【短編】訂正しないグラス

月下花音

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第2話:バー習慣化

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 年末の忙しさは狂気だ。
 部下のミス、クライアントの無茶振り、忘年会の店選び。
 全てが私に降ってくる。
 37歳、中間管理職。
 責任だけがあって、権限と癒やしがない。

 だから、また来てしまった。
 あのバーに。

 時刻は23時。
 重い扉を開けると、いつもの香りがした。
 シダーウッドのアロマと、微かなタバコの匂い。
 それが混ざり合って、私の戦闘服であるコートから、戦場の臭いを消してくれる気がする。

 カウンターの端。
 当然のように、彼がいた。

「……こんばんは」
「ああ、こんばんは」

 彼は少し驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。
 その顔を見て、私は安堵のため息が出そうになるのを必死で飲み込んだ。

 よかった。いた。
 もし彼がいなかったら、私はこの店に入らずに帰っていただろうか。
 いや、入っただろう。
 でも、酒の味はもっと苦かったはずだ。

 私は彼の隣に座る。
 もう、許可なんて求めない。
 ここは私の席で、隣は彼の席。
 いつの間にか、そんな暗黙の了解ができている。

「……仕事、納まりました?」
「まさか。あと2日は地獄ですよ」
「ですね。僕もです」

 彼はウイスキーのロックグラスを揺らす。
 カラン。
 氷がぶつかる音。
 その音が、私の脳内で暴れている神経を一つずつ鎮めていく。

 私は今日は、マティーニを頼んだ。
 強い酒でないと、今日のストレスは流せない。

「……ここ、よく来るんですか」

 私が聞くと、彼は少し考え込んでから言った。

「家には帰りたくないし、かといって騒がしい店に行く元気もない。そういう時、ここに来ると、ちょうどいい温度の孤独がある」

 ちょうどいい温度の孤独。
 その言葉が、すとんと胸に落ちた。

「……分かります」
「でしょ? あなたも、その温度を求めてる顔をしてる」

 見透かされている。
 悔しいけれど、悪い気はしない。
 社内では「鉄の女」なんて呼ばれている私の、この剥がれかけた塗装の下を、彼は静かに見てくれている。

 マティーニが来た。
 オリーブが沈んでいる。
 一口飲む。
 鋭いアルコールが食道を焼き、胃に落ちる。
 熱い。
 その熱さが、心地いい。

 私たちはそれから、ポツリポツリと言葉を交わした。
 名前も、会社名も、家族構成も聞かない。
 ただ、今の気分と、酒の味と、外の寒さについて話すだけ。

 でも、それが妙に心地よかった。
 利害関係のない会話。
 マウントの取り合いもない、評価もされない、ただの音の交換。

 カラン。
 また、彼のグラスが鳴った。

 その音を聞くたびに、私は思う。
 これは恋じゃない。
 ただの依存だ。
 アルコールへの依存と、この「都合のいい距離感」への依存。

 彼がいない日は、バーの前まで来て、ドアノブに手をかけられずに引き返したことがあった。
 彼がいないカウンター席なんて、ただの木の板だ。
 私は、彼の体温ごと、この空間を消費しているのだ。

「……飲みすぎですよ」

 彼が静かに言った。
 私は3杯目のグラスに手を伸ばしていた。
 視界が少し揺れている。

「……ほっといて」
「明日も早いんでしょ?」
「だからこそ、飲むの。麻痺させないと、やってられないから」

 可愛くない言い方。
 でも、彼は怒らなかった。
 ただ、チェイサーの水を私の方に少し押しやった。

「水、飲んだほうがいい。翌日に響きますよ」
「……」

 私は無言で水を飲んだ。
 冷たい水が、燃えている胃を冷ます。
 
 優しい人だ。
 でも、その優しさは、責任を伴わない優しさだ。
 彼は私を介抱なんてしない。タクシーに乗せて終わりだろう。
 家までは来ない。
 その線引が、残酷なほどはっきりとしている。

 でも、その冷たさが逆に私を安心させる。
 深入りされない安堵。
 傷つかない保証。

 私はグラスの水滴を指で拭った。
 冷たい。
 この冷たさが、今の私の適温だ。
 
 カラン。
 氷の音が、私の理性を少しずつ削り取っていく。
 いつか、この音が聞こえなくなる日が来るのが怖い。
 アルコール中毒になる前に、この関係中毒になりそうだ。
 30代の恋なんて、そんなもんでしょ?

(第2話 終わり)
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