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長い散歩
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「こないだの斉藤組のオーディション、落ちたって」
台所でキャベツを刻んでいる母が言った。今晩はとんかつだからそのお供だろう。
私はiPadでシューティングゲームをやりながら、あっそ、とだけ言った。
キャベツを刻む音は止まらない。
その小気味よいリズムが、妙に私をイライラさせた。
「ちょっと出かける」
そう言ってiPadをソファーに放り投げ、履き慣れたシューズで家を出た。
玄関まで来たとき、何処に行くのと母の声が聞こえたが、無視した。
強く生ぬるい風が全身に当たる。今日はずいぶん蒸し暑い。
ぼうぼうと吹く風の流れを基調にして、行く当てのない私の足は動き出す。
十年後二十年後、私は何者になっているのだろう。
もしかしたら、何者にもなっていないのかもしれない。
截然としない将来が漠然とした不安となって、私の心に降り積もる。
ちょうど曲がり角にさしかかったとき、ジャージのポケットに入れていた携帯が鳴った。
茉莉のお母さんからだった。
茉莉というのは二年前くらいまで、私が今いる事務所にいた子だ。
私より一つ年下で、誰にでも人懐っこく周りから好かれるような存在だった。クラスも同じでよく一緒にいたが、声優を専攻したいからとそっち専門の小さな事務所に移ってからは、もうほとんど連絡は取っていない。
ましてや茉莉ママから直接連絡をもらうことなんて無かったので、私は少し躊躇ったが、いつもの癖でさっさと画面をスライドさせてしまった。
「…もしもし」
「あ、もしもし凜子ちゃん?」
茉莉ママにしては控えめな、いつもよりも少しくぐもった声が聞こえた。
「どうしたんですか」
「…いや、特に用もないんだけどねぇ、少し声が聞きたくなっちゃって。どう?最近はオーディションとか受けてるの?」
私は、茉莉ママがあまり得意ではない。
こういうタイミングの悪いところもそうだが、何より私は、この人のいつもの「テンション高めマシンガントーク」についていけないのだ。
「…まあ、ちょっとは。でももういい加減高一なんで、控えてます。定期テストもあるし、学校は休めないんで」
「あー、そうよねぇ」
茉莉ママはそういうと、何か言いたげに黙ってしまった。
私は驚いて、「え?」という言葉が口をついて出てきてしまった。
しかし幸いなことに、それは茉莉ママには聞こえていなかったらしい。
その後少しの沈黙を経て、茉莉ママはやっと口を開いた。
「あのね、凜子ちゃん。茉莉、死んだのよ」
「…え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
…死んだ?茉莉が?
じりじりと照っている太陽が、目の前の景色をぐわんとかき混ぜる。
しんだ?
だれが?
しかし茉莉ママは待ってはくれなかった。
私の頭の中で「茉莉」と「死んだ」のワードは一致せず、ピントが合わないまま話は進む。
「ごめんなさいね、いきなりこんなこと。五月に交通事故に遭ってね、うちの主人の意向で葬式は親族だけで行うってことにしたから、葬式には呼べなくって」
茉莉ママは淡々と事の次第を話していく。
私はかろうじて「ああ」「はい」などという気のない返事を返していたが、詳しい話は殆ど入ってこなかった。
「でもほら、凜子ちゃんには仲良くしてもらってたからね、伝えようと思って」
何かのドッキリではないだろうか。
「あの子、凜子ちゃんのこと大好きだったから」
腹の奥で、ずくずく音がする。
ずくずく。
ずくずくずく。
やがてその「ずくずく」はからだ全体に伝わって、私は遂になんの言葉も発さなくなった。
「いきなり驚くよね、そりゃあね…ごめんなさいね、凜子ちゃん。もっと早くに伝えられれば良かったんだけど。…私もろくな状態じゃなかったから」
またもや沈黙が流れる。
私は多分、茉莉の死に直接悲しんでいる訳ではない。
「私は大丈夫です、気にしないでください」
今度は自分でもびっくりするほど冷静に返事が出来た。
そして長い長い沈黙の後、茉莉ママはハムスターのように喉を鳴らし、微かな喉の隙間から声を発した。
「茉莉と、仲良くしてくれて、ありがとうねぇ、凛子ちゃん」
通話は切れた。
私は携帯の画面を暫く眺めた後、ポケットにしまい、また歩き始めた。
なんだろう。
ふわふわ浮いている。
きっと「ずくずく」が気化されて「ふわふわ」になってしまったのだ。
でも、私は普通だ。
いくら私がふわふわしていても、ずくずくしていても、きっと側から見れば電話を受ける前となんら変わらない。
私はまっすぐ前を見て腕を揺らし、足もきれいに動かしているのだから。
私は普通なんだ。
人が死んだのに。
この感覚は、なんだろう。
寂しさでもない、哀しさでもない、驚きでもない。
いつも見ている家の近くの風景は、全く違う異世界のようだった。
あっけない。
なんだ、そんなものなのか、と思ってしまった。
私は自分で言うのもなんだが、割とこまめな性格だ。事務所で知り合った人たちのその後が気になり、自分で定期的に調べたりする事も多かった。
事務所のホームページを見る限り、茉莉はちょうど最近仕事が入り始めたところだった。これから伸びるだろうな、と私は思っていた。
茉莉が役をもらった深夜アニメも、毎週録画して見ていた。
あの頃よりも、格段に上手くなっていた。
茉莉は滑舌が良くない方だったが、そんな影を一欠片も残す事なく変わっていた。声の出し方から、抑揚まで。
根本的に発声を習い直したんだろう。
努力を、したんだろう。
私の周りで芸能界を目指している人たちの大半は大学へは行かず、高校を卒業したら芸能活動に専念すると腹を決めていた。
茉莉もその一人で、楽しそうに高校卒業後の自分の理想を語っていた。
なんだ。
私は内心焦っていた。
私立でお金のかかる中高一貫校に通わせてもらっておいて、大学を出ないという訳にはいかない。
周りが活動に割く時間が増えるのに対して、私はテストだ行事だとかける時間がどんどん少なくなっていた。
だから私は、最近成長してきている茉莉を、少し、ほんの少しだけ、妬ましく思っていた。
でも茉莉は死んだ。
もう、何もかもが無に帰してしまったのだ。茉莉に対してどうこうなどという感情はない。
なんだ。
なぁんだ。
この、なんとも言えない空虚な心を、どう表現したら良いのか。
私の足は止まらない。
どんどんどんどん前へ進む。
道は決まらない。
ああ。
長い散歩になりそうだ。
台所でキャベツを刻んでいる母が言った。今晩はとんかつだからそのお供だろう。
私はiPadでシューティングゲームをやりながら、あっそ、とだけ言った。
キャベツを刻む音は止まらない。
その小気味よいリズムが、妙に私をイライラさせた。
「ちょっと出かける」
そう言ってiPadをソファーに放り投げ、履き慣れたシューズで家を出た。
玄関まで来たとき、何処に行くのと母の声が聞こえたが、無視した。
強く生ぬるい風が全身に当たる。今日はずいぶん蒸し暑い。
ぼうぼうと吹く風の流れを基調にして、行く当てのない私の足は動き出す。
十年後二十年後、私は何者になっているのだろう。
もしかしたら、何者にもなっていないのかもしれない。
截然としない将来が漠然とした不安となって、私の心に降り積もる。
ちょうど曲がり角にさしかかったとき、ジャージのポケットに入れていた携帯が鳴った。
茉莉のお母さんからだった。
茉莉というのは二年前くらいまで、私が今いる事務所にいた子だ。
私より一つ年下で、誰にでも人懐っこく周りから好かれるような存在だった。クラスも同じでよく一緒にいたが、声優を専攻したいからとそっち専門の小さな事務所に移ってからは、もうほとんど連絡は取っていない。
ましてや茉莉ママから直接連絡をもらうことなんて無かったので、私は少し躊躇ったが、いつもの癖でさっさと画面をスライドさせてしまった。
「…もしもし」
「あ、もしもし凜子ちゃん?」
茉莉ママにしては控えめな、いつもよりも少しくぐもった声が聞こえた。
「どうしたんですか」
「…いや、特に用もないんだけどねぇ、少し声が聞きたくなっちゃって。どう?最近はオーディションとか受けてるの?」
私は、茉莉ママがあまり得意ではない。
こういうタイミングの悪いところもそうだが、何より私は、この人のいつもの「テンション高めマシンガントーク」についていけないのだ。
「…まあ、ちょっとは。でももういい加減高一なんで、控えてます。定期テストもあるし、学校は休めないんで」
「あー、そうよねぇ」
茉莉ママはそういうと、何か言いたげに黙ってしまった。
私は驚いて、「え?」という言葉が口をついて出てきてしまった。
しかし幸いなことに、それは茉莉ママには聞こえていなかったらしい。
その後少しの沈黙を経て、茉莉ママはやっと口を開いた。
「あのね、凜子ちゃん。茉莉、死んだのよ」
「…え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
…死んだ?茉莉が?
じりじりと照っている太陽が、目の前の景色をぐわんとかき混ぜる。
しんだ?
だれが?
しかし茉莉ママは待ってはくれなかった。
私の頭の中で「茉莉」と「死んだ」のワードは一致せず、ピントが合わないまま話は進む。
「ごめんなさいね、いきなりこんなこと。五月に交通事故に遭ってね、うちの主人の意向で葬式は親族だけで行うってことにしたから、葬式には呼べなくって」
茉莉ママは淡々と事の次第を話していく。
私はかろうじて「ああ」「はい」などという気のない返事を返していたが、詳しい話は殆ど入ってこなかった。
「でもほら、凜子ちゃんには仲良くしてもらってたからね、伝えようと思って」
何かのドッキリではないだろうか。
「あの子、凜子ちゃんのこと大好きだったから」
腹の奥で、ずくずく音がする。
ずくずく。
ずくずくずく。
やがてその「ずくずく」はからだ全体に伝わって、私は遂になんの言葉も発さなくなった。
「いきなり驚くよね、そりゃあね…ごめんなさいね、凜子ちゃん。もっと早くに伝えられれば良かったんだけど。…私もろくな状態じゃなかったから」
またもや沈黙が流れる。
私は多分、茉莉の死に直接悲しんでいる訳ではない。
「私は大丈夫です、気にしないでください」
今度は自分でもびっくりするほど冷静に返事が出来た。
そして長い長い沈黙の後、茉莉ママはハムスターのように喉を鳴らし、微かな喉の隙間から声を発した。
「茉莉と、仲良くしてくれて、ありがとうねぇ、凛子ちゃん」
通話は切れた。
私は携帯の画面を暫く眺めた後、ポケットにしまい、また歩き始めた。
なんだろう。
ふわふわ浮いている。
きっと「ずくずく」が気化されて「ふわふわ」になってしまったのだ。
でも、私は普通だ。
いくら私がふわふわしていても、ずくずくしていても、きっと側から見れば電話を受ける前となんら変わらない。
私はまっすぐ前を見て腕を揺らし、足もきれいに動かしているのだから。
私は普通なんだ。
人が死んだのに。
この感覚は、なんだろう。
寂しさでもない、哀しさでもない、驚きでもない。
いつも見ている家の近くの風景は、全く違う異世界のようだった。
あっけない。
なんだ、そんなものなのか、と思ってしまった。
私は自分で言うのもなんだが、割とこまめな性格だ。事務所で知り合った人たちのその後が気になり、自分で定期的に調べたりする事も多かった。
事務所のホームページを見る限り、茉莉はちょうど最近仕事が入り始めたところだった。これから伸びるだろうな、と私は思っていた。
茉莉が役をもらった深夜アニメも、毎週録画して見ていた。
あの頃よりも、格段に上手くなっていた。
茉莉は滑舌が良くない方だったが、そんな影を一欠片も残す事なく変わっていた。声の出し方から、抑揚まで。
根本的に発声を習い直したんだろう。
努力を、したんだろう。
私の周りで芸能界を目指している人たちの大半は大学へは行かず、高校を卒業したら芸能活動に専念すると腹を決めていた。
茉莉もその一人で、楽しそうに高校卒業後の自分の理想を語っていた。
なんだ。
私は内心焦っていた。
私立でお金のかかる中高一貫校に通わせてもらっておいて、大学を出ないという訳にはいかない。
周りが活動に割く時間が増えるのに対して、私はテストだ行事だとかける時間がどんどん少なくなっていた。
だから私は、最近成長してきている茉莉を、少し、ほんの少しだけ、妬ましく思っていた。
でも茉莉は死んだ。
もう、何もかもが無に帰してしまったのだ。茉莉に対してどうこうなどという感情はない。
なんだ。
なぁんだ。
この、なんとも言えない空虚な心を、どう表現したら良いのか。
私の足は止まらない。
どんどんどんどん前へ進む。
道は決まらない。
ああ。
長い散歩になりそうだ。
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