【短編】下着新調したのに生理が来た

月下花音

文字の大きさ
3 / 5

第3話:子宮の反乱と、前立腺の悲鳴

しおりを挟む
 ホテルの自動回転扉を抜けると、十二月の冷たい風が頬を叩いた。
 二人して、建物の脇にある植え込みの陰に逃げ込む。
 華やかなイルミネーションの死角のような場所だ。
 
 枯れ葉がカサカサ音を立てて舞っている。
 私たちと同じだ。
 華やかな舞台から掃き出された枯れ葉コンビ。
 吹き溜まりがお似合いだよ、ほんと。

 田所さんは荒い息をつきながら、ハンカチで額の汗を拭っている。

 「はあ……はあ……助かった……」
 彼は深く息を吐き出した。
 白い息が、街灯に照らされて消えていく。
 この人の肺活量、大丈夫か? ゼエゼエ言ってるけど。
 心筋梗塞とかやめてよね。私、救急車呼んで付き添う義理まだないから。

 「助かった?」
 私が聞き返すと、彼はバツが悪そうに私を見た。
 「いえ、あつこさんが『帰る』って言ってくれて、正直、ホッとしちゃって」
 「え?」
 「いや、実はね……」
 彼は言い淀んだが、意を決したように口を開いた。
 「僕、トイレに行きたかったんです。もう、限界で」

 は?
 トイレ?
 世界が止まった気がした。
 ロマンチックな告白かと思ったら、排泄の話かよ。
 涙が出そう。緊張して損した。

 「さっきからずっと我慢してて。でも、あつこさんが来るまでは離れちゃいけないと思って……」
 「……じゃあ、さっき早足だったのは」
 「漏れそうだったからです」

 四十七歳。
 クリスマスの高級ホテルで待ち合わせをして、第一声が「漏れそうだった」。
 小学一年生か。
 いや、小学生なら「先生トイレ!」って言える。大人は言えない。
 プライドという名の便秘が、私たちの言動を詰まらせる。

 私は呆気にとられたが、すぐに自分の状況を思い出した。
 人のことを笑ってる場合じゃない。
 私も今、股間で大洪水が起きているのだから。
 笑えば腹圧がかかる。腹圧がかかればドバッと出る。
 これはチキンレースだ。

 「……私も」
 気がつくと、口が勝手に動いていた。
 もう、かっこつけてる余裕なんて一ミリもない。
 
 子宮が「言え!」って叫んでる。
 言わなきゃ暴れるぞって脅してる。
 脳みそよりも臓器の発言権の方が強いお年頃。

 「私も、限界なんです」
 「えっ、あつこさんもトイレ?」
 「いえ、そうじゃなくて……その……」
 冷たい風が、私の羞恥心を麻痺させていく。
 「生理なんです。急に来ちゃって」
 
 言った。
 言ってしまった。
 初デートの相手に、「生理です」と宣言する四十五歳。
 ロマンチックのカケラもない。破片すらない。粉々だ。
 粉砕骨折した夢の残骸が、足元に散らばっているのが見える。

 田所さんは目を丸くした。
 「せ、生理……? ああ! だから顔色が!」
 「はい。お腹も痛くて、正直、フレンチのコースなんて食べてる場合じゃなくて……カイロ貼って、毛糸のパンツ履いて、必死に立ってたんです」
 もうどうにでもなれ、と全部ぶちまけた。
 
 毛糸のパンツ発言、今の私は無敵だ。
 失うものが何もない人間の強さ。
 いっそこの場でパンツ見せて「ほら黒だよ!」って証明したいくらいのヤケクソ感。

 「毛糸のパンツ……」
 彼は私の言葉を反芻し、そして、急に肩の力を抜いて笑い出した。
 「はは……ははは! なんだ、そうだったんですか」
 
 笑われた?
 こめかみがピクンと跳ねた。
 人が命がけで告白してるのに笑う?
 この男、やっぱり神経が死んでるんじゃないか?

 むっとしかけた私に、彼は慌てて手を振った。
 「ごめんなさい、馬鹿にしてるんじゃないんです。ただ、僕と同じだなと思って」
 「同じ?」
 「実は僕もね、最近、近いんです。トイレ」
 彼は自分の下腹部をポンと叩いた。
 「前立腺がね、ちょっと肥大気味って言われてて。緊張したり寒かったりすると、もう三十分に一回は行きたくなるんです」
 
 前立腺肥大。
 その単語の響きが、夜の冷気の中に吸い込まれていく。
 クリスマスの聖なる夜に、前立腺。
 サンタクロースもこれにはプレゼント選びに困るだろう。
 頻尿パッドでも靴下に入れときゃいいのか。

 「だから、二時間のフルコースなんて、正直地獄だなって思ってたんです。トイレに立つタイミングばっかり考えて、料理の味なんて分からないだろうなって」
 彼は苦笑した。
 「でも、あつこさんにカッコいいとこ見せたくて、無理して予約して……自爆ですね」

 沈黙が流れた。
 でも、それは気まずい沈黙ではなかった。
 奇妙な連帯感が生まれていた。
 私は子宮の痛みに耐え、彼は前立腺の不調に怯える。
 私たちは、恋人候補である以前に、「ガタが来はじめた肉体」を持つ同士だったのだ。
 
 ポンコツロボット同士の通信みたいだ。
 『ピーガー、オイル漏れ確認』『了解、当方もバッテリー劣化』
 そんな悲しい信号のやり取り。

 「……よかった」
 私は心底、そう思った。
 心の底のヘドロみたいな部分から、安堵の泡がポコポコ湧き上がってくる。

 「よかった?」
 「田所さんが、完璧な紳士じゃなくてよかったです。もしさっき、スマートに『大丈夫かい?』なんて言われてたら、私、惨めすぎて死んでたかもしれません」
 「そりゃあこっちの台詞ですよ。あつこさんが完璧な淑女だったら、僕、トイレの回数数えられてフラれてます」

 二人で顔を見合わせ、鼻をすすった。
 寒さで鼻水が出てきたのだ。
 ズズッという音がハモった。
 世界一汚いハーモニーだ。

 「じゃあ、どうします? ディナー、キャンセルになっちゃいましたけど」
 彼が聞いた。
 「トイレ」に行きたいという切実な響きが含まれている。

 私は少し考えて、提案した。
 「温かいものが食べたいです。座敷があって、トイレが近くて、気を使わなくていい店」
 彼はニカリと笑った。
 歯に青のりがついていても許せるような、そんな無防備な笑顔だった。

 「最高のプランですね。僕、この裏手にある赤提灯の店、知ってます。おでんが美味いんですよ」
 
 おでん。
 その三文字が、今の私には宝石の名前より輝いて聞こえる。
 大根の煮え具合とか、こんにゃくの切り込みとか、そういう丁寧な仕事に抱かれたい。

 「おでん。いいですね」
 一万九千八百円の下着は泣いているかもしれない。
 でも、私の体と心は、その言葉を聞いて歓喜していた。
 脳内麻薬(エンドルフィン)じゃなくて、ただの空腹と安堵だけど、それでもいい。

 私たちは、きらびやかなホテルに背を向け、薄暗い路地裏へと歩き出した。
 手は繋がなかったけれど、歩幅はぴったりと合っていた。トイレを探す犬のように。
 股関節が痛いけど、不思議と足取りは軽かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

年上彼女と危険なバイト

月下花音
恋愛
時給1200円で始まった恋は、データじゃ測れないほど危険だった。 家賃滞納寸前の大学生・結城ゆうや(20)は、高時給の怪しいアルバイトに応募する。そこで彼を待っていたのは、心理学研究科の大学院生・水無瀬こころ(24)。知的でミステリアスな年上美女の彼女は、ゆうやに「恋愛感情の生理的反応を観察する実験」の“恋人役”を依頼する。 「これは実験よ。だから、手を繋ぐのも、キス寸前まで近づくのも、全てデータ収集のため。」 そう言い聞かせながら、二人の距離は30cm、10cm、そして0cmへと縮まっていく。心拍数、皮膚抵抗、瞳孔径――データは二人の感情の興奮を如実に示すが、ゆうやは次第に「演技」と「本音」の境界線に戸惑い始める。一方、こころも冷静な研究者の仮面の下で、ゆうやの純粋さに惹かれ、過去のトラウマと向き合うことに。 元カレの妨害、研究倫理の壁、そして「恋は再現不可能」という科学の結論。数々の困難を乗り越え、二人はデータでは測れない真の愛を見つけられるのか? これは、時給1200円のアルバイトから始まった、甘くて危険な心理学ラブコメディ。

25歳の決意

S.H.L
恋愛
「25歳の決意」 ――別れたいのに別れられない。愛と依存の境界で、自分を取り戻すために髪を落とした女性の物語。

本命は君♡

ラティ
恋愛
主人公の琴葉。幼なじみの駿太がサークルに入っていることを知り、自分も入ることにする。そこで出会ったチャラい先輩の雅空先輩と関わるうちに、なんだか執着されて……

ストーカーに狙われたので歳上騎士様に護衛をお願いしました。

ねーさん
恋愛
 「氷の彫刻」と呼ばれる美貌の兄を持つ公爵令嬢のクラリッサは不審な視線に悩まされていた。  卒業を二日後に控えた朝、教室のクラリッサの机に置かれた一通の偏執狂者からの手紙。  親友イブを通じてイブの婚約者、近衛騎士団第四分団員のジョーンズに相談すると、第四分団長ネイトがクラリッサのパートナーとして卒業パーティーに出席してくれる事になって─── 〈注〉 このお話は「婚約者が記憶喪失になりました。」と「元騎士の歳上公爵様がまさかの××でした!?」の続編になります。

【魔法少女の性事情・1】恥ずかしがり屋の魔法少女16歳が肉欲に溺れる話

TEKKON
恋愛
きっとルンルンに怒られちゃうけど、頑張って大幹部を倒したんだもん。今日は変身したままHしても、良いよね?

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。

銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。 しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。 しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……

処理中です...