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6 ある三百万円のゆくえ
十三* 和臣
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多紀くんはこちらを向いた。
「家族、やり直してくるって、どういうことです?」
俺は言った。
「お母さんが言っていたとおり、川越でみんなで暮らしてさ」
「聞いていたんですか」
「ごめん。まだかなと思って、ドアを開けちゃった。すぐ閉めたけど。あのさ、やり直してきて、いいよ。最初はぎこちないかもしれない。でも慣れるよ。多紀くんならきっと大丈夫だよ」
「……でも、和臣さんは?」
「俺は来れないよ」
「そんなの、和臣さん、ひとりぼっちになるじゃないですか」
「大丈夫だよ。俺たち、離れ離れで暮らしている期間が長いし、すぐに慣れると思う。俺、ちゃんと我慢できるよ。前の状況とは違うもの。職場が近いんだから、会社帰りに会えるし、泊まりたいときはうちに泊まればいい」
家族をやり直すのは遅いと考えているかもしれない。中高生ならともかく、立派な成人男性だから。
それでも、やり直す機会があるのならば、きちんと考えるべきだと俺は思う。こじれた気持ちは正しておいたほうがいい。家族も、仕事も、大学もそう。
何も、何一つ遅くなんてないんだ。
多紀くんに幸せになってほしい。恋人としての地位を手放せない俺に唯一できること。
「多紀くんの気が済んだら、いつだって戻ってきてよ」
多紀くんは苦笑している。
「いやーどうですかねぇ。あんなの、母親のただの思いつきですし。どうだか。それに、和臣さん、平気なんですか?」
「努力する……」
多紀くんは俺の手を掴んだ。滑り込むように握ってくる。
もう片方の腕で、膝に片肘をつきながら、俺を見つめている。
そして言った。
「和臣さんだけじゃない。俺だって平気じゃないです」
「やり直す気はないの?」
「何もかも今更なんですよ。他人と暮らすなんて面倒です。あのひとたちと家族ごっこするより、今の生活のほうが大事です。あと、母親の作るメシより、和臣さんのメシのほうが、はるかに美味しいです。会社も遠いし。これから先の人生のほうが長いんだし。定年まで勤めたいですし」
「通勤は不便だよね」
「俺にも実家があって、時々顔を見に行くだけで充分です。……というか、本気で言ってるんですか?」
「……」
「なんで今更、俺から離れようとするの」
俺は、誰も俺たちを見ていないことを確認する。多紀くんも同じように周囲を確認している。
そして、お互いに顔を近づけて目を閉じてキスをした。多紀くんの唇に触れる。
なぜ満たされるのか知らないまま、黙って口づけ合った。
唇を離すのにさえ一苦労。頬を染めていて可愛い。
「俺がいなかったら、しなしなに萎れるくせに。あっ、試したんじゃないでしょうね」
もちろん試した。俺が誠実になれる日は遠いね。
だけどこの提案を口にする瞬間は、多紀くんが俺ではなく家族を選ぶ覚悟は持っていた。
結果には満足している。
「……実家に帰りますって言われたらどうしようかと思ってた。だから先に言った。多紀くんがその気になるようなら、やっぱりやめてって泣き叫んでいたかも。九十パーセントぐらいの確率で」
「九十パーセントって、降水確率なら確実に降りますね」
「本当に、いいの」
「帰るのもありですよ?」
「冗談は許さないよ。本気で聞いてるんだよ。多紀くんが、どうしたら幸せになれるのか、俺なりに考えてるんだよ」
この世界のどこを探したって、多紀くんのことをいちばん好きで、いちばんに多紀くんと一緒に暮らしたいのは俺なんだ。お母さん以上。わかっているだろうね。
多紀くんの顔を覗き込む。わかっている。そういう表情。
あ、試したな。俺のこと。
多紀くんは目を細めて俺を見つめて、幸せそうに微笑んでいる。
「母さんに言ったんです。和臣さんと一緒にいたいって」
「多紀くん」
そんな言葉を、そんな顔で言われたら、困るよ。毎日好きなのに、これ以上好きになったらどうするの。
苦しくて胸が痛い。
「お母さん、大丈夫だった?」
「卒倒してました」
「大丈夫じゃないね……」
「うーん、ショックって感じじゃなかったんで。喜んでた? のかな? あとは義父に任せてきました」
多紀くんは、はにかんで言った。
「俺、和臣さんといます。ひとりで待ってるんですから、早く帰ってきてくださいよ」
「うん……じゃあ、もう多紀くんのこと帰せないね」
「そうだよ」
手をつないで、肩にもたれかかりながら。
君の体温にほっとする。
もう帰せない。
多紀くんが隣にいれば、俺は呼吸ができる。眠れるし、食事もできて、仕事もたちどころにうまくいく。多紀くんがいないと何もできないポンコツで、何もかもうまくいかない。
多紀くんと出会う前にどうやって生きてきたのか、多紀くんと会えなかったときに、多紀くんの不在になぜ耐えられたのか、今となっては思い出せないし、信じられない。
君は俺のすべて。
あと数分で電車が来る。人も増えてきている。
でも、あと少しだけ。
<最終章(全八話)に続く>
「家族、やり直してくるって、どういうことです?」
俺は言った。
「お母さんが言っていたとおり、川越でみんなで暮らしてさ」
「聞いていたんですか」
「ごめん。まだかなと思って、ドアを開けちゃった。すぐ閉めたけど。あのさ、やり直してきて、いいよ。最初はぎこちないかもしれない。でも慣れるよ。多紀くんならきっと大丈夫だよ」
「……でも、和臣さんは?」
「俺は来れないよ」
「そんなの、和臣さん、ひとりぼっちになるじゃないですか」
「大丈夫だよ。俺たち、離れ離れで暮らしている期間が長いし、すぐに慣れると思う。俺、ちゃんと我慢できるよ。前の状況とは違うもの。職場が近いんだから、会社帰りに会えるし、泊まりたいときはうちに泊まればいい」
家族をやり直すのは遅いと考えているかもしれない。中高生ならともかく、立派な成人男性だから。
それでも、やり直す機会があるのならば、きちんと考えるべきだと俺は思う。こじれた気持ちは正しておいたほうがいい。家族も、仕事も、大学もそう。
何も、何一つ遅くなんてないんだ。
多紀くんに幸せになってほしい。恋人としての地位を手放せない俺に唯一できること。
「多紀くんの気が済んだら、いつだって戻ってきてよ」
多紀くんは苦笑している。
「いやーどうですかねぇ。あんなの、母親のただの思いつきですし。どうだか。それに、和臣さん、平気なんですか?」
「努力する……」
多紀くんは俺の手を掴んだ。滑り込むように握ってくる。
もう片方の腕で、膝に片肘をつきながら、俺を見つめている。
そして言った。
「和臣さんだけじゃない。俺だって平気じゃないです」
「やり直す気はないの?」
「何もかも今更なんですよ。他人と暮らすなんて面倒です。あのひとたちと家族ごっこするより、今の生活のほうが大事です。あと、母親の作るメシより、和臣さんのメシのほうが、はるかに美味しいです。会社も遠いし。これから先の人生のほうが長いんだし。定年まで勤めたいですし」
「通勤は不便だよね」
「俺にも実家があって、時々顔を見に行くだけで充分です。……というか、本気で言ってるんですか?」
「……」
「なんで今更、俺から離れようとするの」
俺は、誰も俺たちを見ていないことを確認する。多紀くんも同じように周囲を確認している。
そして、お互いに顔を近づけて目を閉じてキスをした。多紀くんの唇に触れる。
なぜ満たされるのか知らないまま、黙って口づけ合った。
唇を離すのにさえ一苦労。頬を染めていて可愛い。
「俺がいなかったら、しなしなに萎れるくせに。あっ、試したんじゃないでしょうね」
もちろん試した。俺が誠実になれる日は遠いね。
だけどこの提案を口にする瞬間は、多紀くんが俺ではなく家族を選ぶ覚悟は持っていた。
結果には満足している。
「……実家に帰りますって言われたらどうしようかと思ってた。だから先に言った。多紀くんがその気になるようなら、やっぱりやめてって泣き叫んでいたかも。九十パーセントぐらいの確率で」
「九十パーセントって、降水確率なら確実に降りますね」
「本当に、いいの」
「帰るのもありですよ?」
「冗談は許さないよ。本気で聞いてるんだよ。多紀くんが、どうしたら幸せになれるのか、俺なりに考えてるんだよ」
この世界のどこを探したって、多紀くんのことをいちばん好きで、いちばんに多紀くんと一緒に暮らしたいのは俺なんだ。お母さん以上。わかっているだろうね。
多紀くんの顔を覗き込む。わかっている。そういう表情。
あ、試したな。俺のこと。
多紀くんは目を細めて俺を見つめて、幸せそうに微笑んでいる。
「母さんに言ったんです。和臣さんと一緒にいたいって」
「多紀くん」
そんな言葉を、そんな顔で言われたら、困るよ。毎日好きなのに、これ以上好きになったらどうするの。
苦しくて胸が痛い。
「お母さん、大丈夫だった?」
「卒倒してました」
「大丈夫じゃないね……」
「うーん、ショックって感じじゃなかったんで。喜んでた? のかな? あとは義父に任せてきました」
多紀くんは、はにかんで言った。
「俺、和臣さんといます。ひとりで待ってるんですから、早く帰ってきてくださいよ」
「うん……じゃあ、もう多紀くんのこと帰せないね」
「そうだよ」
手をつないで、肩にもたれかかりながら。
君の体温にほっとする。
もう帰せない。
多紀くんが隣にいれば、俺は呼吸ができる。眠れるし、食事もできて、仕事もたちどころにうまくいく。多紀くんがいないと何もできないポンコツで、何もかもうまくいかない。
多紀くんと出会う前にどうやって生きてきたのか、多紀くんと会えなかったときに、多紀くんの不在になぜ耐えられたのか、今となっては思い出せないし、信じられない。
君は俺のすべて。
あと数分で電車が来る。人も増えてきている。
でも、あと少しだけ。
<最終章(全八話)に続く>
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