窓物語

心符

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第二章

指輪の想い

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彼女が私のもとに現れたのは、師走の気配が漂い始めた真冬の頃でございます。

彼女はお腹に小さな命を宿しておりました。

まだ23歳。

笑うと細い目が消えて無くなるくらい表情豊かだったことが、大変印象的でございました。

もっとも、彼女が初めて笑ったのは、入院から1ケ月程が過ぎ、年が明けた元日のことでございます。


院内では、新年の挨拶をする会話が、あちこちから聞こえて参りました。

恐らくは、この世の中で最も新年を喜ばしく想い、年越しをありがたく感じる場所かも知れません。


いつもの様に、彼が元気な声で入って来た時でした。

『おめでとう。浩樹、私ね、もう泣かないから。』

浩樹は33歳。

3年の社内恋愛の末、まだ挙式はしていないまでも、この夏に籍を入れたのであります。

巷では出来ちゃった婚という様でございます。

挙式は、この近くにある有名なチャペルで、次の春にと決めておりました。

出産は2月の予定であり、生まれた我が子と三人でという、彼女の計画でございました。

そう決めた折りに、彼女の病気が発覚したのであります。

それからの彼女は、お腹を見つめては、時折り

『ごめんね。ごめんね。』

と呟くかと思うと、薬指の指輪を眺めては、涙ばかりの毎日でございました。

従って、彼にとってこの部屋のドアは、いつも大変に重たいものでありました。

しかしながら、そんな心は顔には出さず、いつもまるで産婦人科病棟であるかの様に、幸せそうに振る舞うのでした。

今日も吹っ切ってそのドアを開けたところに、彼女の笑顔があったのであります。

『新年って不思議よねぇ。除夜の鐘聞きながら、何か新しい気持ちになれるの。

去年は、私はどうしても受け入れられずに、浩樹に余計に苦労させちゃった。

泣いてもどうにもならないから、残された時間をこの子と浩樹の為に、一生懸命頑張るわ。

1日でも長く、二人といられるようにね。』

彼がこの部屋で涙を見せたのは、この時が初めてでした。


それからの彼女は、痛みに耐えながらも、彼の前では精一杯の笑顔を見せていたのだと思います。

お腹の子供のために、出来る治療は限られ、十分な痛み止めもできないのでありました。

誰もいない深夜の病室で、私は幾度となく彼女の苦しむ姿を映し、カーテンを引きたいと思う自分を情けなく思いました。

それは、まさに、我が子への母親としての愛の成せる力であったと思います。



ある日の午後のこと。

正月三が日を過ぎた頃から、あまり彼女の容体は良くはありませんでした。

しかしながら、その日の彼女は、いつになく明るかったのです。

彼に注文して買い揃えた、占いや命名法の本を脇に積み上げ、一枚の紙に大きく『ゆりな』と書きました。

『浩樹には悪いと思うけど、この子の名前は、ゆりなにしたいの。たくさん本も読んでみたけど、みんな好き勝手に違う結果が出てくるんだもの。いい加減よねぇ。で、詰まるところ、私の『ゆり』に『な』を付けてみただけなんだけど…。お願い。わがままきいて。』

もとより、彼女が命を賭けて考えた名前に、反対するつもりなど、彼にはこれっぽっちもなかったのであります。

『友理奈』という漢字であることも、彼女は説明してくれました。

彼女の腕や指はもうすっかり痩せこけてしまっており、痛々しい平仮名で、

『ゆりな』

と書くのが精一杯でありました。

その文字に何の講釈を付けることができましょうか。
彼女なりに、

「私も娘の中にいつまでも一緒にいるよ」

という気持ちを込めた名前であったのだと思います。


彼女の余命は、桜の散る頃までとのことでした。

しかしながら、無理と言われた子供の負担、それ故の延命治療の軽減は、やはり彼女の一生懸命な命の火を、急激に衰えさせたのでございます。


1月の中程から、さすがに彼女が苦しみ以外でその目を細めることは無くなりました。

痛みが収まっている間彼女は、ただひたすら、私越しに空や、時折り横切る海鳥を見つめていました。

まるで私に何かを伝えているかの様に感じられましたが、私はただ、そんな彼女を映し出すことしか出来ませんでした。



2月の始めの日曜日。

昨夜の雪は朝にはやんで、窓の外はこの冬始めての積雪となりました。

朝の検診の後、彼女の容体が急変しました。

医師の判断が彼に伝えられ、彼女の願いであった通り、子供の命を第一に考えて、急遽、切開手術となったのでございます。

次にドアが開くまでの時間が、私には永遠かと思うほど長かったことを、今も覚えております。


お昼を過ぎた頃。

私の前には彼女と女の赤ちゃんが並んでいました。

女の子は保育器の中ではありましたけれど、時折り口をモゴモゴと動かしており、元気そうでございました。

しかしながら、彼女からは動く気配は感じられず、顔は真っ白い布で覆われておりました。

それから暫くして、彼がゆっくりと入って参りました。

彼の眼は真っ赤で、どこかの壁でも叩いたのでしょうか、手には血が滲んでいるように見えました。

初めに彼は、女の子を覗き込み、

『ゆりな。』

と一言声をかけ、力なく微笑みました。

そしてその微笑みを携えたまま、彼女のそばに立ち、顔にかけられた真っ白い布を取り払いました。

誰もがまるで声を出すのが怖いかの様に、静かにじっと、彼を見つめていました。

次に彼は、彼女のベージュのポーチから、箱に入った口紅を取り出し、ゆっくりと子指で、彼女の冷たくなった唇に塗ってあげたのでございます。

その口紅は、彼女が元気であった頃に二人で出掛け、式の為にと買ったものでございました。

そして彼女の耳元に口を近づけ、

『ありがとう。友理。ありがとう。』

と囁きました。

どれ程の時間そうしていたでしょうか。

私には、薄く紅を引いた唇から、彼女の声が聞こえてくるのを、じっと待っているかの様に思えました。

彼が胸に置かれた彼女の手を握ろうとした時、彼の口から、ついにやり場のない叫びがほと走りました。


彼女の指は可哀想なほど痩せ細り、指輪を着けていられる状態ではありませんでした。

彼女は、骨と皮だけになった指から、指輪が抜け落ちてしまわない様に、最後の力を振り絞って強く強く握りしめたまま、逝ったのでございます。

彼女の想いが、私に割れんばかりに伝わって参りました。

彼女は私の中をゆっくりとくぐり抜けて、天へと召されて逝かれました。

こうして、彼女の想いは、私の中に刻み込まれたのでございます。


彼がこの部屋で見せた2度目の涙は、彼の一生分の涙かと思うほどのものでした。

その日は大安の日曜日。

遠くで、チャペルの鐘の音が聞こえておりました。
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