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第一章:追放の序曲
しおりを挟む王国歴五百六十七年、春。
首都リベルタは、四季の移ろいの中でも最も華やかな季節を迎えていた。街路には色とりどりの花々が咲き、貴婦人たちは刺繍の美しいドレスを揺らしながら、練り歩くように散策を楽しんでいる。商人たちは軒先を彩るように商品を並べ、互いに張り合うように声を張り上げながら客を呼び込む。この活気ある王都を見ていると、かつての戦乱がまるで嘘のように思える。
しかし、その華やかさの裏には、近年徐々に深刻化している問題があった。財政難と、隣国との緊張関係だ。とはいえ、外から見れば王国は平和そのもの。多くの庶民は、今日も美しい空ときらびやかな町並みを眺め、ほがらかな気分で一日を過ごす。
そんな首都リベルタのほぼ中心、石畳の大通りを北へ進んだ先にあるのが、大公爵家の一つであるカサノヴァ公爵家の本邸だ。ここは長大な塀と重厚な門、そして何面にも広がる美しい庭園に囲まれており、ひと目で「由緒正しき貴族の館」であることを悟らせる。その館の中庭には色鮮やかなバラが咲き誇り、噴水の脇では小鳥たちが翼を休めるかのようにさえずりを響かせていた。
だが、カサノヴァ公爵家は近年、穏やかならぬ内部事情を抱えている。継承問題から、取り巻く政治闘争、そして何より――。
ヴァレリア・ド・カサノヴァは、庭園の一角にある白亜のパラソルの下で、静かに書簡を読みながら息をついた。
(また、無駄遣いをしているわ……)
手にしている書簡の内容は、王宮財務局から送られてきた最新の決算報告書だった。本来であれば、こうした報告書は各公爵家に共有されないような内部資料である。だが、ヴァレリアにはほぼ“公式”に近い形で目を通す権利があった。
理由は簡単だ。彼女自身が王太子殿下――エドワードの婚約者であり、王太子政務の裏方を手伝うほどの才女と目されているからだ。
ヴァレリアは薄く開いた唇の端をわずかに歪めると、書簡の最終ページをめくった。そこに記載されていたのは、王国内の収支バランス、主な歳出と歳入の比較、そして継続的な予算の増減状況。
(近年はパーティや祝賀行事に資金がかなり割かれている。王族の顔を立てる目的だとしても、やりすぎだわ。こんなに浪費ばかりしていれば、王国財政はじり貧になって当然。隣国との外交にも悪影響が出るでしょうに)
元来、カサノヴァ公爵家は財務に通じ、国内でも有数の経営手腕を持つ一族として知られている。ヴァレリアもその血を引くのか、幼い頃から数字の流れを読み解く才能が際立っていた。彼女が十四歳の時点で父の資料を読み漁り、分析結果を示したところ、カサノヴァ公爵家の年間収支を大きく改善させる案をいくつも提示してみせた――という逸話は、今でも内政を担当する官吏の間では語り草になっている。
だからこそ、王太子エドワードの婚約者として彼女が選ばれた際、多くの者が「王国の行く末は安泰だ」と期待を寄せた。実際、ヴァレリアは王太子の懐刀として、影から外交・財務について助言を与え、国政に少しずつ変化をもたらしている……そう思われていた。
しかし、近頃ヴァレリアは、その期待が“表面的”でしかなかったのではないか、と感じはじめている。自分の意見は王太子や一部の重臣からは疎まれがちで、むしろ浪費を促す勢力の声のほうが大きいのだ。
(エドワード様は、なぜこんなにも私の進言を聞き入れてくれないのでしょう? 私のことを、自分の正妻になるにふさわしい相手だと言ってくださったのは――あれは建前だったのかしら)
そう思うと、婚約者のはずのエドワードが、近頃は別の女性――下級貴族の娘であるセシリアを侍女として身近に置き、常に行動を共にしているという噂が頭をよぎる。
セシリアは男爵家の娘ながら、その類まれな美貌と柔らかな物腰で貴族社会に頭角を現し始めた、いわば“新進気鋭の貴婦人”だった。彼女はエドワードの庇護を得たことでさらに輝き、その存在感を増している。
ヴァレリアとしては、婚約者が侍女をはべらせること自体、今の貴族社会では決して珍しいことではないので、当初は大きな問題だとは思っていなかった。だが、最近では二人がまるで恋人同士のように寄り添い、エドワードがセシリアを同席させて公務に臨むことさえあるという。
(あのような軽率な振る舞いをすれば、いずれスキャンダルに発展する可能性があるわ。王宮の名誉にも関わる問題だし、民心だって良い感情は抱かない)
ヴァレリアは頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。こうした状況でも、彼女は公爵令嬢として、そして“未来の王妃候補”として、王太子や周囲を糾弾することは避けねばならない。
ただ、近頃の王宮での彼女の扱いは、冷遇とまではいかないものの、微妙に疎遠になりつつあるように感じられる。政務の場にも呼ばれたり呼ばれなかったりと曖昧で、彼女の助言を「優秀だ」と褒めそやす者と、「でしゃばりすぎる」と冷たい視線を向ける者が混在している。
公爵令嬢として一目を置かれながらも、決して好ましい存在ばかりではない。そんな空気を肌で感じつつ、ヴァレリアは胸中で小さく嘆息を漏らすしかなかった。
すると、彼女の背後から、柔らかな足音が聞こえた。振り返ると、メイド頭のイザベルが気遣わしげに近づいてくる。
「お嬢様、失礼いたします。表門のほうで、王宮の侍従長様がお見えになっておりますが――」
「侍従長のリュシアン様が? こんな朝早くに、いったい何かしら」
「それが……どうやら急ぎの用件があるようで、客間にてお待ちいただいております」
ヴァレリアはすぐさま書簡を閉じて立ち上がる。侍従長リュシアンはエドワードの側近であり、王宮でも高い地位にある人物だ。普段は滅多に自ら足を運ぶことはなく、なにか重大な要件がある場合にのみ直接来邸する。
――ざわり。
胸の奥に不快な予感が過ぎった。最近の王太子の態度に加え、宮廷の噂、そして財務局の状況……すべてがつながって、何か大きな動きが起こり始めているのではないだろうか。
ヴァレリアは冷静さを保ちつつ、足早に館の奥へと向かった。
カサノヴァ公爵家の客間は、白い大理石の床と優美なカーテン、そして壁際に並んだ金色の細工が施された調度品が印象的だ。そこに座っていたのは、深い紺色の衣服をまとった壮年の男性――侍従長リュシアンだった。背筋をピンと伸ばし、まるで彫刻のように微動だにしない姿は、さすが王宮の重職を担うだけの威厳がある。
「リュシアン様、本日はわざわざお越しいただきありがとうございます。何か緊急のお知らせでしょうか?」
ヴァレリアが落ち着いた声で尋ねると、リュシアンは一礼を返す。
「ヴァレリア様、ご無沙汰しております。王太子殿下のご用命により、直接お伝えすべきことがあり参上いたしました」
「王太子殿下の……どのようなお話でしょうか」
その瞬間、リュシアンはほんのわずかに口元を硬くした。表情には出ないように注意しているが、彼が言いづらいことを抱えているのは明白だ。
「恐れながら、ヴァレリア様に関する重大なご決定が下されました。王太子殿下は……本日をもって、あなた様との 婚約を解消 されるおつもりです」
客間の空気が凍り付いたように静まる。ヴァレリアは思わず一瞬だけ息を呑んだが、すぐに平静を取り戻そうと努めた。
「……婚約解消、ですか。理由は何でしょう? 王家から正式に婚約を取り消すとなれば、それなりの正当な根拠が必要なはず」
「はい。殿下は“ヴァレリア様が国政に口出しをしすぎている”“その言動が他国との関係を悪化させかねない”との懸念を表明されました。また、一部では“あなたが自らの利益のため、王宮の資金に不正に関与した”という疑惑も……」
「不正に関与、ですって……?」
信じられない内容に、ヴァレリアの胸は大きく上下する。そんな事実は断じてない。そもそも、彼女は王宮の財務局で正式な地位を得ているわけではなく、意見を求められたときに助言をする程度。資金に関与などできるはずがない。
(“私が財務を誤魔化した”というのは、あまりにも筋が通らない。誰がこんなデマを……)
だが、いまのエドワードの周囲を考えれば、その裏に誰かが暗躍し、彼を巧みに誘導することも不可能ではない。
リュシアンは続ける。
「ですが、公式な調査も行われず、いきなり婚約破棄とは私にも解せぬ点が多いのです。ただ、殿下は“王家の威信にかけて、ここで断固とした措置を取ることが必要だ”とも申されており……」
「わかりました。ですが、その話……私だけでは判断がつきかねます。父や母とも相談を――」
ヴァレリアが口を開こうとした瞬間、客間の扉が乱暴に開かれた。
「……ヴァレリア! お前、婚約解消になるそうじゃないか! しかも不正疑惑とは、いったいどういうことだ!」
怒号を上げながら入ってきたのは、ヴァレリアの父、カサノヴァ公爵その人だった。その後ろには彼女の母の姿もあったが、母は取り乱す夫を制止もできず、ただ深刻な表情を浮かべている。
「お父様……! 私も今聞いたばかりです。不正などするはずがありません。一体、誰がそんなことを……」
「父上、落ち着いてください。今まさにリュシアン様からお話を伺っていたところです」
「落ち着いてなどいられるか! 王太子殿下との婚約が破棄されれば、わがカサノヴァ家の威信は地に落ちる。公爵家と言えど、宮廷での発言力は大きく低下し、我々の政治的地位も脅かされるのだぞ」
「それは重々承知しています。ですが、私は身に覚えのない罪を着せられているのです。きちんと真実を明らかに――」
父は激昂していた。もともと公爵家の家長である彼は、プライドが高く、一度怒りをあらわにすると周囲の声を聞き入れにくくなる。
「いいかヴァレリア。不正疑惑などという汚名を着せられたまま、じっとしていては駄目だ。まずは王太子殿下に直接、誤解だと弁明せよ。お前の才覚を信じ、これまで支援をしてきたのに……」
「父上、ご安心ください。わたくしもこのまま泣き寝入りするつもりはありません。そもそも、私は何の不正もしていないのですから」
ヴァレリアは目を伏せ、一度唇を噛んで深呼吸をした。この場で取り乱していては何も解決しない。まずは事実関係をきちんと調べ、王宮に行ってエドワードに直接問いただすのが筋だ。
リュシアンは、場の険悪な空気を感じ取りながらも、職務上の責務を果たすように告げる。
「公爵閣下、奥方様。お騒がせして申し訳ありません。今回、王太子殿下がおっしゃるには――“婚約解消に伴い、ヴァレリア様には自宅謹慎し、後日、王宮で正式に裁定を下す”そうです。異議があるなら、裁定の場にて正々堂々と申し立てを行え、と」
「……なるほど。つまり、強引にでも婚約を破棄する構えなのですね」
ヴァレリアは苦い表情でうなずく。自宅謹慎などという処分を下されれば、事実上“ヴァレリアは罪人同然”だと宣言されたも同じだ。王宮に顔を出すことも制限され、公的な反論の機会もきわめて限られる。
公爵は苛立ちを隠せないまま、リュシアンに詰め寄った。
「リュシアン殿。これは殿下がセシリアとかいう女に入れ知恵されているのではないのか。あの女はどうにも胡散臭いし、他の貴族とつるんでいるとの噂もある。まさか、そちらがヴァレリアを陥れようとしているのでは?」
「私も疑念は拭えません。しかし、現状では証拠がなく、何とも……。ただ、国政に関与する者として一言申し上げると、もしも不正疑惑が表面化し、マスコミや他国から追及される事態となれば、王太子殿下が世論を騒がせぬために、ヴァレリア様を“スケープゴート”にする可能性は大いにあります」
公爵は拳を握りしめ、テーブルを強く叩いた。その響きが客間に不穏な沈黙をもたらす。ヴァレリアは父の感情的な行動を止めるため、静かに立ち上がると、一同に向かって話し始めた。
「とにかく、冷静になりましょう。私から見ても、これは何者かの陰謀か、少なくとも恣意的な流れです。公正な調査を求めるためには、むしろ今は下手に動かず、裁定の場を待つしかない。そこで証拠や論理を積み上げていけば、不正が事実でないことを示すことはできます」
「ヴァレリア、しかし……このまま座して待てというのか?」
「そうです。下手に動けば、余計なスキャンダルをでっち上げられる可能性があります。もし私が動揺して、軽率な行動に出れば、それこそあちらの思う壺。だから今は、私も自宅で待機し、証拠を整理する。敵の正体を突き止める手段を探らねばならないでしょう」
強い決意を感じさせるヴァレリアの言葉に、公爵はどうにか我を取り戻したように見えた。一方、侍従長リュシアンは深く息をつき、沈痛な面持ちを浮かべながらも、彼女に少しだけ尊敬の眼差しを向ける。
「ヴァレリア様……あなたはいつもながら冷静でいらっしゃる。どうか、お体に気をつけて。王宮での裁定の際には、私もできる限り公正を期すよう動いてみましょう」
「ご配慮に感謝いたします、リュシアン様」
そう言って会釈を返すヴァレリアの姿には、ただの貴族令嬢とは思えない威厳があった。ともすれば、彼女こそが王国の女王に相応しい――そう思う者は多い。それはリュシアンも同じだろう。しかし、現実は無情にも彼女を排斥しようとする流れに傾き始めている。
侍従長が公爵家を辞すると、館は大きな重苦しさに包まれた。公爵は奥方を伴って執務室へと戻り、今後の対策を協議するために家臣を招集すると言い残す。ヴァレリアもそれに加わりたいと思ったが、今回の件は彼女自身が当事者であるため、むやみに動くよりは状況を見極めようと考えた。
そして、その夜。
父との亀裂
日も落ち、館の灯りが少なくなった頃、ヴァレリアは一日の疲れを癒やすため自室に戻っていた。使い慣れた机の上には、彼女が常日頃から整理している財務分析の資料、国内の各領地の経済状況を示した地図、そして王宮関連のデータなどが山積みになっている。
その書類の山を見つめながら、ヴァレリアの胸には焦りや憤りが広がっていた。
(私は、この国のために力を尽くしたかっただけなのに――どうして、こんな扱いを受けなくてはならないの)
誰にも聞かれぬように小さく呟いたその声には、悲しみが滲んでいた。
王太子の婚約者という立場を得たとき、ヴァレリアは確かに胸躍る気持ちがあった。ただの恋愛感情というよりは、「自分の能力を活かして、この国をより良い方向へ導きたい」という使命感に近いものだった。
エドワードが当初、彼女の意見に「すばらしい」と賛同していたのも事実であり、二人の関係は順調に進んでいるように思えた。しかし今となっては、すべてが遠い昔の話のようだ。
ふと、ノックの音が聞こえる。
「ヴァレリア、少しいいか」
戸口に立っていたのは父だった。先ほどまで苛立ちに満ちていた様子から一転、今は少し疲れきった表情を浮かべている。
「ええ、構いません。……どうぞ、お入りください」
静かに部屋に入ってきた父の足取りは重く、まるで何かを懺悔するかのように俯いている。
「ヴァレリア……先ほどは取り乱してすまなかった。お前を責めるつもりなどなかったが……我が家の名誉が大きく傷つくかもしれないと思うと、つい気が高ぶってしまったのだ」
ヴァレリアは小さく首を振る。
「いいんです。私も驚きましたし、父上が焦るお気持ちもわかります」
父はヴァレリアの隣へと腰を下ろし、苦しげに言葉を継いだ。
「お前がどれほどの才女かは、私が一番よく知っている。幼い頃から、数字や本を読み解くのが好きで、貴族の子息が嫌がるような勉強も進んで取り組んできたな。特に商会や税制の仕組みを理解し、我が家の財政にも大いに貢献してくれた」
「……はい。父上は私のことを認めてくださった。だから私は、それに応えたいと努力してきたつもりです」
「そうだ。だからこそ、王太子殿下の婚約者となったときは、私も心から誇りに思った。お前の才覚が、より大きな舞台で活かされると期待したのだ。それなのに――」
そこで父は言い淀んだ。そして、どこか言いにくそうに視線をそらす。
「……王太子殿下からお前を守ることができなかった。私は公爵家として、もっと早くに手を打つべきだったかもしれない。お前に迷惑をかけて、申し訳ない」
「父上……」
珍しく弱音を吐く父の姿に、ヴァレリアは胸が締め付けられるような思いだった。きっと、父としても自分の娘が根拠のない罪で婚約破棄されるなど、本心では耐えられないのだろう。
しかし、彼は続けて言う。
「ただし、これから我が家としても後手は踏めない。万が一、王家が強硬策に出て“お前を国外追放”などと言い出したとしても、カサノヴァ家を守るために、やむを得ずお前を切り捨てる可能性だってある」
「……父上が、私を切り捨てる?」
「言い方は酷いが、これが現実だ。公爵家は歴史ある名門。私には代々続く家名を存続させる責任がある。娘を守れるのなら守りたいが、家のすべてを失うわけにもいかない」
その言葉を聞いたとき、ヴァレリアはまるで胸に鋭い棘が突き刺さるような痛みを感じた。
(結局のところ、私は“公爵家の娘”という肩書でしかなかったの? 父も母も、私のことを大切にしているように見えたけれど……家名を守るほうが優先なのね)
公爵家に生まれた以上、ある程度の政治的取引の駒になることは、幼い頃から覚悟していた。だが、こうもあっさり“切り捨てる”という言葉を聞かされると、さすがのヴァレリアも心が震える。
父は苦しげな表情を浮かべながらも、決意を込めて告げる。
「ヴァレリア、お前は私の誇りだ。だが、我が家も生き残るために必死だ。もしもの時は、どうか許してほしい」
その言葉は、父の愛情と同時に、どうしようもないほどの貴族としての論理を突きつけるものでもあった。
「わかりました。私も、そこは理解しているつもりです。万が一、私が国外追放されるような事態になったとしても……家を責めるつもりはありません。公爵家を守ることが、お父様の使命ですから」
そう答えるヴァレリアの声は震えていない――だが、その瞳の奥にはどうしようもない悲しみが宿っていた。
「……そうか。ありがとう、ヴァレリア」
父はそれだけ言うと、部屋を出て行った。静寂が戻った室内に、ヴァレリアは一人取り残される。
婚約破棄への序章
翌朝、ヴァレリアはいつも通り身支度を整えた。公爵家としての名に恥じぬよう、端正なアップスタイルにまとめた髪に、落ち着いたパステルカラーのドレス。かといって浮ついた印象を与えないよう、アクセサリーは最小限に抑えている。
しかし、その日から、彼女は事実上の“自宅謹慎”を命じられ、王宮へは行けなくなった。もしも無理に外へ出たところで「罪人が逃亡した」と噂されかねない。
ヴァレリアは庭園の片隅で、今日も書簡を整理していた。王宮からの正式な通知が来るまで待機するしかない以上、せめて自分にかけられた疑惑を晴らすための材料を集めておきたい。
すると、そこに現れたのは、館の使用人たち――ではなく、意外な人物だった。
「お嬢様、ご機嫌麗しゅう。今朝、こっそりとこちらに参りました。お嬢様の危機と聞きまして、じっとしていられなかったのです」
そう言って微笑んだのは、アデルという若い男だ。平民出身だが、ヴァレリアが王宮で見いだし、財務分析の補佐として時々一緒に作業をしていた。頭の回転が速く、数字の扱いにも慣れている。
「アデル……よく来てくれました。危ないところだったのでは? 私と関われば、あなたまで疑われるかもしれないのに」
ヴァレリアの言葉に、アデルはわずかに苦笑した。
「確かに、今の王宮には妙な空気が漂っています。ですが、私はお嬢様に受けた恩を忘れたわけではありません。お嬢様が困っているのなら、何か手伝いたいと思うのは当然です」
ヴァレリアは胸が熱くなるのを覚えた。自分を取り巻く人間の多くが掌を返して去っていく中で、こうして助けたいと名乗り出てくれる者がいる。それだけで、まだ希望は捨てていないと思える。
「ありがとう、アデル。では、さっそくお願いしたいことがあるわ。王宮の財務関連の書類で、私が触れたものとそうでないものの区別を確認してもらえるかしら。私にかけられた“横領や不正”という容疑がいかに的外れか、書類からも証明できるはず」
「承知しました。実は私もこっそり調べたのですが、お嬢様が関わったのはあくまで助言レベルで、正式な会計帳簿や領収書類へのアクセス権限はありません。むしろ不正を働きようがない、というのが実情です」
アデルがはっきり言い切ったことで、ヴァレリアの心にも少し光が差した。しかし、同時に別の疑問が浮かぶ。
(ならば、なぜ私に罪を着せようとするの? 私を王宮から排除したい理由……何者かにとって私は都合の悪い存在なの?)
考えられるのは、王太子の立場を守りたい取り巻きや、セシリアをはじめとする新たな権勢を狙う者たち。あるいは、もっと大きな陰謀があるのかもしれない。
ヴァレリアは唇を一度引き結び、決意を新たにした。
「アデル、あなたの協力はとても心強いわ。私も今、自宅でできる範囲で資料をまとめているところ。冤罪だと証明するには、客観的なデータが最も有効よ。よろしく頼みます」
「はい、お嬢様。やれるだけのことはやってみせます」
そう言うと、アデルはヴァレリアに敬意を表して微笑んだ。そして、できるだけ目立たないよう、短時間で必要な情報を共有すると、すぐに屋敷を後にする。
突きつけられた追放
――数日後。
王宮からの正式な呼び出しは突然やってきた。しかもその場は「婚約解消の通告」として、王族や重臣たちが集まる公開の場に近い形式で行われるという。
自宅謹慎を強いられていたヴァレリアは、公爵家の馬車に乗せられ、王宮の大広間へと連行されるような形で出向くことになった。まるで罪人の扱いだ、と不快に思いつつも、この場で感情を露わにするのは得策ではない。
大広間に足を踏み入れると、天井には豪華なシャンデリアがきらめき、壁には王家の紋章が誇らしげに飾られている。しかし、ヴァレリアを迎えた空気は冷淡なものだった。周囲には貴族や高官らが居並び、好奇の目を向けている。
正面には、王太子エドワードと、その傍らにセシリアが控えていた。セシリアは“侍女”というにはあまりにも派手な衣装と宝石を身につけ、まるで王太子妃のように誇らしげな表情を浮かべている。
(……やはり、あの女が裏で糸を引いているのでしょうか)
ヴァレリアは冷たい視線を向けるが、セシリアはそれをまったく意に介さず、勝ち誇った笑みを浮かべるだけだった。
一方、エドワードは厳かな声で宣言を始める。
「カサノヴァ公爵令嬢、ヴァレリア・ド・カサノヴァよ。そなたにかけられた不正の疑惑は、いまだ拭えない。よって、わたしはここに、王太子としての権限において、そなたとの婚約を正式に破棄することを宣言する」
その声が大広間に響き渡った瞬間、周囲がざわめく。王太子の婚約破棄など、めったに見られるものではない。貴族たちは耳を疑いつつも、その場のスキャンダラスな空気に興味津々という様子だ。
ヴァレリアは冷静さを保ちながら、はっきりと口を開いた。
「王太子殿下。不正疑惑というのは事実無根であると、私は何度も申し上げております。何ら正式な調査が行われていないのに、なぜ私だけが断罪されねばならないのですか?」
すると、エドワードの横に控えていたセシリアが、まるで“お手本のような上品さ”を装って言葉を挟む。
「まあ、ヴァレリア様。調査はしっかりと行われておりますのよ? ただ、あなたがいないところで進められただけのことでしょう? 結果として“疑わしい”と判断されたのです。お気の毒ですが……」
嫌味ったらしい口調に、周囲の貴族が含み笑いを漏らしたり、一方で「やりすぎでは……」と眉をひそめる者もいる。ただ、この場でセシリアに真っ向から反論できる立場の者はそう多くない。
ヴァレリアは瞳を伏せ、一瞬だけ感情を鎮めようとする。そして、視線をエドワードに向けて言った。
「殿下。私は確かに“将来の王妃”を目指し、財務に関する助言をしてきましたが、一度たりとも不正に手を染めたことはありません。もし、私からの申し立てを受け付けてくださらないのであれば、それなりの手続きを踏んでいただきたい。でなければ、あまりにも理不尽です」
その言葉に、エドワードはわずかに表情を曇らせる。もともとヴァレリアの有能さは認めており、完全に心を鬼にしきれないのかもしれない。だが――
「……わたしは王太子だ。理不尽であろうと、“王家の決定”は絶対だ。もしそなたが不満を抱くなら、そなたが提出した書類や助言の数々が、国政を混乱させた可能性があることをどう説明する? わたしは、他国との外交にも悪影響を及ぼすリスクを危惧している」
(結局……王太子としての権威を振りかざし、私を排除することを優先しているのね)
ヴァレリアは唇を噛んだ。
すると、エドワードのそばにいた文官らしき男が進み出て、さらに追い打ちをかけるように告げる。
「また、これまでにヴァレリア様と懇意にしていた貴族や商会のうち、いくつかは“裏帳簿”らしきものを提出してきました。そこには、“ヴァレリア様の指示で、資金が妙な形で動いていた”という記録が……」
「そんな……」
ヴァレリアは驚愕した。そんな裏帳簿など、聞いたこともない。誰かが偽造した証拠を提出しているのだろうか。
ざわめきが一気に広がる。さすがに、これほどの根回しがされているとなると、王太子殿下をはじめとする権力者が、綿密に計画したとしか思えない。
「よって、ヴァレリア・ド・カサノヴァには、婚約解消の上、賠償の責任を負っていただく可能性もある。わたしは寛大にも、まずは“国外追放”という形で済ませようと考えているのだが……どうか?」
“寛大にも”――と、エドワードは言った。だが、その実、これは一方的な決定だ。下手に拒否すれば、もっと重い罪を着せられかねない。まさに踏み絵を迫るような言葉に、ヴァレリアは眩暈を覚える。
(嘘……本気で私を国外追放にするつもりなの?)
父の言葉が脳裏をよぎる。王太子が強硬策に出たら、公爵家としてもヴァレリアを守れないかもしれない――と。
セシリアは勝ち誇った笑みを浮かべ、エドワードの腕に手を添える。
「殿下、私もそれがよろしいかと思いますわ。ヴァレリア様は国家に仇なす罪人となってしまったのですもの。追放が妥当ですわ」
まるで、王太子が下す決定を促すかのように囁くセシリア。それを優雅な微笑みで見つめるエドワード。
ヴァレリアの体は震えた。しかし、ここで涙を流し、絶望に打ちひしがれるわけにはいかない。公爵令嬢としての誇りを胸に、彼女は最後の力を振り絞って声を上げた。
「わかりました。私は無実ですが、王太子殿下がそこまでおっしゃるのであれば、これ以上抵抗しても無駄なのでしょう。……望むところです。国を出ていきます」
意外にも、ヴァレリアはそれを素直に受け入れた形をとった。周囲は驚きの声を上げる。まさか、彼女がすぐに折れるとは思わなかったのだろう。
しかし、その瞳は冷たく光っていた。
(思うがままに振り回してくれて……後で必ず、後悔させてあげるわ)
誰にも聞こえぬよう、心の中でそう誓うヴァレリア。彼女の胸中には今、怒りと悲しみ、そして強い決意が燃え上がっていた。
こうして、カサノヴァ公爵令嬢ヴァレリアは、婚約を破棄されるだけでなく、国外追放の処分を言い渡されることとなる――。
これは彼女が、すべてを奪われた先で掴む“新たなる運命”へと繋がる、始まりの物語である。
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