【短編】訂正しないグラス

月下花音

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第4話:年明けバー依存

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 一月も半ば。
 街は正月気分が抜け、通常のグレー色の日常に戻っていた。

 私は今日もバーの扉を開けた。
 時刻は23時15分。
 いつもより少し遅れてしまった。

 カウンターを見る。
 ……いない。
 私の定位置の隣は、空席だった。

 心臓が嫌な音を立てる。
 来るのが遅かったから、もう帰ってしまったのか。
 それとも、今日は来ていないのか。

「……いらっしゃいませ」
 
 バーテンダーが静かに迎えてくれる。
 私は努めて冷静を装って、いつもの席に座った。

「彼、今日は?」
 
 聞いちゃいけないと思いながら、聞いてしまった。
 バーテンダーはグラスを拭きながら、小さく首を横に振った。

「いらしてませんね」

 そう。
 来てないんだ。
 風邪でも引いた?
 それとも、家庭サービス?
 奥さんと仲良くディナーでも食べてるの?

 余計な想像が頭を駆け巡る。
 連絡先なんて知らない。
 確かめる術は何もない。
 彼が店に来るのだけが、私たちの接点の全てだ。

 私はジントニックを頼んだ。
 一口飲む。
 味がしない。
 ただの冷たい炭酸水だ。

 隣の空席を見る。
 誰も座っていないスツール。
 そこに彼の残像を探してしまう。
 ウイスキーの香り。タバコの匂い。氷の音。
 それがないだけで、この店はただの薄暗い空間に戻ってしまう。

「……私、何待ってるんだろ」

 呟いた言葉が、グラスの中に落ちる。
 何者でもない男。
 名前も知らない既婚者。
 そんな男を待って、寒い中わざわざ高い酒を飲みに来ている。
 滑稽すぎる。

 ドアベルが鳴った。
 カラン。
 私は弾かれたように振り返った。

 入ってきたのは、知らない若いカップルだった。
 
 失望。
 そして自己嫌悪。
 期待した自分が恥ずかしい。
 まるで忠犬ハチ公だ。飼い主でもないのに。

 結局、その日彼は来なかった。
 私は一杯だけで店を出た。

 帰り道。
 タクシーを拾う。
 車内は独特の匂いがした。
 芳香剤とおじさんの整髪料と、誰かの吐瀉物を消臭したような混ざり合った匂い。
 孤独の匂いだ。

 窓の外を流れる街灯を見ながら、私は携帯を握りしめた。
 連絡先を知っていれば、「今日来ないの?」と聞けたのに。
 いや、知らなくてよかった。
 知っていたら、奥さんと一緒にいる彼にメッセージを送って、惨めな思いをするだけだ。

 この「緩い繋がり」が心地いいなんて、嘘だ。
 本当は繋ぎ止めたい。
 私のものにしたい。
 でも、それができないから、平気なふりをしているだけ。

「……お客さん、どちらまで?」
「……まっすぐ行ってください」

 行き先なんてどこでもいい。
 彼がいないなら、世界中どこに行っても私は一人だ。

 バーでしか癒やされない。
 彼というアルコールがないと、震えが止まらない。
 私はもう、立派な中毒患者(ジャンキー)だ。
 中年アル中予備軍。
 その言葉が、タクシーのタイヤ音に合わせてリフレインした。

(第4話 終わり)
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