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第弐話/へっつい幽霊・終章
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一
「すいやせんね桔梗さん、わざわざ来てもらっちゃって」
「いえ、荷物を取りに来るついででしたから、いいんですけど。それより新八さん、相談したいことって、いったいなんですか?」
本所のナメクジ長屋を月が照らす。
焼けた新八の部屋には、さっそく大工の手が入り、使えそうな木材と、そうでない木材が選られていた。
だいぶ焼けてしまったので、桔梗の部屋の壁ごと作り直しである。
隣の部屋の桔梗は、大工の作業が終わるまで、大家の所有する、もうひとつの長屋に避難していた。
新八に呼び出され、やってきたのである。
「ちょいと桔梗さんに、この部屋の竃について、見ていただきたいことありまして……ええ」
桔梗に気付かれないように新八は、脇に立ててある衝立をツツッとズラす。
「ああっ! で…出たッ」
「ええっ?」
「ほらそこ、そこに幽霊が!」
新八が指した障子に映る、ぼんやりとした幽霊の影。
しかし桔梗は視線を一瞬、衝立に移した。
その桔梗の動きを見逃さず新八、
「どうして衝立を見たんです?」
「え? あ、あたし衝立なんか見たかしら……」
新八が衝立をバンとはじき飛ばす。
現れたのは幻燈。
「これで幽霊を障子に映してたんですよ───桔梗さんがやったようにね」
「な、なんのことかしら。こんな絡繰り、初めて見たし」
「衝立をズラすことで、幽霊を出したり消したりしてた……違いますか桔梗さん? いや、お加代さんと呼んだほうが良かったかな」
新八の言葉に、一瞬言葉に詰まった桔梗は、しかし絞り出すように呻いた。
「……やめてください。あんな人殺しの娘の名前で、あたしを呼ばないで! あたしにとって桔梗の名前だけで充分なんだから」
「人殺し? するってぇと大河屋はやはり……」
「あいつは、おっかさんを殺したんです! そしてあたしまでも」
桔梗の言葉には、虚飾も誤魔化しもないように、新八には聞こえた。
新八は桔梗は促した。
「理由を詳しく、聞かせてもらえますか?」
二
「中山道は守山宿の道端に、捨てられていたあたしは運良く、旅芸人の夫婦に拾われました」
赤ん坊の桔梗──この頃は加代と名付けられていたが、首には帯紐が巻き付いていた。
苦しそうに泣く赤ん坊を見つけたのは、旅芸人の夫婦であった。
つい七日前に乳飲み子を亡くしていた夫婦にとって、生まれ変わりに思えたのだろう。
必死で介抱した赤ん坊を、捨て子として役人に届け、その上で引き取りたい旨も願い出た。
願いは聞き届けられ、赤ん坊は見つけた場所に生えていた、花の名にちなんで桔梗と命名された。
「上方で何も知らないまま、元気に育てられましたよ。お父つぁんもおっかさんも、優しかった。でも流行病で逝った母が、死ぬ間際に話してくれたんです」
そのまま墓場まで持っていくこともできたが、どんな縁があるかわからない。
育ての親としては、伝えずにはおれなかったのだろう。
「私が山の中で拾われたこと。そして首には、帯が巻き付いていたこと。きっと大河屋があたしを殺そうとしたんでしょう」
「首を絞められて、一度は息が止まった。でもしばらくして、息を吹き返してしまったんでしょうね。人を絞め殺そうとして、よくある話です」
そこまで説明して、新八は浮かんだ疑義を口にした。
「でも待ってくださいよ。桔梗さんも育ての親も、大河屋のことなんざ、知るよしもなかったはずだ」
「隠し通すこともできたでしょうに、
「あたしが江戸に出てきてから偶然住み着いたのが、産みの親が殺されたこのナメクジ長屋だったんです」
「先の間借り人に挨拶に行ったら、あたしの顔を見るなり卒倒しちゃって」
「お菊婆ぁが言ってたな。幽霊見て、驚いて死んだって。ありゃあ、桔梗さんを見て二十年前に死んだ妾──桔梗さんの実のおっかさんが化けて出たと思ったんだ。ひょっとして、大河屋に殺しの片棒を担がされてたのか?」
「かもしれません。変に思ったあたしは、横丁のご隠居さんに聞きに行ったんです」
桔梗の顔を見て、隠居も驚いた。
「死んだおっかさんに瓜二つじゃ……って驚いて、ご隠居さんはすべて教えてくれましたよ」
「それで幽霊騒ぎで大河屋をおびき寄せたって訳ですかい。」
「あいつ、あたしの顔見たら息も止まらんばかりに驚いてましたよ」
幽霊をよそおった風貌の桔梗を見て、大河屋は恐怖に引きつった顔で、すべてを白状したらしい。
「ゆ、ゆるしてくれ。俺が悪かった。成仏してくれ!」
「なぜ殺した? あたしばかりか赤ん坊まで?」
「一からやり直したかったんだッ」
「許せない……許せないッ!」
そんな会話が、桔梗が化けた幽霊と大河屋の間であったそうである。
「樫の心張り棒で大河屋の頭を殴り、気絶させた? だが力を入れすぎて、桔梗さんは指を怪我してしまった」
「燃えやすい膠の紐で両手を縛り上げて、あとは新八さんの考えたとおりです」
目隠しされた上、首に繩をかけられ文机の上に乗った大河屋は。
やがて気がつき、動いたはずみに文机から転げ落ち、首を吊られる形となった。
必死で暴れるが、泡を吹いて絶命。
「あとは、蝋燭を使ってしばらくして撒いた油に火が燃え移れば、桔梗さんは疑われない」
「もっとも使ったのは蝋燭じゃなくって、線香でしたけどね」
どこか他人事のような笑みを浮かべて、桔梗は淡々と語った。
三
「な、なにするんですか桔梗さん!?」
いきなり桔梗が肩をはだけたので新八は、脳天から出たような、裏返った声を上げた。
桔梗の肩から背中には、赤い痣が広がっていた。
思わず息を呑む新八。
「母親が妊娠中に火事を見ると、子供に痣ができるって言うでしょ? 私は二度殺され、二度生き返ったんです。これって偶然だと思います? たまたま私が息を吹き返し、たまたま育ての親に拾われて、たまたま江戸に出てきて住んだ所が、おっかさんが殺された長屋。導きとしか考えられないじゃないですか?」
「たまたまが重なっていいのは二回までだと、師匠の座付き作家が言ってました」
「あの幽霊の声は?」
「私は殺された……上手いもんでしょ」
「桔梗さんの腹話術?」
「育ての親がこの体を不憫に思って独りでも生きていけるようにと、色々な芸を仕込んでくれましたからね。腹話術もそのひとつ」
「桔梗さん、自首してくれ! 御上にだって慈悲はある。親殺しは滞在だが、事情が事情だ、遠島ですむかもしれない。そしたら俺は……」
「俺は?」
「帰ってくるまで、ずっと待ってる!」
切ない微笑みが桔梗の顔に浮かんだ。
と、突然に懐剣を抜き放ち、頸動脈を掻き切った。
「桔梗さんッ!」
あっという間に胸を濡らす大量の血、崩れ落ちる桔梗を抱きかかえる新八。
「なんてことを……なんてことを!」
叫びながらも新八は、傷口を手で抑える。
少しでも失血を少なくする、止血術である。
「ここの近くの医者は……番太に聞くのが早えか!?」
桔梗を抱えて駆け出す新八に
失血で朦朧となりながら桔梗は
「ご隠居さんは…あたしの身代わりに…なってくれただけなの。だから…」
「心配いらねぇから、万事おれが上手く御役人には話をする。こう見えても、兄貴は八丁堀の同心だからよぉ」
「ごめんなさいね、巻き込んじゃって……」
「もう喋るなよ。い…今、医者がいるところへ」
「ま、待ってるって言ってくれて嬉しかった。あ、ありがと…う……」
弱々しくなる桔梗の声に新八、遮二無二走るしかできなかった。
「桔梗さぁんッ!」
四
あれから三日。
土手に座り、元気なく『金明竹』をくっている新八がいた。
「──柄前はな、旦那はんが古鉄刀木言やはって…」
だが、声に張りはなく、気持ちも入っていない。
いつの間に現れたのか、横丁の隠居が隣りに腰を降ろした。
「落語の稽古かい? よく通るいい声じゃないか」
「でも身が入らなくって。それより御隠居、すいませんでした」
「なぁに気にしなさんな、わしが勝手にやったことだ。こうやって、調番屋の牢から返されたしな」
調番屋とは、江戸市中に設置された、犯罪の被疑者を拘留するための施設のことである。
江戸の町々にあった自身番屋だったが、留置のための設備がある広いものを調番屋あるいは大番屋と呼んだ。
「それにおまえさんの見立て、まんざら外れでもなかったしな」
「え? そうなんですか。」
「わしは桔梗さんの母親に、惚れとった。だが向こうは大店の妾、こっちはまだしがない建具屋ではな。どうすることもできなくてなぁ。そのうちにあのボヤ騒ぎだ。わしにできたのは、あの女の成仏を、願うことだけさ」
「だから浅草寺のお札とお参りを…」
「わしがもっと早く気付いていれば、桔梗さんの復讐だって止められたんじゃ。わしの昔話を聞いた桔梗さんの顔は、尋常じゃあなかった」
「それで、身代わりに?」
「どうせ老い先短い命だしな。桔梗さんが黙ってれば、丸く収まる」
「あっしは桔梗さんの気持ちも、ご隠居さんの気持ちもなんにもわかっちゃいなかった。師匠にも、人の心の裏の裏を抉るのが落語だって、さんざん言われてるのに。噺家が聞いてあきれる」
「そう責めなさんな。これからじゃよ、おまえさんは。世の中の酸いも甘いも味わって、しっかり稽古に励みなよ。今度、寄席に聞きに行かさせてもらうよ」
それだけ言うと隠居は立ち上がり、横丁の家に去って行った。
仰向けに寝転がった新八は、しばらく虚空を眺めていたが。
身を起こすと再び『金明竹』をくい始める。
「──やっぱりありゃ埋れ木じゃそうて、木ィがちごうて木ィがちごうて……」
新八の頬に涙がつたった。
『右喋捕物帳』第弐話/へっつい幽霊(終)
「すいやせんね桔梗さん、わざわざ来てもらっちゃって」
「いえ、荷物を取りに来るついででしたから、いいんですけど。それより新八さん、相談したいことって、いったいなんですか?」
本所のナメクジ長屋を月が照らす。
焼けた新八の部屋には、さっそく大工の手が入り、使えそうな木材と、そうでない木材が選られていた。
だいぶ焼けてしまったので、桔梗の部屋の壁ごと作り直しである。
隣の部屋の桔梗は、大工の作業が終わるまで、大家の所有する、もうひとつの長屋に避難していた。
新八に呼び出され、やってきたのである。
「ちょいと桔梗さんに、この部屋の竃について、見ていただきたいことありまして……ええ」
桔梗に気付かれないように新八は、脇に立ててある衝立をツツッとズラす。
「ああっ! で…出たッ」
「ええっ?」
「ほらそこ、そこに幽霊が!」
新八が指した障子に映る、ぼんやりとした幽霊の影。
しかし桔梗は視線を一瞬、衝立に移した。
その桔梗の動きを見逃さず新八、
「どうして衝立を見たんです?」
「え? あ、あたし衝立なんか見たかしら……」
新八が衝立をバンとはじき飛ばす。
現れたのは幻燈。
「これで幽霊を障子に映してたんですよ───桔梗さんがやったようにね」
「な、なんのことかしら。こんな絡繰り、初めて見たし」
「衝立をズラすことで、幽霊を出したり消したりしてた……違いますか桔梗さん? いや、お加代さんと呼んだほうが良かったかな」
新八の言葉に、一瞬言葉に詰まった桔梗は、しかし絞り出すように呻いた。
「……やめてください。あんな人殺しの娘の名前で、あたしを呼ばないで! あたしにとって桔梗の名前だけで充分なんだから」
「人殺し? するってぇと大河屋はやはり……」
「あいつは、おっかさんを殺したんです! そしてあたしまでも」
桔梗の言葉には、虚飾も誤魔化しもないように、新八には聞こえた。
新八は桔梗は促した。
「理由を詳しく、聞かせてもらえますか?」
二
「中山道は守山宿の道端に、捨てられていたあたしは運良く、旅芸人の夫婦に拾われました」
赤ん坊の桔梗──この頃は加代と名付けられていたが、首には帯紐が巻き付いていた。
苦しそうに泣く赤ん坊を見つけたのは、旅芸人の夫婦であった。
つい七日前に乳飲み子を亡くしていた夫婦にとって、生まれ変わりに思えたのだろう。
必死で介抱した赤ん坊を、捨て子として役人に届け、その上で引き取りたい旨も願い出た。
願いは聞き届けられ、赤ん坊は見つけた場所に生えていた、花の名にちなんで桔梗と命名された。
「上方で何も知らないまま、元気に育てられましたよ。お父つぁんもおっかさんも、優しかった。でも流行病で逝った母が、死ぬ間際に話してくれたんです」
そのまま墓場まで持っていくこともできたが、どんな縁があるかわからない。
育ての親としては、伝えずにはおれなかったのだろう。
「私が山の中で拾われたこと。そして首には、帯が巻き付いていたこと。きっと大河屋があたしを殺そうとしたんでしょう」
「首を絞められて、一度は息が止まった。でもしばらくして、息を吹き返してしまったんでしょうね。人を絞め殺そうとして、よくある話です」
そこまで説明して、新八は浮かんだ疑義を口にした。
「でも待ってくださいよ。桔梗さんも育ての親も、大河屋のことなんざ、知るよしもなかったはずだ」
「隠し通すこともできたでしょうに、
「あたしが江戸に出てきてから偶然住み着いたのが、産みの親が殺されたこのナメクジ長屋だったんです」
「先の間借り人に挨拶に行ったら、あたしの顔を見るなり卒倒しちゃって」
「お菊婆ぁが言ってたな。幽霊見て、驚いて死んだって。ありゃあ、桔梗さんを見て二十年前に死んだ妾──桔梗さんの実のおっかさんが化けて出たと思ったんだ。ひょっとして、大河屋に殺しの片棒を担がされてたのか?」
「かもしれません。変に思ったあたしは、横丁のご隠居さんに聞きに行ったんです」
桔梗の顔を見て、隠居も驚いた。
「死んだおっかさんに瓜二つじゃ……って驚いて、ご隠居さんはすべて教えてくれましたよ」
「それで幽霊騒ぎで大河屋をおびき寄せたって訳ですかい。」
「あいつ、あたしの顔見たら息も止まらんばかりに驚いてましたよ」
幽霊をよそおった風貌の桔梗を見て、大河屋は恐怖に引きつった顔で、すべてを白状したらしい。
「ゆ、ゆるしてくれ。俺が悪かった。成仏してくれ!」
「なぜ殺した? あたしばかりか赤ん坊まで?」
「一からやり直したかったんだッ」
「許せない……許せないッ!」
そんな会話が、桔梗が化けた幽霊と大河屋の間であったそうである。
「樫の心張り棒で大河屋の頭を殴り、気絶させた? だが力を入れすぎて、桔梗さんは指を怪我してしまった」
「燃えやすい膠の紐で両手を縛り上げて、あとは新八さんの考えたとおりです」
目隠しされた上、首に繩をかけられ文机の上に乗った大河屋は。
やがて気がつき、動いたはずみに文机から転げ落ち、首を吊られる形となった。
必死で暴れるが、泡を吹いて絶命。
「あとは、蝋燭を使ってしばらくして撒いた油に火が燃え移れば、桔梗さんは疑われない」
「もっとも使ったのは蝋燭じゃなくって、線香でしたけどね」
どこか他人事のような笑みを浮かべて、桔梗は淡々と語った。
三
「な、なにするんですか桔梗さん!?」
いきなり桔梗が肩をはだけたので新八は、脳天から出たような、裏返った声を上げた。
桔梗の肩から背中には、赤い痣が広がっていた。
思わず息を呑む新八。
「母親が妊娠中に火事を見ると、子供に痣ができるって言うでしょ? 私は二度殺され、二度生き返ったんです。これって偶然だと思います? たまたま私が息を吹き返し、たまたま育ての親に拾われて、たまたま江戸に出てきて住んだ所が、おっかさんが殺された長屋。導きとしか考えられないじゃないですか?」
「たまたまが重なっていいのは二回までだと、師匠の座付き作家が言ってました」
「あの幽霊の声は?」
「私は殺された……上手いもんでしょ」
「桔梗さんの腹話術?」
「育ての親がこの体を不憫に思って独りでも生きていけるようにと、色々な芸を仕込んでくれましたからね。腹話術もそのひとつ」
「桔梗さん、自首してくれ! 御上にだって慈悲はある。親殺しは滞在だが、事情が事情だ、遠島ですむかもしれない。そしたら俺は……」
「俺は?」
「帰ってくるまで、ずっと待ってる!」
切ない微笑みが桔梗の顔に浮かんだ。
と、突然に懐剣を抜き放ち、頸動脈を掻き切った。
「桔梗さんッ!」
あっという間に胸を濡らす大量の血、崩れ落ちる桔梗を抱きかかえる新八。
「なんてことを……なんてことを!」
叫びながらも新八は、傷口を手で抑える。
少しでも失血を少なくする、止血術である。
「ここの近くの医者は……番太に聞くのが早えか!?」
桔梗を抱えて駆け出す新八に
失血で朦朧となりながら桔梗は
「ご隠居さんは…あたしの身代わりに…なってくれただけなの。だから…」
「心配いらねぇから、万事おれが上手く御役人には話をする。こう見えても、兄貴は八丁堀の同心だからよぉ」
「ごめんなさいね、巻き込んじゃって……」
「もう喋るなよ。い…今、医者がいるところへ」
「ま、待ってるって言ってくれて嬉しかった。あ、ありがと…う……」
弱々しくなる桔梗の声に新八、遮二無二走るしかできなかった。
「桔梗さぁんッ!」
四
あれから三日。
土手に座り、元気なく『金明竹』をくっている新八がいた。
「──柄前はな、旦那はんが古鉄刀木言やはって…」
だが、声に張りはなく、気持ちも入っていない。
いつの間に現れたのか、横丁の隠居が隣りに腰を降ろした。
「落語の稽古かい? よく通るいい声じゃないか」
「でも身が入らなくって。それより御隠居、すいませんでした」
「なぁに気にしなさんな、わしが勝手にやったことだ。こうやって、調番屋の牢から返されたしな」
調番屋とは、江戸市中に設置された、犯罪の被疑者を拘留するための施設のことである。
江戸の町々にあった自身番屋だったが、留置のための設備がある広いものを調番屋あるいは大番屋と呼んだ。
「それにおまえさんの見立て、まんざら外れでもなかったしな」
「え? そうなんですか。」
「わしは桔梗さんの母親に、惚れとった。だが向こうは大店の妾、こっちはまだしがない建具屋ではな。どうすることもできなくてなぁ。そのうちにあのボヤ騒ぎだ。わしにできたのは、あの女の成仏を、願うことだけさ」
「だから浅草寺のお札とお参りを…」
「わしがもっと早く気付いていれば、桔梗さんの復讐だって止められたんじゃ。わしの昔話を聞いた桔梗さんの顔は、尋常じゃあなかった」
「それで、身代わりに?」
「どうせ老い先短い命だしな。桔梗さんが黙ってれば、丸く収まる」
「あっしは桔梗さんの気持ちも、ご隠居さんの気持ちもなんにもわかっちゃいなかった。師匠にも、人の心の裏の裏を抉るのが落語だって、さんざん言われてるのに。噺家が聞いてあきれる」
「そう責めなさんな。これからじゃよ、おまえさんは。世の中の酸いも甘いも味わって、しっかり稽古に励みなよ。今度、寄席に聞きに行かさせてもらうよ」
それだけ言うと隠居は立ち上がり、横丁の家に去って行った。
仰向けに寝転がった新八は、しばらく虚空を眺めていたが。
身を起こすと再び『金明竹』をくい始める。
「──やっぱりありゃ埋れ木じゃそうて、木ィがちごうて木ィがちごうて……」
新八の頬に涙がつたった。
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