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第三章
老人の想い
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その老人は、70歳を迎えたばかりでした。
若い頃より少々精神を病んでおられ、そういった病院の日々の末に、大きな病につかまり、私の前に現れのでございます。
病が見つかった時にはもう手遅れで、この年は越せないと言われておりました。
季節は秋から冬へ向かおうかという頃、穏やかな陽射しが差し込む午後でありました。
最初に老人がした行動に、私は一瞬たじろいだのを覚えております。
老人は、ベッドで横になったまま私の方を見つめました。
丁度晴れた空を、二羽のつがいの渡り鳥が飛んでおりました。
最初は、それを眺めているのかと思っておりました。
『こんにちわ。良いお日和ですなぁ。今日から厄介になります。』
私は、まさか私に語り掛けてくれたのかと、驚きと同時に気持ちが踊るのを感じました。
しかしそのようなことがあるはずもなく、すぐに、それは私に映った自分の顔に話しているのだと分かりました。
こうして老人との1ケ月半程の日々が始まったのでございます。
老人には、ずっと連れ添っている妻がおりました。
いつもベッドの隣に椅子を用意し、時々思いついた様に、その妻に話しかけていたのでございます。
その愛情に満ちた言葉や口調は、聞いてる者の心をも、優しい気持ちにさせてくれるものでございました。
看護師たちも、その光景に涙さえ浮かべ、検診の後には、必ずまたその椅子を側に出してあげるのでした。
妻はいつも黙って、老人の一言一言に、優しくうなづき返している様でございました。
老人を見舞いに来る人は、誰一人としておりませんでしたけれど、それで十分だったものと思います。
夜になり、面会時間が過ぎると、老人はよく私に、いえ、私に映ったもう一人の老人に話しておりました。
『私は家内に、何にも幸せな思いをさせてあげられなくてね。でも家内はいつも私の側にいてくれて、どんな時も幸せそうな目で、私を見ていてくれます。私はそれだけで、今でも大変幸せなんです。』
老人の話はいつも妻の話ばかりでした。
若い頃、二人でボートを漕いで沖に出すぎ、まる2日近く漂流した話などは、私のほうが詳しくなるくらい聞かされました。
それでも、妻との話を語る老人の、幸せそうな顔を見るのが、私は大好きだったのでございます。
12月の半ばに差し掛かった土曜日。
その日は朝からこの冬一番の冷え込みでありました。
お昼時。
新しい看護師が、うっかり院内放送のスイッチを切り忘れたのでありましょう、ナースセンターからテレビの天気予報が流れ、夜には雪になる様なことを告げておりました。
老人はこの頃めっきりと口数が減り、眠ってばかりの日々でございました。
それでも目を覚ますと、時間に関係なく、妻に向かって、
『おはよう。また1日、お前といられるよ。有難い。』
と、話すのでした。
しかし、その日の夕方は少し違っておりました。
『もうお前も疲れただろう。今まで、本当に、ありがとう。お前がいてくれて、私は心から幸せだったよ。もう、こんなところまで来なくていいよ。本当に、ありがとう。』
妻に掛けた言葉は、それが最後でございました。
その夜、彼はもう一度だけ目を覚ましました。
もう一人の老人に別れを言う為でございます。
暖房のせいで少し曇った私。
その隙間に老人はいました。
『短い間でしたが、お世話になりました。私は今夜が最後の様です。私にはどういうわけか、ここは居心地が良く、幸せな最後を迎えることができそうです。』
私は老人の目をじっと見つめておりました。
そこには、妻への愛が溢れんばかり感じられ、幾つもの想い出が、浮かんで参りました。
老人も私の全てを目に焼き付けるかのように、見つめておりました。
するとふと、いつもどこか虚ろであった瞳が、ぱっと輝きを取り戻したのでございます。
そして、老人は私に、
『今まで、長い長い間、本当に、ありがとうございました。』
と言ったのでございます。
私の思い違いと笑われるかもしれませんが、その言葉は、私に向けられた様に、今でも思っているのでございます。
その後、老人は一人、静かに息を引き取りました。
その顔には、幸せそうな笑みが浮んでおりました。
冷たくなった老人の傍らで、一度も誰も座ることの無かった椅子が、いつもの様に、老人に寄り添っておりました。
外は、天気予報が告げていた通りの初雪。
老人は私の中をすり抜け、その空へと登って逝かれたのでございます。
すれ違い様に、ふと私の中で増えたはずの想い出が、少しだけ軽くなった様な気がしました。
遠くから聖歌隊の歌声が、聞こえておりました。
若い頃より少々精神を病んでおられ、そういった病院の日々の末に、大きな病につかまり、私の前に現れのでございます。
病が見つかった時にはもう手遅れで、この年は越せないと言われておりました。
季節は秋から冬へ向かおうかという頃、穏やかな陽射しが差し込む午後でありました。
最初に老人がした行動に、私は一瞬たじろいだのを覚えております。
老人は、ベッドで横になったまま私の方を見つめました。
丁度晴れた空を、二羽のつがいの渡り鳥が飛んでおりました。
最初は、それを眺めているのかと思っておりました。
『こんにちわ。良いお日和ですなぁ。今日から厄介になります。』
私は、まさか私に語り掛けてくれたのかと、驚きと同時に気持ちが踊るのを感じました。
しかしそのようなことがあるはずもなく、すぐに、それは私に映った自分の顔に話しているのだと分かりました。
こうして老人との1ケ月半程の日々が始まったのでございます。
老人には、ずっと連れ添っている妻がおりました。
いつもベッドの隣に椅子を用意し、時々思いついた様に、その妻に話しかけていたのでございます。
その愛情に満ちた言葉や口調は、聞いてる者の心をも、優しい気持ちにさせてくれるものでございました。
看護師たちも、その光景に涙さえ浮かべ、検診の後には、必ずまたその椅子を側に出してあげるのでした。
妻はいつも黙って、老人の一言一言に、優しくうなづき返している様でございました。
老人を見舞いに来る人は、誰一人としておりませんでしたけれど、それで十分だったものと思います。
夜になり、面会時間が過ぎると、老人はよく私に、いえ、私に映ったもう一人の老人に話しておりました。
『私は家内に、何にも幸せな思いをさせてあげられなくてね。でも家内はいつも私の側にいてくれて、どんな時も幸せそうな目で、私を見ていてくれます。私はそれだけで、今でも大変幸せなんです。』
老人の話はいつも妻の話ばかりでした。
若い頃、二人でボートを漕いで沖に出すぎ、まる2日近く漂流した話などは、私のほうが詳しくなるくらい聞かされました。
それでも、妻との話を語る老人の、幸せそうな顔を見るのが、私は大好きだったのでございます。
12月の半ばに差し掛かった土曜日。
その日は朝からこの冬一番の冷え込みでありました。
お昼時。
新しい看護師が、うっかり院内放送のスイッチを切り忘れたのでありましょう、ナースセンターからテレビの天気予報が流れ、夜には雪になる様なことを告げておりました。
老人はこの頃めっきりと口数が減り、眠ってばかりの日々でございました。
それでも目を覚ますと、時間に関係なく、妻に向かって、
『おはよう。また1日、お前といられるよ。有難い。』
と、話すのでした。
しかし、その日の夕方は少し違っておりました。
『もうお前も疲れただろう。今まで、本当に、ありがとう。お前がいてくれて、私は心から幸せだったよ。もう、こんなところまで来なくていいよ。本当に、ありがとう。』
妻に掛けた言葉は、それが最後でございました。
その夜、彼はもう一度だけ目を覚ましました。
もう一人の老人に別れを言う為でございます。
暖房のせいで少し曇った私。
その隙間に老人はいました。
『短い間でしたが、お世話になりました。私は今夜が最後の様です。私にはどういうわけか、ここは居心地が良く、幸せな最後を迎えることができそうです。』
私は老人の目をじっと見つめておりました。
そこには、妻への愛が溢れんばかり感じられ、幾つもの想い出が、浮かんで参りました。
老人も私の全てを目に焼き付けるかのように、見つめておりました。
するとふと、いつもどこか虚ろであった瞳が、ぱっと輝きを取り戻したのでございます。
そして、老人は私に、
『今まで、長い長い間、本当に、ありがとうございました。』
と言ったのでございます。
私の思い違いと笑われるかもしれませんが、その言葉は、私に向けられた様に、今でも思っているのでございます。
その後、老人は一人、静かに息を引き取りました。
その顔には、幸せそうな笑みが浮んでおりました。
冷たくなった老人の傍らで、一度も誰も座ることの無かった椅子が、いつもの様に、老人に寄り添っておりました。
外は、天気予報が告げていた通りの初雪。
老人は私の中をすり抜け、その空へと登って逝かれたのでございます。
すれ違い様に、ふと私の中で増えたはずの想い出が、少しだけ軽くなった様な気がしました。
遠くから聖歌隊の歌声が、聞こえておりました。
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