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【平穏】プロローグ
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本気で愛していた人が自らの元を去っていった時、『追うかそのまま行かせるか』『留まるか振り向かずに行くか』を選ぶのはその人の選択次第であり、法に触れない限りは必ずしもそれに対する正解といえるものはない。
縁を繋ぎ止めようとするのも、さらなる幸せを願って送り出すのも。
2人が決めた道ならばそれがその2人にとっての最善の選択であり、たとえ縁が切れたとしてもそれは『運命だった』と受け入れる他ない。
どれだけ当人達が強く運命的な繋がりを感じていたとしても、人にはどうすることもできないことだってあるのだ。
しかしそうして切れてしまうこともあれば、不思議なことに自然と再び結ばれることもあるのが『縁』というものである。
関係を絶ったとしても《結ばれるべき縁》ならば必ずいつかまた巡り巡って元通りに、いや、それ以上に強く結ばれるのだ。
きっとそれは一般的に言うところの『運命の赤い糸』というものなのだろう。
ーーーーーー
「…ってことで、またここで食事会がしたくてさ。日付がきちんと決まり次第 予約したいんだ」
白木造りの美しいカウンター。
その中央の席に通された代表は店主の男といくつか世間話をしたところで玖一と律悠のための食事会について話していた。
今日は定休日のため店内に他の客の姿はない。
しかし代表はこの店の店主の男に『料理を試作するから店に来てほしい』と呼ばれていたため、1人そこを訪れていたのだ。
「えっ!もちろんもちろん!こっちはいつでもいいからさ、好きな日を言ってよ!」
店主は予約したいという代表の申し入れを快諾する。
この店の店主『佐々田 紹人』という男はまだ年若いながら一流店でも一目置かれていたような腕利きの料理人で、代表とは知り合ってから随分と長くなる間柄だ。
店主の佐々田に『律悠が特にここを気に入っていて「ぜひまた来たい」と言っていた』ということを伝えると、彼は「えーっ!それはすごく嬉しいな」と照れたように笑う。
「加賀谷さん…ってもしかして忘年会のときにも僕にそう言ってくれた人かな?お世辞でも嬉しいなと思ってたのに、そんな大切なお祝いの場にここを選んでもらえるなんてすごく光栄だよ」
「加賀谷君だけじゃないよ。相手の月ヶ瀬君も気に入ってるって言ってたし、もちろん俺もそうだし。っていうか忘年会に来たやつらは皆ここのことをいい店だって言ってた」
「そっかそっか!僕はまさにそんな場所が作りたくてこのお店を始めたからさ、本当に嬉しいし…感激だよ。あくせく板前やってた頃よりもずっとやりがいがあるなぁ」
佐々田は代表よりも5歳ほど若く、この店も開店してからついこの間やっと2年が経ったくらいだ。
いい雰囲気でありながらも基本的に店主の知り合いしか予約を取ることができず、さらにひっそりとした場所にあるということも相まってここに店があること自体あまり知られていないようなこの店。
商売として言うと、あまり分はよくない。
しかし佐々田は『そういう隠れ家的なのがいいんじゃん。僕は有名になりたいわけじゃないし』とこのスタンスを貫いていて…つまりここは彼が自身と知り合いのためだけに開いているという、利益や採算は度外視の店なのだった。
「本当にこの店を開いてよかったなあ…割烹とか料亭みたいに色んなお客様が来てくれるところで働くのも悪くなかったけど、でも僕はそういうところにずっといるよりもこうして身内で集まれるような場所が昔から作りたかったんだよね。予約がない日とか休みの日は友達の店を手伝いに行ったりしてさ、それも自由ですごく楽しいし。店を持つことに不安がなかったわけじゃないけど、でもそれも《《真祐兄ちゃん》》が色々と相談に乗ってくれたから…」
しみじみと言う佐々田。
だが代表は《真祐兄ちゃん》という呼び名を聞いた瞬間、すぐに遮りって「おい、もう俺のことをそんな風に呼ぶなって言っただろ」と訂正させる。
「まったく…今でもそうやって呼ぶんだな、俺はもうお前の義兄ちゃんじゃないんだぞ。本物の兄ちゃんがそれを聞いたらものすごく怒るはずだ」
「…でも、僕にとっては今も兄ちゃん同様なんだよ、真祐兄ちゃん。『代表』よりもこうやって呼ぶほうがしっくり来るんだ」
「あのなぁ…そもそもこうやって俺達が連絡を取り合ってるっていうのも微妙なんだぞ。考えてもみろよ、とっくの昔に愛想を尽かした相手がいまだに自分の弟と連絡を取ってるだなんて、なんか嫌だろ」
「そんなの僕には関係ないもん」
「いや、関係あるだろ」
代表が困ったように眉をひそめると、佐々田はしばらく沈黙してから「真祐兄ちゃんが《穏兄》と連絡を取らなくなってから、どれくらい経ったの?」と訊ねた。
「あんなに仲が良かったのに。どうして別れちゃったの」
「あんなに…あんなに兄ちゃん達2人、仲良かったのに」
佐々田の寂しそうな視線から逃れるようにして茶を一口飲んだ代表は「さぁね、どれくらいになるかな」と小さくため息をつく。
「俺が今の仕事をする前だから…もう6年半にはなるかな。うん、それくらいだと思う」
「どうして連絡を取らなくなったの?どうして急にそんな…」
「連絡を取らなくなったっていうか、まぁ、つまり俺はお前の兄ちゃんに愛想をつかされたんだよ。『考えが合わないから連絡を取り続ける必要も 一緒にいる必要もない』って思われたんだろうな。相手がそう思ってるのにこっちから連絡を取ろうとしたところで結局不快な思いをさせるだけだし…それっきり。これで良かったんだよ」
「でも…そんなの寂しいよ。昔、2人一緒に僕が働いてたお店までご飯食べに来てくれたことが今も忘れられない。僕も姉ちゃんも、真祐兄ちゃん達2人のことが今も大好きなんだよ。いつも思ってるんだ、また2人が一緒になってくれたらって…」
「はははっ、俺はモテるねぇ」
「茶化さないでよ。本心なんだから」
「はははっ」
代表は綺麗過ぎる笑みを浮かべながら何度も飲み頃になってきた湯呑を傾ける。
憂いを帯びたようなその表情。
その様子をじっと見つめた佐々田は意を決して「…この店の内装、良いでしょ」と静かに話し出した。
「カウンターも個室も。入り口も通路も、壁紙も床も照明も…僕が『ああしたい』『こうしたい』って言ったのを、全部取り入れてデザインしてもらったの。デザイナーさんに」
「うん?あぁ、たしかに良いよな。この店が気に入ったって言ってるやつらもさ、料理はもちろんだけど内装とかの雰囲気がすごく良いって…」
「これ全部、穏兄がデザインしたんだよ」
「穏兄に仕事としてお願いして、それでやってもらったの」
佐々田の言葉を聞いて思わず湯呑を持つ手を下ろした代表。
彼は改めてその呼び名を聞いたことで、まるで胸に小さな破片が刺さりでもしたかのような感覚を覚えていた。
目を伏せながら《その名前》が自らの中に染み込んでいくのを感じつつ、代表は「…そうか。そうだよな」と微笑みながら軽く頷く。
「うん、お前の兄ちゃんはとても優れたインテリアデザイナーだから」
「真祐兄ちゃん…」
「だから、俺をそういう風に呼ぶなってば。もし不意にお前が本当の兄ちゃんの前でそう口走ったとしたら誤魔化しが効かないだろ?きっとすごく怒られるぞ。癖になるからその呼び方はいい加減やめないとだめだ」
「でも……」
悲しげに眉をひそめた佐々田に《誰か》の面影を見た代表は、席から腰を上げてその頬を優しくつまむと「すっかり立派になったと思ってたけど、まだまだお前も子供だな」と目を細めた。
「そんなに慕ってもらえるなんてさ、俺は本当に恵まれてるよ」
「…お前の兄ちゃんとのつながりは切れてるけど、でも俺はお前のことを昔からの馴染みとして可愛いと思ってるよ。じゃなきゃ《《穏兄》》との関係が終わったときにお前とも連絡を絶ってただろうし、こうやって会うこともなかったはず。だからそんなに寂しがるなよ、な?今も昔も、お前の兄ちゃんどうこうは関係なく俺達は俺達なんだから。ほら、『親しい友人』ってやつだ」
頬をつままれた佐々田には、不思議なことに成人済みである腕の良い料理人には見えないような幼さ、若さがある。
元々童顔なのが今の状況によってより一層幼く見えるのだろう。
そんな彼がしばらく何かを目で訴えた後、半ば納得行かない様子とはいえ こくん と頷いて応えたため、代表はようやく彼の頬をつまんでいた手を離した。
「…分かってる。2人のことに僕は口は挟まない」
「ん、物分りよし」
「でも今自分で言ったんだからそれはちゃんと約束として守ってね?『俺達は俺達だ』って、ずっと友達だって真祐兄ちゃんが今…」
「はぁ~、今日はここの店主は料理をする気がないみたいだな?よし、そろそろ帰る」
「えっ!?ま、待ってよ!今ちゃんと料理出すし、甘鯛も焼くから…!」
「本当か?いつまでもしょげた顔して料理なんかするつもりなかったくせに~」
「ち、違うよ!そんなこと…ちゃんとやるってば!」
途端にそれまでのどこかしんみりとしていたような空気は一変し、「そういえば甘鯛って食べたことないかもしれないな」「本当?それなら今度汁物とか王道の松かさ揚げで用意しておくよ、すっごく美味しいんだ。とりあえず今日は一夜干しを焼こうと思って…」という和やかな友人同士の気の置けないやり取りに代わる。
そしてその後、試作した料理の他にも絶妙な焼き加減の甘鯛などが次々と代表の口に運ばれていったのだった。
「あっ、そうだ、加賀谷さんと月ヶ瀬さんの好みのもの、あとアレルギーとかそういうのもきちんと聞いといてよ?」
「分かった、分かったよ」
「お願いね。あと他に用意するものっていったら…やっぱりケーキだよね!ケーキは僕の友達のパティシエに相談しとくよ、皆クリームとか甘いものって大丈夫かな?そういうのもちゃんと聞いといてよ」
「分かったってば。ははっ、はりきってるなぁ」
「だってせっかくのお祝いなんだもん、ワクワクするじゃん!一応僕もケーキは一通り作れるんだけど、でも製菓のプロの方が良いよね。僕のその友達のパティシエは有名なところでずっと修行してたんだよ、それでちょっと前に独立して自分のお店を開いててさ…」
そうして食事を終えてからしばらくの間、代表と佐々田はカウンターで横並びに座りながら仲の良い兄弟かのように話して時間を過ごしたのだった。
ーーーーーーー
代表が帰った後の店内。
佐々田が今日試作した料理の感想を踏まえたさらなる試作のための構想を頭の中で練りながら後片付けの済んだカウンターを丁寧に拭き上げていると、施錠した入口の引き戸が外からガタガタと音を立てて来客を知らせる。
彼は代表が忘れ物でもして戻ってきたのかと顔を上げたが、外から聞こえてきたのは代表とは違う男の声だった。
「紹人~、いる?」
「えっ、穏兄!?」
外からの遠慮がちな声に驚きつつすぐさま佐々田が鍵を開けると、そこには彼の実兄である『穏矢』が立っていた。
細身な体のシルエットを包み込むすっきりとしたコートが良く似合っている男だ。
「どうしたの急に来るなんて…最近仕事が忙しいんだって言ってたのに、大丈夫なの?」
店の中へ通しながら心配そうに言うと、兄の穏矢は「うん、本当に珍しいことだけど仕事が一件早めに片付いたんだ」と晴れやかな笑顔で答える。
「仕事が上手くいったささやかなお祝いにさ、ほら、前に教えてくれたお前の友達のパティシエのお店に行ってみたんだ。それでお前の兄弟だって話したら『あぁ!よく話には聞いていたんですよ!』ってすごく歓迎されちゃってね。…紹人、僕のことを友達になんて言ってたんだ?」
兄が自分をからかうためにわざと怪訝そうに言っているのだと分かっていながらも「え?いや、ただ『店の近くに僕の兄さんと姉さんの事務所がある』って言っただけだよ!」と慌てる佐々田。
「あとインテリアデザイナーやってるってこととか、優しくていい兄ちゃんだとか…そういうの」
「ふぅん?…ま、とにかくそれで意気投合していくつかお菓子を見繕ってもらったんだけど『ぜひお前にも食べてもらいたいから』って試作のケーキも一緒に包んでくれたんだよ。紹人も今新しい料理を試作してるって言ってたし、進捗はどうかなって気になってたから様子を見がてら来てみた。スマホに連絡しても反応がないところを見るとまだ店で色々やってるんじゃないかって思ったら…やっぱりそうだったな」
穏矢の手には愛らしい小動物達がデザインされた、白い上品な雰囲気の漂う箱が提げられている。
佐々田はタイミングがタイミングなだけに「あの…もしかしてこの店に入る前、誰かに…会ったりした?」と訊いてみたが「いや?誰にも会ってないけど。知り合いでも来てたの?」と本当に誰にも会っていないような反応が返ってきたため、それ以上そのことについて話すのは止めて兄のコートを預かった。
カウンター席に案内して箱を開けてみると、中にはキラキラと輝くようなケーキがいくつか並んでいて、それを見た2人は思わず感嘆のため息を漏らす。
シンプルなチーズケーキやツヤツヤとした半円球のムースケーキ、そしてクリーム製の小さな花の細工が飾られた可愛らしいものも…どれも美味しそうだ。
「さすがだなぁ、こういう細工とかも昔っから上手だったんだよ、この友達」
「そうだったんだね、これもすごく繊細に出来てる。…なんかさ、こういうのは食べるのがもったいなく思えて困るんだけど」
「分かる…やっぱりそうだよね?せっかくの飾りを崩しちゃうのはどうしても躊躇しちゃうよ」
試作品だというケーキは2人で分けることにして、兄弟はそれぞれ好みのものを選び取る。
穏矢はすでに夕食を終えているというので、少々甘いものを食べるには罪悪感のある夜だが、たまにはそれもいいだろうということでそのまま試食会が始まった。
「…あっ、そうそう、ちょうど この友達に今度ケーキをお願いすることになったんだった。この試作のやつの感想を伝えがてらその連絡もしとこう」
「ケーキを?珍しいね」
「うん。お客様の特別なお祝いでここを使ってもらえることになってね…」
「そうだ、今簡単におかず料理を用意して持ち帰れるようにするからさ、明日の朝にでも食べてよ」
「いいよそんな…もうそろそろ帰るし、またここへは客として来るから」
「もう!穏兄は放っておくといっつも仕事に没頭してご飯をおろそかにするんだから!ちゃんと持って帰って食べてよ、いい?」
「別に、言うほどおろそかにはしてないよ」
「嘘だね。ゼリー飲料はご飯じゃないって何度言ったら分かるの!いくらお手軽でもゼリー飲料ばっかりじゃだめだよ、まったくもう…」
兄弟による和気藹々とした和やかな雰囲気でいっぱいになる定休日の店内。
それは穏やかさ そのものの風景だ。
しかし、佐々田はつい先ほどまでカウンター中央の一席にいた男の姿を思いながら1人寂しくもなっていたのだった。
(真祐兄ちゃん…あと少しだけでも長くここにいたらよかったのに。別々じゃなく、2人一緒にここにいてくれたら…たとえ気まずくなったって、話しさえすればきっと…)
そんなことをつらつらと考えていた佐々田だったが、穏矢に「どうかしたの?」と訊ねられて「うん?…ううん、なんでもない」と首を振る。
もう1人の兄も一緒にいた『3人で過ごしていた頃の記憶』は彼にとってあまりにも懐かしく恋しく、いつまでも胸の中に残っていたのだった。
ーーーーー
『代表』こと古平 真祐と、店主佐々田の実兄である佐々田 穏矢。
彼らはかつて、知る人なら誰もが羨むほど仲のいいパートナー同士だった。
どちらも勤勉で人当たりがよく、一度話しただけで もれなく虜になってしまうほど2人の話術からなる掛け合いがとても心地よいと有名だったのだ。
ずっとこの先も一緒にいると思われていたお似合いの2人。
しかし今や連絡を一切取り合わなくなってから6年以上もの月日が経過している。
…2人の出逢いはその昔、まだどちらも大学生だった頃のことだった。
縁を繋ぎ止めようとするのも、さらなる幸せを願って送り出すのも。
2人が決めた道ならばそれがその2人にとっての最善の選択であり、たとえ縁が切れたとしてもそれは『運命だった』と受け入れる他ない。
どれだけ当人達が強く運命的な繋がりを感じていたとしても、人にはどうすることもできないことだってあるのだ。
しかしそうして切れてしまうこともあれば、不思議なことに自然と再び結ばれることもあるのが『縁』というものである。
関係を絶ったとしても《結ばれるべき縁》ならば必ずいつかまた巡り巡って元通りに、いや、それ以上に強く結ばれるのだ。
きっとそれは一般的に言うところの『運命の赤い糸』というものなのだろう。
ーーーーーー
「…ってことで、またここで食事会がしたくてさ。日付がきちんと決まり次第 予約したいんだ」
白木造りの美しいカウンター。
その中央の席に通された代表は店主の男といくつか世間話をしたところで玖一と律悠のための食事会について話していた。
今日は定休日のため店内に他の客の姿はない。
しかし代表はこの店の店主の男に『料理を試作するから店に来てほしい』と呼ばれていたため、1人そこを訪れていたのだ。
「えっ!もちろんもちろん!こっちはいつでもいいからさ、好きな日を言ってよ!」
店主は予約したいという代表の申し入れを快諾する。
この店の店主『佐々田 紹人』という男はまだ年若いながら一流店でも一目置かれていたような腕利きの料理人で、代表とは知り合ってから随分と長くなる間柄だ。
店主の佐々田に『律悠が特にここを気に入っていて「ぜひまた来たい」と言っていた』ということを伝えると、彼は「えーっ!それはすごく嬉しいな」と照れたように笑う。
「加賀谷さん…ってもしかして忘年会のときにも僕にそう言ってくれた人かな?お世辞でも嬉しいなと思ってたのに、そんな大切なお祝いの場にここを選んでもらえるなんてすごく光栄だよ」
「加賀谷君だけじゃないよ。相手の月ヶ瀬君も気に入ってるって言ってたし、もちろん俺もそうだし。っていうか忘年会に来たやつらは皆ここのことをいい店だって言ってた」
「そっかそっか!僕はまさにそんな場所が作りたくてこのお店を始めたからさ、本当に嬉しいし…感激だよ。あくせく板前やってた頃よりもずっとやりがいがあるなぁ」
佐々田は代表よりも5歳ほど若く、この店も開店してからついこの間やっと2年が経ったくらいだ。
いい雰囲気でありながらも基本的に店主の知り合いしか予約を取ることができず、さらにひっそりとした場所にあるということも相まってここに店があること自体あまり知られていないようなこの店。
商売として言うと、あまり分はよくない。
しかし佐々田は『そういう隠れ家的なのがいいんじゃん。僕は有名になりたいわけじゃないし』とこのスタンスを貫いていて…つまりここは彼が自身と知り合いのためだけに開いているという、利益や採算は度外視の店なのだった。
「本当にこの店を開いてよかったなあ…割烹とか料亭みたいに色んなお客様が来てくれるところで働くのも悪くなかったけど、でも僕はそういうところにずっといるよりもこうして身内で集まれるような場所が昔から作りたかったんだよね。予約がない日とか休みの日は友達の店を手伝いに行ったりしてさ、それも自由ですごく楽しいし。店を持つことに不安がなかったわけじゃないけど、でもそれも《《真祐兄ちゃん》》が色々と相談に乗ってくれたから…」
しみじみと言う佐々田。
だが代表は《真祐兄ちゃん》という呼び名を聞いた瞬間、すぐに遮りって「おい、もう俺のことをそんな風に呼ぶなって言っただろ」と訂正させる。
「まったく…今でもそうやって呼ぶんだな、俺はもうお前の義兄ちゃんじゃないんだぞ。本物の兄ちゃんがそれを聞いたらものすごく怒るはずだ」
「…でも、僕にとっては今も兄ちゃん同様なんだよ、真祐兄ちゃん。『代表』よりもこうやって呼ぶほうがしっくり来るんだ」
「あのなぁ…そもそもこうやって俺達が連絡を取り合ってるっていうのも微妙なんだぞ。考えてもみろよ、とっくの昔に愛想を尽かした相手がいまだに自分の弟と連絡を取ってるだなんて、なんか嫌だろ」
「そんなの僕には関係ないもん」
「いや、関係あるだろ」
代表が困ったように眉をひそめると、佐々田はしばらく沈黙してから「真祐兄ちゃんが《穏兄》と連絡を取らなくなってから、どれくらい経ったの?」と訊ねた。
「あんなに仲が良かったのに。どうして別れちゃったの」
「あんなに…あんなに兄ちゃん達2人、仲良かったのに」
佐々田の寂しそうな視線から逃れるようにして茶を一口飲んだ代表は「さぁね、どれくらいになるかな」と小さくため息をつく。
「俺が今の仕事をする前だから…もう6年半にはなるかな。うん、それくらいだと思う」
「どうして連絡を取らなくなったの?どうして急にそんな…」
「連絡を取らなくなったっていうか、まぁ、つまり俺はお前の兄ちゃんに愛想をつかされたんだよ。『考えが合わないから連絡を取り続ける必要も 一緒にいる必要もない』って思われたんだろうな。相手がそう思ってるのにこっちから連絡を取ろうとしたところで結局不快な思いをさせるだけだし…それっきり。これで良かったんだよ」
「でも…そんなの寂しいよ。昔、2人一緒に僕が働いてたお店までご飯食べに来てくれたことが今も忘れられない。僕も姉ちゃんも、真祐兄ちゃん達2人のことが今も大好きなんだよ。いつも思ってるんだ、また2人が一緒になってくれたらって…」
「はははっ、俺はモテるねぇ」
「茶化さないでよ。本心なんだから」
「はははっ」
代表は綺麗過ぎる笑みを浮かべながら何度も飲み頃になってきた湯呑を傾ける。
憂いを帯びたようなその表情。
その様子をじっと見つめた佐々田は意を決して「…この店の内装、良いでしょ」と静かに話し出した。
「カウンターも個室も。入り口も通路も、壁紙も床も照明も…僕が『ああしたい』『こうしたい』って言ったのを、全部取り入れてデザインしてもらったの。デザイナーさんに」
「うん?あぁ、たしかに良いよな。この店が気に入ったって言ってるやつらもさ、料理はもちろんだけど内装とかの雰囲気がすごく良いって…」
「これ全部、穏兄がデザインしたんだよ」
「穏兄に仕事としてお願いして、それでやってもらったの」
佐々田の言葉を聞いて思わず湯呑を持つ手を下ろした代表。
彼は改めてその呼び名を聞いたことで、まるで胸に小さな破片が刺さりでもしたかのような感覚を覚えていた。
目を伏せながら《その名前》が自らの中に染み込んでいくのを感じつつ、代表は「…そうか。そうだよな」と微笑みながら軽く頷く。
「うん、お前の兄ちゃんはとても優れたインテリアデザイナーだから」
「真祐兄ちゃん…」
「だから、俺をそういう風に呼ぶなってば。もし不意にお前が本当の兄ちゃんの前でそう口走ったとしたら誤魔化しが効かないだろ?きっとすごく怒られるぞ。癖になるからその呼び方はいい加減やめないとだめだ」
「でも……」
悲しげに眉をひそめた佐々田に《誰か》の面影を見た代表は、席から腰を上げてその頬を優しくつまむと「すっかり立派になったと思ってたけど、まだまだお前も子供だな」と目を細めた。
「そんなに慕ってもらえるなんてさ、俺は本当に恵まれてるよ」
「…お前の兄ちゃんとのつながりは切れてるけど、でも俺はお前のことを昔からの馴染みとして可愛いと思ってるよ。じゃなきゃ《《穏兄》》との関係が終わったときにお前とも連絡を絶ってただろうし、こうやって会うこともなかったはず。だからそんなに寂しがるなよ、な?今も昔も、お前の兄ちゃんどうこうは関係なく俺達は俺達なんだから。ほら、『親しい友人』ってやつだ」
頬をつままれた佐々田には、不思議なことに成人済みである腕の良い料理人には見えないような幼さ、若さがある。
元々童顔なのが今の状況によってより一層幼く見えるのだろう。
そんな彼がしばらく何かを目で訴えた後、半ば納得行かない様子とはいえ こくん と頷いて応えたため、代表はようやく彼の頬をつまんでいた手を離した。
「…分かってる。2人のことに僕は口は挟まない」
「ん、物分りよし」
「でも今自分で言ったんだからそれはちゃんと約束として守ってね?『俺達は俺達だ』って、ずっと友達だって真祐兄ちゃんが今…」
「はぁ~、今日はここの店主は料理をする気がないみたいだな?よし、そろそろ帰る」
「えっ!?ま、待ってよ!今ちゃんと料理出すし、甘鯛も焼くから…!」
「本当か?いつまでもしょげた顔して料理なんかするつもりなかったくせに~」
「ち、違うよ!そんなこと…ちゃんとやるってば!」
途端にそれまでのどこかしんみりとしていたような空気は一変し、「そういえば甘鯛って食べたことないかもしれないな」「本当?それなら今度汁物とか王道の松かさ揚げで用意しておくよ、すっごく美味しいんだ。とりあえず今日は一夜干しを焼こうと思って…」という和やかな友人同士の気の置けないやり取りに代わる。
そしてその後、試作した料理の他にも絶妙な焼き加減の甘鯛などが次々と代表の口に運ばれていったのだった。
「あっ、そうだ、加賀谷さんと月ヶ瀬さんの好みのもの、あとアレルギーとかそういうのもきちんと聞いといてよ?」
「分かった、分かったよ」
「お願いね。あと他に用意するものっていったら…やっぱりケーキだよね!ケーキは僕の友達のパティシエに相談しとくよ、皆クリームとか甘いものって大丈夫かな?そういうのもちゃんと聞いといてよ」
「分かったってば。ははっ、はりきってるなぁ」
「だってせっかくのお祝いなんだもん、ワクワクするじゃん!一応僕もケーキは一通り作れるんだけど、でも製菓のプロの方が良いよね。僕のその友達のパティシエは有名なところでずっと修行してたんだよ、それでちょっと前に独立して自分のお店を開いててさ…」
そうして食事を終えてからしばらくの間、代表と佐々田はカウンターで横並びに座りながら仲の良い兄弟かのように話して時間を過ごしたのだった。
ーーーーーーー
代表が帰った後の店内。
佐々田が今日試作した料理の感想を踏まえたさらなる試作のための構想を頭の中で練りながら後片付けの済んだカウンターを丁寧に拭き上げていると、施錠した入口の引き戸が外からガタガタと音を立てて来客を知らせる。
彼は代表が忘れ物でもして戻ってきたのかと顔を上げたが、外から聞こえてきたのは代表とは違う男の声だった。
「紹人~、いる?」
「えっ、穏兄!?」
外からの遠慮がちな声に驚きつつすぐさま佐々田が鍵を開けると、そこには彼の実兄である『穏矢』が立っていた。
細身な体のシルエットを包み込むすっきりとしたコートが良く似合っている男だ。
「どうしたの急に来るなんて…最近仕事が忙しいんだって言ってたのに、大丈夫なの?」
店の中へ通しながら心配そうに言うと、兄の穏矢は「うん、本当に珍しいことだけど仕事が一件早めに片付いたんだ」と晴れやかな笑顔で答える。
「仕事が上手くいったささやかなお祝いにさ、ほら、前に教えてくれたお前の友達のパティシエのお店に行ってみたんだ。それでお前の兄弟だって話したら『あぁ!よく話には聞いていたんですよ!』ってすごく歓迎されちゃってね。…紹人、僕のことを友達になんて言ってたんだ?」
兄が自分をからかうためにわざと怪訝そうに言っているのだと分かっていながらも「え?いや、ただ『店の近くに僕の兄さんと姉さんの事務所がある』って言っただけだよ!」と慌てる佐々田。
「あとインテリアデザイナーやってるってこととか、優しくていい兄ちゃんだとか…そういうの」
「ふぅん?…ま、とにかくそれで意気投合していくつかお菓子を見繕ってもらったんだけど『ぜひお前にも食べてもらいたいから』って試作のケーキも一緒に包んでくれたんだよ。紹人も今新しい料理を試作してるって言ってたし、進捗はどうかなって気になってたから様子を見がてら来てみた。スマホに連絡しても反応がないところを見るとまだ店で色々やってるんじゃないかって思ったら…やっぱりそうだったな」
穏矢の手には愛らしい小動物達がデザインされた、白い上品な雰囲気の漂う箱が提げられている。
佐々田はタイミングがタイミングなだけに「あの…もしかしてこの店に入る前、誰かに…会ったりした?」と訊いてみたが「いや?誰にも会ってないけど。知り合いでも来てたの?」と本当に誰にも会っていないような反応が返ってきたため、それ以上そのことについて話すのは止めて兄のコートを預かった。
カウンター席に案内して箱を開けてみると、中にはキラキラと輝くようなケーキがいくつか並んでいて、それを見た2人は思わず感嘆のため息を漏らす。
シンプルなチーズケーキやツヤツヤとした半円球のムースケーキ、そしてクリーム製の小さな花の細工が飾られた可愛らしいものも…どれも美味しそうだ。
「さすがだなぁ、こういう細工とかも昔っから上手だったんだよ、この友達」
「そうだったんだね、これもすごく繊細に出来てる。…なんかさ、こういうのは食べるのがもったいなく思えて困るんだけど」
「分かる…やっぱりそうだよね?せっかくの飾りを崩しちゃうのはどうしても躊躇しちゃうよ」
試作品だというケーキは2人で分けることにして、兄弟はそれぞれ好みのものを選び取る。
穏矢はすでに夕食を終えているというので、少々甘いものを食べるには罪悪感のある夜だが、たまにはそれもいいだろうということでそのまま試食会が始まった。
「…あっ、そうそう、ちょうど この友達に今度ケーキをお願いすることになったんだった。この試作のやつの感想を伝えがてらその連絡もしとこう」
「ケーキを?珍しいね」
「うん。お客様の特別なお祝いでここを使ってもらえることになってね…」
「そうだ、今簡単におかず料理を用意して持ち帰れるようにするからさ、明日の朝にでも食べてよ」
「いいよそんな…もうそろそろ帰るし、またここへは客として来るから」
「もう!穏兄は放っておくといっつも仕事に没頭してご飯をおろそかにするんだから!ちゃんと持って帰って食べてよ、いい?」
「別に、言うほどおろそかにはしてないよ」
「嘘だね。ゼリー飲料はご飯じゃないって何度言ったら分かるの!いくらお手軽でもゼリー飲料ばっかりじゃだめだよ、まったくもう…」
兄弟による和気藹々とした和やかな雰囲気でいっぱいになる定休日の店内。
それは穏やかさ そのものの風景だ。
しかし、佐々田はつい先ほどまでカウンター中央の一席にいた男の姿を思いながら1人寂しくもなっていたのだった。
(真祐兄ちゃん…あと少しだけでも長くここにいたらよかったのに。別々じゃなく、2人一緒にここにいてくれたら…たとえ気まずくなったって、話しさえすればきっと…)
そんなことをつらつらと考えていた佐々田だったが、穏矢に「どうかしたの?」と訊ねられて「うん?…ううん、なんでもない」と首を振る。
もう1人の兄も一緒にいた『3人で過ごしていた頃の記憶』は彼にとってあまりにも懐かしく恋しく、いつまでも胸の中に残っていたのだった。
ーーーーー
『代表』こと古平 真祐と、店主佐々田の実兄である佐々田 穏矢。
彼らはかつて、知る人なら誰もが羨むほど仲のいいパートナー同士だった。
どちらも勤勉で人当たりがよく、一度話しただけで もれなく虜になってしまうほど2人の話術からなる掛け合いがとても心地よいと有名だったのだ。
ずっとこの先も一緒にいると思われていたお似合いの2人。
しかし今や連絡を一切取り合わなくなってから6年以上もの月日が経過している。
…2人の出逢いはその昔、まだどちらも大学生だった頃のことだった。
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冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
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