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二年目の秋の話
四 最悪の交渉相手
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「エマ。相談したいことがあるんだ。ちょっといい?」
ルイスは言った。
社屋にある会議室で朝の会議を終え、席を立ち、同じく取締役であるエマを呼び止める。席を立ちかけていたエマは頷く。ルイスは傍らの秘書に確認する。
「南さん。このままこの会議室使えますか?」
「三十分空いています。押さえます」
「エマと二人にしてもらえますか」
エマは戦々恐々としている。ルイスに呼び止められて、いい話だったためしはあまりない。いつものように深刻そうに眉を寄せている。
二人きりになって、エマは隣に掛けてそっと訊ねた。
「どうしたの?」
「パートナーを紹介したいんです」
エマはこっそりほっとした。
「あら、共同経営者を増やすの? 誰かいたかしら?」
通常、この業界でパートナーといえば、会社の共同経営者を示す。
「いや、そうじゃなくて。姉さん」
ルイスが苦笑して否定するので、エマは理解した。仕事中は呼び捨てだが、家族間の会話では姉さんと呼ぶ。
「あ、なるほど」
ルイスは、春頃から、左手の薬指に指輪をつけている。どう見ても結婚指輪だ。社外の人との打ち合わせがあるときは外しているが、社内にいるときは必ずつけるようになった。当初、社内は騒然としていた。結婚したという話は聞いていない。
指輪をつける少し前から、ふとしたときに、優しい表情を見せるようになった。普段は相変わらずの仏頂面で、冗談のひとつもまるで言わず、険しい顔ばかりだが、僅かながらでもその変化は大きい。
ルイスを氷解させた謎の存在については諸説ある。ほぼ会社にいて時々家に帰るという生活スタイルが変わらない様子なので、相手が一般的な人間とは考えづらい。つまり、非一般的か、人間ではないかのいずれかだ。そういうわけで、相手はプロ彼女またはAIではないかともっぱらの噂である。AI説のほうが主流だ。
ルイスは言いづらそうに言う。
「結婚したいんです。色々と課題があるので、すぐには難しいですが」
「そうなのね。いいんじゃないの。相手の人さえよければ」
実のところ、エマは相手の正体に気づいている。
見かけたことがあるからだ。
去年の秋ごろに、駅の百貨店で買い物をしている場面を目撃してしまった。見たことがある姿が、周囲に黄色い声をあげられていると思ったら、やはり弟だった。珍しくオフらしい。
人を連れていた。二十代半ばくらいの日本人の男の子だ。どうやら二人は自宅で食事でもするのか、調理器具や食材を買って歩いていたのである。
エマが知る限り、ルイスは日本に友達がいない。おそらく本国にもいない。だから相当珍しいと思って遠くから観察していたら、ルイスの表情が異常にやわらかい。
クリスティナに対しては似たような表情をするので、人間にも優しくできるという一面を持っていることは知っていたが、隣に立っている人物は若い男の子である。
べたべたはしていないものの、彼らしくない距離感。短い会話を交わす親密さ。本当に大事な人相手にしか見せない温和な笑顔。ただの友達とは思えない。ちょっとした衝撃だった。視界がちかちかした。
しばらくして、娘に連れられて、クリスティナが通っているという店に行って、クリスティナが大好きだという店主に会ってみたら、そのときの男の子だったのである。「あ、あのときの」とエマは思った。
彼は、娘が転びそうになったのを慌てて抱き止めた。ほっとした彼の表情を思い出す。
軽く雑談していたら、ルイスも時々店に来るという。プライベートで付き合いがあることを、彼は言わなかった。仲の良い友達なら、話してもよさそうなものを。だが、ルイスのことが嫌いなクリスティナに気を遣ってのことかもしれないと思い直した。
そしてその日、ルイスがあとから店に来た。入店した客がルイスだとわかった瞬間のレンの熱っぽい表情や、レンに対するルイスの柔らかい視線を見れば、察しないはずがない。つまりマシェリである。
「紹介してくれるの?」
「結婚するとなれば、まあ……」
「家族に紹介するなんて初めてじゃない?」
ルイスとしては、安易に紹介できない。
「そうですねえ、そこで、父の理解が得られるかどうか……」
父の理解は得られないだろうとルイスは思う。同族企業だ。後継者問題がついてまわる。といっても、親族なんてたくさんいるのだから、養子にしたり、有望な者を後継者として育てればいいと考えている。自分は女性を相手にはできない。
「お父様は難しい方だから、難航するとは思う」
「ですよね」
父を敵に回して生きていけるか、ルイスは何度か考えた。財力が桁違いなので、積極的に排斥されたらひとたまりもない。
だが戦えないわけではない。自分には実績も能力もあるとルイスは思う。一時は干されたとしても、父が飽きれば、なんとか生き抜けるはずだ。
「あのー、私は賛成なのよ。おめでとう、ルイス」
と、エマは切り出した。
ルイスに結婚願望があったことは驚愕だが、悪い話ではない。
エマとしては、レンの素性は知らないが、ルイスが落ち着くのならば、それはいいことだと思っている。ルイスは、厳しい環境に身を置き、気を張っているのが常になっている。精神を安らげる場所などなかったし、さりとて必要としていなさそうだった。
そんな弟が、彼によって心から安心でき、彼を必要としているのなら、性別などというのは些末な問題だとエマは思う。
だから、結婚したいならすればいい。
男性同士で、片方は日本国籍で、何をどうするのか、具体的にはわからないが。
「まだしていないけど、ありがとう」
ルイスは嬉しい。祝福がというよりも、思いがけず姉の優しさに触れた。ルイスにとってエマは頼りになる存在だ。昔から、調整役を買って出てくれる、一を聞いて十を知る姉である。
だがエマは視線を落とす。
「だけどね、お父様以上に、大きな問題が……」
エマは言った。
ルイスは目をあげる。
「父以上の、大きな問題?」
ルイスが考えるに、レンとの関係は、問題だらけである。男同士だから、簡単にはいかない。忙しくて会える時間がとれない。一緒に住む話だってまだ進んでいない。いったいなぜ進まないのかとやきもきしている。妙に慎重なレンの性格のせいだ。
レンには家族がいないので、その点は考える必要がない。だが知人友人は多く、一部、障害になる芽がある。地域に根差した交友関係に、意味深な親友がいる。
そもそも、レンは受け身で、本当にルイスと結婚したいとまで思っているのかは、はっきりしない。
ルイスは時々、独り相撲をしている気分になる。レンは、ごく稀に甘えてくるときに、ルイスを婚約者だと認識している素振りをみせる。指輪も身につけている。左手の薬指にはめていることもある。
だが本当に趣意がわかっているのだろうかとルイスは時々疑っている。ルイスが結婚したいと言えば、それは言葉通りなのだが。
ルイスは後頭部を掻いた。思い当たることが多すぎて、エマが何をとくに問題視しているのか、逆にわからない。
「まあ、考えることは山積みなんですが……。何でしょうか。大きな問題って」
ルイスに問われ、エマは深刻に言った。
「絶対に大反対だと思うわよ。……クリス」
ルイスは肩を落とし、「あー」と情けない声をあげて、椅子に背をあずけて天井を仰ぐ。
「そうか。クリスティナ。そうですね……」
レンのことが大好きでまるで兄のように慕っており、ルイスのことが毛虫よりも大嫌いなクリスティナは、ある意味、父よりも説得に苦慮する相手に違いない。
ルイスは言った。
社屋にある会議室で朝の会議を終え、席を立ち、同じく取締役であるエマを呼び止める。席を立ちかけていたエマは頷く。ルイスは傍らの秘書に確認する。
「南さん。このままこの会議室使えますか?」
「三十分空いています。押さえます」
「エマと二人にしてもらえますか」
エマは戦々恐々としている。ルイスに呼び止められて、いい話だったためしはあまりない。いつものように深刻そうに眉を寄せている。
二人きりになって、エマは隣に掛けてそっと訊ねた。
「どうしたの?」
「パートナーを紹介したいんです」
エマはこっそりほっとした。
「あら、共同経営者を増やすの? 誰かいたかしら?」
通常、この業界でパートナーといえば、会社の共同経営者を示す。
「いや、そうじゃなくて。姉さん」
ルイスが苦笑して否定するので、エマは理解した。仕事中は呼び捨てだが、家族間の会話では姉さんと呼ぶ。
「あ、なるほど」
ルイスは、春頃から、左手の薬指に指輪をつけている。どう見ても結婚指輪だ。社外の人との打ち合わせがあるときは外しているが、社内にいるときは必ずつけるようになった。当初、社内は騒然としていた。結婚したという話は聞いていない。
指輪をつける少し前から、ふとしたときに、優しい表情を見せるようになった。普段は相変わらずの仏頂面で、冗談のひとつもまるで言わず、険しい顔ばかりだが、僅かながらでもその変化は大きい。
ルイスを氷解させた謎の存在については諸説ある。ほぼ会社にいて時々家に帰るという生活スタイルが変わらない様子なので、相手が一般的な人間とは考えづらい。つまり、非一般的か、人間ではないかのいずれかだ。そういうわけで、相手はプロ彼女またはAIではないかともっぱらの噂である。AI説のほうが主流だ。
ルイスは言いづらそうに言う。
「結婚したいんです。色々と課題があるので、すぐには難しいですが」
「そうなのね。いいんじゃないの。相手の人さえよければ」
実のところ、エマは相手の正体に気づいている。
見かけたことがあるからだ。
去年の秋ごろに、駅の百貨店で買い物をしている場面を目撃してしまった。見たことがある姿が、周囲に黄色い声をあげられていると思ったら、やはり弟だった。珍しくオフらしい。
人を連れていた。二十代半ばくらいの日本人の男の子だ。どうやら二人は自宅で食事でもするのか、調理器具や食材を買って歩いていたのである。
エマが知る限り、ルイスは日本に友達がいない。おそらく本国にもいない。だから相当珍しいと思って遠くから観察していたら、ルイスの表情が異常にやわらかい。
クリスティナに対しては似たような表情をするので、人間にも優しくできるという一面を持っていることは知っていたが、隣に立っている人物は若い男の子である。
べたべたはしていないものの、彼らしくない距離感。短い会話を交わす親密さ。本当に大事な人相手にしか見せない温和な笑顔。ただの友達とは思えない。ちょっとした衝撃だった。視界がちかちかした。
しばらくして、娘に連れられて、クリスティナが通っているという店に行って、クリスティナが大好きだという店主に会ってみたら、そのときの男の子だったのである。「あ、あのときの」とエマは思った。
彼は、娘が転びそうになったのを慌てて抱き止めた。ほっとした彼の表情を思い出す。
軽く雑談していたら、ルイスも時々店に来るという。プライベートで付き合いがあることを、彼は言わなかった。仲の良い友達なら、話してもよさそうなものを。だが、ルイスのことが嫌いなクリスティナに気を遣ってのことかもしれないと思い直した。
そしてその日、ルイスがあとから店に来た。入店した客がルイスだとわかった瞬間のレンの熱っぽい表情や、レンに対するルイスの柔らかい視線を見れば、察しないはずがない。つまりマシェリである。
「紹介してくれるの?」
「結婚するとなれば、まあ……」
「家族に紹介するなんて初めてじゃない?」
ルイスとしては、安易に紹介できない。
「そうですねえ、そこで、父の理解が得られるかどうか……」
父の理解は得られないだろうとルイスは思う。同族企業だ。後継者問題がついてまわる。といっても、親族なんてたくさんいるのだから、養子にしたり、有望な者を後継者として育てればいいと考えている。自分は女性を相手にはできない。
「お父様は難しい方だから、難航するとは思う」
「ですよね」
父を敵に回して生きていけるか、ルイスは何度か考えた。財力が桁違いなので、積極的に排斥されたらひとたまりもない。
だが戦えないわけではない。自分には実績も能力もあるとルイスは思う。一時は干されたとしても、父が飽きれば、なんとか生き抜けるはずだ。
「あのー、私は賛成なのよ。おめでとう、ルイス」
と、エマは切り出した。
ルイスに結婚願望があったことは驚愕だが、悪い話ではない。
エマとしては、レンの素性は知らないが、ルイスが落ち着くのならば、それはいいことだと思っている。ルイスは、厳しい環境に身を置き、気を張っているのが常になっている。精神を安らげる場所などなかったし、さりとて必要としていなさそうだった。
そんな弟が、彼によって心から安心でき、彼を必要としているのなら、性別などというのは些末な問題だとエマは思う。
だから、結婚したいならすればいい。
男性同士で、片方は日本国籍で、何をどうするのか、具体的にはわからないが。
「まだしていないけど、ありがとう」
ルイスは嬉しい。祝福がというよりも、思いがけず姉の優しさに触れた。ルイスにとってエマは頼りになる存在だ。昔から、調整役を買って出てくれる、一を聞いて十を知る姉である。
だがエマは視線を落とす。
「だけどね、お父様以上に、大きな問題が……」
エマは言った。
ルイスは目をあげる。
「父以上の、大きな問題?」
ルイスが考えるに、レンとの関係は、問題だらけである。男同士だから、簡単にはいかない。忙しくて会える時間がとれない。一緒に住む話だってまだ進んでいない。いったいなぜ進まないのかとやきもきしている。妙に慎重なレンの性格のせいだ。
レンには家族がいないので、その点は考える必要がない。だが知人友人は多く、一部、障害になる芽がある。地域に根差した交友関係に、意味深な親友がいる。
そもそも、レンは受け身で、本当にルイスと結婚したいとまで思っているのかは、はっきりしない。
ルイスは時々、独り相撲をしている気分になる。レンは、ごく稀に甘えてくるときに、ルイスを婚約者だと認識している素振りをみせる。指輪も身につけている。左手の薬指にはめていることもある。
だが本当に趣意がわかっているのだろうかとルイスは時々疑っている。ルイスが結婚したいと言えば、それは言葉通りなのだが。
ルイスは後頭部を掻いた。思い当たることが多すぎて、エマが何をとくに問題視しているのか、逆にわからない。
「まあ、考えることは山積みなんですが……。何でしょうか。大きな問題って」
ルイスに問われ、エマは深刻に言った。
「絶対に大反対だと思うわよ。……クリス」
ルイスは肩を落とし、「あー」と情けない声をあげて、椅子に背をあずけて天井を仰ぐ。
「そうか。クリスティナ。そうですね……」
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