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夏の話
二 あの夜のこと
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クリスティナが最初に店に訪れたのは四月だ。あれから丸三ヶ月が経っている。平日は毎日来ている。前のからあげ祭り週間は、四月以前だったということだ。さいきんやっていないなと思っていたらそんなに経っていたとは。時間の流れが年々早くなっている気がする。
「お待たせしました」
クリスティナの前に、お膳を置く。白米に、温かいかぼちゃとオクラのみそ汁、揚げたての五つのからあげと千切りキャベツ、薄くスライスしたすだちをたくさん浮かべた冷麺、湯剥きしたトマトと玉ねぎとパプリカのマリネだ。
五月頃だったか。夏になる前に痩せなきゃ、と言い始めたクリスティナに、野菜から食べるといいと助言したところ、それ以来、クリスティナは野菜から食べるようになった。マリネを美味しそうに食べて、酸っぱそうに目を細めている。
レンの目には、クリスティナは、同じ年頃の女児よりも痩せているように見える。だが、クリスティナが言うには、レンの店『夜食屋よぞら』で晩ごはんを食べるようになってから、明らかに太ったらしい。
それを聞くとレンは申し訳なく感じるのだが、クリスティナは困ったような顔をしながらも、毎日モリモリ食べている。独身男性が満足する量をぺろりとたいらげるので、レンはあまり気遣わずに提供してしまう。女性心理はよくわからない。
食べ始めると幸せそうな顔をする。今もからあげを頬張っている。子どもがたくさん食べる様子は本当に微笑ましい。
「のり塩大好き!」
「お気に召してよかったです」
クリスティナはあっという間に食べ終えてしまう。このようにおなかをすかせてやってきて、満腹になった彼女を見送るのがレンの日常となっている。
クリスティナは食後のお茶をゆっくり飲むと、食事代をカウンターに置いて、ランドセルを背負った。そろそろ出陣だ。
「ごちそうさまでした! 夏休みになる前にからあげ祭りが来てよかった……!」
「あ、そうですね。もうすぐ夏休みですね」
ということは、クリスティナは来ないのだろうか。よぞらは午後六時開店、午前一時閉店なので、土日のように塾が日中だけだとクリスティナは来ない。
「夏休みは塾で夏期講習があるんだけど、朝八時から夕方五時だから、遅くなったら晩ごはん食べに来ようかな。でもお休みと同じで、パパママとごはんかも」
クリスティナは不満げだ。
クリスティナの家庭は、両親が共働きで、クリスティナも学校や塾があって忙しい。平日はなかなか顔を合わせないとレンは聞いている。そのため、休日は家族で食事を摂る。だが食事があまり美味しくないので困っているらしい。
ママは、料理が好きでも得意でもないのに休日は張り切って自炊をしてしまうとこぼしている。しかも、簡単な料理をすればいいのに、せっかくだからと凝ったものを作りたがり、余計にわけのわからない味らしい。
父親は料理をする気がないし外食でも構わないと考えているらしいのだが、ママが作りたいというのならば好きにさせなさいと言って好きにさせ、美味しくない料理でも無言で完食するそうだ。漢らしい。
「ご家族の時間は大切ですよ」
「まあ、そうなんだけど、食事が美味しいってレン兄のごはん食べて初めて思ったの。本当よ?」
「ありがとうございます」
レンの両親は数年前に揃って他界してしまい、親戚もいないため、レンは若くして天涯孤独の身だ。なので、クリスティナが両親と案外仲良しだと知ったときは、少しほっとした。家族団らんできるならばそのほうがいいとレンは思う。
「ママなんか、『外食が美味しいのは当たり前』なんて言うのよ。いろいろ外食はしてるけど、レン兄のごはんはそのへんの外食とは違うのよ。もう」
「からあげ祭り、もし味変のリクエストがあったらおうかがいしますよ」
「えーっ、そんな急にいわれると困っちゃうよっ、カレー味とか?」
「いいですね、スパイシーな感じですね」
「でも今日の全部美味しかったし大丈夫だけど、ほら、レン兄のカレー美味しいんだよねっ。よし、行ってきまーす」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ」
そう言って、クリスティナを送り出す。席の片づけをしはじめると、いつもの眼鏡のお兄さんやおじさんが入ってくる。
「レンくーん、日替わりー! あっ、クリスちゃん! バイバーイ! がんばってねー!」
「お兄さんありがとー! バイバーイ!」
「いらっしゃいませ。日替わり、からあげです」
「わーい、久しぶりだね」
「はい」
いつもの日常だ。
少なくとも、クリスティナが現れた四月以降、毎日、こんな風に過ごしている。それ以前も、クリスティナがいないだけで、ずっとこうやって店の日常を過ごしてきた。
決定的に違うのは、あの夜、ルイスに抱かれたことだけだ。クリスティナが現れた日に、彼女の叔父を名乗る、スーツ姿の美しい青年ルイスと、ほとんど明け方まで、男同士でありながら、激しいセックスをした。ひと眠りして朝食を摂った直後に、もう一度、身体を重ねた。
そして、それっきりだ。ルイスは仕事があって急いでいたようで、シャワーを浴びたらバタバタと身支度をして出て行った。
連絡先は交換していない。ルイスはあれから一度も店に来ない。
レンとしても、あれほどの快感は初めてのことで、恥ずかしくて困惑してしまった。自分ではなくなったみたいだった。
ルイスのことは、クリスティナに聞けないでいる。
彼女であれば、聞けばきっと答えてくれるだろうが、クリスティナはルイスを嫌がっているように見えたし、レンがルイスのプロフィールや近況を訊ねるなんて、クリスティナはへんに思うだろう。だから聞けない。
「レンくん? どうしたの?」
「あっ、すみません。すぐ行きます」
レンはハッとして、顔をあげた。仕事中だ。
あの夜の出来事を思い出すのはいけない。
「お待たせしました」
クリスティナの前に、お膳を置く。白米に、温かいかぼちゃとオクラのみそ汁、揚げたての五つのからあげと千切りキャベツ、薄くスライスしたすだちをたくさん浮かべた冷麺、湯剥きしたトマトと玉ねぎとパプリカのマリネだ。
五月頃だったか。夏になる前に痩せなきゃ、と言い始めたクリスティナに、野菜から食べるといいと助言したところ、それ以来、クリスティナは野菜から食べるようになった。マリネを美味しそうに食べて、酸っぱそうに目を細めている。
レンの目には、クリスティナは、同じ年頃の女児よりも痩せているように見える。だが、クリスティナが言うには、レンの店『夜食屋よぞら』で晩ごはんを食べるようになってから、明らかに太ったらしい。
それを聞くとレンは申し訳なく感じるのだが、クリスティナは困ったような顔をしながらも、毎日モリモリ食べている。独身男性が満足する量をぺろりとたいらげるので、レンはあまり気遣わずに提供してしまう。女性心理はよくわからない。
食べ始めると幸せそうな顔をする。今もからあげを頬張っている。子どもがたくさん食べる様子は本当に微笑ましい。
「のり塩大好き!」
「お気に召してよかったです」
クリスティナはあっという間に食べ終えてしまう。このようにおなかをすかせてやってきて、満腹になった彼女を見送るのがレンの日常となっている。
クリスティナは食後のお茶をゆっくり飲むと、食事代をカウンターに置いて、ランドセルを背負った。そろそろ出陣だ。
「ごちそうさまでした! 夏休みになる前にからあげ祭りが来てよかった……!」
「あ、そうですね。もうすぐ夏休みですね」
ということは、クリスティナは来ないのだろうか。よぞらは午後六時開店、午前一時閉店なので、土日のように塾が日中だけだとクリスティナは来ない。
「夏休みは塾で夏期講習があるんだけど、朝八時から夕方五時だから、遅くなったら晩ごはん食べに来ようかな。でもお休みと同じで、パパママとごはんかも」
クリスティナは不満げだ。
クリスティナの家庭は、両親が共働きで、クリスティナも学校や塾があって忙しい。平日はなかなか顔を合わせないとレンは聞いている。そのため、休日は家族で食事を摂る。だが食事があまり美味しくないので困っているらしい。
ママは、料理が好きでも得意でもないのに休日は張り切って自炊をしてしまうとこぼしている。しかも、簡単な料理をすればいいのに、せっかくだからと凝ったものを作りたがり、余計にわけのわからない味らしい。
父親は料理をする気がないし外食でも構わないと考えているらしいのだが、ママが作りたいというのならば好きにさせなさいと言って好きにさせ、美味しくない料理でも無言で完食するそうだ。漢らしい。
「ご家族の時間は大切ですよ」
「まあ、そうなんだけど、食事が美味しいってレン兄のごはん食べて初めて思ったの。本当よ?」
「ありがとうございます」
レンの両親は数年前に揃って他界してしまい、親戚もいないため、レンは若くして天涯孤独の身だ。なので、クリスティナが両親と案外仲良しだと知ったときは、少しほっとした。家族団らんできるならばそのほうがいいとレンは思う。
「ママなんか、『外食が美味しいのは当たり前』なんて言うのよ。いろいろ外食はしてるけど、レン兄のごはんはそのへんの外食とは違うのよ。もう」
「からあげ祭り、もし味変のリクエストがあったらおうかがいしますよ」
「えーっ、そんな急にいわれると困っちゃうよっ、カレー味とか?」
「いいですね、スパイシーな感じですね」
「でも今日の全部美味しかったし大丈夫だけど、ほら、レン兄のカレー美味しいんだよねっ。よし、行ってきまーす」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ」
そう言って、クリスティナを送り出す。席の片づけをしはじめると、いつもの眼鏡のお兄さんやおじさんが入ってくる。
「レンくーん、日替わりー! あっ、クリスちゃん! バイバーイ! がんばってねー!」
「お兄さんありがとー! バイバーイ!」
「いらっしゃいませ。日替わり、からあげです」
「わーい、久しぶりだね」
「はい」
いつもの日常だ。
少なくとも、クリスティナが現れた四月以降、毎日、こんな風に過ごしている。それ以前も、クリスティナがいないだけで、ずっとこうやって店の日常を過ごしてきた。
決定的に違うのは、あの夜、ルイスに抱かれたことだけだ。クリスティナが現れた日に、彼女の叔父を名乗る、スーツ姿の美しい青年ルイスと、ほとんど明け方まで、男同士でありながら、激しいセックスをした。ひと眠りして朝食を摂った直後に、もう一度、身体を重ねた。
そして、それっきりだ。ルイスは仕事があって急いでいたようで、シャワーを浴びたらバタバタと身支度をして出て行った。
連絡先は交換していない。ルイスはあれから一度も店に来ない。
レンとしても、あれほどの快感は初めてのことで、恥ずかしくて困惑してしまった。自分ではなくなったみたいだった。
ルイスのことは、クリスティナに聞けないでいる。
彼女であれば、聞けばきっと答えてくれるだろうが、クリスティナはルイスを嫌がっているように見えたし、レンがルイスのプロフィールや近況を訊ねるなんて、クリスティナはへんに思うだろう。だから聞けない。
「レンくん? どうしたの?」
「あっ、すみません。すぐ行きます」
レンはハッとして、顔をあげた。仕事中だ。
あの夜の出来事を思い出すのはいけない。
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