【短編】27歳OLの義理チョコ配布業務。3000円の投資で職場の平和を買い、能面のような笑顔で「感情の死」を遂行する一日

月下花音

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Ep.03

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 レストランでの食事は順調だった。
 Aくんは私の話を楽しそうに聞き、適度な相槌を打ち、完璧な聞き役に徹してくれた。
 料理も美味しい。
 会話も弾む。
 これ以上ないくらい、理想的な「大人のデート」だ。

 食後のデザートが運ばれてきたタイミングで、私はAくん用のチョコを取り出した。
 紺色の紙袋。
「はい、これ。ハッピーバレンタイン」
「え、いいの? ありがとう!」
 Aくんは嬉しそうに受け取った。
「開けていい?」
「うん、どうぞ」

 彼は丁寧にリボンを解き、箱を開けた。
 トリュフが上品に並んでいる。
「うわ、美味しそう。これ高いやつじゃん」
「いつもお世話になってるからね。感謝の気持ち」

 ここだ。
 ここで、あの魔法の言葉を投下する。
 私は少しだけ声を落とし、真剣な表情を作った。

「あのね、Aくん。
 最近、週末も会えなかったりして、ごめんね。
 私、今は仕事が一番大事な時期だから、なかなか時間が取れなくて」

 完璧な間。
 完璧な表情。
 これで彼は、「仕事を頑張るマナちゃん」を応援しつつ、寂しさを我慢して待っていてくれるはずだ。

 Aくんはチョコを見つめたまま、動きを止めた。
 そして、ふっと小さく息を吐いた。
「……そっか」

「うん。だから、少し寂しい思いさせちゃうかもしれないけど」
 私は畳み掛ける。
「待っててくれる?」という言葉を飲み込み、相手に言わせる誘導尋問だ。

 しかし、Aくんの反応は予想外だった。
 彼は顔を上げて、私を真っ直ぐに見た。
 いつも優等生的な笑顔を浮かべている彼が、今は無表情だった。
 いや、無表情というより、どこか遠い目をして、諦めのような色を浮かべていた。

「わかった。応援するよ」
 彼は言った。声は穏やかだ。
 でも、その後に続いた独り言のような一言が、私の心臓を凍らせた。

「……前の彼女も、同じこと言ってたな」

 え?
 私はスプーンを取り落としそうになった。
「あ、ごめん。変なこと言って」
 Aくんは慌てて笑顔を取り繕った。
「いや、前の彼女もさ、すごい仕事熱心で。『今は仕事が大事だから』って、ずっと言ってたんだよね。俺もそれを信じて、ずっと応援してたんだけど」

 彼は苦笑いしながら、水のグラスを回した。
「結局、向こうで付き合ってる先輩がいてさ。二股だったんだよね。あはは、笑い話だけど」

 笑い話?
 笑えない。
 全く笑えない。

「仕事が大事」
 その言葉が、彼の中では「誠実さの証明」ではなく、「浮気のフラグ」として刻まれていたなんて。
 私は顔が引きつるのを止められなかった。
「そ、そうなんだ……大変だったね」

「うん。だからさ、マナちゃんがそう言うなら、本当に頑張ってるんだなって思うよ。俺、疑ったりしないから」
 彼は真っ直ぐな目で私を見た。
「疑わない」
 その言葉が、逆に私を追い詰める。
 彼が見ているのは「私」じゃない。
「私の言葉」を通して、過去のトラウマを見ている。
 そして、そのトラウマは図星だった。
 私は浮気こそ(まだ)していないが、Bさんという別の男のところへ行くために、この言葉を使っているのだから。

「あ、ありがとう……」
 声が掠れた。
 完璧だったはずのテンプレートが、音を立てて崩れ落ちていく。
 私が「器用に使い分けている」と思っていた言葉は、実は手垢のついた、ありふれた言い訳に過ぎなかったのだ。
 しかも、よりにもよってAくんの最も痛い古傷を、正確に抉ってしまった。

「でも、マナちゃんは違うしな」
 Aくんは自分に言い聞かせるように言った。
「信じてるよ」

 やめて。
 その「信じてる」という言葉が、呪いのように重い。
 彼は私を「信じている」んじゃない。
「信じようと必死になっている」だけだ。
 私の言葉が、彼の不安スイッチを押してしまったのだ。

「う、うん。もちろんだよ」
 私は必死で笑顔を作った。
 でも、その笑顔はきっと、引きつっていただろう。
 私の「賢い女」の仮面が、剥がれかけていた。
 Aくんの目の奥にある、静かな、しかし確かな「疑念」の光。
 それを見て、私は悟った。
 私は彼をコントロールできていなかった。
 むしろ、私の浅はかな演技が、彼に私の本質を見抜かせるヒントを与えてしまっていたのだ。

「じゃあ、そろそろ行こっか」
 Aくんが伝票を取った。
 私は逃げるように席を立った。
 早くここを出たい。
 そして、この重苦しい空気から解放されたい。
 Bさんに会えば、きっと忘れられる。
 Bさんなら、私の言葉を額面通りに受け取って、「いいね」って言ってくれるはずだ。
 そう自分に言い聞かせながら、私はAくんの背中を見つめた。
 その背中が、以前よりもずっと遠く、冷たく見えた。
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