓が口から飛び出しそうになった。
見上げると、あいつが立っている。
手には焼きそばパンと、いちごオレ。
……いちごオレって。似合わなすぎてイラつく。
「……別に。光合成」
「植物かよ」
あいつは私の隣に、当然のように座った。
ベンチが少し沈む。
制服のズボンが触れそうな距離。
汗と、柔軟剤と、焼きそばパンのソースの匂いが混ざった、あいつの匂いがする。
これが、好きな人の匂いだなんて認めたくない。もっといい匂いがしてほしい。
「お前さ、今日なんか機嫌悪くね?」
あいつが焼きそばパンを頬張りながら言う。
パン屑が口の端についている。取ってあげたい衝動と、デコピンしたい衝動がせめぎ合う。
「悪くないし」
「嘘つけ。朝からずっと般若みたいな顔してたぞ」
「……見てたの?」
「そりゃ見るだろ。前の席の奴が『後ろから殺気感じる』ってビビってたから」
あいつは、いちごオレのストローを噛みながら、ニシシと笑った。
その無防備な笑顔が、今の私には猛毒だ。
「……あんたさ」
「ん?」
「今日、いろんな人にお返ししてんの?」
聞いてしまった。
一番聞きたくないことを、自分から。
あいつは「あー」と面倒くさそうに空を見上げた。
「なんか、義理チョコくれた奴にはな。めんどくせーけど、返さないと後で何言われるか分かんねーし」
「……ふーん」
「ま、コンビニで買ったやつだけどな」
コンビニチョコ。
義務感。
面倒くさい行事。
あいつにとって、ホワイトデーはその程度のものだ。
「……私には?」
言葉が、勝手に滑り落ちた。
あいつが固まった。
ストローを噛む口が止まる。
「え?」
「私には、ないの? お返し」
言ってしまった。
私はバレンタインに、何もあげていないのに。
これは完全に言いがかりだ。当たり屋だ。
でも、止まらなかった。
あいつは目を丸くして、それから少し困ったように眉を下げた。
「お前……バレンタイン、俺にくれたっけ?」
正論だ。
ぐうの音も出ない正論が、私の胸に突き刺さる。
そうだ、あげてない。
だから、お返しなんてあるわけがない。
そんなの分かってる。
分かってるけど。
「……くれてないけど」
私は、鞄を強く握りしめた。
指の関節が白くなるくらい。
「くれてないけど、お返しは欲しいの。文句ある?」
理不尽すぎる。
自分でも何言ってるか分からない。
でも、今の私は、論理的な思考なんてできる状態じゃなかった。
ただ、高木さんや他の女子があいつから貰っていた「お返し」という名の繋がりが、羨ましくて、妬ましくて、許せなかっただけだ。
あいつは呆気に取られた顔で私を見つめ、それから――
「……ははっ」
笑った。
バカにするように、でもどこか楽しそうに。
「お前、マジでジャイアンだな」
「うるさい」
「分かったよ。……じゃあ、放課後な」
「え」
「放課後、ちょっと付き合えよ。なんか奢ってやるから」
あいつは焼きそばパンの最後の一口を放り込み、立ち上がった。
「じゃーな。サボんなよ」
そう言って、校舎の方へ歩いていく。
私は、ポカンとその後ろ姿を見送った。
放課後。
奢ってやる。
それって、デートじゃないの?
カカカ、と頭の中で何かが回転する音がした。
チャンスだ。
これは、千載一遇のチャンスだ。
あいつが「お返し」を用意してないなら、私が「逆チョコ」を渡して、さらにこの理不尽な要求を押し通せば、完全に私のペースだ。
鞄の中のタッパーが、熱を持っているような気がした。
私の泥団子。
姉の言う通り、これで殴りかかるしかない。
放課後まで、あと3時間。
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