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Ep.05
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自宅のアパートに帰り着いたのは、二十三時過ぎだった。
部屋の明かりをつける気力もなく、私は真っ暗な玄関で靴を脱いだ。
ヒールで酷使された足が、ジンジンと痺れている。
リビングのソファーに倒れ込む。
静かだ。
冷蔵庫のモーター音だけが響いている。
私はバッグの中から、Aくんから貰ったお返しのクッキー(彼は用意周到だった)と、渡せなかったBさん用の派手なチョコの箱を取り出した。
そして、テーブルの上に並べた。
二つの箱。
片や「堅実な愛」の象徴。
片や「刺激的な恋」の象徴。
数時間前まで、私はこの二つを両手でジャグリングして、見事に操っているつもりだった。
「どっちも選べる私」
「どっちにも愛される私」
そんな全能感に酔っていた。
スマホが鳴った。
Aくんからだ。
『今日はありがとう。久しぶりに会えて嬉しかったよ。仕事、無理しないでね』
優しいメッセージ。
「疑ってごめん」とは書かれていないが、文面からは「信じよう」という健気な努力が滲み出ている。
続けて、BさんからのDM通知。
『マナちゃん大丈夫? 今日なんか様子変だったけど。また元気になったら飲みいこーぜ』
軽いメッセージ。
「帰ったこと」を責めるわけでもなく、ただ「調子が悪かっただけ」として処理してくれている。
彼は深いことなんて考えていない。
ただ、楽しく遊べる相手なら誰でもいいのだ。
どちらも、まだ繋がっている。
どちらも、まだ「私のもの」だ。
Aくんに「やっぱり結婚前提で」と言えば、彼は喜んで受け入れるだろう。
Bさんに「ごめん、元気になった」と言えば、彼はすぐにホテルに誘ってくるだろう。
選択肢は、まだある。
失ってはいない。
それなのに、どうしてこんなに、手が動かないのだろう。
私はAくんのメッセージを見直した。
『仕事、無理しないでね』
この言葉を見るたびに、胸が痛む。
彼は私の嘘を信じている。あるいは、信じようとしている。
私は一生、彼に対してこの嘘をつき続けるのだろうか。
「仕事が大事な私」という虚像を演じ続け、彼が期待する「いい奥さん」を演じ続けるのだろうか。
それは、幸せな生活かもしれない。
でも、その生活の中に「本当の私」はいるのだろうか。
次に、Bさんのメッセージを見る。
『元気になったら飲みいこーぜ』
この言葉を見るたびに、寒気がする。
あのバーでの息苦しさ。
「センスのいい女」でいなければならないプレッシャー。
私は一生、彼に対して見栄を張り続けるのだろうか。
「自由な私」という虚像を演じ続け、彼が期待する「イケてる女」を演じ続けるのだろうか。
それは、刺激的な日々かもしれない。
でも、その日々の中に「本当の私」はいるのだろうか。
どちらの未来も、恐ろしく空虚に見えた。
なぜなら、どちらの未来にも、中心にいるはずの「私」がいないからだ。
いるのは、相手に合わせて形を変える、スライムのような「何か」だけだ。
「……はは」
乾いた笑いが出た。
私は気づいてしまった。
私が「選ぶ側」だと思っていたのは、大きな間違いだった。
私は、誰からも選ばれないのが怖くて、必死で相手の好む形に擬態していただけだ。
Aくん用のアバター。
Bさん用のアバター。
それを着せ替え人形みたいに使い分けて、「私にはいろんな顔がある」と勘違いしていた。
でも、アバターを全部脱いだら、そこには何ものっぺらぼうの、空っぽな肉体が残っているだけだった。
「選択肢が多かったんじゃない……」
私は暗闇の中で呟いた。
自分の声が、他人の声みたいに響く。
「私が、空っぽだっただけだ」
テーブルの上の二つの箱が、私を嘲笑っているように見えた。
私はこの二つを、どうすることもできない。
食べる気にもなれないし、捨てることもできない。
ただ、私という「空虚な容れ物」を装飾するための、意味のない小道具として、そこに在り続けるだけだ。
私はスマホを裏返して、テーブルに置いた。
通知ランプが点滅している。
Aくんか、Bさんか。
あるいは、別の誰かか。
誰からの連絡であっても、今の私には答える言葉がない。
私には、誰かに届けるべき「私自身の言葉」なんて、最初から一文字も持っていなかったのだから。
部屋の明かりをつける気力もなく、私は真っ暗な玄関で靴を脱いだ。
ヒールで酷使された足が、ジンジンと痺れている。
リビングのソファーに倒れ込む。
静かだ。
冷蔵庫のモーター音だけが響いている。
私はバッグの中から、Aくんから貰ったお返しのクッキー(彼は用意周到だった)と、渡せなかったBさん用の派手なチョコの箱を取り出した。
そして、テーブルの上に並べた。
二つの箱。
片や「堅実な愛」の象徴。
片や「刺激的な恋」の象徴。
数時間前まで、私はこの二つを両手でジャグリングして、見事に操っているつもりだった。
「どっちも選べる私」
「どっちにも愛される私」
そんな全能感に酔っていた。
スマホが鳴った。
Aくんからだ。
『今日はありがとう。久しぶりに会えて嬉しかったよ。仕事、無理しないでね』
優しいメッセージ。
「疑ってごめん」とは書かれていないが、文面からは「信じよう」という健気な努力が滲み出ている。
続けて、BさんからのDM通知。
『マナちゃん大丈夫? 今日なんか様子変だったけど。また元気になったら飲みいこーぜ』
軽いメッセージ。
「帰ったこと」を責めるわけでもなく、ただ「調子が悪かっただけ」として処理してくれている。
彼は深いことなんて考えていない。
ただ、楽しく遊べる相手なら誰でもいいのだ。
どちらも、まだ繋がっている。
どちらも、まだ「私のもの」だ。
Aくんに「やっぱり結婚前提で」と言えば、彼は喜んで受け入れるだろう。
Bさんに「ごめん、元気になった」と言えば、彼はすぐにホテルに誘ってくるだろう。
選択肢は、まだある。
失ってはいない。
それなのに、どうしてこんなに、手が動かないのだろう。
私はAくんのメッセージを見直した。
『仕事、無理しないでね』
この言葉を見るたびに、胸が痛む。
彼は私の嘘を信じている。あるいは、信じようとしている。
私は一生、彼に対してこの嘘をつき続けるのだろうか。
「仕事が大事な私」という虚像を演じ続け、彼が期待する「いい奥さん」を演じ続けるのだろうか。
それは、幸せな生活かもしれない。
でも、その生活の中に「本当の私」はいるのだろうか。
次に、Bさんのメッセージを見る。
『元気になったら飲みいこーぜ』
この言葉を見るたびに、寒気がする。
あのバーでの息苦しさ。
「センスのいい女」でいなければならないプレッシャー。
私は一生、彼に対して見栄を張り続けるのだろうか。
「自由な私」という虚像を演じ続け、彼が期待する「イケてる女」を演じ続けるのだろうか。
それは、刺激的な日々かもしれない。
でも、その日々の中に「本当の私」はいるのだろうか。
どちらの未来も、恐ろしく空虚に見えた。
なぜなら、どちらの未来にも、中心にいるはずの「私」がいないからだ。
いるのは、相手に合わせて形を変える、スライムのような「何か」だけだ。
「……はは」
乾いた笑いが出た。
私は気づいてしまった。
私が「選ぶ側」だと思っていたのは、大きな間違いだった。
私は、誰からも選ばれないのが怖くて、必死で相手の好む形に擬態していただけだ。
Aくん用のアバター。
Bさん用のアバター。
それを着せ替え人形みたいに使い分けて、「私にはいろんな顔がある」と勘違いしていた。
でも、アバターを全部脱いだら、そこには何ものっぺらぼうの、空っぽな肉体が残っているだけだった。
「選択肢が多かったんじゃない……」
私は暗闇の中で呟いた。
自分の声が、他人の声みたいに響く。
「私が、空っぽだっただけだ」
テーブルの上の二つの箱が、私を嘲笑っているように見えた。
私はこの二つを、どうすることもできない。
食べる気にもなれないし、捨てることもできない。
ただ、私という「空虚な容れ物」を装飾するための、意味のない小道具として、そこに在り続けるだけだ。
私はスマホを裏返して、テーブルに置いた。
通知ランプが点滅している。
Aくんか、Bさんか。
あるいは、別の誰かか。
誰からの連絡であっても、今の私には答える言葉がない。
私には、誰かに届けるべき「私自身の言葉」なんて、最初から一文字も持っていなかったのだから。
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