心と口と行いのなかで

南河 紅狼

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三章 寒空のした

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 埃が溜まってたてつけが悪くなっている窓を開けると、冷たい風がするっと入り込んできた。
 久しぶりに帰ってきた自宅は、相変わらず古くて辛気くさい。
 悪いところを言えばきりのない部屋ではあるが、だからといって、嫌いというわけでもない。
 住みにくい部屋ではあったが、ここが無ければビーシュは今、生きてはいなかっただろう。
 父と過ごし、祖父と暮らしたころに世話になった大家が変わったくらいで何一つ変わっていない内装は、家具もカーテンも食器類も昔のままだ。変わらないものを見ると、少しだけほっとする。
 ろくな記憶もないはずなのに、どうしてだろう。いなくなってしまった、家族の代わりなのかもしれない。
 ビーシュはキッチンに立ち、蛇口をひねる。
 赤茶けた水をあらかた流し出し、棚から取り出した耐熱硝子のカップに水を入れ、お湯を沸かすためにランプを用意する。
 マッチをこすると、焦げた匂いがして灯がともる。薄暗い部屋が、少しだけ暖かくなったような気がした。
 父が死んでから購入した珈琲ミルに、エフレムからもらった豆を入れる。
 取っ手をゆっくりと回しながら豆を牽くと、埃っぽい匂いが消えて、人の住む部屋に近づいていった。
「さすが、エフレム君のおすすめだ。とても良い香りがする」
 いつも買う安めの棚にも、おすすめがあるかどうか、今度、鉢合わせたときにでも聞いてみよう。
 ほんの小さな予定でも、先の楽しみを作ると、胸中もなんとなく明るくなるような気がした。
 変な顔をされるかもしれないが、今度会ったときは、エフレムにお礼を言わなければなるまい。
 自宅で珈琲を入れるのは、何ヶ月ぶりだろう。ゆらゆら揺れる小さな火をじいっと見つめ、ビーシュはため息を零した。
「決まった人がいるのに、どうして僕なんかをかまうんだろうね。面倒くさいのが、好きなのかな?」
 性的な刺激が欲しいなら、もっと見目の良い相手を選べば良い。いっそ買ったほうが後腐れもないだろうに。
 食事に誘ったり、美術館にいったり、話をしたり。
 そんな、面倒な手間を惜しまなくても気持ちよくなれるはずだ。お金に困っているようにも思えない。
「でも、レオくんは意地の悪い子には見えないんだ。何を考えているのか、さっぱりわからないけど」
 ただの遊びなのか気まぐれなのか、どちらにしろ、相手がいるのだから会うわけにもゆかない。
 友人として和やかに話せる関係なら問題ないが、会えば、体に触れたくなる。
 体の奥に熱を感じて、ビーシュはぶんぶんと首を振る。
「あぁ、ぼくって本当にあさましい。姐さんにあきれられるのも無理ないよ」
 ランプの火を消して、沸いたお湯を珈琲の粉を入れたドリップ・ポッドに注ぐ。
「また、怒られるんだろうか」
 娼館の立ち並ぶ区画には近づかなくとも、男を買いあさっていれば知らず噂に上る。
 今は現役を引退して、平民街にある花屋でひっそりと暮らしている元娼婦の〝姐さん〟には、顔を合わせるたびに叱られている。いいかげんに、落ち着きなさいと、それこそ母親のように。
「独り身の姐さんには、言われたくないや」
 珈琲を飲めば、この胸のざわつきも少しは収まってくれるだろうか。
 ひとりひっそりと生きてゆけるほど強くはなく、臆病で、無償の愛を信じきれない。中途半端なまま、大人になってしまった。
「これを飲んだら、出るかな」
 明かりのない薄暗い部屋は、抱えきれない過去のすべてが残されている。
 良かっただろうことも悪かったことも、捨てようにも捨てられないせいで、いつまで経っても自宅を引き払えないでいた。
 ビーシュが持ち合わせている、唯一の未練なのかもしれない。
 誰もいなくなってしまったが、帰る場所があるからこそ、かろうじて人のようなものでいられているのだろう。
 ほう、っと白く煙る吐息をくゆらせ、ビーシュはポケットからサファイアを取り出した。
 小さく、等級も中の上といったところだが、色味はとても気に入っていた。
 手の中に収まる、サファイアの青。
 ビーシュはカップを置いて、珈琲に濡れた唇でサファイアにそっと触れた。
 人肌に温まったサファイアは、ビーシュを拒絶することなく、そっと、優しく受け入れてくれた。
 持ち主の心が曇れば色も曇ると言われている石は、乏しい明かりのなかでも変わらずに美しくビーシュを見つめてくる。
「さよならって、ぼくはちゃんと言えるかな」
 手のひらの上でサファイアを転がして、ビーシュはポケットに戻す。
 飲みかけの珈琲を零し、カップを水で軽くすすいでビーシュは自宅を出た。しっかりと鍵をかけて、しばらくご無沙汰していた夜の街を目指し歩いて行く。

◇◆◇◆

 ビーシュが初めて夜の街を歩いたのは、五歳の頃だった。
 もちろん、今のように快楽を求めてではなく、雪が降り始めても戻ってこない父を探すためだった。
 母に逃げられてから、ろくに働かずにその日暮らしの生活を送っていた父は、まとまった金ができれば夜遊びにつぎ込んでいた。
 幼いビーシュが両親の支援を望めない状況でもなんとか生きてこれたのは、大家の好意と、見よう見まねでしていた靴磨きの仕事で小銭を稼いでいたからだ。
(同情してもらえてなかったら、今頃は死んでいたんだろうな)
 かつて、生きるために木箱に座って一日を過ごしていた場所には、みすぼらしい格好をした少年が座っている。
 靴磨きこそしてはいなかったが、腹を空かせた目をぎらぎらとさせて、足下に置いた空き缶と行き交う大人たちとを見ていた。
 ビーシュはそっと、缶の中に小銭をいれて足早に通りを行き去る。同じような子供はそこかしこにいて、一人一人に小銭を恵んでやれるほどの財力は残念ながらない。
 あの子供はたまたま、ビーシュと目が合っただけ。
 運、不運によって、その日、腹が満たせるか満たせないかが決まる。小さな頃は、そんな生活を送っていた。
 過酷で悲しい生活が、華やかな帝都のすぐ側にある。どこの、都市でもあるのだろう。
 わかっているが、ビーシュでは何もできないし、偉い貴族でも、たとえ政治を担う皇族でも無理だろう。
 どうしようもない。
 ビーシュは走るように人混みの間を抜け、ルイとレイ親子が営む『クレセント』がある路地を通り過ぎ、もっと奥へと進む。
 光に誘われる蛾のように、軒先でぶらぶらと揺れるオレンジ色明かりを目指した。
 闇が深くなるにつれ、周囲のひといきれは濃くなってゆく。行き交う視線がねっとりと蜘蛛の糸のように絡みつく独特の雰囲気があちこちにあった。
 よくもまあ、子供一人でこんな場所にはいったものだ。幼かった頃は、それなりに勇気があったのかもしれない。
 父は、高級娼館の前で倒れていた。
 稼ぎからしても、賭博で儲けたとしても、貧乏人が遊べるような店ではなかった。おそらくは、行き倒れたのだろう。
 母は夜逃げをしており、頼れる親戚を知らず、父の亡骸の側で途方に暮れていたビーシュを助けてくれたのが、娼館の姐さんたちだった。
 ビーシュは幼年期の殆どを娼婦たちに囲まれ、娼館と自宅を行き来する生活をしていた。
 覚えろと言われなかったが、姐さんたちの世話をしていれば、いつの間にか男を相手にする仕方も覚える。
 実際に男と寝るようになったのはずっと後になるが、いまなら、快楽におぼれた父の寂しさも、少しは理解できるかもしれない。
(許せるかどうかは、また別だけれど)
 久しぶりに訪れた区画は、相変わらずの乱れようだった。
 貧乏人も高給取りも、一般人も軍人も。入り乱れて、享楽に浸っている。
 身分を問うのはタブーとなっていて、すべては金で決まる場所。笑い声と怒声がひっきりなしに、耳に飛び込んでくる。
 ビーシュがいつも利用しているバーは、通りより少し奥まった路地にある。
 珈琲を買うため、ペリドットを換金して得た金は殆ど手をつけていない。遠慮することなく、交渉できるだろう。なんなら、サファイアもポケットに入っている。
 歩調を緩め、ビーシュはポケットに手を突っ込んだまま、バーへと向かった。
 馬鹿なことをしているのは、嫌になるほど知っている。快楽に溺れるのは、麻薬に溺れているようなものだ。
 今はなんともなくとも、いつかきっと自滅する日がくるだろう。
 娼婦業から足を洗った大姐さんは、さんざんビーシュのだらしなさを叱った後に「幸せになるんだよ」と、きまって呪いをかける。
「幸せって、なんだろう?」
 レクト夫妻の姿が脳裏に浮かんでくるが、幸せと思うよりも先に、得体の知れない恐れが、ビーシュをたじろがせる。
 呪いをかける大姐さんも、きっと、幸せというものがどんな形をしているのか知らないのだろう。
 だから、願いではなく呪いになるのだ。
 いつの間にか足は重く、行き交う人々から舌打ちが投げかけられていた。
 ポケットの中で、サファイアをぎゅっと握りしめる。
 粉々に砕くよう力を込めてみても、痛いだけでびくともしない。
「ぼくだって、幸せに、なりたくないわけじゃないんだよ」
 色あせた世界の中でもでも、じゅうぶんに生きてゆける。
 ビーシュは立ち止まり、来た道を振り返った。
 星々が散る夜空から飛び出すよう、光にあふれた欲の塊が、手ぐすね引くように揺れている。
 幸せの形なんてさっぱりわからなくとも、なんとなく望んでしまうのだ。
 自分を殺す毒になるかもしれないのに、追い求めてやまないのは、まだ、人であるからだろう。
「おい、おっさん! ぼうっとつったってんじゃあない、邪魔だ!」
 強いアルコールの匂いと、怒声。ビーシュは声に振り向こうとして、体当たりをされふらついた。
「ぼんやりしていると、悪い男に食べられてしまうよ」
「……エヴァン様、どうして?」
「どうして、とはつれないね。ビーシュをさがしていたのだよ」
 しっかりと肩をつかんでくる手。振り返れば、エヴァン・ロナードが立っていた。
 エヴァンは因縁をつけようとしていた通行人を一瞥するだけで払いのけ、ビーシュの肩を支えたまま、道の端へと誘導した。
 上客と見て、すかさず近づいてくる客引きに、エヴァンは手を上げてこなくて良いと制し、ビーシュを後ろから抱きしめた。
「意中の相手に放置される経験は、さすがの俺も初めてだ。どうしたんだね、ビーシュ。ほかに、いい男を見つけたのかい?」
 抱きしめるだけでなく、まさぐるようなエヴァンの性急な手つきに、ビーシュはもがいた。集まってくる好奇の視線に耐えきれず、唇を噛んでうつむいた。
「ああ、すまない。久しぶりだったんで、興奮してしまったよ。見世物にするつもりはなかったんだ。許しておくれ」
 首筋にキスを落とし、離れてゆくエヴァンに周囲から残念がる声があがる。
「場所を変えようか。『クレセント』にゆくかい? それとも、俺の宿にくるかい?」
 ゆっくりと話すか、たっぷりと体をむさぼるか。
 暗に問われているような言葉に、ビーシュは少し間を置いて「宿に」と返した。
 思い出が残る場所は、蓋をしていた傷がえぐられるだけだった。 今はとにかく、知らない場所に行きたかった。
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