【短編】下着新調したのに生理が来た

月下花音

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第4話:おでんの湯気と、性欲の先送り

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 「赤提灯『ひさご』」。
 店の引き戸を開けると、強烈な出汁の匂いと、タバコの煙と、酔っ払いたちの喧騒が押し寄せてきた。
 煙草の煙が、目に染みる。
 コンタクトレンズしてなくてよかった。今なら煙草のヤニさえ、アロマテラピーに感じる。
 綺麗なホテルの無臭空間より、この加齢臭混じりの空気の方が、私の肺には合っているのだ。

 普段なら眉をひそめるところだけど、今の私には天国だった。
 ここには「ロマンチック」という名のプレッシャーがない。
 私たちはカウンターの隅、トイレに一番近い特等席を確保した。
 トイレのドアが見える安心感。
 これが、私たち中年の新しい「絶景」だ。

 「とりあえず、熱燗二合でいいですか?」
 「はい、お願いします。あと、大根としらたき」
 「僕も。あと牛すじ」
 田所さんはネクタイを緩め、窮屈そうだったジャケットを脱いで丸めた。
 ワイシャツの脇の下が、汗で変色しているのが見えた。
 黄色いシミ。
 生理的な嫌悪感より、「お疲れ」という労わりの気持ちが湧いた。同志よ。

 私もコートを膝掛けにして、少し行儀が悪いけれど、足を崩させてもらった。
 座布団の柔らかさが、痛む腰に優しい。
 子宮が「ありがとう、やっと休める」と呟いた気がした。
 ごめんね、無理させて。次からはもう、見栄なんて張らないから。

 乾杯、と言い合って熱燗をすする。
 熱い液体が食道を通り、胃に落ちていく。
 カッとか、カーッとか、そういう擬音が体の中を駆け巡る。
 内臓がアルコール消毒されていく快感。

 「ああ……生き返る……」
 二人同時に声が出た。
 高級フレンチのシャンパンじゃ、こうはいかない。私たちが必要としていたのは、アルコールというより「ガソリン」としての酒だったのだ。
 錆びついた歯車を無理やり回すための潤滑油。
 それが、ワンカップ大関だろうがなんだろうが構わない。

 「正直に言いますけど」
 大根を箸で割りながら、田所さんが言った。
 「今日、本当はちょっと下心ありました」
 ぶはっ、と吹き出しそうになった。
 熱燗が鼻に入って、強烈にツーンとした。痛い。
 
 「知ってますよ。ホテル取ってたんでしょう?」
 「……バレてました?」
 「四十五歳を舐めないでください。クリスマスにディナーだけで帰す男なんて、ある意味失礼ですから」
 
 失礼というか、こっちも覚悟決めて毛処理してきたんだから。
 その努力が無になる瞬間の虚無感たるや。
 カミソリ負けした肌が、空しくヒリヒリしている。

 彼は顔を赤くして頭をかいた。
 「でも、今は正直、ホッとしてます。あつこさんの生理のおかげで、僕の前立腺も守られた」
 「私の生理に感謝されたの、初めてです」
 
 前立腺を守るための生理。
 防衛省から表彰されてもいいかもしれない。
 私の体は、国家予算並みの価値があるのかもしれない。知らんけど。

 変な会話だ。
 でも、妙に居心地がいい。
 「私も……今日のために、すごい高い下着買ったんです。ボルドーのレースで、スケスケの」
 「えっ、マジですか」
 田所さんの目が少し泳いだ。男の本能が反応したらしい。
 黒目が一瞬大きくなるのがわかった。オスだ。
 前立腺が弱っていても、オスはオスだ。

 「でも今は、その上に毛糸のパンツです」
 「……落差がすごい」
 「見たいですか? 毛糸のパンツ」
 「いや、それはまたの機会に……いや、またの機会があるのかな」

 彼は急に弱気な顔になった。
 「あつこさん、僕たち、まだ付き合うとかちゃんと言ってませんよね」
 そういえばそうだ。
 告白も何もなく、いきなり生理と尿漏れのカミングアウト大会だ。
 順序もへったくれもない。
 いきなりエンディングロールを見せられた気分だろう。

 「そうですね」
 「こんな、おでん屋で、トイレの話ばっかりして……幻滅しませんか?」
 
 私は、お猪口に残った酒を飲み干した。
 安い酒特有の、喉に引っかかる感じが悪くない。
 
 幻滅?
 逆だ。
 綺麗なだけの恋愛なんて、もう疲れるだけだ。
 自分の体の衰えを隠して、若い頃のふりをして、無理して笑う。そんなのはもう懲り懲りだ。
 白馬の王子様なんていらない。
 一緒に整骨院に行ってくれる、猫背のおじさんがいい。

 「田所さん」
 「はい」
 「私、セックスは来年でいいです」
 
 店内に響くような声で言ってしまった。
 隣のサラリーマンが振り返ったが、気にしない。
 「セックス」という単語に反応するほど、彼らも若くないだろう。
 いや、反応してるな。耳がこっち向いてる。

 田所さんは目を白黒させている。
 「え、ええと、それはつまり……」
 「今日は痛いし、田所さんも近いですし。無理してしても、お互い辛いだけでしょ?」
 「……はい、おっしゃる通りです」
 「だから、来年。体調いい時に、また誘ってください。その時は、毛糸のパンツ脱いできますから」

 言ったそばから、自分が何を言ってるのか分からなくなる。
 性の予約か。
 歯医者の予約みたいに淡々としている。
 「次回は抜糸ですね」みたいなノリで「次回はセックスですね」って。

 田所さんは、しばらくぽかんとしていたが、やがてくしゃくしゃの笑顔になった。
 目尻の小ジワが深くなる。
 そのシワの一本一本に、ファンデーションを塗り込みたい衝動に駆られた。

 「……分かりました。来年、万全の前立腺で挑みます」
 「はい、私も子宮を整えておきます」

 なんて色気のない約束だろう。
 でも、これが私たちのリアリティだ。
 私たちは笑いながら、おでんの汁をすすった。
 塩分過多だ。
 明日の朝、顔がむくむのは確定だ。
 でも、今夜はむくんでもいい。誰も見ないから。

 下腹部の痛みはまだあるけれど、心の中のトゲトゲした痛みは、いつの間にか消えていた。
 ロキソニンより、このぬるい空気の方が効いている気がする。
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