【短編】27歳OLの義理チョコ配布業務。3000円の投資で職場の平和を買い、能面のような笑顔で「感情の死」を遂行する一日

月下花音

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Ep.04

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 Aくんと別れて、私はタクシーに飛び乗った。
 行き先は、Bさんの待つバーだ。
 車窓を流れる街の灯りが、滲んで見える。
 Aくんの最後の目が、脳裏から離れない。
『信じてるよ』
 その言葉が、ボディブローのように効いている。

 スマホを取り出し、Bさんとのトーク画面を開く。
『今向かってる』
『了解。待ってる』
 短いやり取り。
 この軽さが、今の私には救いだ。
 Aくんとの重苦しい空気とは違う。
 Bさんとなら、もっと自由に、もっと軽やかに振る舞えるはずだ。

 バーに着いた。
 重厚な木の扉を開ける。
 ジャズが流れる暗い店内の奥に、Bさんがいた。
 カウンター席で、グラスを傾けている。
 その横顔は、やっぱり絵になる。
 Aくんにはない、洗練された大人の色気。
 これだ。私が求めていたのはこれだ。

「お待たせ」
 私は努めて明るい声を出して、彼の隣に座った。
「お、来たね。何飲む?」
「ジントニックで」

 マスターに注文を済ませ、私はBさん用の派手な紙袋を膝の上に置いた。
 これを渡せば、今日のミッションは完了だ。
 彼は喜んでくれる。
 インスタに載せてくれる。
 私も「センスのいい女」として承認される。
 すべては予定通りに進むはずだ。

「はい、これ」
 私は紙袋を彼に渡した。
「お、サンキュー。開けていい?」
「うん」

 Bさんは躊躇なくリボンを解く。
 Aくんの丁寧さとは違う、慣れた手つき。
 箱が現れる。
「うお、すげー。これ並ばないと買えないやつじゃん」
 Bさんが目を輝かせる。
「さすがマナちゃん、わかってるねー」

 来た。
「わかってるね」。
 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の中で、カチリとスイッチが入るはずだった。
「自由でセンスのいい私」が起動するはずだった。

 でも。
 スイッチが入らない。
 むしろ、Aくんの言葉が、私の頭の中で警報のように鳴り響く。
『前の彼女も、同じこと言ってたな』

「ねえ、マナちゃん」
 Bさんがチョコを一口食べながら、私を見た。
「最近どう? 仕事忙しい?」

 その質問は、トスだった。
 私が用意していた決め台詞、「今は仕事が一番楽しいから、縛られたくない」を言うための、絶好のアシストだった。
 今までなら、反射的に言えていたはずだ。
「うん、めっちゃ忙しい。でも今が一番面白い時期だからさ、恋愛とかで縛られたくないんだよねー」
 そう言って、余裕の笑みを浮かべる。
 それが私の「正解」だった。

 口を開く。
「うん……仕事ね……」

 声が詰まる。
 言葉が出てこない。
 喉の奥に、得体の知れない塊がつかえている。

(言えよ、私)
(いつものテンプレじゃないか)
(これを言えば、彼は満足するんだよ)

 頭ではわかっている。
 でも、口が動かない。
 Aくんの悲しそうな顔が、フラッシュバックする。
 私がAくんに言った「仕事が大事」。
 これからBさんに言おうとしている「仕事が楽しい」。
 どちらも嘘だ。
 いや、嘘じゃないけど、本音でもない。
 ただ、相手に合わせて自分を加工して、出荷しているだけだ。

 私は、Aくんの前でもBさんの前でも、同じ「加工食品」だった。
 パッケージを変えているだけで、中身は同じ、添加物だらけの「都合のいい女」。
 それに気づいてしまった瞬間、全ての演技が馬鹿らしくなった。

「……どうした?」
 Bさんが不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「具合悪い?」

「……ううん」
 私は首を振った。
 グラスの水滴が、カウンターに落ちる。
「ただ、ちょっと……疲れたかも」

「そっか。まあ年度末だしなー」
 Bさんは気楽に笑って、またチョコに手を伸ばした。
「無理すんなよ。癒やしてあげるからさ」

 その手。
 私の肩に回された手。
 以前なら「嬉しい」と感じたはずのその温もりが、今はひどく不快だった。
「癒やしてあげる」。
 それは、「俺にとって都合のいい範囲で」という注釈付きの優しさだ。
 彼は私を見ていない。
「センスのいいチョコをくれて、面倒なことも言わず、適度に遊べる女」を見ているだけだ。
 そして、そう見せているのは、他ならぬ私自身だ。

 私は、彼の前で「自由」を演じていたつもりだった。
 でも本当は、嫌われるのが怖くて、重い女だと思われるのが怖くて、「物分かりのいい女」という檻の中に自分で自分を閉じ込めていただけだった。

「……ごめん」
 私は彼のな手を振り払うようにして、立ち上がった。
「え?」
「今日、帰るわ」

「は? 何言ってんの? これからでしょ」
 Bさんが驚いて引き止める。
 でも、今の私には、あと一秒でもここにいることが耐えられなかった。
「ごめん」
 もう一度言って、私は店を飛び出した。
 背後でBさんが呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返らなかった。

 外に出ると、冷たい風が汗ばんだ肌を刺した。
 私の手元には何も残っていない。
 チョコは渡してしまった。
 Aくんの信頼も、Bさんとの関係も、全部中途半端に手放してしまった。
 私はハイヒールで石畳を蹴りながら、泣き出しそうになるのを必死で堪えた。
 仮面が剥がれ落ちた素顔は、寒さに晒されて、どうしようもなく痛かった。
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