3 / 10
第3話 放課後リハ、セリフより心臓がうるさい
しおりを挟む十七時。校舎はすっかり静まり返り、廊下に残るのは俺の足音だけだ。演劇部の教室に向かう道中、心臓の鼓動が歩くリズムを乱す。ドクン、ドクン。昨日より激しく、耳元で鳴り響く。
扉を開けると、こころが一人で台本に目を落としていた。窓から差し込む夕日が、彼女の横顔を柔らかな金色に染め上げる。ポニーテールの黒髪が、光の粒子を絡め取るように揺れる。
「お疲れさま、優也くん」
振り返った彼女の笑顔が、昨日より柔らかく、どこか甘い。部員の視線がない今、彼女の瞳にいつもの計算めいた輝きが薄れている。
(部員がいない時の彼女は……違う)
「今日は本格的な練習をしましょう」
こころが立ち上がる。制服のスカートが軽く揺れ、夕日の光を反射して淡い影を落とす。
「本格的……ですか?」
「ええ。恋人同士のシーンは、技術だけじゃダメ。心を込めないと」
心を込める。その言葉が、胸の奥でゆっくりと溶けていくように広がる。俺はただ、頷くしかなかった。
「まず、距離感から直しましょう」
こころが俺の前に立つ。距離は一メートル。昨日までの安全圏だ。
「恋人同士なら、もっと近くにいるはず」
彼女が一歩、また一歩と近づいてくる。空気が、彼女の香りで満たされ始める。かすかな花の匂い、シャンプーの甘さ。
五十センチ、三十センチ、二十センチ……。
「これくらいかしら」
こころの顔が、手を伸ばせば触れられる距離にある。彼女の息が、俺の頰に優しく触れる。温かく、湿った空気が、肌を撫でるように溶け込む。
心臓の音が、耳の中で暴れ出す。ドクン、ドクン。セリフなんか、頭から飛んでしまいそう。
「緊張してる?」
「少し……」
「演技よ。演技だから、大丈夫」
演技だから。その言葉が、俺の胸を少しだけ落ち着かせる。でも、彼女の瞳は演技のそれじゃない。深く、俺を引き込むような輝きを宿している。
「手を取って」
こころが右手を差し出す。細い指が、夕日に透けて見えるほど白い。
俺は恐る恐る、彼女の手を取る。昨日より長く、しっかりと。指先が絡み合い、掌の温もりが、ゆっくりと伝わってくる。柔らかく、しかし確かな熱が、俺の皮膚に染み込んでいく。
「そう。今度は台詞を言いながら」
「『君の手は、僕の心を静める』」
台詞を言いながら、こころの手を見つめる。彼女の指の感触が、指先に甘い痺れを残す。
「上手。でも、もっと感情を込めて」
こころが俺の手を、両手で包み込む。彼女の指が、俺の掌を優しく撫でるように動き、温もりが二重、三重に重なる。まるで、溶けた蜜のように、互いの熱が混じり合い、境界が曖昧になる。
(温かい……)
「『君がいると、世界が変わって見える』」
今度は、こころの目を見て言った。彼女の瞳が、わずかに揺れる。夕日の光が、そこに小さな炎を灯すように。
「いいわね……」
でも、こころの声が少し掠れている。息が、わずかに乱れ、彼女の胸の上下が、俺の視界に映る。制服の白いブラウスが、柔らかく波打つ。
その瞬間、俺たちの手はただ握っているだけじゃなかった。指が絡み、掌が密着し、熱が静脈を伝って心臓まで届く。空気が、重く甘く、溶け合うように濃密になる。彼女の香りが、俺の肺に満ち、息を吸うたび、胸が疼く。
(これは……演技の限界を超えてる)
こころの唇が、微かに開く。そこから漏れる息が、俺の首筋に触れ、肌を震わせる。二十センチの距離が、永遠のように感じる。いや、零のように。
「優也くん……もう少し、深く」
彼女の囁きが、耳に溶け込む。深く。言葉の意味が、身体に染み渡る。
俺は、無意識に指を動かす。彼女の掌を、優しく撫で返す。こころの目が、細く細くなり、瞳の奥で何かが揺らぐ。熱い、甘い、溶けるような視線。
心臓の音が、セリフを掻き消す。ドクン、ドクン。俺たちは、台本のページをめくることなく、ただ互いの熱に身を委ねていた。
「次は、抱擁のシーンよ」
こころが手を離す。でも、その感触が、掌に残り続ける。彼女の頰が、夕日に染まってほんのり赤い。
「抱擁……ですか?」
「ええ。ロミオがジュリエットを、優しく抱きしめる場面。感情を込めて、ね」
彼女の声は、いつもの部長らしい落ち着きを取り戻している。でも、瞳の奥に、微かな揺らぎが残る。
俺は頷き、台本を開く。ページに書かれた指示:ロミオ、ジュリエットをそっと抱き寄せ、囁く。
「じゃあ、始めましょう」
こころが俺の前に立つ。距離はまた、二十センチ。彼女の肩が、俺の胸の高さにぴったりと合う。
「『君の温もりが、僕のすべて』」
台詞を言いながら、俺は恐る恐る手を伸ばす。こころの肩に触れ、ゆっくりと引き寄せる。彼女の身体が、俺の胸に寄りかかる。柔らかな曲線が、制服越しに伝わる。温かく、軽く、しかし確かな重み。
こころの髪が、俺の頰をくすぐる。シャンプーの香りが、濃く立ち上る。彼女の息が、俺の首筋に当たり、肌を溶かすように熱い。
「もっと強く……抱きしめて」
彼女の声が、耳元で響く。俺は腕に力を込め、彼女を包み込む。背中の感触が、掌に染み込む。細い腰、柔らかな肩。すべてが、俺の熱と混じり合い、溶けていく。
(こんなに近くて……)
こころの心臓の鼓動が、俺の胸に伝わる。ドクン、ドクン。俺のそれと、重なり合うリズム。台詞なんか、必要ない。互いの息が、絡み合い、静かな部屋に甘い音を立てる。
「『永遠に、君を守る』」
囁くように言う。こころの身体が、わずかに震える。彼女の指が、俺の背中に回り、布地を掴む。爪の感触が、甘い痛みを残す。
「優也くん……」
彼女の声が、掠れ、溶けた蜜のように甘い。俺は、彼女の髪に顔を埋める。柔らかな感触が、頰を包む。香りが、頭の中を満たす。
この瞬間、演技の境界が、溶け失せた。俺たちは、ただ、互いの熱に溺れていた。
「今日は、ここまでにしましょう」
こころがゆっくりと身体を離す。頰は赤く、瞳は潤んでいる。夕日が沈みかけ、部屋に柔らかな橙色が広がる。
「どうだった?」
「……すごかったです」
本当だ。心臓が、まだ鳴り止まない。身体のあちこちに、彼女の感触が残っている。
「そう。あなた、どんどん上手になってるわ」
こころの言葉に、期待が込められている。でも、彼女の視線は、俺を避けるように台本に落ちる。
「明日も、この時間で。もっと、深くいきましょう」
深く。その言葉が、また胸を疼かせる。
「はい……」
俺は頷く。部室を出る頃、廊下はすっかり暗くなっていた。
帰り道、夕闇の校門をくぐる。頭の中は、こころの温もりでいっぱいだ。
(あの抱擁……演技だったのか?)
手を取った時の指の絡み、抱きしめた時の鼓動の重なり。あの溶けるような熱。
(彼女も、感じていた。絶対に)
でも、俺はただの新入り。彼女の計画の一部でしかないはずだ。
携帯が鳴る。メッセージ。
『お疲れさま。明日はもっと感情を。楽しみにしてるわ。—こころ』
楽しみ。その言葉に、心臓がまた跳ねる。
(俺は、何を期待してるんだ?)
演技の練習。それだけのはずなのに。
十七時の教室は、秘密の時間だった。
距離を詰め、手を重ね、抱擁を交わす。すべてが、計算通りのはず。
でも……優也くんの腕の中で、熱が溶け合う感覚。あの鼓動の響き合い。
計算が、狂う。胸の奥が、甘く疼く。
これは、指導者の責任感。理想のロミオを育てるため。
そうよ。それだけ。
でも、明日の「深く」が、こんなに待ち遠しいなんて。
唇を噛む。頰の熱が、引かない。
(私は、何を始めようとしているの?)
演技の台本に、ないページが、開き始めている。
0
あなたにおすすめの小説
迷子を助けたら生徒会長の婚約者兼女の子のパパになったけど別れたはずの彼女もなぜか近づいてくる
九戸政景
恋愛
新年に初詣に来た父川冬矢は、迷子になっていた頼母木茉莉を助け、従姉妹の田母神真夏と知り合う。その後、真夏と再会した冬矢は真夏の婚約者兼茉莉の父親になってほしいと頼まれる。
※こちらは、カクヨムやエブリスタでも公開している作品です。
手が届かないはずの高嶺の花が幼馴染の俺にだけベタベタしてきて、あと少しで我慢も限界かもしれない
みずがめ
恋愛
宮坂葵は可愛くて気立てが良くて社長令嬢で……あと俺の幼馴染だ。
葵は学内でも屈指の人気を誇る女子。けれど彼女に告白をする男子は数える程度しかいなかった。
なぜか? 彼女が高嶺の花すぎたからである。
その美貌と肩書に誰もが気後れしてしまう。葵に告白する数少ない勇者も、ことごとく散っていった。
そんな誰もが憧れる美少女は、今日も俺と二人きりで無防備な姿をさらしていた。
幼馴染だからって、とっくに体つきは大人へと成長しているのだ。彼女がいつまでも子供気分で困っているのは俺ばかりだった。いつかはわからせなければならないだろう。
……本当にわからせられるのは俺の方だということを、この時点ではまだわかっちゃいなかったのだ。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
まずはお嫁さんからお願いします。
桜庭かなめ
恋愛
高校3年生の長瀬和真のクラスには、有栖川優奈という女子生徒がいる。優奈は成績優秀で容姿端麗、温厚な性格と誰にでも敬語で話すことから、学年や性別を問わず人気を集めている。和真は優奈とはこの2年間で挨拶や、バイト先のドーナッツ屋で接客する程度の関わりだった。
4月の終わり頃。バイト中に店舗の入口前の掃除をしているとき、和真は老齢の男性のスマホを見つける。その男性は優奈の祖父であり、日本有数の企業グループである有栖川グループの会長・有栖川総一郎だった。
総一郎は自分のスマホを見つけてくれた和真をとても気に入り、孫娘の優奈とクラスメイトであること、優奈も和真も18歳であることから優奈との結婚を申し出る。
いきなりの結婚打診に和真は困惑する。ただ、有栖川家の説得や、優奈が和真の印象が良く「結婚していい」「いつかは両親や祖父母のような好き合える夫婦になりたい」と思っていることを知り、和真は結婚を受け入れる。
デート、学校生活、新居での2人での新婚生活などを経て、和真と優奈の距離が近づいていく。交際なしで結婚した高校生の男女が、好き合える夫婦になるまでの温かくて甘いラブコメディ!
※特別編7が完結しました!(2026.1.29)
※小説家になろうとカクヨムでも公開しています。
※お気に入り登録、感想をお待ちしております。
【完結】好きって言ってないのに、なぜか学園中にバレてる件。
東野あさひ
恋愛
「好きって言ってないのに、なんでバレてるんだよ!?」
──平凡な男子高校生・真嶋蒼汰の一言から、すべての誤解が始まった。
購買で「好きなパンは?」と聞かれ、「好きです!」と答えただけ。
それなのにStarChat(学園SNS)では“告白事件”として炎上、
いつの間にか“七瀬ひよりと両想い”扱いに!?
否定しても、弁解しても、誤解はどんどん拡散。
気づけば――“誤解”が、少しずつ“恋”に変わっていく。
ツンデレ男子×天然ヒロインが織りなす、SNS時代の爆笑すれ違いラブコメ!
最後は笑って、ちょっと泣ける。
#誤解が本当の恋になる瞬間、あなたもきっとトレンド入り。
クラスで3番目に可愛い無口なあの子が実は手話で話しているのを俺だけが知っている
夏見ナイ
恋愛
俺のクラスにいる月宮雫は、誰も寄せ付けないクールな美少女。そのミステリアスな雰囲気から『クラスで3番目に可愛い子』と呼ばれているが、いつも一人で、誰とも話さない。
ある放課後、俺は彼女が指先で言葉を紡ぐ――手話で話している姿を目撃してしまう。好奇心から手話を覚えた俺が、勇気を出して話しかけた瞬間、二人だけの秘密の世界が始まった。
無口でクール? とんでもない。本当の彼女は、よく笑い、よく拗ねる、最高に可愛いおしゃべりな女の子だったのだ。
クールな君の本当の姿と甘える仕草は、俺だけが知っている。これは、世界一甘くて尊い、静かな恋の物語。
小さい頃「お嫁さんになる!」と妹系の幼馴染みに言われて、彼女は今もその気でいる!
竜ヶ崎彰
恋愛
「いい加減大人の階段上ってくれ!!」
俺、天道涼太には1つ年下の可愛い幼馴染みがいる。
彼女の名前は下野ルカ。
幼少の頃から俺にベッタリでかつては将来"俺のお嫁さんになる!"なんて事も言っていた。
俺ももう高校生になったと同時にルカは中学3年生。
だけど、ルカはまだ俺のお嫁さんになる!と言っている!
堅物真面目少年と妹系ゆるふわ天然少女による拗らせ系ラブコメ開幕!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる