【短編】訂正しないグラス

月下花音

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第3話:クリスマス後愚痴爆発

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 年が明けたばかりだというのに、もう限界だった。
 実家からの電話。
 「今年も一人なの?」「お見合いの話があるんだけど」
 母親の声が、呪いのように耳に残っている。
 会社に行けば、年下の女子社員の結婚報告。
 「先輩、余興お願いしますね」
 ふざけんな。

 私は今夜、完全に酔っていた。
 いつものバー。
 いつもの席。
 いつもの彼。

「……でね、何が『余興お願いします』よ。私がピエロに見えんの?」

 私はカウンターを叩きそうになって、寸前で止めた。
 グラスの中のワインが波打つ。
 
 彼は黙って聞いている。
 面倒くさそうな顔もせず、かといって同情するわけでもなく。
 ただの壁として。

「親も親よ。介護の話する時だけ連絡してきて、最後は結婚しろって、どっちなのよ。介護要員が欲しいのか孫が欲しいのか、はっきりさせろっての」

 口から出るのは、汚い言葉ばかり。
 普段、職場では決して見せない「メッキが剥がれた私」。
 それを、こんな他人に見せている。

 最低だ。
 愚痴を言う女なんて、一番モテない。
 知ってる。
 でも、止まらない。
 この溜まりに溜まった膿を、誰かにぶちまけたくて仕方がない。

「……大変ですね」

 彼がポツリと言った。
 心が籠もっていない、定型文のような相槌。
 でも、それが今の私には救いだった。
 下手に「頑張れ」とか「分かるよ」とか言われるより、ずっと楽だ。

「大変じゃないわよ。惨めなだけ」

 私は笑った。
 引きつった、可愛くない笑顔。
 化粧も崩れているだろう。
 涙目でマスカラが滲んでいるかもしれない。
 パンダ目のおばさんが、若い男に管を巻いている。地獄絵図だ。

 彼はグラスの氷を指で回した。
 カラン、コロン。
 その音が、私の喋り声を遮る。

「僕もね、家では透明人間なんですよ」

 彼が急に自分の話を始めた。

「妻と娘がいるんですけどね。僕の話なんて誰も聞いてない。ATMか、粗大ごみ扱い」

 ……既婚者だったのか。
 薄々感づいてはいたけれど、言葉にされると妙に生々しい。
 左手の薬指に指輪がないのは、外しているからか、それとも最初からしていないのか。

「だから、ここで君の愚痴を聞いてると、安心するんです。ああ、不幸なのは僕だけじゃないんだって」

 彼は悪びれもせずに言った。
 最低な男だ。
 私の不幸を、自分の安定剤にしているなんて。

 でも。
 私も同じだ。
 彼の「家庭での居場所のなさ」を聞いて、どこかホッとしている自分がいる。
 ああ、結婚しても地獄なんだ。
 勝ち組に見える彼も、私と同じ泥沼にいるんだ。

 共犯意識。
 私たちは、互いの傷を舐め合っているだけだ。
 建設的な関係なんて一つもない。
 ただ、マイナスとマイナスを掛け合わせて、プラスになったような錯覚を楽しんでいるだけ。

「……最悪な性格ですね」
「お互い様でしょう」

 彼はニヤリと笑った。
 目尻のシワが深くなる。
 その疲れた笑顔に、胸がドキンと跳ねた。
 
 愚痴でしか繋がれない。
 不幸話でしか盛り上がれない。
 そんな歪んだコミュニケーションに、安らぎを感じ始めている。

 私はワインを一気に飲み干した。
 胃が熱い。
 胸が痛い。
 
「……もう一杯」
「ほどほどに」
「うるさい。付き合いなさいよ、共犯者さん」

 私はバーテンダーに合図を送る。
 愚痴を吐き出すたびに、私の体は軽くなり、同時に魂が汚れていく気がする。
 でも、その汚れを共有してくれる人が隣にいるなら。
 それも悪くないかもしれない。

 30代のストレスは、綺麗事じゃ洗い流せない。
 アルコールと、他人の不幸でしか中和できない毒なのだ。

(第3話 終わり)
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