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第5話:ミカンと慰謝料の味
しおりを挟むクリスマスから一週間後。大晦日。
私は彼のアパートにいた。
「……狭いね」
思わず口に出してしまった。
今まで外で会うことばかりで、彼の家に来るのは初めてだった。
「ごめん。慰謝料と養育費で、ここが限界で」
彼は申し訳なさそうに笑いながら、コタツの上のミカンを勧めてくれた。
築30年の木造アパート、1K。
壁は薄く、隣の部屋のテレビの音(『笑ってはいけない』シリーズの笑い声)が丸聞こえだ。
隙間風が入ってくるのか、足元がスースーする。
「紅白、どっち勝つかな」
「どっちでもいいけど……今年、演歌少なくない?」
私は部屋を見渡した。
物が少ない。というか、金目のものがない。
テレビは小さいし、カーテンはホームセンターの安物だし、家具と呼べるのはこのコタツくらいだ。
元妻に財産分与で根こそぎ持っていかれたんだろうか。
それとも、養育費のために物を売ったのか。
「……ねえ」
「ん?」
「慰謝料、あとどれくらいあるの?」
クリスマスの路地裏で聞いた事実。
あれから一週間、私はずっとこのことを考えていた。
現実を直視するために。
「……あと、5年かな」
彼はミカンの皮を剥く手を止めて言った。
「5年!?」
「うん。娘が大学卒業するまでは、養育費も上乗せだし。……月々、手取りの四割くらい持っていかれてる」
「四割……」
絶句した。
それでよく生活できているな。
いや、できていないから、このアパートで、この慎ましい生活なのか。
「……長いわね」
「うん。ごめん」
「なんで謝るのよ」
「なんか、巻き込んじゃって。……俺と付き合っても、贅沢させてあげられないし」
彼は剥き終わったミカンを半分に割り、私に差し出した。
白い筋がいっぱいついている。
彼は、そういうのを気にしないタイプだ。
私は丁寧に筋を取り除きながら、溜め息をついた。
5年後の私たち。
彼は52歳。私は50歳。
一番お金がかかる時期かもしれないし、病気をするかもしれない。
そんな時期に、毎月四割の給料が消えていく。
普通に考えれば、「別れた方がいい案件」だ。
損しかない。
私の老後資金まで食いつぶされるリスクがある。
「……悔しくないの?」
「悔しいよ。でも……」
彼は自分の分のミカンを口に運んだ。
「俺が悪かった部分もあるし。……浮気されたのも、俺がつまらない男だったからだし」
「……」
「元妻は、もっと刺激的で、リッチな生活を求めてたんだよ。俺みたいな、休日にゴロゴロしてるだけの男じゃ、満足できなかったんだ」
私はミカンを口に放り込んだ。
甘酸っぱい果汁が広がる。
スーパーの特売品の味だ。
デパ地下の高級フルーツの味じゃない。
でも。
「……つまらない男」
「うん」
「確かに、つまらないわね」
「だよね」
「金もないし、腰も悪いし、髪も薄いし、優柔不断だし、元妻には頭上がらないし」
「……言うねえ。傷つくなあ」
彼は苦笑いした。
「でも」
私はもう一房、ミカンを食べた。
「……ミカンは、甘い」
「え?」
「あんたが剥いてくれたミカン。……悪くないわよ」
「……」
「私だって、刺激的な生活なんて求めてないもの。休日にゴロゴロして、コタツでミカン食べて、テレビ見て文句言う。……今の私には、それが一番の贅沢よ」
彼はキョトンとして、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「……そう?」
「うん。……それに、あんたの『つまらなさ』は、裏を返せば『安心感』でしょ」
「安心感?」
「浮気もしない、博打もしない、借金もしない(慰謝料以外)。……平凡で、退屈で、でも嘘がない」
私の元婚約者は、刺激的だったけど、嘘つきだった。
スリルはあったけど、安心はなかった。
「……あつこさん」
「何?」
「来年も、再来年も……その先も、一緒にミカン食べてくれる?」
それは、プロポーズに近い言葉だった。
でも、指輪はない。
ひざまずいて、箱をパカッとする演出もない。
あるのは、借金と慰謝料と、老後の不安だけ。
そして、コタツとミカン。
「……条件があるわ」
「えっ、何?」
「慰謝料払い終わったら、一番高い老人ホームに一緒に入ること」
私は真顔で言った。
「えーっ、そこ!?」
「当たり前でしょ。下の世話なんてしたくないし、されたくないわよ。プロに任せるの。そのために、慰謝料終わったら鬼のように貯金してもらうから」
「……はい。頑張って働きます」
二人で笑った。
乾いた、でも温かい笑い声が、薄い壁に吸い込まれていく。
隣の部屋からも、テレビの笑い声に合わせた笑い声が聞こえる。
昭和のアパートの、大晦日の夜。
日付が変わる。
遠くで、除夜の鐘が微かに聞こえる。
ゴーン。ターン。
煩悩が消えていく……わけがない。
「金持ちになりたい」「若返りたい」「元妻に復讐したい(ちょっとだけ)」。
そんな煩悩だらけの私たちが、ここでこうして身体を寄せ合っている。
「あけましておめでとう」
「おめでとう」
「今年もよろしく」
「こちらこそ」
頭を下げ合う姿は、恋人というより、共同経営者のようだった。
「人生」という名の、赤字続きの零細企業の共同経営者。
でも、一人で倒産するよりは、二人で自転車操業するほうが、まだ希望がある。
「……ねえ、キスしていい?」
彼が顔を近づけてきた。
「……ミカン臭いけど」
「俺も。……あつこさんもだよ」
「失礼ね」
軽く唇を重ねる。
ミカンの味と、少しの生活感の味。
そして、お互いの唇の乾燥した感触。
ロマンチックのかけらもない。
ドラマチックな盛り上がりもない。
でも、これが私たちの「愛」の味なんだろう。
「……愛してるよ」
「……はいはい」
私は彼の肩にもたれかかった。
重い。
彼の体重と、彼が背負っている人生の重み。
でも、その重みが、私が一人じゃないという証拠だった。
これから先、彼が抱える負債も、老いも、病気も、全部背負っていくことになる。
損な役回りだ。
元妻は高笑いしているだろう。「あのバカな女が貧乏くじ引いたわ」って。
でも、私はこの「つまらない男」の隣を選んだ。
誰に強制されたわけでもなく、自分で選んだのだ。
「……バカよね、私も」
「え?」
「独り言」
私は目を閉じた。
コタツの温もりが、足元から全身に広がっていく。
眠くなってきた。
こんな幸せも、あってもいい。
誰にも自慢できない、SNSにも載せられない、地味で茶色い幸せ。
でも、これが今の私にはお似合いだ。
「……寝る?」
「うん。……腰、マッサージして」
「ええー、俺も腰痛いのに」
「うるさい。慰謝料だと思ってやりなさい」
「はいはい……」
彼は文句を言いながらも、私の腰に手を当ててくれた。
温かい手。
不器用だけど、優しい手。
今年も、忙しくなりそうだ。
色々な意味で。
でも、まあ、悪くない一年になりそうな予感がした。
(第5話完)
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