【短編】訂正しないグラス

月下花音

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第5話:永遠のバークリスマス

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 また、クリスマスが巡ってきた。
 街は浮かれているけれど、私には関係ない。
 今年も一人。
 仕事は少し落ち着いたけれど、心は相変わらず凪いだままだ。

 23時。
 私はバーの扉を開ける。
 一年間、飽きもせずに通い続けた場所。

 店内は少し混んでいた。
 カップルが多い。
 でも、あのカウンターの端の席だけは、奇跡的に空いていた。
 2席分。

 私は奥の席に座る。
 コートを脱ぎ、ため息を一つ吐く。
 バーテンダーが近づいてくる。

「いつもの?」
「ええ。今日はマティーニで」
「かしこまりました」

 バーテンダーは手際よく準備を始める。
 そして、私の前にコースターを置いた。
 
 そのあと。
 彼は何も言わずに、私の隣の席――誰もいない席の前にも、コースターを置いた。
 そして、チェイサーの水を2つ、それぞれのコースターの上に置いた。

 私は何も言わなかった。
 「一人です」なんて訂正しない。
 「彼が来るかもしれません」とも言わない。
 
 ただ、その2つのグラスがある光景が、今の私にとっての「完成形」なのだ。
 
 彼が来るかどうかは分からない。
 最近は、来ない日も増えた。
 家庭の事情なのか、仕事なのか、それとも体を壊したのか。
 理由は聞かない。

 でも、ここに来れば、彼の席がある。
 私の隣には、常に「彼のための空白」が用意されている。
 それで十分だった。

 マティーニが来る。
 私はグラスを持ち上げる。
 隣の席を見る。
 水が入ったグラスが、照明を浴びてキラキラと光っている。
 そこに彼の幻影を見る。
 疲れた顔で笑い、氷を鳴らす男。

「……乾杯」

 私は誰にともなく呟いて、グラスを傾けた。
 唇に触れる冷たい液体。
 孤独の味がする。
 でも、一年前に感じたような鋭い痛みはない。
 もっと静かで、深く、馴染んだ味だ。

 カラン。
 ドアベルが鳴った。

 私は振り返らない。
 足音が近づいてくる。
 重い、革靴の音。

「……遅れてすみません」

 聞き慣れた声がした。
 背後から、冷たい外気の匂いと、タバコの匂いがふわりと漂ってきた。
 
 彼は私の隣に座る。
 置かれていたチェイサーを一口飲み、ふう、と息を吐く。

「混んでますね、今日は」
「クリスマスですから」
「そうでしたね」

 彼はバーテンダーにウイスキーを頼む。
 そして私を見た。

「今年も、ここですか」
「あなたこそ」
「僕にはここしかありませんから」

 彼は自嘲気味に笑った。
 私も笑った。

 私たちは言葉を交わすよりも先に、グラスを軽く掲げ合った。
 カチン。
 澄んだ音が響く。

 これからも、私はここで彼を待ち続けるだろう。
 彼が来ない日は、水の入ったグラスと乾杯する。
 彼が来た日は、毒のような時間を共有する。

 バー一人飲みでしかクリスマスを過ごせない。
 誰の特別にもなれず、誰の責任も負わず。
 ただ、この薄暗い場所で、氷が溶ける音を聞き続ける。

 それが私の選んだ30代だ。
 一生、この味で恋を続けるんだろうな。

 私はマティーニのオリーブを噛み砕いた。
 苦くて、しょっぱい。
 
「乾杯。孤独に」

 私の呟きに、彼は無言でグラスを上げた。
 その横顔は、やっぱり少し寂しそうで、どうしようもなく愛おしかった。

(おわり)
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