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第1話:バス席固定の始まり
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大型バスの暖房って、なんでこんなに独特なんだろう。
埃っぽいシートの匂いと、誰かがこぼしたジュースの甘ったるい残り香。それが温風に乗って、足元からじわじわと這い上がってくる。
「……うわ、一番後ろ埋まってるじゃん」
「前から詰めて座れってさー」
ざわざわと乗り込んでくるクラスメイトたちの声を、私は窓にもたれて聞き流していた。
この学校の行事は、いつも無駄に気合が入っている。クリスマス直前に「冬のイルミネーション社会見学」なんて銘打って、全員強制参加のバスツアー。
浮かれた連中の声が耳障りだ。
私は自分の膝の上にあるスクールバッグを、ぎゅっと抱きしめる。
左側の窓際。ここは私の聖域だ。
そして、その「右側」は――。
「……お、ここ空いてる?」
のんびりした声が降ってきた。
顔を上げなくても分かる。
加藤だ。
「……どうぞ」
私は窓の外を見たまま、短く答える。
加藤は「サンキュ」と軽く言って、どさっと私の隣に腰を下ろした。
その瞬間、むわっとした体温が押し寄せてくる。
冬の制服の、少し厚手の生地が擦れる音。
彼がリュックを足元に置くために動くと、私の肩に彼の上腕がぶつかる。
謝らない。
まるで、ぶつかるのが当たり前みたいに。
……キモい。
こんな狭い席で、男子と密着するとかありえない。
加藤は運動部でもないのに、なんでこんなに体温が高いのか。暖房の風と混ざって、私の左半身だけが異様に熱くなる。
「いやー、寒かったな外。あ、これ窓曇るやつだ」
加藤が呑気に指で窓ガラスを擦る。
キュッ、キュッ、という音が神経に障る。
私は何も答えず、ただじっと外の曇り空を睨んでいた。
別に、加藤が好きとかそういうんじゃない。
ただ、こいつは私の隣に座るのが「習慣」になっているだけだ。
一年の時の席替えから、なぜかいつも近い。移動教室も、集会も。
だから今日も、当然のように私の隣に来た。
それだけだ。
「……ねえ加藤、ちょっと静かにしてくんない?」
「え、俺うるさい?」
「息」
「息!?」
加藤が驚いた顔をする。
私は睨みつける。
「鼻息荒い。こっちに掛かるんだけど」
「マジか……鼻炎だからかな。わりぃ」
加藤は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
ゴクリ、という湿った音が聞こえて、私は反射的に自分の喉元を押さえた。まるで、その不快な音が自分の体内に侵入してきたみたいに。
加藤は照れくさそうに鼻をすすって、少しだけ体を通路側にずらした。
その距離、わずか数センチ。
でも、その数センチの隙間が、急にスースーして落ち着かない。
……何これ。
さっきまで「キモい」「熱い」って思ってたのに。
彼が離れた瞬間に、自分の体温が奪われたような、妙な喪失感がある。
私はバッグの持ち手を強く握り直した。
チラッと横目で加藤を見る。
彼はスマホを取り出し、パズルゲームを始めている。
スマホのブルーライトが、彼の無精髭の生えかけの顎を照らしている。
汚い。
なんで高校生にもなって、ちゃんと剃らないのか。
爪も、少し伸びている。白い部分が目立つ。
生理的に無理な要素ばっかりだ。
なのに。
「……あ」
バスが発車した揺れで、加藤の体がまた私の方に傾いた。
二の腕が、また私の肩に触れる。
今度は、彼は体を離さなかった。
ゲームに夢中で、気づいていないのか。それとも、私が文句を言わないのをいいことに、クッション代わりにしているのか。
私は押し返さなかった。
窓ガラスに頭を預け、目を閉じるふりをした。
制服越しに伝わる、彼の脈動みたいなものが、自分の心臓のリズムとズレていて気持ち悪い。
ドク、ドク、と他人の生命活動が直に伝わってくる不快感。
でも、この不快感がないと、私は自分がどこにいるのか分からなくなる。
まるで、彼の体温という「楔」がないと、この世界から浮き上がってしまうような感覚。
ふと、通路を挟んだ反対側の席から、女子たちの話し声が聞こえた。
「ねえ、加藤って実は優しくない?」
「分かるー。さっきも荷物持ってくれたし」
チッ、と舌打ちが出そうになるのを堪える。
何を見てるんだ、あの女たちは。
加藤は優しくなんてない。ただの鈍感で、デリカシーがないだけの男だ。
荷物を持つのだって、単に邪魔だからどかしただけだ。
無性に腹が立って、私はわざと肘を張って、加藤の脇腹を小突いた。
「……痛っ。何だよ」
加藤がゲームから目を離して、私を見る。
「狭い」
「しょうがねーだろ、バスなんだから」
文句を言いながらも、加藤はまた少し笑った。
その顔を見て、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
胃がムカムカする。
バス酔いか、それともこいつの不潔そうな笑顔のせいか。
私はまた窓の外に向き直る。
ガラスに映った自分の顔は、死んだように無表情だった。
でも、瞳だけがやけにギラギラと光っている気がして、見なかったことにした。
隣にいるだけで落ち着く。
そんな可愛い感情じゃない。
こいつが私の隣以外――他の女の隣に座っている想像をしただけで、内臓が裏返りそうになる。
これは恋じゃない。
ただの監視だ。
私は、彼の体温を感じながら、静かに息を吐いた。
バスの独特な匂いの中に、加藤の匂いが混ざる。
洗剤なのか、昨日の夕飯の残り香なのか、それとも男特有の皮脂の匂いなのか分からない、生々しい生活臭。
それが鼻腔の奥にこびりついて、息をするたびに「加藤」を確認させられる。
最悪だ。
この匂い、家に帰っても絶対消えないやつだ。
「……ねえ、加藤」
「ん?」
「着くまで寝るから。動くなよ」
「はいよ」
私は目を閉じた。
暗闇の中で、彼の衣服が擦れる音だけが、世界の全てになった。
(第1話 終わり)
埃っぽいシートの匂いと、誰かがこぼしたジュースの甘ったるい残り香。それが温風に乗って、足元からじわじわと這い上がってくる。
「……うわ、一番後ろ埋まってるじゃん」
「前から詰めて座れってさー」
ざわざわと乗り込んでくるクラスメイトたちの声を、私は窓にもたれて聞き流していた。
この学校の行事は、いつも無駄に気合が入っている。クリスマス直前に「冬のイルミネーション社会見学」なんて銘打って、全員強制参加のバスツアー。
浮かれた連中の声が耳障りだ。
私は自分の膝の上にあるスクールバッグを、ぎゅっと抱きしめる。
左側の窓際。ここは私の聖域だ。
そして、その「右側」は――。
「……お、ここ空いてる?」
のんびりした声が降ってきた。
顔を上げなくても分かる。
加藤だ。
「……どうぞ」
私は窓の外を見たまま、短く答える。
加藤は「サンキュ」と軽く言って、どさっと私の隣に腰を下ろした。
その瞬間、むわっとした体温が押し寄せてくる。
冬の制服の、少し厚手の生地が擦れる音。
彼がリュックを足元に置くために動くと、私の肩に彼の上腕がぶつかる。
謝らない。
まるで、ぶつかるのが当たり前みたいに。
……キモい。
こんな狭い席で、男子と密着するとかありえない。
加藤は運動部でもないのに、なんでこんなに体温が高いのか。暖房の風と混ざって、私の左半身だけが異様に熱くなる。
「いやー、寒かったな外。あ、これ窓曇るやつだ」
加藤が呑気に指で窓ガラスを擦る。
キュッ、キュッ、という音が神経に障る。
私は何も答えず、ただじっと外の曇り空を睨んでいた。
別に、加藤が好きとかそういうんじゃない。
ただ、こいつは私の隣に座るのが「習慣」になっているだけだ。
一年の時の席替えから、なぜかいつも近い。移動教室も、集会も。
だから今日も、当然のように私の隣に来た。
それだけだ。
「……ねえ加藤、ちょっと静かにしてくんない?」
「え、俺うるさい?」
「息」
「息!?」
加藤が驚いた顔をする。
私は睨みつける。
「鼻息荒い。こっちに掛かるんだけど」
「マジか……鼻炎だからかな。わりぃ」
加藤は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
ゴクリ、という湿った音が聞こえて、私は反射的に自分の喉元を押さえた。まるで、その不快な音が自分の体内に侵入してきたみたいに。
加藤は照れくさそうに鼻をすすって、少しだけ体を通路側にずらした。
その距離、わずか数センチ。
でも、その数センチの隙間が、急にスースーして落ち着かない。
……何これ。
さっきまで「キモい」「熱い」って思ってたのに。
彼が離れた瞬間に、自分の体温が奪われたような、妙な喪失感がある。
私はバッグの持ち手を強く握り直した。
チラッと横目で加藤を見る。
彼はスマホを取り出し、パズルゲームを始めている。
スマホのブルーライトが、彼の無精髭の生えかけの顎を照らしている。
汚い。
なんで高校生にもなって、ちゃんと剃らないのか。
爪も、少し伸びている。白い部分が目立つ。
生理的に無理な要素ばっかりだ。
なのに。
「……あ」
バスが発車した揺れで、加藤の体がまた私の方に傾いた。
二の腕が、また私の肩に触れる。
今度は、彼は体を離さなかった。
ゲームに夢中で、気づいていないのか。それとも、私が文句を言わないのをいいことに、クッション代わりにしているのか。
私は押し返さなかった。
窓ガラスに頭を預け、目を閉じるふりをした。
制服越しに伝わる、彼の脈動みたいなものが、自分の心臓のリズムとズレていて気持ち悪い。
ドク、ドク、と他人の生命活動が直に伝わってくる不快感。
でも、この不快感がないと、私は自分がどこにいるのか分からなくなる。
まるで、彼の体温という「楔」がないと、この世界から浮き上がってしまうような感覚。
ふと、通路を挟んだ反対側の席から、女子たちの話し声が聞こえた。
「ねえ、加藤って実は優しくない?」
「分かるー。さっきも荷物持ってくれたし」
チッ、と舌打ちが出そうになるのを堪える。
何を見てるんだ、あの女たちは。
加藤は優しくなんてない。ただの鈍感で、デリカシーがないだけの男だ。
荷物を持つのだって、単に邪魔だからどかしただけだ。
無性に腹が立って、私はわざと肘を張って、加藤の脇腹を小突いた。
「……痛っ。何だよ」
加藤がゲームから目を離して、私を見る。
「狭い」
「しょうがねーだろ、バスなんだから」
文句を言いながらも、加藤はまた少し笑った。
その顔を見て、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
胃がムカムカする。
バス酔いか、それともこいつの不潔そうな笑顔のせいか。
私はまた窓の外に向き直る。
ガラスに映った自分の顔は、死んだように無表情だった。
でも、瞳だけがやけにギラギラと光っている気がして、見なかったことにした。
隣にいるだけで落ち着く。
そんな可愛い感情じゃない。
こいつが私の隣以外――他の女の隣に座っている想像をしただけで、内臓が裏返りそうになる。
これは恋じゃない。
ただの監視だ。
私は、彼の体温を感じながら、静かに息を吐いた。
バスの独特な匂いの中に、加藤の匂いが混ざる。
洗剤なのか、昨日の夕飯の残り香なのか、それとも男特有の皮脂の匂いなのか分からない、生々しい生活臭。
それが鼻腔の奥にこびりついて、息をするたびに「加藤」を確認させられる。
最悪だ。
この匂い、家に帰っても絶対消えないやつだ。
「……ねえ、加藤」
「ん?」
「着くまで寝るから。動くなよ」
「はいよ」
私は目を閉じた。
暗闇の中で、彼の衣服が擦れる音だけが、世界の全てになった。
(第1話 終わり)
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