17 / 34
第五章 学術都市グンデシャープールと売淫の悪霊ジャヒー
017 売淫の悪鬼ジャヒーと学術の都
しおりを挟む「見えぬ。痕跡がどこにもない」
沼のように不透明な水鏡には、砂漠の水殿が映っている。クルシュ・サーレ家で見つけた光の痕跡を追っても、シャープール・ササーンの居場所を突き止めることはできなかった。
「おかしい。この世に影がない場所はない。結界でも張ったのか? ならば、しかたがない」
ラシュク・アスパンダーは召喚の呪文を唱える。言霊は禍々しい文字となり、水鏡に吸い込まれると、ベタベタとしたヘドロの塊が水鏡から浮かび上がり、次第に渦巻く人間の形へと変貌していった。辺りに腐敗した沼の匂いが充満する。ヘドロの塊はぼろりと崩れ、粘り気のある塊となって床に落ちた。もがき苦しみ、床を汚しながら転げまわると、肌色の皮膚が全身を覆い始め、金色の髪の毛が生えてくる。
苦痛に歪む唇に、まやかしの朱が滲む。やがて、その唇はにたりと妖しく歪んだ。
ゆらりと立ち上がる姿は、恐ろしいほどの臭気を放っていた。やがてぎょろりと青い硝子玉の目玉がラシュク・アスパンダーに向けられる。
辺り一面に、血液のようにまったりとして、甘みのある香りが広がった。世界の裏側に潜む女の匂い。穢れを孕んだ、危険な魔性。
「ジャヒー。泥から這い出て、美しい花を咲かす者よ。我が名はラシュク・アスパンダー。主として命じる。暗闇に結実せよ」
砂が視界を塞ぐ。
次の瞬間。
優美でしなやか——聖女のような笑顔を纏った女。
彼女の髪は茜色に輝き、青い瞳は穢れを知らぬ深い湖のように澄んでいる。
だが、生命を育まぬ慈悲の無い透明さ。また、枯れてもなお色を保つ花のようなものだった。
「お前に与える仕事がある」
「色が鮮やかな仕事ならいくらでも……。ラシュク様」
まるで、穢れを知らぬ乙女のような声を出した。乳白色の肌に差す色は、春の花のように鮮やかで可憐。
だが、一皮むけばヘドロのように腐ったものが詰まっていることを誰もが知っていた。
彼女は『性悪女』と呼ばれる悪霊。真っ白な乙女を偽り、人間を手玉に取る魔物だった。
「シャープール・ササーンを探し出し、ここに連れて来るのだ」
「やはり、殺せませんか? 貴方には」
「黙れ」
ラシュク・アスパンダーはジャヒーに向けて攻撃魔法を放つ。ジャヒーがぎりぎり躱すと、すぐ後ろの壁がヘドロに変わる。
「おお怖。狼の王の末裔であり、水の女神の血を引く者。――お気に召しませんか? 彼の姿は古代の女神に良く似ております」
「気に入らぬ。その姿で髪も瞳も狼の色をしている」
「ふふふ。仰せの通りにいたしましょう。貴方が昔の姿を取り戻した日には、私に情けをくださるのでしょう?」
「汚らわしい。だが、褒美としてなら応じる」
「嬉しい。わたくしはあの方の代わりでもかまいませんのよ」
品を作りラシュクにしなだれかかる姿はだらしなく、売淫の元締めに相応しい姿だった。ラシュクは嫌悪感を隠さずジャヒーを振り払う。ジャヒーはラシュクをぎりっと睨んだ。その容貌には、先程までのたおやかさは微塵も無く、毒婦さながらの卑猥さだった。
ジャヒーは立ち上がり体裁を整える。
「今に見ていなさい。必ず貴方を手に入れて、魅了させてみせます」
「もうよい、早く行け。仕事が成功したなら好きにするがいい」
ジャヒーは音もなく消える。それは、闇に滲むような刹那の出来事だった。
アーナヒターは、回廊を渡り西北にある父の書斎に向かっていた。昨晩、美しく咲いた白薔薇が甘く香る。その香りと共にアミールと過ごした時間を鮮明に思い出した。顔が火照り暑くなる。
(きっと、昨日の事で注意されるかもしれないわ。でも、彼が好きなのだもの)
父、ゴバール卿が彼女を書斎に呼ぶことはほとんどなかった。そのため、よほどの事なのだろうと身構えていた。気を引き締めるように背筋を伸ばす。
書斎の扉は木目が深く刻まれている。いつもと変わらぬ重厚な佇まいだ。深呼吸をしノックすると、内側から低い声が響く。
「入れ」
アーナヒターは扉を開けた。
書斎の中には、陽光がほとんど差し込まない。背の高い書棚が壁を覆い、巻物や古書が整然と並ぶ。窓辺には、白薔薇の蕾が一輪生けられていた。
中央の机に座るゴバール卿は、書簡を手に取ったまま視線を落とし、すぐには顔を上げなかった。
その沈黙に、アーナヒターは僅かに緊張を覚える。
「座れ」
命じる声は静かだが、重みがあった。彼女は足音を立てぬように歩み寄り、長椅子に腰を下ろす。
ゴバール卿は書簡を机に戻し立ち上がった。
「昨晩は派手に花火が上がると思ったのに、父は悲しい」
「へ?」
意外すぎる言葉にアーナヒターは開いた口が塞がらなかった。アミールはほかならぬ父親が勧めた縁談で、貴方が婚約者に選んだのではないのでしょうか? と言ってやりたかった。
「まぁ、良い。王も言うほどは女癖が悪いわけではない。軍部の見習いの頃は遊ぶ女は居たようだが、相手は選んでいた」
「遊ぶ女……」
アーナヒターは無意識に拳をぎりぎりと握っていた。女性に慣れているアミールの事だ。もしかしたら、たまには女の人と遊んだりするのかもしれない。そして、しれっとハレムには入れてないが? など言い出すかもしれない。
本当はわかっている。今のアミールはそんなことはしないはず。だけど、直ぐに抱きしめてほしくて、なんだか泣きたくなってきた。
「お前がそこまで情の深い女だとは、知らなかった」
ゴバール卿は娘の変化に少し驚く。昔から静かにしていることが多く、それほど何にも執着することは無かった。当たり前すぎるほど普通の娘だが、優しい子で小鳥のように可愛らしい子供だった。
ゴバール卿は溜息を吐き、窓辺に置かれた一輪挿しの白薔薇に視線を移す。
この娘は北の国から嫁いできた妻の忘れ形見。ゴバール卿にとっては、特別に手元に置いて育てた娘であった。
「大丈夫じゃ。王は真面目な性質だ。心配はいらん」
「本当?」
「ああ。万が一浮気をしたら、その水の魔法でやっつけてしまえば良い。水の魔法はどんなに強い相手でも負けはしない魔法だ。魔力量が多いのが特徴でもある」
「わたしは、アミールより強いの?」
「剣で戦えば勝ち目がないが、光も闇も、炎でさえも、水の中では威力を無くす。そうであろう? 強敵に勝つこともないが、負けもしない。浄化の力は随一、それが白薔薇の司る水の魔法じゃ」
「そう、……」
その言葉を聞いたとき、アーナヒターの内面で、冷たい水の波紋が広がる。魔力が身の内で潜んでいる、そんな感じがする。魔力を感じるようになったのは、王との婚約が決まった宴の夜からだった。
水を感じるだけで、魔法の真髄はまだ掴みきれていない。
アーナヒターはアミールの力添えで魔法が発現するまでは、元々魔力を持たない子供であった。そのため魔法を扱うことを経験したことが無い。白薔薇の浄化と言われても、毎回心を込めて詩を奏でているだけなのだ。
「そして、白薔薇の魔法使いには必ず従者が付く。古代の水の女神に、狼の王がいたように。お前にもまたアミールがついている。決してお前を手放さないだろう」
王はこの国を取り戻さなくてはならない。
むしろゴバールの家が力になれるのなら僥倖だとさえ思う。
だが、ゴバールの家は火の魔法の家。白薔薇の魔法を学ぶすべがない。
各魔法は、遺伝により受け継がれるが、白薔薇の魔法は突然変異のように現れる。主に白い髪の子供に発現することが多い。アーナヒターの母親の家門は魔力を持っていなかった。素養はあるはずが無い、女神のモスクの奇跡だろう。
「そこでだ。アミールと共にグンデシャープール短期入学をするように手続きした。魔法の勉強をしてきなさい」
「ここを離れるのですか?」
「そうだ。どんなものを持っていても、適切な使用方法を学んでいなければ役に立たない」
少し前から偽物の王から婚姻の催促が頻発している。幸い神殿で何度占っても婚姻時期はまだ先と出ていた。それを理由にしているが、先にハレムに入れと命令が下るのも時間の問題だろう。花嫁修業の一環として、魔法の鍛錬のために先に権威ある学院に入学をさせてしまえば言い訳が立つ。
その時、ゴバール卿の考えを遮るように、ドアを叩く音が響いた。
「親父殿がお呼びだと聞いたのだが……」
アミールがドアから顔を覗かせた。アーナヒターの顔を見て目じりに慈しみの感情が浮かぶのをゴバールは認めた。この婚姻はただの政略結婚のはずだった。だが、二人を見ていると建国の神話のように思い合っているではないか。
「王を呼びつけるなど致しません。私共がこれから伺う先触れを出したはずですが」
「いや、いい。私は若輩だ。今の私は王などではない。この国を闇の手から取り返した時、初めて王と名乗る資格がある。今はジャムシードと同じ修行中の身。同じ扱いにしてくれ」
「婿殿。男の顔になりましたな。王座に上る決意ができましたか」
「ああ。ようやくな。今まではどこか他人事のように感じていたかもしれない」
いずれにしても、王城に居座っている悪霊が何者かはまだわかっていない。わかっているのはラシュク・アスパンダーと呼ばれている事だけだ。
「グンデシャープール学院は、この世のありとあらゆる知の宝庫です。婿殿には教会の祭司見習いという肩書を用意してある。くれぐれも魔法は使わぬよう。学院の者は博学なので、魔法を使えばすぐに正体が割れてしまいますぞ」
「ああ、心して取り掛かろう。私の顔を知っている者もいるかもしれないからな」
続く
0
あなたにおすすめの小説
完璧(変態)王子は悪役(天然)令嬢を今日も愛でたい
咲桜りおな
恋愛
オルプルート王国第一王子アルスト殿下の婚約者である公爵令嬢のティアナ・ローゼンは、自分の事を何故か初対面から溺愛してくる殿下が苦手。
見た目は完璧な美少年王子様なのに匂いをクンカクンカ嗅がれたり、ティアナの使用済み食器を欲しがったりと何だか変態ちっく!
殿下を好きだというピンク髪の男爵令嬢から恋のキューピッド役を頼まれてしまい、自分も殿下をお慕いしていたと気付くが時既に遅し。不本意ながらも婚約破棄を目指す事となってしまう。
※糖度甘め。イチャコラしております。
第一章は完結しております。只今第二章を更新中。
本作のスピンオフ作品「モブ令嬢はシスコン騎士様にロックオンされたようです~妹が悪役令嬢なんて困ります~」も公開しています。宜しければご一緒にどうぞ。
本作とスピンオフ作品の番外編集も別にUPしてます。
「小説家になろう」でも公開しています。
聖女は秘密の皇帝に抱かれる
アルケミスト
恋愛
神が皇帝を定める国、バラッハ帝国。
『次期皇帝は国の紋章を背負う者』という神託を得た聖女候補ツェリルは昔見た、腰に痣を持つ男を探し始める。
行き着いたのは権力を忌み嫌う皇太子、ドゥラコン、
痣を確かめたいと頼むが「俺は身も心も重ねる女にしか肌を見せない」と迫られる。
戸惑うツェリルだが、彼を『その気』にさせるため、寝室で、浴場で、淫らな逢瀬を重ねることになる。
快楽に溺れてはだめ。
そう思いつつも、いつまでも服を脱がない彼に焦れたある日、別の人間の腰に痣を見つけて……。
果たして次期皇帝は誰なのか?
ツェリルは無事聖女になることはできるのか?
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
「転生したら推しの悪役宰相と婚約してました!?」〜推しが今日も溺愛してきます〜 (旧題:転生したら報われない悪役夫を溺愛することになった件)
透子(とおるこ)
恋愛
読んでいた小説の中で一番好きだった“悪役宰相グラヴィス”。
有能で冷たく見えるけど、本当は一途で優しい――そんな彼が、報われずに処刑された。
「今度こそ、彼を幸せにしてあげたい」
そう願った瞬間、気づけば私は物語の姫ジェニエットに転生していて――
しかも、彼との“政略結婚”が目前!?
婚約から始まる、再構築系・年の差溺愛ラブ。
“報われない推し”が、今度こそ幸せになるお話。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
【完結】年下幼馴染くんを上司撃退の盾にしたら、偽装婚約の罠にハマりました
廻り
恋愛
幼い頃に誘拐されたトラウマがあるリリアナ。
王宮事務官として就職するが、犯人に似ている上司に一目惚れされ、威圧的に独占されてしまう。
恐怖から逃れたいリリアナは、幼馴染を盾にし「恋人がいる」と上司の誘いを断る。
「リリちゃん。俺たち、いつから付き合っていたのかな?」
幼馴染を怒らせてしまったが、上司撃退は成功。
ほっとしたのも束の間、上司から二人の関係を問い詰められた挙句、求婚されてしまう。
幼馴染に相談したところ、彼と偽装婚約することになるが――
借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる
しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。
いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに……
しかしそこに現れたのは幼馴染で……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる