淀むモノクローム

古河さかえ

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第一章

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 有森はこれがすぐに夢である事が分かった。何故ならば過去に一度経験した事がある明確な記憶だったからだ。
 今から一年と少し前、組織に入り少しは慣れて来た頃の有森は一人で潜入任務についていた。組織に所属してはいたものの所詮はチンピラに毛が生えた程度の有森にとっては荷が重すぎた。潜伏が露見に腹に銃弾を受けつつ命からがら逃げ出すのが精一杯だった。
 幸いな事に盗み出す予定のフロッピーディスクに損傷は無く、追手から逃れた有森ではあったが、無事に組織に戻れるのかは天啓に委ねるしか無かった。
 汚水処理施設の建物陰に隠れ、連絡した救出が先か命が尽きるのが先かと息を潜めていた。
 幸いな事に降り続く雨の影響で視界は悪く、有森は追手に見付かる事は無かった。それは同時に救出に来た組織の人間にも見付けられない可能性も孕んでいた。
 やりたい事も守りたい物も特には無かった。中学を卒業後、高校に進学する気が無かったので適当にチンピラ紛いの事をして生計を立てていたところを今の組織にスカウトされた。手柄を立てて昇進をしたいなどという野望も無い。毎日食べていけるだけの稼ぎがあれば充分だった。有森はそれほど自身の生に執着が無かったのだ。
 雨は容赦無く有森の体力を奪っていく。血はもう固まったが、銃弾は腹に残ったままだった。
 数日間碌に物を食べていない。雨に打たれ続け水分にだけは困っていなかった。
「――誰か、そこに居るの?」
 草を踏みしめる音を聞き有森は咄嗟に胸元に手を入れるが、拳銃を掴み相手へと向ける体力が残っていない事に気付いた。
 その時、雨は疎らとなり重苦しい雲の切れ間から久しぶりの太陽が覗き始めた。
 有森は少女に後光を見たのだった。それは明らかに偶然によるものではあったが、有森からしてみれば彼女の事が神や天使に見えた事だろう。体を支える事すらままならず倒れ込んで肘をつく。
 淡い金色の髪は緩く波打ち、彫刻のように整った顔立ちをした少女だった。制服を着ている事から学生である事が分かる。少女は有森の様子を伺うように一歩ずつ近寄る。濃い影と有森自身の着衣が黒い事から気付き辛かったが、出血している事に気付くと血相を変えて踵を返した。
 警察を呼ばれてしまえば任務失敗どころの話ではなくなる。腕だけを懸命に前へと着き前進しようとするも有森の意識は徐々に白んでいく。

 結論として、有森は助かったのだ。
 次に目を醒ました時、有森は見知らぬベッドの上に居た。傍らには開いたままの文庫本を膝に置き、うとうとと船を漕ぐ少女の姿があった。
 ベッドの中で身動ぐ有森の気配に気付いたのか、少女は浅い眠りから浮上すると寝起き顔のまま薄く笑みを浮かべる。
「おはようございます」
「……此処は、何処だ」
 絞り出した声は掠れていた。肘をつき身を起こそうとすれば腹部に走る激しい激痛。思わず眉を顰めると少女は慌てて支えるように有森の体に手を添える。
「無理しないで下さい。また傷口が開いてしまいます」
「君は……誰だ。何故俺を助けた」
 拘束をされている様子も、監視をされている様子も見受けられない。少女は警察を呼びに行かず引き返した後自分の事を助けたのだろうと有森には容易に想像がついた。親切にも腹部の怪我も治療が施されている。薄い掛け布団を捲ってみれば腹部に巻かれた包帯にはじんわりと血が滲み始めていた。
 有森の問い掛けに対し少女はきょとんと目を丸くしたがすぐに軽い笑みと共に首を傾ける。
「怪我をしている方を助けるのは当然の事でしょう?」
「質問に答えろ。お前は誰で此処は何処だ」
わたくしは華月と言います。此処は私の部屋で、お世話になっている方のお家ですが心配は要りませんよ」
 懸念を見透かすかのような言葉に有森の布団を握る手に力が入る。
「此処の家主の方は警察沙汰になる事が嫌いなの。だから安心して良いんですよ」
 先程までより僅かに砕けた口調となった華月は読みかけの文庫本を両手で閉じベッド側に置かれた椅子から立ち上がる。十畳余りのその部屋はアンティーク調の家具で統一されておりカーテンや鏡、小物は少女らしさのある可愛いものだった。
 警察沙汰を避けたがる家主というものは別の不安が浮上しても来るが、現段階では追手や警察に捕まる可能性が無い事を理解するとようやく有森から緊張の力が抜ける。
「……すまない。助か、った」
「いいえ、どう致しまして。差し支えなければ貴方のお名前を伺っても良いかしら?」
 見た目からしても中学生程度にしか見えない華月であったが、年齢にそぐわずしっかりとした言葉遣いに有森は感心を抱いた。良家の子女だろうか、それでいて警察の介入を避けたがるという事は悪どい家業ではないかと勘ぐれたが、華月の口振りからは此処が実家という形では受け取れなかった。世話になっているという表現から監禁、ないしは軟禁も想定出来たがどうにもそういった事件に巻き込まれている被害者としてのイメージが一致しない。
「有森……有森柾だ」

 有森にとって華月は何処か世俗からずれた少女だった。何故あんな所で深い怪我を負っていたのか、仕事は何をしているのか、そういった事には一切踏み込まず有森の傷が完治するまで甲斐甲斐しく世話を焼き続けた。その間家主とやらは一度も顔を見せる事が無く、やがて完治した有森が家主に礼を言いたいと申し出ても華月はやんわりとそれを断った。
 一年も前の、それもたった数日間の出来事だった。しかしたったそれだけの接点であっても華月の存在は後の有森に大きな影響を与えたのだった。
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