声(ボイス)で、君を溺れさせてもいいですか

月下花音

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第10話

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 律がいなくなってから、世界から「音」が消えた。

 いや、物理的な音はある。
 教授の声、友人の笑い声、電車の走行音。
 でも、私にとっての「意味のある音」は、律の声だけだった。
 それが失われた今、世界はただのノイズの塊でしかない。

 不眠症が悪化した。
 Nocturne様の過去アーカイブを聴いても、眠れない。
 だって、これは「過去」の声だから。
 「今」の律の声じゃないから。

 律は、大学には来ていた。
 でも、完全に「壁」になっていた。
 誰とも話さず、講義が終わればすぐに帰る。
 私とすれ違っても、目も合わせない。
 まるで、最初から他人だったみたいに。

 でも、私は見ていた。
 彼の横顔が、日に日にやつれていくのを。
 目の下のクマが濃くなっていくのを。
 そして、時々、喉元を押さえて、苦しそうに顔を歪めるのを。

 彼は、叫びたがっている。
 声を、出したがっている。
 配信という「居場所」を奪われて、彼の声は行き場を失って、彼自身を内側から蝕んでいる。

 私が、助けなきゃ。
 私が壊したんだから、私が直さなきゃ。

        ✎ܚ

 ある日の放課後。
 私は、帰ろうとする律の後をつけた。
 彼は、人気の少ない旧校舎の方へ歩いていく。
 そこには、今は使われていない放送室がある。

 律は、放送室の前で立ち止まり、ドアノブに手をかけた。
 鍵はかかっていないらしい。
 彼は中に入り、ドアを閉めた。

 私は、少し時間を置いてから、ドアを開けた。

 プツン。
 防音室特有の、空気が遮断された静寂。
 その中で、律はマイクのない机に向かって、突っ伏していた。

「……律」

 私が呼ぶと、律は弾かれたように顔を上げた。
 驚愕の表情。

「……なんで、ここに」

「つけてきたから」

 私は、ドアを閉めて鍵をかけた。
 密室。
 もう、逃げられない。

「……開けろ。帰る」

 律が立ち上がる。
 私はドアの前に立ちはだかった。

「帰さない。……声、聞かせてよ」

「……っ」

「苦しいんでしょ? 喋りたくて、囁きたくて、たまらないんでしょ?」

 律の顔が歪む。
 図星だ。

「……俺の声なんて、もう誰も求めてない。迷惑なだけだ」

「私が求めてる!」

 私は叫んだ。

「世界中の人が敵になっても、私だけは律の声が必要なの! 律の声がないと、眠れないの! 生きていけないの!」

 律が、息を飲む。

「……お前、馬鹿か。俺と一緒にいたら……」

「特定される? 炎上する? どうでもいいよそんなの!」

 私は律に歩み寄る。
 彼の胸ぐらを掴む。

「マイクがないなら、私に直接言ってよ! 配信できないなら、私だけに配信してよ! 私が、律のリスナーになるから! たった一人の、最古参で、最期のリスナーになるから!」

 律の瞳から、涙が溢れた。
 彼は、震える手で私の手を握り返した。

「……リナ」

 その声は、掠れていたけれど。
 今までで一番、熱かった。

「……助けてくれ。……声が、溢れそうだ」

 私は、彼を抱きしめた。
 防音室の静寂の中で、私たちの心臓の音だけが、うるさいくらいに響いていた。
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