隣の席の予約

月下花音

文字の大きさ
1 / 5

第1話:バス席固定の始まり

しおりを挟む
 大型バスの暖房って、なんでこんなに独特なんだろう。
 埃っぽいシートの匂いと、誰かがこぼしたジュースの甘ったるい残り香。それが温風に乗って、足元からじわじわと這い上がってくる。

「……うわ、一番後ろ埋まってるじゃん」
「前から詰めて座れってさー」

 ざわざわと乗り込んでくるクラスメイトたちの声を、私は窓にもたれて聞き流していた。
 この学校の行事は、いつも無駄に気合が入っている。クリスマス直前に「冬のイルミネーション社会見学」なんて銘打って、全員強制参加のバスツアー。
 浮かれた連中の声が耳障りだ。

 私は自分の膝の上にあるスクールバッグを、ぎゅっと抱きしめる。
 左側の窓際。ここは私の聖域だ。
 そして、その「右側」は――。

「……お、ここ空いてる?」

 のんびりした声が降ってきた。
 顔を上げなくても分かる。
 加藤だ。

「……どうぞ」

 私は窓の外を見たまま、短く答える。
 加藤は「サンキュ」と軽く言って、どさっと私の隣に腰を下ろした。
 その瞬間、むわっとした体温が押し寄せてくる。

 冬の制服の、少し厚手の生地が擦れる音。
 彼がリュックを足元に置くために動くと、私の肩に彼の上腕がぶつかる。
 謝らない。
 まるで、ぶつかるのが当たり前みたいに。

 ……キモい。
 こんな狭い席で、男子と密着するとかありえない。
 加藤は運動部でもないのに、なんでこんなに体温が高いのか。暖房の風と混ざって、私の左半身だけが異様に熱くなる。

「いやー、寒かったな外。あ、これ窓曇るやつだ」

 加藤が呑気に指で窓ガラスを擦る。
 キュッ、キュッ、という音が神経に障る。
 私は何も答えず、ただじっと外の曇り空を睨んでいた。

 別に、加藤が好きとかそういうんじゃない。
 ただ、こいつは私の隣に座るのが「習慣」になっているだけだ。
 一年の時の席替えから、なぜかいつも近い。移動教室も、集会も。
 だから今日も、当然のように私の隣に来た。
 それだけだ。

「……ねえ加藤、ちょっと静かにしてくんない?」
「え、俺うるさい?」
「息」
「息!?」

 加藤が驚いた顔をする。
 私は睨みつける。

「鼻息荒い。こっちに掛かるんだけど」
「マジか……鼻炎だからかな。わりぃ」

 加藤は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
 ゴクリ、という湿った音が聞こえて、私は反射的に自分の喉元を押さえた。まるで、その不快な音が自分の体内に侵入してきたみたいに。

 加藤は照れくさそうに鼻をすすって、少しだけ体を通路側にずらした。
 その距離、わずか数センチ。
 でも、その数センチの隙間が、急にスースーして落ち着かない。

 ……何これ。
 さっきまで「キモい」「熱い」って思ってたのに。
 彼が離れた瞬間に、自分の体温が奪われたような、妙な喪失感がある。

 私はバッグの持ち手を強く握り直した。
 チラッと横目で加藤を見る。
 彼はスマホを取り出し、パズルゲームを始めている。
 スマホのブルーライトが、彼の無精髭の生えかけの顎を照らしている。
 汚い。
 なんで高校生にもなって、ちゃんと剃らないのか。
 爪も、少し伸びている。白い部分が目立つ。

 生理的に無理な要素ばっかりだ。
 なのに。

「……あ」

 バスが発車した揺れで、加藤の体がまた私の方に傾いた。
 二の腕が、また私の肩に触れる。
 今度は、彼は体を離さなかった。
 ゲームに夢中で、気づいていないのか。それとも、私が文句を言わないのをいいことに、クッション代わりにしているのか。

 私は押し返さなかった。
 窓ガラスに頭を預け、目を閉じるふりをした。
 制服越しに伝わる、彼の脈動みたいなものが、自分の心臓のリズムとズレていて気持ち悪い。
 ドク、ドク、と他人の生命活動が直に伝わってくる不快感。

 でも、この不快感がないと、私は自分がどこにいるのか分からなくなる。
 まるで、彼の体温という「楔」がないと、この世界から浮き上がってしまうような感覚。

 ふと、通路を挟んだ反対側の席から、女子たちの話し声が聞こえた。

「ねえ、加藤って実は優しくない?」
「分かるー。さっきも荷物持ってくれたし」

 チッ、と舌打ちが出そうになるのを堪える。
 何を見てるんだ、あの女たちは。
 加藤は優しくなんてない。ただの鈍感で、デリカシーがないだけの男だ。
 荷物を持つのだって、単に邪魔だからどかしただけだ。

 無性に腹が立って、私はわざと肘を張って、加藤の脇腹を小突いた。

「……痛っ。何だよ」

 加藤がゲームから目を離して、私を見る。

「狭い」
「しょうがねーだろ、バスなんだから」

 文句を言いながらも、加藤はまた少し笑った。
 その顔を見て、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
 胃がムカムカする。
 バス酔いか、それともこいつの不潔そうな笑顔のせいか。

 私はまた窓の外に向き直る。
 ガラスに映った自分の顔は、死んだように無表情だった。
 でも、瞳だけがやけにギラギラと光っている気がして、見なかったことにした。

 隣にいるだけで落ち着く。
 そんな可愛い感情じゃない。
 こいつが私の隣以外――他の女の隣に座っている想像をしただけで、内臓が裏返りそうになる。
 これは恋じゃない。
 ただの監視だ。

 私は、彼の体温を感じながら、静かに息を吐いた。
 バスの独特な匂いの中に、加藤の匂いが混ざる。
 洗剤なのか、昨日の夕飯の残り香なのか、それとも男特有の皮脂の匂いなのか分からない、生々しい生活臭。
 それが鼻腔の奥にこびりついて、息をするたびに「加藤」を確認させられる。

 最悪だ。
 この匂い、家に帰っても絶対消えないやつだ。

「……ねえ、加藤」
「ん?」
「着くまで寝るから。動くなよ」
「はいよ」

 私は目を閉じた。
 暗闇の中で、彼の衣服が擦れる音だけが、世界の全てになった。
 
(第1話 終わり)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

5年経っても軽率に故郷に戻っては駄目!

158
恋愛
伯爵令嬢であるオリビアは、この世界が前世でやった乙女ゲームの世界であることに気づく。このまま学園に入学してしまうと、死亡エンドの可能性があるため学園に入学する前に家出することにした。婚約者もさらっとスルーして、早や5年。結局誰ルートを主人公は選んだのかしらと軽率にも故郷に舞い戻ってしまい・・・ 2話完結を目指してます!

蝋燭

悠十
恋愛
教会の鐘が鳴る。 それは、祝福の鐘だ。 今日、世界を救った勇者と、この国の姫が結婚したのだ。 カレンは幸せそうな二人を見て、悲し気に目を伏せた。 彼女は勇者の恋人だった。 あの日、勇者が記憶を失うまでは……

ずっと温めてきた恋心が一瞬で砕け散った話

下菊みこと
恋愛
ヤンデレのリハビリ。 小説家になろう様でも投稿しています。

看病ヤンデレ

名乃坂
恋愛
体調不良のヒロインがストーカーヤンデレ男に看病されるお話です。

2回目の逃亡

158
恋愛
エラは王子の婚約者になりたくなくて1度目の人生で思い切りよく逃亡し、その後幸福な生活を送った。だが目覚めるとまた同じ人生が始まっていて・・・

気付いたら最悪の方向に転がり落ちていた。

下菊みこと
恋愛
失敗したお話。ヤンデレ。 私の好きな人には好きな人がいる。それでもよかったけれど、結婚すると聞いてこれで全部終わりだと思っていた。けれど相変わらず彼は私を呼び出す。そして、結婚式について相談してくる。一体どうして? 小説家になろう様でも投稿しています。

貴方とはここでお別れです

下菊みこと
恋愛
ざまぁはまあまあ盛ってます。 ご都合主義のハッピーエンド…ハッピーエンド? ヤンデレさんがお相手役。 小説家になろう様でも投稿しています。

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

処理中です...