【短編】訂正しないグラス

月下花音

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第1話:イブの一人バー

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 重厚な木の扉を開けると、そこは外界から切り離された静寂の底だった。
 カラン、とドアベルが控えめに鳴る。
 店内に流れているのは、かすかなジャズと、誰かがグラスを置く音だけ。
 クリスマスイブの喧騒は、この分厚い扉の外に置いてきた。

「いらっしゃいませ」

 バーテンダーが低い声で迎えてくれる。
 私はいつものカウンターの端の席を目で探す。
 ……空いている。
 ほっとしたような、少し拍子抜けしたような感覚。

 コートを預け、スツールに腰を下ろす。
 ヒールの高い靴を脱いで、足首を少し回す。
 一日中歩き回った脚が、むくんで悲鳴を上げているのが分かる。
 37歳。
 肉体は正直だ。どんなに高い化粧品で塗り固めても、重力と疲労には勝てない。

「いつもので?」
「ええ。ジントニック、ライム強めで」

 注文を済ませ、手持ち無沙汰にスマホを見る。
 SNSには、幸せそうな家族の写真、煌びやかなディナーの写真、指輪の報告。
 スクロールする指が止まらない。
 見なきゃいいのに、自ら傷をえぐりにいく。これが私の悪い癖だ。

「……ここ、いいですか」

 不意に、隣の席に気配が落ちてきた。
 顔を上げる。
 薄暗い照明の中で、見知った顔がこちらを見ていた。
 この店の常連の男だ。名前は知らない。
 ただ、よく同じ時間にここにいる。それだけの関係。

「……どうぞ」

 私はスマホを伏せて、短く答えた。
 彼は軽く会釈をして、私の隣に座った。
 
 近い。
 この店はカウンター席の間隔が少し狭い。
 彼が座ると、彼のジャケットの袖が、私のブラウスの袖に触れるか触れないかの距離になる。
 漂ってくるのは、かすかなアルコールの匂いと、整髪料、それから……雨の匂い?
 外、降ってきたのかしら。

「ホワイトクリスマスには、なりそうもないですね」

 彼が独り言のように言った。
 私に向けられた言葉なのか、バーテンダーに向けたものなのか判別がつかない。
 私は無視することにした。
 イブに一人でバーに来る女なんて、話しかけられたくないに決まっている。
 そう思われるのが罸が悪いから、私はカバンから文庫本を取り出した。
 読むふりをするためだけに。

 彼もそれ以上話しかけてこなかった。
 ただ、ウイスキーのロックを注文し、黙って飲み始めた。

 カラン。
 彼がグラスを傾けるたび、氷がぶつかる音がする。
 カラン。
 その音が、妙に耳につく。
 静かな店内で、その音だけがやけに鋭く、私の鼓膜をノックする。

 ……帰ればよかった。
 家に帰って、高いワインを開けて、ネットフリックスでも見ていればよかった。
 なんで私は、わざわざこんな場所に来て、知らない男と肩を並べて飲んでいるんだろう。

 孤独を確認しに来ただけだ。
 「私は一人でも平気で、大人の時間を楽しんでいる」というポーズを取るためだけに。

「……お仕事、大変そうですね」

 また、彼が言った。
 今度は明らかに私を見ていた。
 本を持つ手が止まる。

「……ええ、まあ。年末ですから」
「ですよね。僕もさっきまで会社でした。イブなのに」
「奇遇ですね。私もです」

 嘘をついた。
 本当は定時で上がれたのに、帰る家が寒すぎて、デパートを3時間も彷徨っていたなんて言えない。

「乾杯します? 残業組同士で」

 彼は悪戯っぽく笑って、グラスを少し持ち上げた。
 その顔を見て、私はふと気づいた。
 目尻の小じわ。少し疲れた肌の色。
 彼もまた、私と同じ「側」の人間だ。
 若さという武器を失い、かといって悟りきれるほどの強さもなく、ただこうして夜の底に沈殿している。

 それが、ひどく惨めで、どうしようもなく安っぽくて。
 でも、一人で飲むよりはずっとマシに思えた。

「……乾杯」

 私はジントニックのグラスを持ち上げた。
 カチン。
 重いクリスタルグラスが触れ合う音。
 さっきの氷の音よりも、低く、鈍く響いた。

 一口飲む。
 ライムの酸味が、乾いた喉を刺す。
 隣の彼の気配を感じる。
 彼が息をするたび、わずかに空気が動く。
 生身の人間の質量。

 もし今夜、彼がいなかったら。
 私はこの冷たい液体を、もっと無機質なものとして飲み込んでいただろう。
 でも今は、隣に体温がある。
 それが心地よいのか、不快なのか、自分でも分からない。

 ただ、彼がグラスを置く「コトッ」という音が、私の心臓の音と重なって聞こえた。
 氷が溶けていく。
 時間は溶けていく。
 私たちの30代も、こうやって水になって薄まっていく。

「……次、何飲みます?」

 彼がメニューを私の方に寄せてくれた。
 その指先は綺麗だったけれど、薬指には何もなかった。
 指輪の跡があるかどうか、薄暗くて見えない。
 
 確認するのが怖くて、私はメニューの文字を目で追うふりをした。
 カラン、とまた氷が鳴った。
 その音は、まるで骨がきしむ音のように、私の背筋を寒くさせた。

(第1話 終わり)
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